水場の端から
第53回 水場の端から
四日後の午後、第二水場には珍しく人が少なかった
朝のうちはハルナ側から何人か来ていたらしいが、採取や作業を終えた者から順に帰り、今残っているのは俺たちを除けば数人だけだった
水辺では一人が器へ水を汲み、少し離れた場所では別の二人が持ってきた荷物をまとめている
エナは救護用品の残りを確認し、ミラは共有物の棚の前で何かを数えていた
ルッカは試験栽培区画の方にいる
俺はというと、棚の前で空間収納と格闘していた
「紐……紐」
頭の中で入れてある物を思い浮かべる
小さな容器
布
予備の縄
細い紐
小型の道具
必要なのは細い紐だ
以前なら収納してある物を一つずつ意識し直し、少し迷ってから取り出していた
最近は違う
物の種類ごとに分けて覚えるようになったせいか、欲しい物を思い浮かべてから取り出すまでの間が少し短くなっている
空間そのものの大きさが変わったかどうかは、まだ試していない
ただ、今までと同じ小物なら問題なく出し入れできる
ただ、使い慣れてきた
それだけだ
細い紐が手の中へ出てくる
「よし」
棚に置かれていた小さな袋の口を縛る
少し前に岩陰拠点まで間違えて持って帰ってしまった紐も、次に来た時にはちゃんと第二水場へ戻してある
使ったら戻す
最近は、考えなくても少しずつできるようになってきた
「何してるの?」
ミラが横から覗き込んだ
「これ、閉じる」
「共有物の袋?」
「うん、開いてた」
「誰かまた閉じ忘れたのかな」
俺は周囲を見る
犯人探しをする必要はない
閉じていなかったから閉じただけだ
「閉じた、だから大丈夫」
覚えたばかりの言葉を使う
ミラが少し笑った
「だから、ちゃんと使えてるね」
「練習」
「最近よく使うよね」
「便利」
理由を言える
前と違うことを言える
後ですることも言える
たった数語増えただけなのに、人間語で話せる範囲はかなり広がった気がする
もちろん、ミラが本気で長く話し始めると半分も分からない
それでも、分からなければ止めればいい
「ゆっくり」
と言えば、大抵は言い直してくれる
前より楽になった
俺が袋を棚へ戻そうとした時だった
水場の端にいた人間が、突然立ち上がった
器を持ったまま森を見る
その動きにつられ、別の二人も顔を上げた
エナもすぐそちらを見る
空気が変わった
俺は袋を置く
「どうした?」
返事より先に、森の方から小さな音が聞こえた
枝
葉
誰かがいる
ルッカが試験栽培区画から戻ってきた
走ってはいない
だが足は速い
俺の横まで来ると、小さく言った
「いる」
「誰?」
ルッカは森を見る
「三人」
それだけで分かった
俺も視線を向ける
第二水場の外側
木々の間
最初は何も見えない
しばらくすると、一体の姿が見えた
ゴブリン
少し遅れて、その左右に二体
三体
これまで接触した三体と同じ個体なのか、俺には見た目だけでは断定できない
ただ、人数も距離の取り方も似ていて、これまで接触した三体と同じ可能性は高そうに見えた
問題は場所だ
今まで会っていたのは森の中だった
今日は違う
第二水場が見えるところまで来ている
「ゴブリン……」
誰かが小さく呟いた
人間側に緊張が走る
一人が腰に手を伸ばした
武器
俺はすぐ動いた
「待って」
以前より自然に言葉が出る
人間が俺を見る
「武器、下げて」
「でも」
「分かる」
俺は一度頷く
怖いのは当然だ
自分が知っている三体だから大丈夫だ、と言い切るつもりはない
自分だって三体が何を考えているか全部分かるわけではない
「怖い、分かる」
それから森の三体を見る
「でも、まだ攻撃しない」
人間側が少し迷う
ミラがすぐ横へ来た
「構えないでいてほしいってことね」
