言葉にならない会話
第52回 言葉にならない会話
二日後の昼
俺とルッカは、第二水場から少し離れた森を歩いていた
今日は栽培区画を見るだけで終えるつもりだったのだが、朝の確認を終えたあと、ルッカがまた人型らしい痕跡を見つけた
以前と同じような、小さな足跡
数も一つではない
けれど今回は第二水場から離れていく跡ではなく、その近くを横切るように残っていた
追いかける必要はない
そう思っていたのだが、昼になってから新しい跡が増えていることにルッカが気づいた
「近い?」
俺が聞く
ルッカは地面を見たまま頷いた
「近い、たぶん」
二人は痕跡を辿りすぎないよう注意しながら、第二水場の外側を確認していた
相手が避けているなら、それでいい
こちらから住処を探し出すつもりもない
ただ、相手もこちらを見ている
そのことはもう分かっている
三日前には三体とも、俺が捕食魔物を倒すところを最後まで見ていた
あれだけの魔法を見れば、余計に近づきたくなくなっても不思議ではない
「今日は、出ないかな」
俺が日本語で呟く
ルッカが振り返る
「なに?」
「三人、今日、いるかな」
人間語へ言い直す
ルッカは少し考えた
「いるかも」
「会ったら?」
「セイジ、話す?」
その質問に、俺はすぐ答えられなかった
話す
そう言われても、何語で話せばいいのか分からない
人間語を使っても通じないだろう
俺自身、普通のゴブリンと会話した経験などない
転生した時から、頭の中にゴブリンの言葉が入っていたわけでもなかった
そもそも三体がどんな言葉を使うのかも分からない
「話す……かな」
「分からない?」
「うん」
ルッカが少し笑った
「セイジも分からないこと、多い」
「最近、それ言われるな」
人間語に直せず、日本語のまま返す
その時、ルッカが足を止めた
笑っていた表情が消える
片手を上げる
俺も止まった
前方
木々の隙間
何かがいる
《魔力感知》を使うより先に、俺の目にも見えた
三体
距離はかなりある
だが、見覚えのある体格だった
一体は少し前
二体は左右に離れている
三日前に見た時と似た位置取りだ
「三人」
ルッカが小さく言う
「うん」
三体も二人に気づいている
今回は逃げなかった
それどころか、前回よりもはっきり姿を見せている
ただし、武器は持っていた
粗い造りの棒や石器に近いもの
武器と呼んでいいのか迷う程度ではあるが、こちらへ向ける可能性があるものだ
三体とも構えを解いてはいない
「止まろう」
俺が言う
ルッカも頷く
二人はそれ以上近づかなかった
距離を空けたまま見合う
前回と似ている
でも一つだけ違う
三体が帰らない
警戒している
けれど、立ち去ろうともしていない
「……何かしたいんかな」
俺は小さく呟いた
三体のうち、一番前にいる個体が短く声を出した
意味は分からない
低い発声
短い音が二つ続く
俺はルッカを見る
ルッカも首を振る
分からないらしい
もう一度、同じ個体が声を出す
今度は少し違う
それから足元を指した
いや、足元ではない
近くの地面
その先
何を示しているのか分からない
俺は困った
「えーっと……」
日本語で考えてもどうにもならない
相手の言葉を知らないなら、物を使うしかない
二日前に考えたことが頭に浮かぶ
相手が何を必要としているか、まず知らなければならない
なら、聞けばいい
言葉が通じなくても、聞く方法はあるかもしれない
俺はゆっくり腕を動かした
急な動きをすると警戒させる
まず自分の胸を指す
「セイジ」
言ってみる
人間語でも日本語でもない
自分の名前だ
三体に反応はない
まあ、それはそうだろう
もう一度胸を指す
「セイジ」
それからルッカを指す
「ルッカ」
ルッカが一瞬驚いた顔をしたが、すぐ理解したらしい
自分を指し、
「ルッカ」
と言った
三体が少し動いた
前の一体が俺とルッカを交互に見る
理解したのかどうかは分からない
俺は続けようとした
だが名前を聞く方法が分からない
相手を指して、何と言えばいい
「お前?」
違う
そもそも通じない
指すだけでは、攻撃対象を示しているようにも見えるかもしれない
俺は指を下ろした
「難しいな」
ルッカが囁く
「うん」
最初から名前は難しすぎたかもしれない
