境界から、ひとつの居場所へ
第48回 境界から、ひとつの居場所へ
翌朝、俺が目を覚ましたとき、第二水場にはもう人の気配があった
交易一行の何人かが起き、荷車の周囲で荷物を確かめている
昨日ローデンが直した車輪も外から見ただけでは問題なさそうだった
少し離れた場所では、エナが脚を負傷した男の状態を確認している
俺は寝床代わりにしていた場所から身体を起こし、横でまだ眠そうにしているルッカを見る
「朝やで」
「起きてる」
「目閉じてるやん」
「起きてる」
「それ寝てるやつの言い方や」
ルッカがゆっくり目を開けた
昨日までなら、朝になれば岩陰拠点から第二水場へ来るところだった
今日は逆だ
最初から第二水場にいる
そのことが少し不思議だった
「家帰りたい?」
俺が聞く
「うん」
「俺も」
第二水場がどれだけ便利になっても、岩陰拠点が自分たちの家であることは変わらない
ここはみんなで使う場所
あそこは帰る場所
その違いは、むしろ前よりはっきりしていた
「今日は帰ろな」
「うん」
立ち上がり、まず水辺へ向かう
《水球》を使う必要もないほど近くに水があるが、飲み水として扱う分はいつものように整える
朝の洗浄に使う温水も少しだけ作る
器へ水を入れ、弱い《火弾》を熱源にする
もう火力を確かめながら何度も止める必要はない
温度を見て、少し水を足す
「できた」
「早い」
「慣れたからな」
最初に温水を作ったときは、それだけで一つの実験だった
今では朝の支度の一部になっている
ルッカが布を浸し、顔を拭く
俺も自分の分を取る
少し離れた場所で交易一行の一人が、その様子を珍しそうに見ていた
「何見てるんやろ」
ミラが近くを通る
「魔法でお湯作ってるのが珍しいんじゃない?」
「こんなんでも?」
「攻撃に使う火と水を、毎朝こんな使い方する人は少ないかも」
「そうなん?」
「少なくとも私はあまり見ない」
俺は器を見る
「便利やのに」
「セイジは便利かどうかで魔法見るからね」
「そら便利な方がええやろ」
「普通はもう少し違うと思う」
「普通って難しいなぁ」
ミラは笑って交易一行の方へ戻っていった
朝食のあと、エナから脚を負傷した男について説明があった
「歩けるかもしれないけど、長く歩かせない方がいい」
「荷車乗せる?」
俺が聞く
「それが一番いいと思う」
ローデンも荷車を見る
「車輪は昨日より安定してる、荷を減らせば人一人くらいなら問題ないだろう」
「じゃあ今日は出られる?」
「急がせなければ」
ミラが交易一行へ伝える
相談の結果、昼前までに出発することになった
ハルナ側からも手伝いが来る予定になっている
第二水場から先は、昨日ほど危険な場所を通らない
それでも一人で歩かせることはしない
「これでほんまに救助終わりやな」
俺が言う
「まだ送り出してない」
ルッカが答える
「細かいな」
「昨日も終わったって言ってた」
「そうやったっけ」
「言ってた」
「じゃあ今日は完全終了や」
交易一行が出発するまでに、第二水場の整理を始める
昨日まで二日続けて人が多かった
使ったものも多い
まず道具小屋
「清潔な布、減ってる」
エナが言う
「結構使ったもんな」
「縄も」
ローデンが棚を見る
「細い方が少ない」
「救護用品も減った?」
「少し」
俺は一つずつ見る
使ったら戻す
それだけでは足りないものがある
布は汚れる
薬草は使えばなくなる
縄は切れば短くなる
容器は壊れることもある
「補充せなあかんな」
「誰が?」
ルッカが聞く
俺は止まった
「……誰やろ」
今までは、必要になった人が持ってきていた
エナが布や薬草
ローデンが道具
ダリオが使えそうな物を持ってくることもある
ミラが人間側から回せる物を相談することもある
決まった担当はいない
「足りんかったら、気づいた人が言う?」
エナが考える
「それが一番簡単かな」
「道具小屋に何が足らんか分かるようにしたいな」
俺は棚を見る