「うん」
「セイジも、絶対安全って言ってるわけじゃない?」
「そう」
そこは大事だった
俺は人間側へ向き直る
「俺も、分からない」
三体を指す
「でも、前、戦わない」
次に第二水場の方
「たぶん、水」
ミラが続けた
「前に水がある場所を教えたんだって」
数人の人間がミラを見る
ミラは落ち着いた声で説明する
前に、俺が水を見せたこと
第二水場の方向を示したこと
三体はその場では来なかったこと
完全な意思疎通が成立したわけではないこと
人間側も少しずつ理解したらしい
それでも警戒は消えない
当然だ
俺は武器へ手を伸ばしていた人を見る
「武器、しまう?」
少し言い方を迷う
命令したいわけではない
「怖がらせない」
自分の手を下げて見せる
「俺も、魔法しない」
ミラが補足する
「完全に無防備になれってことじゃなくて、向こうに見える形で武器を構えないでほしいんだと思う」
「そう」
それなら伝えたかった意味に近い
人間はしばらく迷ったあと、武器から手を離した
別の二人も距離を取る
エナは救護用品の近くにいるが、前へは出ない
誰も三体へ近づかない
三体の方も動かない
第二水場の端を挟んで、人間とゴブリンが互いを見ている
「……緊張するな」
俺は日本語で呟いた
ルッカが横を見る
「なに?」
「何でもない」
俺は三体へ向き直る
前と同じように、急に近づかない
まず水を指す
「水」
もちろん、人間語が通じるとは思っていない
重要なのは動作だ
水場
三体
自分
両手を下げる
「水」
もう一度言う
三体のうち前にいる一体が、水面を見る
残り二体は人間たちを見ている
そのうち一体は武器を持ったまま、森側を何度も確認していた
来る
来ない
しばらく何も変わらない
俺は待つ
あのやり取りで覚えた
待つことも会話になる
「待とう」
ルッカに言う
「うん」
人間側にも言う
「待つ」
ミラが補足した
「向こうが決めるまで、こっちから近づかないでいようって」
それから本当に待った
長く感じる
実際にはそれほど経っていないのかもしれない
やがて、三体のうち中央にいた一体が一歩出た
人間側がわずかに動く
俺は振り返らない
今は三体から目を離さない方がいい
一歩
止まる
また一歩
残り二体は動かない
近づいてくる一体も、武器を持ったままだ
ただ、刃先らしい部分をこちらへ向けてはいない
第二水場までまだ距離がある
そこでまた止まる
俺は水を指す
「水」
一体が短い声を出した
前に水を見せた時に聞いた音と似ている気がした
同じかどうかは分からない
俺は水を指すだけにする
何度も喋らない
すると、その一体が少し横へ移動した
第二水場の中央ではない
森に一番近い端
そこへ向かっている
「端から来る」
ルッカが言う
「うん」
三体なりに逃げ道を残しているのかもしれない
人間たちから最も離れた場所でもある
俺はそれを邪魔しない
前の一体が水場の端へ着く
止まる
しゃがまない
周囲を見る
後ろの二体を見る
人間を見る
俺を見る
それから、ようやく少し腰を落とした
水へ手を伸ばす
直接口へ運ぶ
一度
二度
水を飲んだ
俺は何も言わなかった
嬉しい
かなり嬉しい
でも、ここで大きく反応したら驚かせる
隣のルッカだけが、俺の顔を見て小さく笑った
「嬉しい?」
「……うん」
「顔」
「そんな出てる?」
「出てる」
水を飲んだ一体が立つ
すぐ帰るのかと思った
だが後ろにいる二体へ向かって短く声を出した
一体が近づく
もう一体は残る
二体目は水場へ入らず、途中で止まった
周囲を見ている
一体目がもう一度水を飲む
三体目は森の近く
どうやら一度に全員が入る気はないらしい
「見張ってる?」
ルッカが小声で言う
「たぶん」
