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水のある谷1

第29回 水のある谷1


翌朝、岩陰拠点の棚から地図を取り出した


昨日、ハルナ村で新しく書き足した印が増えている


第二水場、人間側経路、危険地点、前に中型の捕食魔物と遭遇した場所、村人から聞いた深い場所にいる可能性がある獣を見たという場所


そして、そのずっと先には、まだほとんど何も書かれていない水のある谷の方向


昨日までは、そこを指でなぞるだけだった


今日は違う


行く


ただし一人ではない


気になったから行くのでもない


準備したし、相談した


誰と行くかも、戻る時間も決めている


危ないと思ったら引く


大型魔物がこちらへ来たら無理に近づかない


何か分からないものがいたら追わない


俺は地図を畳み直し、荷物へ入れた


「水」


隣でルッカが確認する


「ある」


「肉」


「ある」


「縄」


「ある」


「甘いの」


「それはない」


ルッカが残念そうな顔をした


昨日村でもらった干し果物は全部食べた


正確には、ほとんどルッカが食べた


「今日、村ちゃうからな」


「持ってきたらよかった」


「誰が?」


「エナ」


「エナを干し果物係にすんな」


ルッカは荷物をもう一度見る


水、保存食、縄、布、それからエナに教えてもらった最低限の応急処置用品


全部を完璧に揃えたわけではない


でも以前みたいに、何かあってから考えるよりはましだ


「これでええな」


「肉少ない」


「調査やからな、遠足ちゃうで」


「えんそく?」


「気にせんでええ」


岩陰拠点を出る前に、一度だけ中を見る


屋根、寝床、新しい棚、調理場所、魔法を試すために空けた小さな場所


いつもの家


帰ってくる場所


こういう日に見ると、なんとなくいつもより大事に見える


「帰ってこよな」


俺が言うと、ルッカが普通に頷いた


「帰る」


簡単な答えだ


それでいい


第二水場へ着くと、すでに三人が待っていた


ダリオ、エナ、ミラ


ローデンはいない


今日は第二水場側に残ることになっている


誰もいなくなるより、その方がいい


人が来るかもしれないし、何かあれば村側へ知らせる役も必要だ


「遅くない?」


ミラが言う


「遅くないやろ」


空を見る


まだ十分朝だ


「ルッカが肉の量でもめてた」


「セイジが少ない」


「調査にどんだけ持ってく気やねん」


エナが笑う


ダリオは笑わない


地図を出すよう手で示した


「先に確認する」


「はいよ」


長椅子の上へ地図を広げる


今日の目的地は、水のある谷そのもの


正確には、前に大型魔物が移動した方向を追い、谷の周辺まで行き、大型魔物がまだいるか、周囲に何があるか、危険な痕跡が増えていないか、そこまで確認する


「谷全部見るん?」


「見ない」


ダリオは即答した


「今日は入口と周辺だけだ」


「奥まで行かん」


「ああ」


「低い音の正体探しも?」


「しない」


「了解」


目的を増やさない


大事だ


谷を見に行ったついでに、音の正体も、奥の魔物も、大型魔物の傷も全部調べようとすると、たぶん帰れなくなる


「大型のやつ見つけたら?」


「距離を取る」


「怪我してても?」


ダリオが俺を見る


「近づかない」


「治癒は?」


「お前が届く距離まで行く必要があるだろ」


「……せやな」


前にも考えた


何とか治せないか


あれだけ傷ついている


こっちを積極的に襲ってきたわけでもない


放っておいたら死ぬかもしれない


そう思った


でも《治癒》を使うには近づかなければならない


相手は大型魔物


弱っていても俺よりはるかに大きい


痛みと恐怖で暴れるかもしれない


治してやりたいという気持ちだけで近づくのは危ない


「分かってる」


俺が言うと、エナも頷いた


エナも傷を気にしている


それでも近づこうとは言わない


それでいい


ミラが地図の余白を指す


「今日、見たもの、書く」


「よろしく」


「セイジも書く」


「俺の字よりミラの方が分かりやすいやん」


「セイジの地図」


「共同制作ということで」


ミラは笑った


出発する


先頭はルッカ、その後ろにダリオ、真ん中にミラとエナ、俺は後ろ寄り


完全に固定ではないが、だいたいそんな形だ


ルッカが道を見る


ダリオが危険を判断する


俺は《魔力感知》


エナは怪我や植物を見る


ミラは地図と情報をまとめる


誰か一人だけで全部やる形ではない


こういう並びも、もう自然になってきた


第二水場からしばらくは何度か通った範囲で、森の様子も見慣れている


