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居場所が、暮らしになる

第60回 居場所が、暮らしになる


進化してから何日か経った朝、俺は岩陰拠点の寝床で目を覚ました


最初にしたのは、自分の手を見ることでも、STATUSを確認することでもなかった


腹が減ったと思った


「……普通やな」


横ではルッカがすでに起きていて、何かをまとめている


俺が起きたことに気づくと、


「おはよう」


と声をかけてきた


「おはよう」


返事をして体を起こす


もう勢い余って立ち上がることもない


歩幅にもかなり慣れた


器を持つ時の力加減も、細い道具を握る時の指の位置も、いちいち考えなくても困らない程度にはなっている


ハイホブゴブリンメイジ


長い名前にも少し慣れた


体が変わったことより、毎朝その名前を思い出す方がまだ面倒かもしれない


「セイジ、食べる?」


「食べる」


俺とルッカは朝の食事を済ませる


最近は進化直後より、自分がどのくらい食べればいいのかも何となく分かってきた


以前より少し多い気はする


ただ、きっちり測ったわけではない


腹が減っていれば食べる


足りればやめる


今のところ、それで困っていない


食事の後は使った物を片付ける


水を使い


器を洗い


必要なら弱い《風圧》で水気を飛ばす


ほんの少し前まで、こういう魔法を使うたびに成長したとか強くなったとか考えていた


今はあまり考えない


必要だから使う


火を起こす時に火を使うのと同じで、生活の中へ入ってしまった


「今日、水場?」


ルッカが聞く


「うん」


「早く行く?」


「急ぐことある?」


「ない」


「じゃあ普通に行く」


こういう会話も増えた


何か事件が起きたから第二水場へ向かうわけではない


誰かが待っているから急いで行くわけでもない


行けば何かしている人がいるかもしれない


いなければ、俺たちが自分のことをすればいい


そのくらいになっている


岩陰拠点を出る前に俺は中を振り返った


寝床


棚


器


道具


ルッカが使う低い位置


俺が使いやすい高さ


体が変わるたびに少しずつ直してきた場所


「行く?」


ルッカが入口で待っている


「行く」


ここは変わらない


第二水場で過ごす時間が長くなっても、帰ってくるのはここだ


俺とルッカの家


そう思いながら森へ出た


雨の後に荒れた経路は、まだ全部が元通りになったわけではない


使わない方がいい道も残っている


それでも安全を確認した経路は分かる


ルッカが前を歩きながら、途中で一度足を止めた


「こっち、昨日より乾いた」


地面を見る


確かに泥が減っている


「通れる?」


「うん、でも荷物多いなら向こう」


別の方向を指す


俺は頷く


こういうことを俺が覚えても、ルッカほど詳しくはならない


だから必要なら聞けばいい


前は何でも自分で覚えて、自分でできる方が便利だと思っていた


今は、詳しい人がいるならその人に聞く方がずっと早いと知っている


第二水場が見えてくる


水の音より先に、人の声が聞こえた


「もういるな」


「いる」


俺たちが着くと、何人かがすでに動いていた


俺は少し足を止める


誰にも何も頼んでいない


それなのに、それぞれ何かしている


エナは救護用品を広げていた


清潔な布を確認し、使える薬草と補充した方がいいものを分けている


横には水を入れた器


汚れた物を置く場所と、清潔な物を置く場所が離れている


前に決めたやり方がそのまま続いていた


ダリオは別の人と森の方向を指しながら話している


近づくと、最近使える経路と、まだ避けた方がいい場所を確認しているらしい


雨で崩れた道も、今日すぐ全て直すのではなく、危険な場所はそのまま避ける


ローデンは共同で使う場所にしゃがみ込んでいた


何か作っている


以前話した、高さの違う持ち手を試しているらしい


ミラは人間側から来た人の話を聞き、紙へ何か書いている


ハルナ側だけではない


フェルナ方向から来たらしい人も一人いる


俺には知らない人だった


「おはよう」


ミラが俺たちに気づいた


「おはよう」


返事をする


「今日は早いね」


「普通」


「普通なの?」


「ルッカが早いって言ってない」


ルッカを見る


「普通」


「二人の普通はよく分からないな」


ミラが笑う


俺も笑った


誰かが俺を待って指示をもらおうとしているわけではない