自分なら中身を覚えているつもりでも、毎回全員が同じ量を知っているわけではない
「印つける?」
ミラが言う
「何の?」
「減ったら分かるように、ここまであった方がいいって線とか」
「おお、それええやん」
紙へ細かく書くほどの管理は必要ない
棚や箱に目印をつけて、そこより減ったら補充を考える
その程度なら誰でも分かる
「これ正式な決まりにする?」
俺が聞く
ダリオが首を振った
「まず試せばいい」
「そやな」
大げさな制度を作る必要はない
不便なら変えればいい
俺は小さな木片を使い、布を置く場所と縄を置く場所へ簡単な目印をつけた
「これより減ったら補充候補」
「候補?」
「絶対やなくて、必要か確認する」
「いいと思う」
エナが頷く
薬草については状態が変わるため、同じ方法では管理しにくい
そこはエナが見たときに確認する
「全部同じやり方にせんでもええか」
「違うものだから」
「せやな」
次に、昨日まで使った救護用の布を分ける
洗えるもの
もう使わない方がいいもの
清潔なもの
混ぜない
《水球》で洗う水を用意し、《風圧》で乾かす
温水も少量使う
俺が魔法を使い、エナが扱いを確認する
ルッカが乾かす場所を見つける
いつの間にか、それぞれが何をするか言わなくても動けるようになっていた
「風こっち?」
「もう少し弱く」
「はい」
《風圧》を弱める
布が大きく揺れなくなる
「このくらい?」
「うん」
「前やったら全部飛ばしてたかもしれんな」
「飛ばした?」
ルッカが聞く
「例えや」
「飛ばしてない?」
「たぶん」
ルッカが少し疑っている
「そこ信用して」
笑いながら作業を続ける
その横では、ローデンが荷車の最後の確認をしていた
昨日応急修理した部分をもう一度締め直す
荷物の積み方も変える
重いものを片側へ寄せない
怪我人が座れる空間を作る
「これなら行ける」
ローデンが言う
交易一行の商人たちが何度も礼を言う
俺には全部分からないので、ミラが必要なところだけ訳す
「荷車まで戻ってくれたことも、荷物を回収できたことも助かったって」
「俺一人ちゃうからな」
「そう伝えてる」
「あとローデンおらんかったら荷車動いてへんし」
「それも」
「エナおらんかったら怪我も困ってた」
「全部言う?」
「言っといて」
ミラが少し笑いながら伝える
俺だけが助けたわけではない
ルッカが道を見た
ダリオが判断した
ミラが言葉をつないだ
エナが怪我を見た
ローデンが荷車と道を直した
俺はその中で、自分にできることをしただけだ
「一人やったら無理やったな」
自分で言う
ダリオが近くで聞いていた
「今さら気づいたか」
「前から分かってるって」
「ならいい」
「なんやその言い方」
ダリオは少し笑った
昼前
交易一行が出発する時間になった
脚を負傷した男は荷車へ乗せる
肩を傷めた男も重い荷物は持たない
昨日腕を負傷した護衛も同じだ
エナが最後にそれぞれの状態を確認する
「無理させないで」
ミラが伝える
一行側も頷く
「途中まで行く?」
俺がダリオへ聞く
「ハルナ側から迎えが来る」
「ここで待っててええ?」
「ああ」
少しすると、森縁の道から人影が見えた
ハルナ側から来た数人
俺が自由に村へ入れるわけではない
だから引き渡しは第二水場で行う
村人たちは俺を見ても、以前ほど大きな反応をしない
知っている者たちだった
交易一行から事情を聞き、荷車と怪我人を確認する
そして出発の準備が整った
一行の商人の一人が、俺の前へ来た
言葉を話す
ミラが訳す
「フェルナへ戻ったら、森の近くに人を助けるホブゴブリンがいるって話すかもしれないって」
「……それ大丈夫なん?」
「嫌なら言わないよう頼めるけど」
俺は少し考えた
知られる
その言葉に、昔ならもっと警戒したかもしれない
人間に存在を知られる
危険視される可能性もある
実際、フェルナ方面の全員が今回の一行のように受け入れるとは限らない
「どういう言い方するかやな」
「助けられたって話をするみたい」