断定はできない
ただ役割が分かれているようには見える
しばらくして、一体目が下がる
今度は二体目が水場の端へ来た
二体目も水を飲む
三体目は最後まで近づかなかった
人間側を見ている
特に、武器を持っていた者へ何度も視線を向ける
向こうも怖い
俺はそう思った
人間側だけが怖がっているわけではない
普通のゴブリンから見れば、人間は十分怖い存在なのかもしれない
少なくとも、この三体はそう見える
「水だけ」
俺は人間側へ言う
「たぶん、水だけ」
ミラが頷く
「今のところはね」
人間の一人が尋ねる
「襲ってこないのか?」
俺は言葉を探す
「分からない」
少し間を置く
「でも、今、襲わない」
それ以上は言えない
未来までは保証できない
今見えていることだけ話す
ミラも同じように説明した
「セイジも向こうの考えが全部分かってるわけじゃないから、警戒はしてていいと思う」
その言葉に、人間側の表情が少しだけ変わった
安心というより、納得に近い
俺が何でも知っているわけではない
それが分かる方が、かえって信用できることもあるのかもしれない
三体は長く滞在しなかった
水を飲んだ二体が森側へ戻る
残っていた一体と合流する
そこで終わると思った
だが最初に水を飲んだ一体が、腰の辺りへ手を伸ばした
人間側の緊張が一気に戻る
俺も体へ力を入れる
武器ではなかった
何か小さなものを持っている
木の実のようにも見える
乾いた植物の一部にも見える
森で採ったものだろう
一体はそれを手に持ったまま、少しだけ第二水場へ戻ってくる
水場の端
さっき水を飲んだ場所
そこへ、小さな採取物を置いた
「……え?」
俺の口から日本語が漏れる
一体は何も言わない
置いた
手を離した
それから後ろへ下がる
俺は採取物と三体を交互に見る
「くれる?」
ルッカが聞く
「分からない」
三体はもう森へ戻ろうとしている
俺は呼び止めない
追わない
採取物にもすぐ触れない
三体は一定距離まで離れ、最後にこちらを確認してから木々の向こうへ消えた
姿が完全に見えなくなっても、しばらく誰も動かなかった
最初に息を吐いたのは、人間側の一人だった
「……行った?」
ルッカが森を見る
「行った」
俺はようやく肩の力を抜いた
「疲れた」
ミラが笑う
「何もしてないように見えたけど」
「待つ、疲れる」
「分かる気はする」
エナが水場の端へ近づく
ただし、三体が置いた物には触らない
「これ、何?」
「分からない」
ルッカがしゃがみ込み、少し離れたところから見る
「森にある」
「食べられる?」
俺が聞く
「たぶん」
「たぶん多いな」
「分からないから」
正しい
分からないものは分からない
俺もしゃがむ
小さな採取物
水を飲んだあとに置いた
これだけなら、意味はいくつも考えられる
水を使ったお礼
食べ物との交換
自分たちの物を見せただけ
持っていたけれど邪魔だから置いた
何か別の意味
「代わり?」
俺が呟く
ミラが隣にしゃがむ
「交換だと思う?」
「分からない」
「私も分からない」
「水、飲む」
俺は水場を指す
「これ、置く」
採取物を指す
「だから……代わり?」
覚えた「だから」を使ってみる
ミラは少し考える
「そうかもしれない」
「かも」
「でも、一回だけじゃ分からないね」
「でも」
ちょうど覚えた言葉ばかりだ
俺は少し笑った
「便利やな」
「何が?」
「言葉」
ミラも笑う
「でしょ」
ルッカが採取物を見る
「持つ?」
俺はすぐには答えない
もし相手が置いていったなら、そのまま放置するのも変な気がする
ただ、こちらが持っていくことで別の意味になる可能性もある
考えても分からない
「置いた、帰った」
俺は言う
「たぶん、置いていった」