俺が来る前から作業は始まっている


それが妙に嬉しかった


「何する?」


俺が聞くと、ミラが周囲を見る


「セイジが決めるの?」


「違う」


すぐに答える


「必要なの聞く」


「それなら、まずローデンかな」


言われた通りローデンのところへ行く


「何かいる?」


「今は持ってみろ」


差し出されたのは、木で作った簡単な持ち手だった


以前より低い位置にも手をかけられるようになっている


俺が持つ


「低い」


「セイジにはな」


ルッカが持つ


「いい」


近くにいた人間にも持ってもらう


「こっちでも持てるな」


ローデンが位置を見る


「じゃあ、このくらいで試すか」


「決まり?」


「まだだ、何日か使って邪魔なら変える」


「やっぱり」


「何がだ」


「試す」


最近、何を作っても最後はそこへ戻る


俺は別の棚を見る


高い場所と低い場所


まだ仮の物もある


全部を俺の体に合わせるのではなく、使う人によって選べるようになってきた


俺が進化して体格が変わったせいで始めた話だったが、今では俺以外の人の使いやすさまで見られている


「踏み台は?」


「そこ」


軽い木製の踏み台が端に置いてある


持ち上げる


俺には軽い


ルッカも両手なら動かせる


「これならいい?」


「今のところな」


「今のところ」


俺は繰り返す


ローデンが俺を見る


「何だ」


「その言い方便利」


「今さらか」


便利だ


今は大丈夫


今は使える


今のところ問題ない


ずっと大丈夫とは言っていない


俺が最近覚えた考え方に合っている


次にエナのところへ行く


「何かいる?」


「水を少しお願い」


「分かった」


共同用の器を見る


《水球》


進化直後は出力を間違えた


今は最初から必要な量を意識する


水球を作り、そのまま器へ落とす


大きすぎない


少なすぎない


「これくらい?」


「十分」


魔法を止める


「布も洗う?」


「そっちはもう終わってる」


「じゃあ終わり」


以前なら、もっと何かできないか探したかもしれない


今日はそのまま離れる


必要ないところへ手を出さないのも、少しずつ慣れた


ダリオのところへ行く


「俺、何かする?」


「ない」


早い


「ほんとに?」


「危険な道へ勝手に入らなければな」


「入らない」


「ならない」


これも終わり


ミラを見る


「ミラは?」


「今は聞くだけ」


「俺いらない?」


「今はね」


「分かった」


あっという間に俺の仕事がなくなった


俺は水場の端へ移動する


「暇」


隣のルッカが首を傾げる


「暇、悪い?」


「悪くないけど」


何となく落ち着かない


第二水場で何かしている人が増えたのに、俺がやることがない


でも、それは困ることではないはずだ


むしろ俺がいなくても動くようになったということだ


そう考えると、暇なのが少し嬉しくなる


「畑見る?」


ルッカが言う


「見る」


試験栽培の小区画へ向かう


以前は三つの芽から始まった


今は少しだけ数が増えている


順調だった株と同じものを試した場所では、いくつか葉が伸びていた


全部ではない


同じように植えたつもりでも、元気なものと、あまり育っていないものがある


別の小区画では、芽が出なかったところもある


「こっち増えた」


ルッカが指す


「うん」


葉を触らないよう近くで見る


順調に見える


でも、何が正解だったのかはまだ分からない


日当たりなのか


水なのか


土なのか


植物そのものの差なのか


「エナ」


俺が呼ぶ


少ししてエナが来る


「どうしたの?」


「これ、育ってる」


「そうね」


「成功?」


エナはすぐ頷かなかった


「今のところは育ってる」


「今のところ」


まただ


「実際に使えるところまで育つかはまだ分からないし、全部同じように育ってないでしょう」


「うん」


「だから見ていけばいいんじゃない?」


「やっぱり見る」


農業は難しい


魔法で水を出せる


土を動かせる


だから簡単だと思っていた頃が懐かしい


俺は水の流れを見る


昨日少し降ったせいか、一部の土がまだ湿っている


片方は少し乾いている


「こっち、水いる?」


エナが土を見る


「少しだけなら」


俺は《水球》を小さく作る


同時に、区画の端の土へ《土成形》を使う


前にローデンと排水を作った時に試した方法だ


土を大きく動かさない


水球も小さい