前に魔物と戦った場所へ近づくと、少し緊張した


ルッカが地面を見る


「跡ある」


「前に逃げたやつ?」


「古い」


「方向は?」


ルッカが森の奥を指す


こちらへ戻ってきた形跡はないらしい


「追わへんで」


俺が言う


「誰も追うとは言ってない」


ダリオに返される


「確認や」


「お前自身に言ってるのか?」


「……半分くらい」


ミラが笑う


そこを過ぎると、俺たちが普段使う範囲から少しずつ外れていく


木の間隔が変わり、地面の傾きも少し増える


ルッカの歩く速度が落ちた


迷っているわけではない


見るものが増えたらしい


足跡、折れた枝、草、土


「ここ」


ルッカが立ち止まる


太い木の根元で、地面が大きく沈んでいる


俺の足跡とは比べ物にならない


「でかいやつ?」


「うん」


「前に見たやつの?」


ルッカはすぐには答えない


しゃがんで地面を見る


近くの木の皮、低い位置に擦れた跡、少し離れた土


「たぶん」


ダリオも確認する


「方向は」


ルッカが前を指す


谷方向


「やっぱりこっち来たんやな」


前に、俺たちが村側から離れるように誘導した大型魔物は、最後にこの方向へ進んだ


それ以来、どうなったか分からなかった


「血は?」


エナが聞く


ルッカと一緒に周囲を見る


少しして、エナが葉を指した


色が変わっている


乾いていて、新しくはない


「これ?」


俺が聞く


エナが頷く


前に見た大型魔物のものかどうか断定はできない


でも方向は合っているし、足跡もある


「まだ生きてるかな」


口から出た


誰も答えない


分からないからだ


俺も分かっている


「行こ」


ルッカが言う


さらに進む


途中で一度、俺は《魔力感知》へ意識を集中した


近くには大きな反応はない


小さなものがいくつかあり、弱く、遠ざかっている


俺たちを避けているのかもしれない


「今んとこ大丈夫」


ダリオへ伝える


「続けろ」


「了解」


歩きながら感じる


また歩いて、周囲へ意識を広げる


以前は《魔力感知》を長く使うと、それだけでかなり集中力を取られた


今も楽ではない


でも、使いながら歩くことはできる


前に三つの接近反応を分けられた


前にはルッカとの違いも確認した


今日はもう少し意識して、強いか弱いか、一つか複数か、動いているか止まっているか、そこまで見ようとする


完璧ではない


むしろ分からないものだらけだ


でも以前より少しだけ輪郭がある


「前、右」


俺が言う


全員が止まった


「何だ」


ダリオが聞く


「弱いのが……何個か」


目を閉じる


右前方にいくつか


ばらばらで、速くはないが動いている


「複数、弱い、動いてる」


「近づいてる?」


「いや……横に動いてる感じ」


ダリオがルッカを見る


ルッカは少し進み、茂みを見る


「小さいの」


「危ない?」


「たぶん違う」


「なら避ける」


少し左へ回る


わざわざ正体を確認しに行かない


それでいい


「今の分かりやすかったな」


俺が小さく言う


ミラが聞く


「何が?」


「前やったら、何かおる、くらいやった」


「今は?」


「弱いの複数、動いてる」


「成長?」


「たぶんな」


STATUSには変化がない


SKILL名も同じ


でも使い方は変わっている


《魔力感知》


文字は増えなくても、俺の方が少しずつ慣れている


森の中で見えないものを先に知れる


それだけでもかなり大きい


昼前になり、谷まではまだ少し距離があるらしい


ルッカが休めそうな場所を見つけた


大きな木の根元で、地面が比較的乾いていて、見通しも悪くない


ダリオが周囲を確認し、そこで昼を取ることになった


「やっと肉」


ルッカが座る


「朝からそれ待ってたん?」


「待ってた」


「調査の目的変わってない?」


保存食を出す


肉は少し硬い


あとは水


村でもらったものではない、いつもの食事だ


でも外でみんなと食べると少し違う


エナが別の食べ物を出す


ルッカがすぐ見る


「甘い?」


「違う」


「残念」


俺が笑う


「昨日で味覚変わったんちゃう?」


「肉も好き」


「安心したわ」


ミラが地図を広げ、食べながらここまで来た経路を書き足していく


「ここ、大型の足跡」


「せやな」


「ここ、弱い反応」


「そこは別に危険地点ちゃうで」


「情報」


「なるほど」


全部を危険として書くわけではない


何がいたか


いつ見たか


分かる範囲だけ


「ルッカ、ここの道は?」