もっと分かりやすいもの
目の前にあるもの
俺は周囲を見る
木
地面
草
水はここにはない
いや、水なら持っている
空間収納から小さな容器を取り出せる
そう考えたところで、手を止めた
いきなり何もない場所から物を出したら、相手がどう思うか分からない
三日前には魔法を見せている
それでも、余計な警戒を増やす必要はない
俺は三体に見えるよう、ゆっくり右手を前へ出した
空の手
それを自分の胸元へ戻す
また前へ出す
急に何かを投げないことを示すように、ゆっくり動く
それから空間収納へ意識を向けた
小さな容器を一つだけ取り出す
本当にゆっくり
三体が一斉に身構えた
「やっぱり怖いか」
俺はすぐ止まる
容器を持ったまま動かない
武器ではない
それが分かるまで待つ
前の一体が容器を見る
左右の二体は俺の手元と顔を交互に見ていた
少しして、構えがほんのわずかに下がる
俺は容器を地面へ置いた
そして、中に入れていた少量の水を見せる
指先をつける
水滴を落とす
「水」
言葉自体に意味はないだろう
それでも口にする
「水」
ルッカも同じように言った
「水」
三体の反応が変わった
前の一体が少し身を乗り出す
左右の二体も水を見る
「分かる?」
ルッカが聞く
「水は分かってると思う」
人間語ではなく日本語で答えてしまい、言い直す
「水、気になる」
ルッカが頷いた
三体のうち前にいる一体が、今度は短い声を出した
さっきと違う音だった
そして容器を見る
もう一度同じような音
完全に同じかは分からない
でも似ている
俺は耳を澄ませた
「今の、水?」
ルッカも真剣な顔になった
「かも」
断定はできない
相手が単に警戒の声を出しただけかもしれない
だが物を見て同じ発声を繰り返した
対応している可能性はある
俺は容器を指す
「水」
前の一体が短く発声する
「水」
また発声
俺は少し嬉しくなった
会話ではない
言葉を覚えたわけでもない
でも、今までより何かが一つ進んだ気がした
次は食べ物
今日持ってきた小さな食べ物が一つだけ空間収納にある
だが俺は取り出す前に考えた
食べ物を見せたら、渡すという意味に取られる可能性がある
それでも相手が何に反応するか知るには分かりやすい
「少しだけ」
ルッカに言う
俺は空間収納から小さな食べ物を一つ取り出した
今回もゆっくり
三体は驚いたが、先ほどほど強く身構えなかった
俺はそれを自分の口元へ近づける
食べる仕草をする
「食べる」
実際には口へ入れず、動作だけ見せる
もう一度
「食べる」
前の一体が横を見る
左右の一体が何か発声した
今度は一つではない
三体の間で短い声が交わされる
俺には何も分からない
ただ、食べ物には反応した
欲しいのか
知っているだけなのか
警戒しているのか
それも分からない
俺はその食べ物を三体へ差し出さなかった
自分の空間収納へ戻す
一方的に渡さない
二日前に決めたことだ
すると三体のうち一体が少し首を傾げた
俺も首を傾げた
「なんで戻したって思ってるかな」
「分からない」
「だよな」
また分からない
それでも面白かった
一つずつ反応が違う
水
食べ物
自分たち
何かを見せるたびに、三体も何かを返してくる
意味までは分からない
けれど、完全に一方通行ではない
「次、危険?」
ルッカが言った
俺は少し考えた
危険
これも重要だ
第二水場へ来るなら、危険なものを伝えられた方がいい
でも危険そのものをここへ連れてくるわけにはいかない
身振りでやるしかない
俺は森の奥を指す
それから、四足の魔物を思い出して両手を少し前へ出した
爪を立てるような仕草
唸るような声を出す
「危険」
ルッカが一瞬だけ変な顔をした
「下手」
「分かればいい」
「分からないかも」
「やってみないと分からん」
三体の反応を見る
前の一体は動かなかった
右側の一体が少しだけ後ろへ下がった
左側の一体は森の奥を見る
そして、突然低い声を出した
三体とも姿勢が変わる
武器を少し上げた
俺も緊張する
何か来たのか
《魔力感知》を使いそうになり、止めた
これ以上、攻撃魔法は見せない
少なくとも必要がない限りは使わない
俺は耳を澄ませる
森は静かだ
ルッカも周囲を見る
少しして、ルッカが囁いた