「怪物がおる、みたいにはせん?」
ミラが相手へ確認する
商人が首を振った
「自分たちが実際に助けてもらったことを話すだけって」
「ほな、それならええよ」
誰かに英雄扱いしてほしいわけではない
逆に隠し続けたいわけでもない
起きたことを、そのまま話す
それなら構わなかった
「でも、俺が安全って保証はせんでええって言っといて」
「どういうこと?」
「知らん人がいきなり近づいてきても困るし、俺だけやなくて森そのものが危ないときあるやろ」
「なるほど」
「ハルナ近くに、人間と一緒に動いてるホブゴブリンがおる、それくらいでええ」
ミラが伝える
商人が理解したように頷く
それで話は終わった
握手の習慣があるのか分からず、俺は軽く手を上げる
商人も真似する
昨日、第二水場で護衛がしてくれたのと同じような動作だった
「ほな、気ぃつけて」
言葉は通じなくても、声をかける
交易一行はハルナ側の人々と一緒に歩き始めた
荷車が動く
昨日より音は安定している
ゆっくり
森縁の道を進む
俺たちはその場で見送った
荷車が見えなくなるまで
「行ったな」
「うん」
「今度会うことあるかな」
「フェルナ行ったら?」
ルッカが言う
「まだ行かれへんやろ」
「いつか」
「いつかな」
フェルナ
これまで名前だけに近かった場所が、少しずつ現実味を持ち始めている
そこから人が来た
物が来た
空間魔法を見た
そして今回は人を助けた
まだ町へ行ったことはない
それでも、森の外の世界との線が少し太くなった気がした
交易一行を見送ったあと、第二水場には久しぶりに静けさが戻った
「急に広く感じるな」
俺が言う
「昨日いっぱい人いた」
「二日続いたしな」
道具小屋
水場
試験栽培区画
休憩できる場所
昨日一昨日は、人で埋まっていた
今はいつもの六人だけ
「片づけよか」
俺が言う
救助で使ったものを整理する
荷車修理に使った木材の余り
縄
容器
布
道具
使えるものは道具小屋へ
壊れたものは分ける
濡れたものは乾かす
俺の小規模空間収納にも、小さな道具がいくつか入っていた
「全部出すで」
木片
短い縄
小型容器
清潔な布
残っていた救護用品
一つずつ取り出す
「結構入ってたな」
「最初木片だけだった」
ルッカが言う
「ほんまやな」
空間収納の練習を始めた頃は、一つの木片すら入らなかった
今は小物なら自然に出し入れできる
ただし、便利だからと何でも詰め込むことはしない
必要なものだけ
「これ道具小屋戻す?」
ルッカが短い縄を持つ
「共用のやつなら戻そ、俺が持っとく分は一本だけでええ」
「布は?」
「清潔なん一枚だけ持っときたい」
「救護?」
「うん、今回役立ったし」
小規模空間収納の中身も、少しずつ自分なりの形が見えてきた
紙
小さな縄
清潔な布
必要なら薬草や小型容器
その程度
大きな荷物を運ぶ魔法ではない
でも、それで十分便利だった
「容量増やす練習する?」
ルッカが聞く
「今日はせん」
「珍しい」
「LEVEL10なったからって何でも一気にやったら、また止められるやろ」
「うん」
「即答やな」
ルッカが笑う
俺も笑った
「そのうちな」
空間収納をもっと大きくすること
異なる属性の魔法を同時に使うこと
複数の《火弾》をさらに増やすこと
できるかもしれない
でも今ではない
今の身体になってからできるようになったことだけでも、十分多かった
片づけが終わったところで、ダリオとミラが地図を広げる
「これも整理する」
ミラが言う
最近の目撃情報
危険個体と遭遇した場所
街道での救助地点
フェルナ方面から聞いた場所
俺たちが調査した浅い森
そして他ゴブリンと出会った付近
すべてを一枚にまとめるのではなく、分かっている範囲だけ印をつける
「これ見ると、結構外まで来てるな」
俺が地図を見る
「危険個体?」
「ああ」
ダリオが指でいくつかの地点を示す
「以前から全くいなかった場所じゃない、ただ目撃や痕跡が重なってる」
「街道も入ったしな」