ミラが頷く
「なら、受け取ってもいいとは思う」
「交換?」
「そこはまだ決めない方がいいかな」
「なんで?」
「こっちが『水を使ったら物を払う』って決めちゃうと、向こうがそういうつもりじゃなかった時に変になるから」
長い
俺が顔をしかめる
ミラが短くする
「一回じゃ分からない」
「ああ」
「また同じことするか、見る」
「見る」
試験栽培の時と同じだ
植物もそうだった
一回見ただけで原因を決めない
今回も同じ
一度物を置いたからといって、これを制度にする必要はない
店でもない
料金でもない
交換所でもない
次に来た時も何か置くかもしれない
何も置かないかもしれない
別の行動をするかもしれない
「そのまま、見る」
俺が言う
「うん」
ミラが頷く
「こっちのやり方を押しつけない方がいいと思う」
全部は理解できなかったが、意味は分かる
相手には相手のやり方がある
俺たちが勝手に決めない
俺は採取物を手に取った
ルッカにも見てもらう
危険なものではなさそうだ
食べられる可能性もあるが、その場では食べない
何なのか確認してからでいい
「これ、どこ置く?」
ルッカが聞く
俺は棚を見る
器の印
共有物の印
どちらも少し違う気がする
今は意味が分からない物だ
「ここ」
棚の端
何の印もついていない場所
一時的に置いておく
勝手に「交換品」と名前をつける必要はない
ミラも反対しなかった
三体がいなくなってから、人間側も少しずつ動き始めた
それまで水を汲むのを止めていた者が作業を再開する
ただ、話題は当然三体のことだった
「また来るのか?」
一人が俺に聞く
「分からない」
「危なくないのか?」
「分からない」
同じ答えばかりになってしまう
だが、分からないものは仕方ない
俺は少し考えて続ける
「今日、攻撃しない」
三体がいた森を指す
「前も、攻撃しない」
水場を指す
「今日、水だけ」
そして少し間を置く
「だから……今は、見る」
ミラが補足する
「何度か同じように来るなら、その時に考えようってことだと思う」
「そう」
人間の一人は、まだ納得しきれない顔をしている
別の一人は興味深そうに棚の端の採取物を見ていた
反応は同じではない
それでいい
これまでだってそうだった
俺をすぐ受け入れる者もいれば、距離を取る者もいる
他ゴブリンに対しても、全員が同じ反応になるはずがない
「セイジが大丈夫なら……」
誰かが言いかけた
俺は首を振った
「俺も、全部分からない」
少し強めに言う
「怖いなら、距離」
手で距離を示す
「でも、攻撃しないなら、先に攻撃しない」
ミラが俺を見る
「それなら分かりやすいね」
「合ってる?」
「うん」
俺は少し安心する
人間側に、怖がるなとは言えない
三体にも、人間を信用しろとは言えない
互いに距離を取る
それでも先に攻撃しない
今はそれくらいで十分だ
エナが救護用品の整理へ戻る
「怪我人が出なかっただけ良かったわ」
俺も頷く
「それ、一番」
本当にそうだ
初めて第二水場まで来た
人間がいた
双方が警戒した
それでも何も起こらなかった
水を飲んだ
何かを置いて帰った
今日の成果をそれ以上大きく考える必要はない
少し経つと、第二水場はまた普段の空気へ戻っていった
完全に同じではない
時々誰かが森を見る
俺自身も見る
ルッカも何度か外側の痕跡を確認した
けれど三体が戻ってくることはなかった
俺は共同物資の棚へ向かう
三体のことで止まっていた作業を続ける
布
紐
小さな容器
足りなくなっている物を確認する
空間収納から、持っていた小型容器を一つ出す
棚へ置く
次に細い縄
次に小さな布
以前より、取り出す動作が少し滑らかになっている
頭の中で目的の物を決める