「いないと思う」
「じゃあ、今の仕草?」
「たぶん」
三体も実際の危険が来たと思ったらしい
それなら意味は通じたことになる
ただし、こちらが言いたかったのは「危険という意味」であって、「今、危険がいる」という意味ではない
「……難しい」
俺が頭を抱えたくなる
前の一体が何か発声する
俺は両手を下ろした
「いない」
首を振る
「今、いない」
森を指し、首を振る
それからさっきの爪の仕草をもう一度して、
「危険」
今度は少し離れた方向を指す
三体は見ている
通じたかどうかは分からない
少なくとも武器は少し下がった
俺は息を吐いた
これだけで疲れる
戦闘の方が簡単かもしれない
火弾なら、当てる相手が分かる
会話は、当たったのか外れたのかすら分からない
「来る」
今度はルッカが動いた
自分のところへ手招きする
「来る」
それから少し歩く
戻る
「来る」
俺を見る
「こう?」
「分かりやすい」
三体もルッカの動きを見ている
前の一体が少しだけ足を動かした
だが来ない
警戒している
それでいい
今ここへ来てほしいわけではない
ただ動作と言葉を結びつけたいだけだ
今度は俺が森の反対側へ数歩歩く
手を前へ振る
「行く」
戻る
「行く」
ルッカも同じようにする
「行く」
三体のうち左側の一体が、小さく何か発声した
そして後ろを指す
別の個体も同じ方向を見る
「行く?」
俺が指差された方向を見る
相手が「自分たちはそっちへ行く」と言っているのか
「あっち」という意味なのか
単に帰り道を気にしただけなのか
分からない
「待つ」
次は俺がその場にしゃがむ
動かない
両手を見える位置へ置く
「待つ」
立つ
またしゃがむ
「待つ」
前の一体が、少しだけ武器を下げた
そしてその場に腰を落とした
完全に座るわけではない
すぐ動ける姿勢だ
だが、明らかに先ほどとは違う
俺は目を見開いた
ルッカも見る
「同じ」
「うん」
俺はもう一度言う
「待つ」
前の一体が短く声を出した
それが「待つ」に対応した音なのかは分からない
それでも、動作は合った
言葉にならない会話
そんな表現が頭に浮かぶ
こちらが一つ動く
向こうも何かを返す
意味は半分も分からない
もしかしたら全然違う意味に取られているかもしれない
それでも、攻撃せずにやり取りが続いている
初めて会った時とは違う
あの時は、何もしないこと自体が精一杯だった
今は、何かを伝えようとしている
しばらくすると、三体の緊張が少しだけ緩んできた
武器は持ったまま
距離も変わらない
それでも、いつでも逃げられるような姿勢から、こちらの動きを見る姿勢へ変わっている
俺は第二水場の方向を見た
ここからなら遠くない
木々の向こう
直接水場は見えない
だが方向は示せる
水
さっき水には関心を示した
なら、第二水場の存在を伝えられるかもしれない
ただし、連れていくのはまだ早い
人間がいる可能性もある
三体がどう反応するか分からない
だから「今すぐ来い」ではない
来ても攻撃しない
そんな意味を伝えたい
問題は、それをどう身振りにするかだった
「無理じゃない?」
ルッカが俺の顔を見て言う
「まだ何も言ってない」
「顔」
「そんな顔してる?」
「してる」
俺は少し考え、容器をもう一度地面へ出した
「水」
三体が見る
水を指す
次に第二水場の方向を指す
「水」
もう一度同じ方向
「水」
前の一体がその方向を見る
左右の二体も見る
反応はある
少なくとも、水と方向が何か関係していることは気づいたかもしれない
俺は自分を指し、ルッカを指す
次に第二水場方向へ歩く仕草
「行く」
少し歩いて戻る
また三体を見る
「来る」
手招き
だが三体が一斉に身構えた
「違う違う」
思わず日本語が出る
手を振る
武器を持っていないことを見せる
「攻撃、しない」
人間語で言っても意味はない
俺は自分の両手を広げる
魔法を出さない
攻撃しない
それをどう見せる
初めて会った時にやったように両手を下げる
そして三体の武器を見てから、自分の両手を見せる
首を振る
「しない」
水場の方向を指す
「水」
自分を指す
首を振る
「攻撃、しない」
三体はじっと見ている
前の一体が低い声を出した
意味は分からない