二つを同時に維持する


水を少量落としながら、流れすぎる場所だけ土を少し上げる


頭の中で二つの感覚を分ける


進化前より、少し余裕がある


でも簡単というほどではない


水の方へ意識を寄せすぎると土が止まりそうになる


土を細かく動かそうとすると水球が揺れる


「ここ?」


俺が聞く


エナが見る


「もう十分」


すぐ両方止める


「前よりやりやすい」


「二つ同時?」


「うん、でも短いだけ」


複雑なことはしていない


土と水が混ざって新しい魔法になったわけでもない


二つを同時に使っただけだ


それでも生活の中では便利だった


水を流しながら、その流れを見て土を調整できる


「これで農業できる?」


俺が聞く


エナが笑う


「植物のこと分かるようになった?」


「……分からない」


「じゃあまだでしょう」


「これ、植物自体は俺わからん」


「そこが一番大事かもしれないね」


魔法が上手くなっても、知らないことは知らない


俺は育っている葉を見る


いつか詳しい人がいたら聞きたい


でも今はいない


だから今できる範囲で続ける


少し育てる


失敗を見る


また試す


それでいい


午前が進むにつれ、第二水場へ来る人が増えた


ハルナ側から二人


フェルナ方向から一人


全員が同じ用事ではない


水を使う人


途中で休む人


誰かに話を聞きに来た人


持ってきた道具を直す人


俺はいつの間にか、それをいちいち珍しいと思わなくなっていた


最初は人間が来るだけで緊張した


次は誰だ


何をする


俺を見てどう思う


そんなことばかり考えていた


今は、


「あ、来た」


くらいだ


それでも知らない人には警戒する


向こうも俺を見る


進化してさらに大きくなったゴブリンが水場にいるのだから、驚かない方がおかしい


ミラが必要なら説明する


俺も聞かれれば答える


それだけだ


昼前、俺は空間収納から自分が使う小さな道具を取り出した


ついでにエナから預かっていた救護用品の一部を出す


ミラに頼まれた紙も取り出す


昨日使って戻していた細い紐もローデンへ渡す


必要な物が違う


渡す相手も違う


それでも出し入れでほとんど迷わなくなった


「セイジ、次これ」


ローデンが小型工具を返す


受け取って収納する


すぐ別の物を求められる


「細い縄あるか」


「ある」


取り出す


「紙」


ミラ


「これ?」


「それ」


次はエナ


「清潔な布、まだ持ってた?」


「ある」


出す


自分が歩く小さな道具箱みたいになっている


それでも、第二水場の物を全部俺が持っているわけではない


普段使う共用品はここにある


俺が持つのは、持ち運びやすく、途中でも必要になることがある物の一部


自分で使う物


緊急時に必要な物


それくらいだ


「これ便利やけど、俺おらんかったら困るもんな」


日本語で呟く


近くにいたミラが聞く


「何?」


人間語に直す


「俺、全部持つ、駄目」


第二水場の共用品を指す


「俺いない時、みんな使えない」


「うん」


「だから、ここに置く物はここ」


自分の空間収納を指す


「持って動く物は俺」


ミラが頷く


「分かりやすくなったね」


「何が?」


「説明」


「ほんと?」


「前なら、もっと単語だけだった気がする」


俺は少し考える


確かに以前なら、


「俺、いない、使えない」


で終わっていたかもしれない


今は何をするのか


なぜそうするのか


その後どうするのか


短い言葉なら少し続けて説明できる


「でも長い話、無理」


「そこは私がいるからいいんじゃない?」


「ミラ、便利」


「人を道具みたいに言わないで」


怒られた


「褒めた」


「分かってるけど」


笑っているから本気ではないらしい


俺も笑った


昼になると、それぞれが持ってきた食事を出し始める


第二水場に共有の食料は置いていない


食べる分は自分で持ってくる


俺も今日食べる分の一部を空間収納へ入れてきた


取り出してルッカと食べる


人間たちは少し離れた場所で食べている


全員が一つの輪になるわけではない


好きな場所へ座る


話す人は話す


休みたい人は静かにしている


それでいい


食べている途中、ルッカが森を見る


俺も気づいた


三つの影


「来た」


人間側にも少し緊張が走る


完全になくなったわけではない


でも以前ほど大きく空気が変わることもなかった


三体のゴブリンが森の端にいる