ミラが聞く


「雨のあと滑る」


「書いとこ」


「そっち、崩れてる」


「それも」


地図が少しずつ埋まる


俺一人で描いていた頃とは全然違う


紙の上に、みんなが見たものが残っていく


「人間語、増えたな」


ミラが突然言う


「俺?」


「うん」


「ほんま?」


「前より話せる」


「そら毎回聞いてたら覚えるわ」


まだ分からない言葉は多い


村で話が速くなると全然ついていけないこともある


でもエナたちとの簡単な会話なら、ミラを挟まなくてもかなり分かる


「ルッカも」


ミラが言う


ルッカは肉を食べながら首を傾げる


「肉」


「それ最初から分かってるやろ」


みんなが笑う


緊張していた空気が少し緩む


谷へ向かう調査中で、危険な場所だという意識はある


でもずっと張りつめていたら疲れる


飯を食べるときくらい普通でいい


俺は水を飲みながら森を見る


この先に大型魔物がいるかもしれない


低い音の正体に近づいているかもしれない


考えるとまた少し緊張する


「セイジ」


ダリオが言う


「どうした」


「感知、休ませろ」


「え?」


「飯の間も使ってるだろ」


言われて気づく


無意識に周囲へ意識を広げていた


「分かるん?」


「顔が固い」


「また顔か」


「必要な時に集中できなくなるぞ」


正しい


「了解」


《魔力感知》を意識から外す


急に森が普通の森に戻る


鳥の声、葉の音、遠くの水音


「休むのも役目やな」


「そういうことだ」


食事を終えて少し休み、それから再出発する


午後に入ると、地面が少しずつ下がり始めた


水の音が聞こえる


第二水場とは違う


もっと大きい


流れる音


岩に当たる音


ルッカが速度を落とす


「谷、近い」


「分かる?」


「水」


「俺でも分かるわ」


でもルッカは水音だけを聞いているわけではない


足跡も増えている


大小さまざま


水を求めて動物が来るなら当然だ


だからこそ危険でもある


「ここから気ぃつけよ」


俺は《魔力感知》を強く意識する


最初に感じるのは弱い反応


一つ


二つ


もっと


水辺にいる小さな生き物かもしれない


散らばっている


そこからさらに奥


「……待って」


俺は足を止めた


ダリオもすぐ止まる


「何だ」


「前の右」


集中する


さっきまでの弱い反応とは違う


はっきり大きい


強い


一つ


「強いの一個」


空気が変わる


ルッカが地面を見る


「動いてるか?」


ダリオが聞く


「ちょい待って」


意識を重ねる


強い反応はほとんど位置が変わらない


完全に止まっているかどうかは分からない


でも移動している感じではない


その周りには、弱い反応が複数、少し離れて動いている


「強いの一つ、ほぼ動いてへん」


「他は」


「弱いの複数」


「方向」


「前の右側」


言い切ったあと、自分で少し驚いた


前なら、大きな反応がある、それだけだった


今は、強い、一つ、右前、ほぼ止まっている、周りに弱い反応が複数


そこまで分かる


「大型かもしれんな」


俺が言う


「決めるな」


ダリオ


「分かってる」


反応が強いから大型魔物とは限らない


別の何かかもしれない


だから確認する


ただし近づきすぎない


ルッカが先へ出る


地面を見ながら少し進む


俺たちは距離を空けてついていく


「ある」


ルッカが言う


大きな足跡


今日見つけたものと似ている


「同じ?」


「たぶん」


「新しい?」


ルッカが触る


エナも近くを見る


「新しい」


完全に今ついたばかりではない


でも今日までの古い跡ではないらしい


「反応と方向合ってる」


俺が言う


ダリオが頷く


「ここから静かに行く」


会話が減る


足音も抑える


水音が大きくなる


木々の向こうに明るい場所が見え始めた


谷


森が切れている


岩が見える


水が流れている


思ったより広い


深い谷というより、森の中で地面が落ち込み、水が通っている場所


左右は木と岩


水辺には石


少し開けた空間がある


俺たちはいきなり出ない


木の陰から見る


「どこ?」


エナが小さく聞く


俺は右を見る


《魔力感知》の反応は近い


でもまだ姿は見えない


ルッカが別の角度を指した


「向こう」


水の流れの先


岩の陰


大きな何か


最初は岩かと思った


動いた


ゆっくり


「おる」


胸が少し強く鳴る


前に見た大型魔物


間違いない


大きな体


以前よりさらに汚れている