俺はもう一度やる
水
方向
自分
両手を下げる
首を振る
三体
それを何度か繰り返す
「伝わってる?」
ルッカが聞く
「分からない」
前の一体が突然立ち上がった
武器を握る
俺も動きを止める
一体が第二水場方向を見る
それから俺を見る
短い声
水の容器を見る
もう一度、第二水場方向
俺の心臓が少し速くなる
「水、分かった?」
ルッカが囁く
「たぶん」
たぶん
また、たぶんだ
でも今回は少し手応えがある
前の一体が二体へ何か声をかける
三体の間で短いやり取り
こちらには何一つ分からない
しばらくして、一体が後ろへ下がった
次にもう一体
前の一体も動く
帰るらしい
俺は追わない
「来ない?」
ルッカが言う
「今日は、来ない」
三体は森の奥へ向かう
第二水場とは反対方向
やはり今ついてくる気はないらしい
それでいい
拒絶して攻撃してきたわけでもない
水場の方向を何度も確認していた
少なくとも、水場そのものには興味がある
それだけ分かれば十分だ
最後に前の一体が振り返った
三日前に見た個体と同じかどうかは分からない
ただ、振り返ってこちらを見た
俺は何もしない
手を振るべきか少し迷い、やめた
余計な意味に取られるかもしれない
三体は森へ消えた
その場に残った俺は、大きく息を吐いた
「疲れた」
「戦ってないのに?」
「戦う方が分かりやすい」
「それ、ダリオみたい」
「嫌な言い方するな」
ルッカが笑う
俺も少し笑った
だが、本当に疲れた
何を伝えたかったのか
どこまで伝わったのか
三体が何を返したのか
ほとんど分からない
それでも、分かったこともある
水には反応する
第二水場の方向を意識した
簡単な動作には似た動作を返した
相手の発声も、状況によって違う
状況に応じた発声である可能性はある
何かしら意味を持つのかもしれない
しかし、だからといって「ゴブリン語」という名前をつけて、言語体系があると決めるのは早すぎる
三体だけの合図かもしれない
単なる感情の声かもしれない
別の集団なら違うかもしれない
「覚えられるかな」
俺が言う
「何を?」
「三人の声」
ルッカは少し考えた
「何回も聞いたら」
「そうだな」
何回も
次があるなら
そのくらいゆっくりでいい
二人は第二水場へ戻る方向へ歩き始めた
途中で俺は、今日一度も攻撃魔法を使っていないことに気づいた
《魔力感知》も使わなかった
使おうとした場面はあった
危険がいると三体が誤解した時
でもルッカが周囲を確認し、実際には危険がないと判断した
それなら使う必要はなかった
三日前に、三体は俺の《火弾》を見ている
力を持っていることはもう十分知っている
今日は、攻撃魔法を使わない方が意味があった
「魔法、使わなかった」
人間語で言ってみる
ルッカが頷く
「うん」
「三人、怖い、だから、使わない」
「分かる」
短い
でも理由まで伝わった
俺は少し嬉しくなる
「今の人間語、良かった?」
「良かった」
「ほんと?」
「たぶん」
「そこは、たぶん要らんやろ」
意味は通じなかったらしく、ルッカが首を傾げた
第二水場が近づく
水の音が聞こえる
木々の向こうが開ける
すると、そこに人影があった
ミラだった
第二水場の外側で、何か小さな袋を整理している
俺たちに気づくと手を上げた
「遅かったね」
「三人、いた」
俺がすぐ答える
ミラの手が止まった
「ゴブリン?」
「うん」
「大丈夫だった?」
「戦わない」
少し考える
「話した」
ミラの眉が上がった
「話した?」
「話す……違う」
どう説明する
俺は両手を動かす
「水、見せる」
「うん」
「食べる、見せる」
「うん」
「来る、行く、待つ」
指で森の方を示す
「三人も、動く、声する」
言葉が足りない
伝えたいことは頭にあるのに、うまく文章にならない
それが余計に悔しかった
「伝えたい」
俺は言う
胸を指す
「俺、伝えたい」
それから頭を振る
「でも、伝わらない」
ミラは少しだけ黙った
そして笑った
馬鹿にするような笑いではない
「そっか」
俺にはその返事が少し物足りなかった
「どうする?」
「どうするって?」
「言葉、ない」
「言葉が違う相手にどう伝えるか?」
「うん」
ミラは森の方向を見る