「そうだ」
「原因はまだ分からん」
「変わらない」
俺は頷く
何度確認しても答えは同じ
だからこそ、勝手な答えを作らない
森の奥の低い音
大型の魔物
水のある谷
危険個体の移動
他ゴブリン
どれも存在している
でも、まだ線で結ばない
「次はどうする?」
ミラが聞く
「しばらく生活圏の確認を増やす」
ダリオが答える
「奥へ原因を探しに行くより、第二水場と街道とハルナ側の安全を見る」
「俺もそれでええと思う」
俺は地図を見る
昔なら、謎があれば奥へ行きたくなっていたかもしれない
今も好奇心はある
水のある谷も気になる
低い音の正体も知りたい
大型魔物がどうなったのかも気になる
でも、今守る場所がある
守る人も増えた
「原因探すために、今ある場所危なくしたら意味ないもんな」
「ああ」
ダリオが頷く
地図の整理が終わると、エナが試験栽培区画へ向かった
「こっちも見る?」
「見る見る」
俺とルッカもついていく
最初の二つの芽は、まだ小さいながら残っている
さらに少し離れた場所に、もう一つ緑が出ていた
「三つ目?」
俺がしゃがむ
「たぶん」
エナが見る
「全部同じとは限らないけど、植えたところから出てるね」
「成功?」
「育ちきるまでは分からない」
「慎重やなぁ」
「枯れることもあるから」
「せやな」
成功と決めるのはまだ早い
それでも、少なくとも種を置いて何も起きなかったわけではない
土
水
光
場所
ほんの少し手を入れただけで、変化が出ている
「畑にする?」
ルッカが聞く
「まだ」
俺が答える
「増やすのは、これが育ってから」
「覚えた」
「水いっぱいやった失敗からな」
ルッカが頷く
「そこは忘れてくれてもええんやで」
土の状態を見る
今日は水を足す必要はない
そのままにする
「ほんま、何もせんのも作業なんやな」
俺は立ち上がる
魔法があると、何かしたくなる
水を出す
土を変える
風を送る
でも、必要ないなら何もしない方がいいこともある
その感覚も少しずつ身についてきた
午後になり、ローデンが第二水場の周囲を見て回る
「道具小屋は問題ない」
「屋根も?」
「ああ」
「増築いる?」
「今はいらん」
「救護用の場所とか作らん?」
「二日使っただけで建物増やすな」
「やっぱそう?」
「必要が続くなら考える」
「はい」
また止められた
でも、その判断にも納得できる
一度役立ったからといって、すぐ施設を増やす必要はない
第二水場は村ではない
宿でもない
治療所でもない
「小さいままでええんか」
「今はな」
ローデンが言う
「人が増えたら、そのとき考えればいい」
「そやな」
必要になったときに必要な分だけ
この場所は、ずっとそうやってできてきた
水場があった
休めるようにした
道を整えた
道具が増えたから小屋を作った
使えそうな土地があったから小さく育ててみた
怪我人が来たから救護用品の必要性が分かった
最初から完成した形を決めたわけではない
「なんか俺ららしいな」
「何が?」
「作り方」
ローデンは特に返事をせず、道具小屋の壁を確かめている
俺は笑った
少し休憩したあと、六人で簡単な食事を取る
交易一行がいなくなった分、昨日までより静かだ
水辺でルッカが果実を食べる
エナは試験栽培について考えている
ローデンはさっきから道具小屋の何かが気になるらしい
ダリオとミラは地図を横に置いて話している
俺はその光景を見る
「なんか、普通やな」
ミラが聞く
「何が?」
「昨日まであんな大変やったのに、今日は普通に飯食ってる」
「終わったからじゃない?」
「それもあるけど」
事件があった
人を助けた
戦った
LEVELも上がった
でも翌日になれば、また水を飲み、道具を片づけ、芽を見る
「こういうのがええな」
「平和?」
「うん」
ずっと何かが起きていてほしいわけではない
何もない日が戻ってくる
そのために戦うのだと思えば、昨日までのことにも意味がある
「強くなる理由って、結局これなんかもな」