毛なのか皮膚なのか、その表面には泥がついている


体を低くして、水辺の近くにいる


生きている


「生きてた」


小さく声が出る


嬉しいと言っていいのか分からない


でも死んでいなかった


それだけで少し安心した


「静かに」


ダリオが手を出す


俺たちは動かない


大型魔物は俺たちに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか分からない


頭を低くして、時々体を動かす


「脚」


エナが小さく言う


見る


後ろ脚


前にも引きずっていたところ


まだおかしい


立ち上がろうとすると、明らかに片側へ体重を乗せない


動きも遅い


「治ってへんな」


「傷も」


エナが目を細める


距離があるので細かくは見えない


でも完全に回復しているようには見えない


体の一部に、乾いた血のような色が残っている


「近づいたら見える?」


口から出て、すぐ自分で止める


ダリオを見るまでもない


「行かへん」


自分で言い直す


ダリオは何も言わない


たぶんそれで正解だからだ


《治癒》


使えたら少しでも楽になるかもしれない


でも、相手は俺を助けてくれと頼んでいるわけではない


俺が近づいたら敵だと思うかもしれない


前にもそうだった


傷ついた大型魔物へ善意で近づく


それは人間相手でも危ない


まして魔物だ


「エナ」


俺が小さく聞く


「遠くから見て、どう?」


エナはしばらく観察する


「悪い」


「やっぱり?」


「でも、近づけない」


「せやな」


エナも治したいとは思っているかもしれない


それでも勧めない


専門の人が無理だと言うなら、俺が勝手に行く理由はない


大型魔物が少し移動した


一歩


二歩


後ろ脚をかばう


以前より速くなっているようには見えない


むしろ弱っている


水を飲む


また止まる


「ここにずっとおるんかな」


ミラが地図へ目を落とす


ルッカは足跡を見る


「何回も歩いてる」


「この辺で?」


「うん」


完全に居着いたとまでは言えない


でも何度か水辺を動いている痕跡がある


「谷に水あるしな」


俺が言う


怪我をしている


遠くへ行けない


水がある


ならここにいる理由は分かる


「食べ物は?」


ミラが聞く


「分からん」


大型魔物が何を食べるのか、俺は知らない


ルッカも明確には答えない


「今はそれ以上見なくていい」


ダリオが言う


「位置、生存、負傷」


三つ


今日確認したかったものはかなり分かった


それだけでも十分だ


「もう戻る?」


俺が聞く


「周辺の痕跡だけ見る」


「大型には近づかん」


「ああ」


少し場所を変える


大型魔物から距離を取るように


風向きも気になる


俺たちの匂いが向こうへ流れたら、警戒されるかもしれない


「風」


ルッカが鼻を動かす


「向こう行ってる」


「俺らの匂い?」


「たぶん」


「まずい?」


ダリオが少し考える


「変えられるか」


俺を見る


「風圧?」


「ああ、強くするな」


「やってみる」


これは初めての使い方だ


敵を押すためではない


空気の流れを少し変える


《風圧》は名前の通り、風を押し出す魔法


いつもみたいに一方向へ強くぶつけるのではなく、弱く横へ、俺たちの近くの空気だけを流す


「《風圧》」


小さく


風が草を揺らす


ルッカが鼻を動かす


「変わった」


「ほんま?」


「少し」


完全に匂いを消せるわけではない


でも流れをずらすことはできるらしい


「便利やな」


俺が言う


ダリオは前を見る


「便利だからって何度もやるな」


「魔力?」


「それもある、音と動きが出る」


「ああ」


魔法を使えば風が動く


草が揺れる


大型魔物に気づかれる可能性もある


何でも魔法で解決ではない


必要な分だけ


一回でやめる


水は目の前にある


《水球》を使う必要もない


これも同じだ


使えるから使う、ではなく、必要だから使う


谷の反対側へ少し回り込む


大型魔物からはさらに距離が取れる


ルッカが地面を見ながら進んでいたが、途中で急に止まった


「何?」


俺が聞く


ルッカは返事をしない


しゃがむ


土


岩の間


草


見る


「大きい」


「さっきの?」


ルッカが首を振った


「違う」


ダリオがすぐ近づく


俺も見る


確かに大きな跡


でも大型魔物のものとは形が違うらしい


俺には、大きい足跡くらいしか分からない


「別?」


「うん」


ルッカは迷わず言った