意識を向ける
出す
一つ
次
一つ
特別な変化ではない
魔法のように新しい表示が出たわけでもない
単純に慣れたのだ
「早くなった?」
ルッカが見ていた
「ちょっと」
「空間収納?」
「うん、でも、広くなったか分からない」
両手で小さい形を作る
「入る量、まだ試してない」
「慣れた?」
「たぶん」
その表現が便利すぎる
何でも「たぶん」で済ませたくなる
俺は自分で少し笑った
共有の水用器を見ると、残りが少なくなっていた
人間が使った分
今日来た三体が飲んだ分
第二水場そのものには水があるので、器が空でも困りはしない
ただ、作業中にすぐ使える水は補充しておいた方が便利だ
俺は《水球》を作る
三体はもういない
見せつけるためではない
いつもの仕事だ
必要な分だけ水を浮かせ、共同用の器へ入れる
一つ
次
多すぎないよう調整する
試験栽培で少量の水を分けた時と比べれば簡単だった
満たし終え、《水球》を消す
「水、便利」
ルッカが言う
「うん」
俺はさっき三体が水を飲んでいた場所を見る
そこにはもう誰もいない
でも、確かに使った
自分が魔法で作った水ではない
もともとある第二水場の水
それを飲んだ
そこが妙に嬉しかった
何か特別な物を渡して仲良くなったわけではない
魔法を見せて従わせたわけでもない
助けて恩を売ったわけでもない
ただ水場を使った
誰でもできることをした
そのくらいが、今はちょうどいい
「嬉しそうね」
エナが言う
「分かる?」
「分かる」
「ルッカも言った」
「顔に出てるんじゃない?」
そんなに出ているのだろうか
俺は頬を触ってみる
もちろん分からない
「でも」
俺は言う
「仲間、じゃない」
エナが少し驚いた顔をした
「そう思ってるの?」
「うん」
森を見る
「水、使っただけ」
棚の端に置いた採取物を見る
「これ、置いた」
少し考える
「でも、意味、分からない」
エナは頷く
「そのくらいでいいんじゃない」
「うん」
嬉しいからといって、都合のいい意味をつけない
水を使ったから仲間
物を置いたから友達
そんな単純ではない
相手はまだ武器を持っていた
人間側も警戒した
三体のうち一体は最後まで水場へ近づかなかった
距離は残っている
それでいい
夕方になり、人間の利用者たちが帰り始めた
今日三体を見た者たちは、何度も森を振り返っていた
怖かったのだろう
当然だ
それでも誰も怪我をしていない
それだけで十分だった
最後の一人がハルナ側へ戻ると、第二水場には俺、ルッカ、ミラ、エナが残った
空が少し赤くなる
ミラが棚の端に置いた採取物を見る
「これ、どうする?」
「今日は、置く」
「食べない?」
「分からないから」
ルッカも頷く
「明日見る」
「誰に見てもらう?」
「エナ?」
俺が見る
エナが首を振る
「薬草なら分かるものもあるけど、何でも分かるわけじゃないわよ」
「また分からない」
「そういうもの」
試験栽培の時と同じ答えだった
俺は笑う
分からない物が増えるのも、最近は少し慣れてきた
「次、また置くかな」
ルッカが言う
「分からない」
「また水飲む?」
「分からない」
「また来る?」
「分からない」
三回続けて答えると、ルッカが笑った
「セイジ、何も分からない」
「俺も今思った」
ミラまで笑う
それでも、分かっていることもある
三体はここまで来た
人間がいても、すぐ逃げなかった
水を飲んだ
人間側も、怖がりながら先に攻撃しなかった
同じ場所にいた
短い時間だけ
距離を置いたまま
それは事実だ
「次も同じなら」
ミラが言う
俺が見る
「少しずつ考えればいいと思う」
「同じ?」
「また水を使うとか、また何か置くとか」
「ああ」