以前何度か来た三体と同じ可能性は高そうに見える


距離の取り方


一体が周囲を見る動き


水場へ近づく時の間


似ている


ただし、俺には個体を完全に見分けられるだけの根拠がない


だから同じだとは決めない


三体のうち一体が俺を見る


進化した直後に一体だけ来た時ほど、強く後ずさることはなかった


それでも少し止まる


俺も止まる


「セイジ」


自分を指す


もう何度使ったか分からない


ルッカも隣にいる


三体はしばらくこちらを見た後、水場の端へ近づいた


今日は手に何か持っている


木の実のような物


乾いた根


葉で包んだ小さなもの


前にも似たことがあった


「持ってきた」


俺が言う


ミラも見る


「そうみたいだね」


三体は水を飲んだ後、持参物の一部を地面へ置く


すぐには誰も取らない


人間側も慣れたのか、勝手に近づかない


俺は持参物を指す


次に、自分たちが食べている物を見る


「交換?」


三体の一体が短く声を出す


意味は分からない


でも、その後の動きは以前と似ていた


人間側の一人が、自分で持ってきた食べ物から少量だけ見せる


三体が見る


地面へ置く


三体の一体が近づいて受け取る


代わりに自分たちが持ってきた物の一つをこちら側へ押す


「同じ」


俺が言う


ミラは頷く


「前と似てるね」


「同じ意味かは?」


「そこまではまだ」


「うん」


一度や二度より、繰り返されたことは増えた


それでも、決まりができたとは思わない


値段もない


何を持ってくるかも決まっていない


毎回来るわけでもない


今日、その場にあった物を少し取り替える


今はそれだけだ


三体は食べ物を持って森側へ下がる


人間たちは自分たちの場所へ戻る


一緒の食卓にはならない


でも同じ時間に食べる


それも以前と同じだ


俺はルッカと食事を続ける


「近くなった?」


ルッカが三体を見る


「何が?」


「人」


人間側を指す


次に三体


「距離」


確かに以前より、物理的には少し近い


それでも十分離れている


「無理に近くしなくていい」


俺が答える


「怖いなら離れる」


ルッカは頷く


食事が終わり、人間側が片付けを始める


持ってきた食べ物の残りも持ち帰る準備をする


食べ残しを第二水場へ置いていかない


三体も持ってきた物の全部を置いたわけではない


交換に使わなかったものは自分たちで持っている


俺は今日受け取った物を確認する


分かるもの


分からないもの


すぐ用途が判断できないものは一時的に分けておく


夕方まで放置するつもりはない


誰が確認できるか考える


「ルッカ、これ知ってる?」


ルッカが見る


一つは頷く


別の物は首を振る


「エナ?」


エナも確認する


「似たものは知ってるけど、これは分からない」


「じゃあ食べない」


「それがいい」


用途が分からないからといって、食べ物だと決めない


使えると決めない


前なら森で見つけた物を、もう少し簡単に考えていた気がする


三体が持ってきたから安全とも限らない


三体には使えて、人間には使えないものかもしれない


「あとで見る」


それで置く


午後になると、ローデンが小改修を再開した


木材を移動する


俺も行こうとしたところで、三体のうち一体が先に動いた


地面に置かれていた軽い枝を拾う


以前、一体だけ来た時にも似たことがあった


枝をローデンが材料をまとめている場所へ運ぶ


もう一本


俺は見ている


ローデンも止めない


「また運んでる」


誰かが言う


「頼んでない」


俺は答える


人間側もそれ以上言わない


別の一体も、少しして軽い枝を一本持った


同じ場所へ置く


三体目は周囲を見ている


全員が作業しているわけではない


何の意図かも分からない


ただ、今日は二体が数本の軽い材料を運んだ


それだけは見える


ローデンが長い木材を持ち上げる


三体の一体がそちらを見る


近づこうとする


「待って」


俺が声を出した


一体が止まる


通じたのか、声に反応しただけなのかは分からない


俺は大きな木材を指す


首を振る


次に軽い枝を指す


「こっち」


一体が俺を見る


少しして軽い方へ移動した


「通じた?」


ローデンが聞く


「分からない」


「でも軽い方行ったぞ」


「結果は」


意図まで分かったかは別だ


大きな木材を無理に持たせて怪我をさせる必要はない