「どれくらい古い?」


「分からない」


「最近?」


少し考える


「新しくない」


今いる大型魔物の跡よりは古い


でも完全に消えかけているほどでもない


「何の魔物?」


「知らない」


俺の背中が少し冷える


大型魔物が一体


それだけでも大きな問題だった


なのに谷の近くには、別の大型の何かが通った跡もある


「これ、深い方のやつ?」


俺が聞く


ルッカは首を傾げる


「見たことない」


分からない


だからこそ怖い


ダリオが周囲を見る


「追わない」


「はい」


今回はすぐ言える


「位置だけ記録する」


ミラが地図を出す


俺たちは場所を確認する


谷


大型魔物がいるところ


別の大型痕跡


それぞれ距離を取って記録する


「同じ時期?」


俺が聞く


「分からん」


ダリオ


「関係ある?」


「分からん」


「低い音と?」


「分からん」


「全部分からんな」


「だから調べてる」


「はい」


当然だった


でも、分からないものが増えている


大型魔物


傷


浅い場所への移動


昨日村で聞いた目撃


今日見つけた別種の大型痕跡


そして低い音


俺は森の奥を見る


谷の向こう


木々が続く


そのさらに先


見えない場所


前にも聞いた、低く腹に響くような音


正体不明


大型魔物が明らかに怖がった音


「今日は聞こえへんな」


言った直後だった


森の奥から音がした


低い


遠い


声なのか


何かが動いた音なのか


分からない


ただ、空気の奥を揺らすような、腹に響くような、聞き覚えのある音


全員が止まった


「……これ」


俺が言う


誰も答えない


必要ない


同じだ


以前聞いたものと、少なくとも俺には同じように聞こえる


大型魔物を見る


さっきまで水辺で低く体を休めていた大型魔物が頭を上げた


全身が固まる


明らかだ


ゆっくりではない


一瞬で反応した


森の奥を見る


俺たちの方ではない


音がした方


体を起こす


傷ついた後ろ脚へ無理に力を入れる


少しよろける


それでも立つ


「警戒してる」


ミラが小さく言う


「警戒っていうか」


俺には、もっと強く見える


怖がっている


前と同じだ


俺たちを見たときより、ずっと強い反応


大型魔物が低い声を出した


威嚇なのか


不安なのか


分からない


一歩、音と反対方向へ動く


また止まる


森の奥を見る


「これが原因なんかな」


俺は小さく言った


ダリオがすぐ答える


「まだだ」


「でも、あいつめっちゃ反応してるで」


「反応してることしか分からない」


「……せやな」


低い音を怖がる


それは分かる


低い音が原因で深い場所から浅い方へ来た


そこまでは分からない


大型魔物が元々どこにいたのか


いつこの音を聞いたのか


他の魔物も同じなのか


何も分からない


だから、


「低い音に明確に警戒、っと」


俺が言う


ミラが地図の横へ記録する


原因とは書かない


反応した


それだけ


音は一度だけだった


二度目はない


大型魔物はしばらく森の奥を警戒していたが、やがて完全には落ち着かないまま少し位置を変えた


俺たちへは近づいてこない


むしろ距離を取る


「気づかれた?」


俺が聞く


ルッカが大型魔物を見る


「たぶん」


「こっち来る?」


「来ない」


「ならええか」


ダリオは少し待つ


大型魔物がこちらへ進まないことを確認して、


「戻る」


と決めた


「もう?」


「十分だ」


今日分かったこと


大型魔物は生きている


谷周辺にいる


負傷は続いている


低い音へ明確に警戒する


別の大型痕跡がある


それ以上を欲張る必要はない


「了解」


俺も素直に頷く


エナが大型魔物をもう一度見る


少しだけ心配そうだ


「治せない?」


ミラがエナへ聞く


エナは首を振る


「近づけない」


俺も同じだ


「いつかできたらええけどな」


誰に言ったわけでもない


大型魔物を助ける


そんなことが必要なのかも分からない


自然の中で傷ついたものを、俺が全部治すなんてできない


それでも、目の前に傷ついているものがいて、治癒が使えると何かできないかと思う


でも今は近づかない


その判断を守る


谷から離れる前に、俺はもう一度《魔力感知》を使う


強い反応一つ


右後方


大型魔物


ほぼ動いていない


弱い反応複数


周囲で動いている


さらにもっと奥


何かあるか


意識を伸ばそうとする


「やめろ」