俺は第二水場を見る
誰かと飯を食べる
水を飲む
くだらない話をする
夕方になれば家へ帰る
そんな普通の時間を守るため
「前も似たこと言ってた」
ルッカが言う
「言ってた?」
「うん」
「なら変わってへんな」
「少し変わった」
「何が?」
「人増えた」
俺は一瞬止まり、それから笑った
「せやな」
最初はルッカだけだった
それからエナ
ダリオ
ローデン
ミラ
ハルナの人たち
フェルナ方面の人間
そして、まだ名前も分からない他のゴブリン
全部が同じ仲間ではない
距離も違う
信用の深さも違う
それでも、俺の世界にいる存在は確実に増えていた
食事を終えたあと、ルッカが森側へ顔を向けた
「何かいる」
その声は緊張していない
俺も《魔力感知》を広げる
「どこ?」
「あっち」
反応がある
遠い
第二水場のすぐ近くではない
三つ
小さい
俺は立ち上がった
「……三つ」
ダリオもこちらを見る
「危険か?」
「近づいては来てへん」
ルッカが森の縁へ少し進む
俺もついていく
「見える?」
「少し」
木々の向こう
距離はある
姿が完全に見えるほどではない
けれど、小さな人影が三つ
一体が木の陰からこちらを見ている
俺は息を止めた
「この前のやつら?」
「分からない」
ルッカが答える
形は似ている
数も三体
でも同じ個体だと断定できるほど近くない
「ゴブリン?」
「たぶん」
その言葉だけで、胸が少し高鳴る
後ろからダリオたちも来る
「近づくな」
「分かってる」
俺はその場に立つ
前回と同じように追わない
こちらから距離を詰めない
魔法も使わない
向こうも動かない
すぐ逃げる様子はなかった
「前より長く見てるな」
俺が小声で言う
前回は見つめ合い、少しだけやり取りしたあと、向こうから離れていった
今日は距離がかなりある
それでも、こちらを見た瞬間に逃げてはいない
「覚えてるんかな」
「分からない」
「今日もそれやな」
「うん」
俺は笑った
分からない
でも、それでいい
少なくとも襲ってこない
こちらも襲わない
それだけで十分だった
「セイジって言う?」
ルッカが聞く
「この距離じゃ聞こえへんやろ」
「大きい声」
「森中に響かせたら別のやつまで来そうやからやめとく」
前回は名乗った
今回は名乗らない
何もしない
ただ存在を確認する
向こうもこちらを見る
俺の後ろには人間がいる
前回と同じだ
それでも、三つの影はしばらくその場に残った
一体が何か動く
手を上げたようにも見えた
「今なんかした?」
「分からない」
ルッカが目を細める
「手?」
「手やったよな?」
「たぶん」
俺も少しだけ手を上げた
大きく振らない
胸の高さまで
それだけ
向こうから反応はない
やがて一体が森の奥へ下がる
続いて二体目
最後の一体は少しだけ長く残った
そして同じように木々の向こうへ消えた
俺は《魔力感知》で反応を追う
遠ざかる
こちらへ回り込まない
そのまま消えていく
「行った」
「ああ」
ダリオが答える
「追わない」
「言われんでも追わんって」
「念のためだ」
「信用上がってへんなぁ」
それでも俺は笑っていた
初めて会ったときより、ほんの少しだけ違った
敵ではない
仲間でもない
でも、見つけた瞬間に互いが戦う関係ではない
「次もこうやったらええな」
「次は近づく?」
ルッカが聞く
「向こう次第やな」
自分から無理に近づかない
もし向こうが少し近づいてくれば、その距離で止まる
また名乗れるなら名乗る
言葉が分かるなら覚える
「急がんでええやろ」
「うん」
フェルナ方面の人間との関係もそうだった
ハルナ村ともそうだった
一度で何もかも変わるわけではない
他のゴブリンだけ特別に急ぐ必要はない
「同じやな」
俺が言う
「何が?」
「仲良くなるんも、信用されるんも」
人間でも
ゴブリンでも
たぶん同じだ
「積み重ねやな」
その言葉を聞いて、ミラが少し笑った
「セイジがそれ言うようになったんだ」
「俺そんな信用なかった?」