「今日やった方法でいいんじゃない?」
「いい?」
「全部分かろうとしないで、水なら水、来るなら来る、一つずつ合わせていけばいいと思う」
少し難しい
俺が顔をしかめると、ミラは短くする
「一つずつ」
「一つずつ」
「同じ動き、同じ物、何回も」
「ああ」
それなら今日やったことと同じだ
水を見せる
相手の声を聞く
また水を見せる
来る動きをする
相手を見る
何度も繰り返す
少しずつ対応させていく
「でもね」
ミラが続けた
「セイジも同じだったよ」
「俺?」
「人間の言葉」
俺は一瞬黙る
そう言われれば、その通りだった
最初はほとんど分からなかった
単語
表情
指差し
物
周りの反応
何度も聞いて、少しずつ意味を合わせてきた
今でも長い説明になると分からなくなる
「俺も、人間、同じ?」
「かなり似てる」
俺は何とも言えない顔になる
「それ、もっと早く気づきたかった」
ミラが笑う
「じゃあ今から使えばいいよ」
「どうやって?」
「単語だけじゃなくて、つなぐ言葉を覚えたら?」
「つなぐ?」
ミラは少し考える
「セイジ、さっき言ったよね」
「何を?」
「三人、怖い、だから、魔法使わない」
「ああ」
「その『だから』」
俺は瞬きをする
「だから」
「そう」
ミラは指を一本立てた
「三人が怖がる」
もう一本
「魔法を使わない」
二本の指を近づける
「三人が怖がる、だから、魔法を使わない」
「だから」
「理由をつなぐ言葉」
理由
そこまで説明されて、俺にも意味が分かった
今までは、
怖い
魔法
使わない
それだけでも、状況が分かれば通じた
でも、
怖いから使わない
と言えれば、自分の考えまで伝えられる
「だから、便利」
俺が言う
「そう、それも使えてる」
「おお」
少し楽しくなってきた
ミラが次に言う
「でも」
「でも?」
「反対のことをつなぐ時」
「反対?」
「たとえば」
ミラは考える
「三人は怖い、でも、逃げなかった」
俺は今日の場面を思い出す
「三人、怖い」
「うん」
「でも、逃げない」
「そう」
「おお」
使える
かなり使える
「だから」と「でも」があるだけで、言えることが急に増えた気がする
「あとで」
ミラが言う
「あとで?」
「今じゃなくて、後でする時」
俺は第二水場を見る
「今、水見る」
「うん」
岩陰拠点の方向を指す
「あとで、帰る」
「そうそう」
「これ便利」
「言葉はだいたい便利だよ」
そこまで聞き取れた
俺は少し笑う
「もっと教えて」
ミラが少し驚いた
「珍しいね」
「なんで?」
「前は覚えるの大変そうだったから」
「今も大変」
それは変わらない
でも今日、三体のゴブリンへ何かを伝えようとして、伝わらない苦労をした
自分がミラたちに何かを伝える時も、同じようなことが起きているはずだ
言葉が少し増えれば、相手へ説明できることも増える
他のゴブリンと話すための言葉はまだない
でも人間との会話なら、今使える言葉を増やせる
「話したい、だから、覚える」
俺がゆっくり言う
ミラが頷いた
「ちゃんと理由になってる」
「俺、上手?」
「前よりね」
「前より」
そこは素直に受け取っておく
ルッカは二人のやり取りを聞きながら、水辺へ行って水を飲んでいた
戻ってくると、俺へ言う
「私も覚える?」
「人間語?」
「うん」
「覚えよう」
「セイジより上手になる」
「それは困る」
「なんで?」
「俺の立場がない」
意味は通じなかったが、ミラが笑った
三人で第二水場の外側へ座る
今日の出来事を、俺は知っている範囲の言葉でミラへ説明した
水を見せた
反応した
食べ物を見せた
食べ物は渡さなかった
危険を伝えようとして、今危険がいると誤解されたかもしれない
来る
行く
待つ
身振りを使った
第二水場の方向を教えた
攻撃しないと伝えたかった
でも、どこまで伝わったかは分からない
三体はついてこなかった
最後は森へ帰った
説明の途中で何度も言葉が詰まった
そのたびにミラが待つ
すぐ答えを言わない
俺が自分の言葉で続けるのを待ってくれた
「三人、水、気になる」
「うん」
「だから、ここ、教える」
「うん」
「でも、三人、来ない」
「今日はね」
「あとで、来る……かも」
俺はそこで止まる
「かも?」