ダリオに止められた


「まだ何もしてへんで」


「顔がやる顔だ」


「そんな分かりやすい?」


「奥まで感知しようとしてただろ」


当たっている


「ちょっとだけ」


「今日は終わりだ」


「はい」


俺は感知を戻す


確かに、距離を伸ばせるか試したくなっていた


低い音がした方向


何か感じられないか


でも、それは今日の目的じゃない


強くなった


感知も前より使える


だからこそ、どこまで使わないかも大事なのかもしれない


「帰ろ」


ルッカが言う


「せやな」


谷を背にする


完全に安心できる場所ではない


でも地図の上では、もう何もない空白ではなくなった


水がある


大型魔物がいる


別の大型痕跡がある


低い音に大型魔物が反応した


今日分かったことがある


原因は分からない


それでいい


帰路へ入る


来た道をそのまま完全に戻るわけではない


ルッカが足元を見ながら、少し歩きやすい経路を選ぶ


俺は《魔力感知》を続ける


ただし無理に広げない


近い範囲


前


左右


必要な分だけ


「後ろの強いの、離れてく」


俺が言う


「大型?」


ミラが聞く


「たぶん」


「たぶん?」


「反応だけじゃ何かは分からんからな」


前にルッカと確認したことが役に立つ


魔力感知で大型魔物だと断定しない


位置が一致しているから、おそらくそう


それくらいにしておく


「セイジ、賢くなった」


ルッカが言う


「前から賢いわ」


「木持てなかった」


「それ筋力の話や」


エナが笑う


緊張していた空気が少し戻る


俺も笑った


昼に休んだ場所まではまだ距離がある


太陽の位置を見る


時間は予定より少し早いくらい


調査を欲張らなかった分、余裕がある


「ええ感じやな」


「何が?」


ミラが聞く


「時間、余ってる」


「早く帰れる」


「そうそう」


危険な場所で予定ぎりぎりまで動くより、余裕を持って帰る方がいい


今のところ今日の調査はかなり順調だ


戦闘もない


怪我もない


大型魔物にも近づかなかった


低い音も一度聞いただけ


欲しい情報も取れた


こういうのでいい


毎回何かと戦う必要なんてない


「帰ったら地図まとめよ」


「うん」


ミラが頷く


「ローデンにも話す」


「村にも?」


「ダリオがするやろ」


「俺か」


ダリオが少し嫌そうな顔をした


「危険判断担当やん」


「お前も来い」


「俺?」


「見た本人だ」


「村入るん?」


「今日は入らん、第二水場で話せばいい」


「それなら」


昨日村へ初めて入ったばかり


今日また自由に行くわけではない


その線引きも変わらない


少し進んだところで、ルッカが足を止めた


さっきまでのように地面を見る


「どうした?」


俺が聞く


返事がない


前方


道の少し先


草が倒れている


「何かおる?」


《魔力感知》へ意識を向ける


今の範囲では、はっきりした強い反応はない


弱い反応が少し先に一つ


いや、遠い


「俺は分からん」


ルッカが地面を確認する


「跡」


「何の?」


「分からない」


ダリオが近づく


「新しいか」


「うん」


空気が少し変わる


帰り道


谷からは離れている


でも、ここも普段の範囲より奥だ


「別の道行ける?」


俺が聞く


ルッカが周りを見る


左


右


後ろ


少し考える


「行ける」


「ほな避けよ」


ダリオも頷く


戦わない


今日の目的は終わっている


危険の可能性があるなら回る


ルッカが左側へ進む


俺たちもついていく


しばらく歩けば、元の帰路へ戻れるらしい


「今日は平和に帰りたいな」


俺が小さく言う


「言うな」


ダリオがすぐ返す


「なんで?」


「そういうことを言うと何か起きる」


「ダリオ、そういうの気にするタイプなん?」


「お前が言うと起きそうだ」


「ひどない?」


ルッカが笑う


俺も笑う


ただ、少し先の森を見ながら《魔力感知》だけは止めない


谷で見たものが頭に残っている


傷ついた大型魔物


低い音への反応


別種の大きな足跡


深い場所にいるはずのものが、少しずつ浅い方へ出てきている話


まだ何もつながっていない


でも、何かが変わっている可能性は前より高くなった気がする


断定はしない


ただ記録する


見たものだけ


分かったものだけ


俺たちは帰る


今日分かったことを、ちゃんと持って帰るために

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