「最初はすぐ動くから」
「今も動くで」
「前より止まる」
「成長やな」
「たぶん」
「たぶんかい」
笑い声が水辺へ戻る
その後、他ゴブリンの姿がもう一度見えることはなかった
追跡もしない
痕跡を探しに行くこともしない
今日見えた位置だけ、ミラが地図へ小さく印をつけた
「これも原因とは結びつけへん」
俺が言う
「分かってる」
「確認しただけ」
「そう」
森の異変
危険個体
他ゴブリン
別々に記録する
必要になったときに比べればいい
夕方が近づく
そろそろ岩陰拠点へ帰る時間だった
その前に、俺は第二水場をゆっくり見回した
水場
休憩場所
道具小屋
試験栽培区画
整えた道
排水
救護用品
地図
人が集まれば座れる場所
まだ粗い
足りないものも多い
正式な建物は道具小屋くらい
誰かが常駐しているわけでもない
店もない
宿でもない
村ではない
それでも、最初に水を見つけた頃とはまるで違う
「小さい共同拠点、みたいになったな」
俺が言う
「共同拠点?」
ルッカが聞き慣れない言葉のように繰り返す
「みんなで使う場所ってこと」
「みんなの場所」
「そっちの方がええな」
難しい言葉はいらない
最初からそう呼んでいた
「みんなの場所、か」
水を飲む
休む
道具を使う
情報を持ち寄る
困った人が来れば助ける
必要なら一晩だけでも安全を確保する
そして用が済めば、それぞれの家へ帰る
「ここに住む?」
ルッカが聞く
「住まへんよ」
即答した
「家は岩陰」
「うん」
「ここはここ」
第二水場が便利になったからといって、岩陰拠点を捨てる理由にはならない
むしろ両方あることがいい
自分たちだけの家
みんなで使う場所
「帰ろか」
「うん」
エナたちはハルナ側へ戻る
ダリオとミラもそれぞれ帰る
ローデンは最後に道具小屋を確認してから出るらしい
「明日また来る?」
俺が聞く
「たぶんな」
「屋根?」
「別に壊れてない」
「じゃあ何見るん」
「来たら分かる」
「それ絶対何か考えてるやつやん」
ローデンは答えない
「まあええか」
俺とルッカは森の道へ入った
帰り道は静かだった
《魔力感知》にも危険な反応はない
今日一日、戦闘はなかった
LEVELも確認する必要がない気がしたが、途中でふと思い出す
「一応見る?」
「STATUS?」
「うん」
「十」
「分かってるけど」
表示を開く
NAME セイジ
RACE ホブゴブリンメイジ
LEVEL 10
HP E+
MP D+
筋力 E-
耐久 E+
敏捷 D-
器用 D
精神 D
魔力 D+
SKILL
《魔力感知》
《魔力制御》
TITLE
なし
変化なし
「LEVEL10のまま」
「進化?」
「なんも出てへん」
進化可能を示す新しい表示はない
「まあええか」
STATUSを閉じる
「気にならない?」
「気にはなる」
「調べる?」
「そのうちな」
今すぐ進化できないから困るわけではない
ホブゴブリンメイジの身体には慣れた
魔法も増えた
LEVEL10まで成長した
今できることはかなり多い
「今の身体でもまだできることあるやろ」
「空間、大きくする?」
「それも」
「火いっぱい?」
「それもそのうち」
「水と風一緒?」
「それは成功させたいな」
異属性同時制御
空間収納の拡張
《火弾》のさらに細かい撃ち分け
治癒の精度
土魔法の生活利用
試したいことはいくらでもある
「忙しいな」
ルッカが言う
「自分でやりたいこと増やしてるだけやからええねん」
「前よりいっぱい」
「せやな」
森で一人だった頃
食べ物
水
寝床
生きることだけで精いっぱいだった
今は違う
温水を作る
洗濯する
道を整える
植物を育ててみる
道具を管理する
空間収納を使う
人を助ける
外の人間と話す
他のゴブリンを見る
森の異変を調べる
全部、自分が生きるだけなら必要なかったことかもしれない
「でも今の方がええな」
「何が?」
「暮らし」
ルッカは少し考え
「うん」
と答えた
岩陰拠点が見えてくる