俺も空間収納へ入れようとはしない


こういう大きな資材は、ローデンたちが普通に運ぶ


便利な能力があるからといって、何でも俺の中へ入れて運ぶ必要はない


俺は軽い工具だけを空間収納から出し、ローデンへ渡す


「これ」


「助かる」


「木は持つ?」


「そっちは人手がある」


見ると、人間二人が反対側を持っていた


「じゃあ俺いらない」


「土を少し頼む」


やっぱり仕事はあった


「どこ?」


「ここの足」


ローデンが新しく置く簡単な設備の下を指す


地面に小さな段差がある


《土成形》


進化後の出力にもかなり慣れてきた


狭い範囲だけ


少し動かす


「ここ?」


「もう少し」


動かす


「そこでいい」


止める


俺が全部を作るわけではない


木はローデンたち


位置もローデン


俺は必要な土だけ


その横では三体のゴブリンのうち二体が軽い枝を移動している


少し離れたところでは人間が別の物を片付ける


誰かが全員へ号令をかけたわけではない


でもそれぞれが何かしている


その光景を見ていると、少し不思議だった


「これ、誰が始めた?」


俺が聞く


ローデンが手を止めずに答える


「何がだ」


「みんな作業」


「知らん」


「俺も知らない」


「なら勝手に始まったんだろ」


そんなものなのだろうか


全部を決めなくても始まる


誰が何をするか、毎回きっちり決めなくても動く


必要なことが見えた人がやる


分からなければ聞く


危ないなら止める


今の第二水場は、そういう場所になってきていた


しばらくすると三体は作業をやめた


誰も止めていない


誰も「もっとやれ」と言わない


水を飲み


持ってきた残りを持ち


森へ戻る準備をする


俺は呼び止めない


一体がこちらを見る


俺は手を軽く上げる


「また」


言ってから少し考える


来るかどうかは向こうが決める


でも今回は言ってもいい気がした


「また」


一体が何か声を返す


意味は分からない


三体は森へ消える


約束が成立したわけではない


また来ると言ったわけでもない


それでも、俺はたぶん次に来ても驚かない


午後の終わり頃、試験栽培をもう一度見る


朝水をやった場所は問題なさそうだ


土も流れていない


「今日はこれで終わり?」


俺がエナへ聞く


「今日はね」


「明日?」


「明日見てから」


「やっぱり」


エナが笑う


「何?」


「全部、明日見てから」


「植物は特にそうでしょう」


その通りだ


俺は育っている株と、失敗したままの場所を両方見る


順調なものだけ見ていると、うまくいっている気になる


でも隣には失敗も残っている


本格的に食べ物を作れるようになるには、まだ全然足りない


ただ、最初の三つの芽を見ていた頃よりは前へ進んでいる


何が分からないのかも、少し分かるようになった


それだけでも違う


夕方が近づく


一日が終わる時の動きも、もうかなり決まってきた


使った器を洗う


汚れた物と清潔な物を混ぜない


道具を戻す


救護用品を確認する


一時置き場に物を残さない


持ってきた食べ物の残りは各自持ち帰る


火を使った場所を確認する


明日使わない物まで出したままにしない


誰か一人が全部やるわけではない


俺は洗った器へ弱い《風圧》を当てる


その隣では別の人が道具を戻している


エナが布を確認する


ローデンが今日使った木材をまとめる


ダリオが森の方を最後に見る


ミラが書いた紙を片付ける


ルッカは明日使えそうな道についてダリオへ話している


「セイジ」


ミラに呼ばれる


「なに?」


「明日、これを少し場所変えたいんだけど」


紙を置く場所らしい


人間側の情報や、交換した物についての記録を置く場所


「なんで?」


俺が聞く


「今の位置だと、作業する人の邪魔になるから」


見る


確かに通り道に近い


「じゃあ、こっち?」


別の棚を指す


「そこだと高いかな」


「ルッカ届かない」


「そうなんだよね」


少し考える


「明日、ローデン聞く」


「うん、それでいいと思う」


「今日は動かさない」


「そうしよう」


何をするか


なぜするか


いつするか


以前より自然に言葉がつながる


ミラも全部を言い直さなくなった


人間語が完璧になったわけではない


知らない言葉はまだ多い


早口で長く話されると途中から分からない


文化や町の細かい話になると、ミラの説明が必要だ