「一回だけでこっちの決まりを作らない方がいい」
「決まり、まだ」
「うん」
それでいい
物を戻す場所を決めた時も、必要だから決めた
今回はまだ必要かどうかすら分からない
先に仕組みを作る必要はない
三体がまた来るなら、その時考える
来なければ、それで終わりかもしれない
日がさらに傾く
エナとミラがハルナ側へ戻ることになった
「今日はもう帰る?」
ミラが聞く
「うん、あとで……」
俺は少し考えた
今は「あとで」で合っている
「片付ける、あとで帰る」
「合ってる」
「よし」
人間語の小さな成功に満足する
エナとミラを見送ったあと、俺とルッカは第二水場を一周した
共有物
救護用品
共同用の器
試験栽培区画
排水
水場の端
三体が使った場所も特別には変えない
印を追加しない
専用の器も置かない
三体用の場所を作ることもしない
まだそこまでする理由はない
第二水場は第二水場のままだ
「ここ、三人の場所?」
ルッカが水場の端を指した
俺は首を振る
「違う」
少し考える
「誰の場所でもない」
それも少し違う気がする
第二水場は使う人たちの場所になりつつある
でも誰か一人の所有物ではない
「みんな使う場所」
「三人も?」
「今日、使った」
それ以上は言わない
これからも使うかは分からない
住むわけでもない
仲間になったわけでもない
でも今日だけなら確かだ
三体も第二水場を使った
人間も使った
俺とルッカも使う
違う者が、同じ水を使った
その事実だけで十分だった
夜が近づき、二人は岩陰拠点へ戻る
森の中を歩きながら、俺は何度も今日の光景を思い出した
三体が森から出てきた時の緊張
人間が武器へ手を伸ばしたこと
自分が止めたこと
水を飲んだこと
小さな採取物を置いたこと
全部、少し間違えば違う結果になっていたかもしれない
だからといって、うまくいったことを大げさに考えるのも違う
「今日、良かった?」
ルッカが聞いた
俺は歩きながら考える
「良かった」
「なんで?」
人間語の練習をさせるつもりらしい
「三人、水、飲んだ」
「うん」
「人間、怖い」
「うん」
「でも、攻撃しない」
「うん」
「三人も、攻撃しない」
「うん」
そこで一度止める
理由まで言ってみる
「だから、今日は良かった」
ルッカが頷いた
「上手」
「人間語?」
「うん」
「もっと褒めていい」
「なんて?」
「なんでもない」
岩陰拠点へ着いた頃には、森はかなり暗くなっていた
中へ入り、いつもの場所へ荷物を置く
俺は空間収納から今日使わなかった小物を確認し、必要なものだけ棚へ戻した
ルッカが夕食の準備を始める
俺も手伝う
いつもの夜だ
第二水場でゴブリンと人間が初めて同じ場所を使った日でも、帰れば腹は減る
食事をしながら、俺は棚の端に置いてきた小さな採取物を思い出した
あれが何なのか
どういう意味なのか
次も同じことが起きるのか
何も分からない
でも、以前の自分なら答えを急いだかもしれない
今は待てる
次を見る
繰り返されたら考える
違ったら考え直す
植物と同じだ
暮らしも、関係も、一回で完成するものではない
「セイジ」
「ん?」
「次、三人来たら?」
ルッカが聞く
俺は少し考えた
「水なら、水」
「食べ物なら?」
「分からないから、見る」
「戦うなら?」
「それは止める」
「分かりやすい」
「そこは分かる」
二人で少し笑った
今日、三体は第二水場の中央まで来なかった
端から水を使っただけだった
人間たちも近づかなかった
会話もしていない
一緒に食事をしたわけでもない
それでも、森の向こうにいた三体が、水場の端まで来た
俺はそれを思い出しながら、食事を続けた
今はまだ、水場の端
たぶん、それくらいの距離がちょうどよかった