入口
進化後の身体に合わせて広げた場所
自分用の高い棚
ルッカ用の低い棚
調理場所
温水を作る場所
寝床
「ただいま」
俺が言う
「ただいま」
ルッカも続ける
数日ぶりではない
二晩離れていただけ
それでも、家へ戻ったという感覚が強かった
「やっぱここ落ち着くなぁ」
「狭い?」
「前より全然広い」
「足伸ばせる?」
「伸ばせる」
寝床へ座る
第二水場にはたくさんの人がいた
ここには二人だけ
その静けさも好きだった
「明日何する?」
ルッカが聞く
「第二水場行って、芽見る」
「また?」
「毎日見る」
「大きくならない」
「分かってる」
「他は?」
俺は少し考える
「道具小屋の補充考える、空間収納もちょっと練習したい、森も様子見たい」
「いっぱい」
「あと温水」
「それは毎日」
「せやな」
大きな目標ではない
世界を救う話でもない
明日することのほとんどは、暮らしの続きだ
それでいい
俺は棚から小さな木片を取った
空間収納の練習を始めた頃から使っていた木片
「これ、まだ持ってたん?」
「記念品みたいになってきた」
「しまう?」
「今日は棚でええ」
木片を元へ戻す
何でも空間収納へ入れる必要はない
「ほんま色々変わったな」
ルッカが隣へ座る
「セイジ?」
「俺もやけど、周り」
岩陰拠点
第二水場
人間との関係
森
全部少しずつ変わっている
でも一番大きく変わったのは、たぶん境目だった
人間とゴブリン
森と村
自分の家とみんなの場所
戦う魔法と暮らしの魔法
どれも、きっぱり二つに分かれているわけではなかった
「俺、どっちなんやろな」
「何が?」
「人間とゴブリン」
前世は人間
今はホブゴブリンメイジ
人間の言葉を覚え、人間と一緒に歩く
でも身体はゴブリンだ
今日、森の向こうから見ていたゴブリンたちには、どう見えただろう
「セイジはセイジ」
ルッカが言う
「それ便利な答えやな」
「違う?」
俺は少し考える
「違わんな」
笑う
人間か
ゴブリンか
今すぐどちらか一つへ決める必要はないのかもしれない
俺は俺
岩陰拠点へ帰り
第二水場へ通い
人間と一緒に笑い
他のゴブリンと戦わずに向かい合った
それで今は十分だった
「居場所、増えたな」
「ここ?」
「ここも」
岩陰拠点
「第二水場も」
みんなの場所
「ハルナは?」
「まだ自由に入れるわけちゃうけど、知ってる人おるしな」
「フェルナ?」
「まだ行ったことない」
「ゴブリン?」
「まだ知らん」
ルッカが指を折るように数えている
「いっぱい」
「全部同じちゃうけどな」
家
仲間
知り合い
まだ警戒し合う相手
これから行くかもしれない場所
全部距離が違う
でも、どこにも何もなかった頃とは違う
「最初、森で一人やったのにな」
「私いた」
「最初の最初や」
「じゃあ一人」
「今は?」
ルッカが少し考え
「いっぱい」
と答えた
「せやな」
それで十分だった
夜
夕食を終え
温水で身体を拭き
棚を少し片づける
俺は寝床へ横になった
明日になれば、また第二水場へ行く
芽を見る
足りない物を確かめる
森の様子を見る
もし誰かが来れば話す
困っていれば助ける
他のゴブリンを見かけても、無理に追わない
森の異変も、少しずつ確かめる
すぐに全部の答えを出す必要はない
「ルッカ」
「なに?」
「明日もよろしく」
「うん」
「なんや急にって言わへんの?」
「いつも一緒」
「そやな」
俺は目を閉じた
森と人間の世界の境界
そのどちらにも完全には属していないような場所で、自分たちは暮らしている
以前なら、それを中途半端だと思ったかもしれない
今は違う
境界だからこそ作れる場所がある
人間だけの場所でも
ゴブリンだけの場所でもない
誰かが水を飲み
荷物を置き
傷を休め
情報を持ち寄り
また自分の帰る場所へ向かう
第二水場は、そんな小さな場所になり始めていた
まだ村ではない
まだ名前のついた集落でもない
それでも確かに
ひとつの居場所だった
第四部 完