ミラが笑う
「それも大事な言葉だね」
「かも」
断定しない言葉
最近の俺には特に必要かもしれない
分からないことが増えている
植物
三体のゴブリン
森
人間語
何でもすぐ答えを決めるより、
かもしれない
分からない
まだ
と言える方が正しい場面も多い
「三人、あとで来るかも」
もう一度言う
「そうだね」
「でも、来ないかも」
「そう」
「便利」
「使いすぎると何も決められなくなるけどね」
そこはほとんど分からなかったので、俺は聞かなかったことにした
少しして、ミラが二日前に作った栽培区画の方を見る
「そういえば、印も役に立つかもね」
「印?」
「棚の」
第二水場には、文字を使わなくても分かるように簡単な印をつけている
治療用品
器
道具
共有物
まだ種類は少ない
「三人が文字を読めなくても、同じ印と場所を覚えれば使えるかもしれない」
俺は棚を見る
それは考えていなかった
最初は自分自身が人間の文字を読めないから、文字だけに頼らない方法が必要だった
その結果、別の言葉を使う者にも使える可能性が出てきた
「水も、印?」
「必要ならね」
「食べ物は?」
「置くことになったらね」
「でも、まだ三人、ここ来ない」
「だから今すぐ増やさなくていいよ」
「ああ」
二日前と同じだ
先に全部作らない
必要になったら考える
三体が本当に第二水場へ来るかはまだ分からない
来なければ、今のままで問題ない
「来たら、考える」
「それでいいと思う」
夕方が近づいてきた
森の影が少しずつ長くなる
ミラはハルナへ戻る準備を始める
今日は俺とルッカもすぐ岩陰拠点へ帰るつもりだった
だがルッカが第二水場の外側へ向かった
「どうした?」
「見る」
何を見るのかと思ったが、ルッカは外縁の地面を確認している
俺もついていく
昼に三体へ示した方向だ
もちろん、今日すぐ来るとは思っていない
痕跡もない
「いない」
ルッカが言う
「うん」
少しだけ残念なような、安心したような気持ちになる
もし今すぐ来られても、ミラ以外の人間がいる時の対応まで決めていない
急がなくていい
今日はこちらから、水がある方向を示した
それだけ
次に三体がどうするかは三体が決める
俺は第二水場を振り返った
水
棚
道具
小さな栽培区画
休める場所
そこにある物の多くは、言葉が分からなくても使える
水は水だ
器は器
座れる場所は座れる場所
危ない使い方さえしなければ、名前を知らなくても役に立つ
「言葉なくても、使える」
俺が言う
ミラが隣で頷く
「そういう場所も必要かもね」
「でも、言葉ある方がいい」
「それもそう」
両方なのだろう
言葉が違っても使える場所
言葉が分かれば、もっと困らない場所
第二水場がどちらへ向かうのかは、まだ分からない
そもそも村でも町でもない
誰かを住ませようとして作った場所でもない
ただ、困った時に使える物が少しずつ増えた
人が来た
また来るようになった
今は、森の向こうにいる三体へ水の場所を教えた
それだけだ
「帰る?」
ルッカが聞く
俺は一度、森を見る
三体の姿はない
「うん、あとで……じゃない」
ルッカが首を傾げる
俺は笑った
覚えた言葉を無理に使おうとして失敗した
「今、帰る」
「うん」
ミラが吹き出す
「覚えた日に全部使おうとしなくていいから」
「練習」
「それならいいけど」
第二水場の外縁を離れる前に、俺は地面を一度だけ見た
足跡はない
明日もないかもしれない
次に三体と会うのが何日後になるのかも分からない
それでも、今日初めて何かを伝え合った
水
食べ物
危険
来る
行く
待つ
本当に同じ意味になっていたのかは分からない
それでも三体は逃げず、こちらも追わず、攻撃もしないまま時間を過ごした
それは会話と呼ぶには頼りない
言葉と呼ぶには曖昧すぎる
でも、何もなかったわけではない
俺は森へ背を向ける
「三人、怖い、でも、逃げなかった」
ゆっくり言う
ミラが頷く
「うん」
「俺、伝えたい、だから、またやる」
今度も頷く
「それならちゃんと伝わるよ」
俺は少し笑った
言葉にならなくても、伝えようとすることはできる
そして言葉が増えれば、伝えられることも少しずつ増える
今日分かったのは、それくらいだった