でも日常の中で困る場面は減った


「セイジ」


今度は知らない人間から呼ばれる


フェルナ方向から来た人だ


「何?」


「この道、明日も使えるか?」


森の方を指す


俺はすぐ答えない


ルッカを見る


「ルッカ、この道、明日?」


ルッカは少し考える


「朝見る」


俺は人間へ向き直る


「今は使える、でも明日の朝、ルッカ見る」


少し考えて続ける


「雨ないけど、森変わるかも、だから先に確認」


人間が頷く


「分かった」


通じた


俺は少しだけ嬉しくなる


全部ミラに頼らなくても、理由まで伝えられた


ミラを見る


「どう?」


「ちゃんと分かったよ」


「よし」


「でも自分で褒めてもらいに来ないで」


「確認」


「はいはい」


また笑われた


日が傾くと、人間たちは順番に帰り始めた


ハルナ側へ行く人


フェルナ方向へ戻る人


途中まで一緒に行く人


全員がここに住んでいるわけではない


夜まで残るわけでもない


必要な時に来る


水を使い


休み


作業をし


話をして


帰る


森へ戻った三体のゴブリンも同じだ


毎日来るわけではない


ここに寝床があるわけでもない


正式に何かを約束したわけでもない


それでも、何度か来た


水を使った


物を置いた


物を持っていった


危険な時に同じ道を歩いた


今日は軽い材料まで運んだ


明日来るかは分からない


でも、また来るかもしれないとは思える


俺は水場の端に立って、少しずつ人が減っていくのを見る


エナが帰る


「またね」


「また」


ミラも帰る


「明日か、その次くらいには来ると思う」


「分かった」


ダリオは最後に道の方を確認してから帰った


ローデンも、


「次は持ち手の位置を見る」


と言って木材を片付けた


誰も「ここに住む」と言わない


誰も「明日必ず来る」と約束しない


それでも、帰り際の言葉はだいたい同じだった


また


俺はそのことに気づいて、少し笑った


「セイジ?」


ルッカが見る


「みんな、またって言う」


「また来る?」


「たぶん」


「三人も?」


森へ帰ったゴブリンのことだろう


「分からない」


「でも来るかも?」


「うん」


そのくらいでいい


来るかもしれない


来たら水がある


使える器がある


休める場所がある


必要なら誰かがいる


誰もいない日もあるかもしれない


それでも、ここは残る


第二水場を作り始めた頃、俺はただ水があれば便利だと思っていた


その次は物を置いた


道具を使った


怪我をした人を休ませた


水を飲む人が増えた


森のゴブリンまで来た


物を持ってくる者が出た


誰かが掃除をするようになった


誰かが危険な道を確認する


誰かが不足している布を見る


誰かが壊れた場所を直す


俺がいなくても動く


「暮らし、か」


日本語で呟く


ルッカが聞く


「なに?」


人間語にしようとして少し考える


「ここ、みんな来る」


第二水場を指す


「水だけじゃない」


棚


雨除け


救護用品


試験栽培


道具


森へ続く道


今日使った作業場所


一つずつ指す


「使う、直す、持ってくる、持って帰る、また来る」


ルッカが周囲を見る


「うん」


「住んでない」


「うん」


「でも、場所ある」


ルッカが俺を見る


「みんなの場所?」


以前から使っている言い方


俺は頷く


「うん、みんなの場所」


村ではない


町でもない


店でもない


宿でもない


誰かがここを治めているわけでもない


俺が偉いわけでもない


ただ、必要な時に人が来る


それぞれができることをして


終わったら帰る


そしてまた来る


それが積み重なっている


それだけなのに、最初に水場を見つけた頃とはまるで違っていた


「帰る?」


ルッカが聞く


空を見る


もう夕方だ


「帰ろう」


俺たちは最後に第二水場を確認する


食べ物は残っていない


火も消えている


道具は戻っている


救護用品も整理されている


用途不明の物も放置されていない


共同用の器には必要な分の水がある


俺が明日のために全部準備する必要はない


明日来た人が必要なことをすればいい


俺とルッカは森へ入る


帰り道は静かだった


雨の後に荒れた森も、少しずつ落ち着いてきている


それでも崩れた場所は残る


危険生物もいる


第二水場ができたから森が安全になったわけではない


人間とゴブリンが同じ場所を使ったから、全部分かり合えたわけでもない


試験栽培が続いているから、食料に困らなくなったわけでもない


俺の魔法が強くなったから、何でもできるわけでもない


できないことは多い


分からないことも多い


それでも、前よりできることは増えた


一人ではなく、みんなでならもっと増える


岩陰拠点が見えてくる


入口をくぐる


中へ入ると、やっぱり落ち着く


「帰った」


俺が言う


ルッカも、


「帰った」


と返す


荷物を置く


必要な物を空間収納から出す


今日使った小物を確認する


自分で持つ物


明日第二水場へ持っていく物


岩陰拠点に置く物


分ける


空間収納は便利になった


俺自身もかなり扱いに慣れた


でも家まで全部持ち歩く必要はない


物にも場所がある


俺たちにも場所がある


「食べる?」


ルッカが聞く


「食べる」


朝と同じように食事の準備をする


進化して少し大きくなった手も、もう普通に道具を扱っている


食事を終えた頃には外が暗くなっていた


俺は寝床の近くへ座る


手を見下ろす


ハイホブゴブリンメイジの手


人間だった頃とは全然違う


爪も


色も


形も違う


人間になりたい気持ちは消えていない


もし人間に戻れる方法が見つかれば、たぶん俺は考える


戻りたいと思うだろう


そこは無理に変える必要はない


でも、この手でしてきたこともある


水を出した


土を動かした


怪我を治した


道を作った


人を助けた


ゴブリンも助けた


器を洗った


布を乾かした


畑とも呼べない小さな区画へ水をやった


棚の高さまで考えた


格好いいことばかりではない


むしろ生活の細かいことの方が多い


それでも、その一つ一つが第二水場に残っている


「セイジ」


ルッカが隣へ来る


「何?」


「手、見る?」


「うん」


「まだ変?」


俺は少し考える


進化した翌朝は知らない手に見えた


今はどうだろう


大きい


緑色


人間ではない


でも、自分の手だとは普通に思える


「もう慣れた」


「よかった」


ルッカは簡単に答える


俺は笑う


たぶん、そういうものなのだろう


人間だった自分を忘れる必要はない


今の自分を嫌い続ける必要もない


どちらかを消さなくてもいい


第二水場だって同じだ


人間だけの場所ではない


ゴブリンだけの場所でもない


俺だけの場所でもない


違うやつが来て


違うことをして


必要なら少し関わって


また自分の場所へ帰る


俺もそうだ


第二水場で一日過ごし


ここへ帰る


「明日も水場?」


ルッカが聞く


「たぶん」


「何する?」


「行ってから見る」


「何もなかったら?」


「暇する」


ルッカが笑う


俺も笑った


明日何が起きるかは分からない


誰が来るかも分からない


三体のゴブリンがまた来るかもしれない


人間が増えるかもしれない


誰も来ないかもしれない


試験栽培がまた失敗するかもしれない


新しい問題が出るかもしれない


それでいい


必要になったら、その時考える


俺はもう一度自分の手を見る


人間ではない


前よりさらにゴブリンになった


それでも今日は、この手で誰かに水を渡して、道具を出して、土を少し直した


大したことではない


でも、そういう一日が普通になってきた


「この姿でも、まあ悪ないんかもしれんな」


ルッカが首を傾げる


「何?」


「まだ秘密」


「また?」


「また」


答えを出したわけではない


人間になることを諦めたわけでもない


ただ、今の俺がここにいることを、前ほど嫌だとは思わなくなった


それで十分だった


俺は横になる


岩陰拠点の天井を見る


明日になれば、また第二水場へ行くだろう


誰かが先に来ているかもしれない


俺が着く前から何かが始まっているかもしれない


俺が何もしなくても、水を飲んで帰る人がいるかもしれない


そして夕方になれば、それぞれが自分の場所へ帰る


また来ると言って


居場所というのは、ずっとそこに座っている場所ではないのかもしれない


帰ってこられる場所があって


また行ける場所があって


そこで誰かと過ごした時間が少しずつ積み重なる


そうやって、いつの間にか暮らしになっていく


俺は目を閉じる


明日もたぶん、同じように朝が来る


それでいいと思った

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