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はじめて村へ

第28回 はじめて村へ


朝から、なんとなく落ち着かなかった


別に戦いに行くわけではない


危険な森の奥へ向かうわけでもない


水のある谷を調べに行くわけでもない


昨日の最後にローデンから聞いた話


ハルナ村の側から、俺とルッカに来てほしい


ただそれだけだ


それだけなのに、前に三体の魔物と戦う前より妙に緊張している気がする


「セイジ、食べないの?」


向かいで肉を食べているルッカに言われ、手元を見る


保存食を持ったまま、ほとんど減っていなかった


「食べてるで」


「食べてない」


「今から食べる」


一口かじる


いつもの味だ


昨日と何も変わらない


岩陰拠点も同じ


新しく増えた棚があって、物が少し整理されていることくらいだ


なのに今日は、このあと初めてハルナ村へ行くかもしれない


「ルッカは平気なん?」


「何が?」


「村や」


「村」


肉を噛みながら首を傾げる


「怖ない?」


ルッカは少し考えた


「エナいる?」


「たぶん」


「ダリオも?」


「昨日の話やったらな」


「じゃあ大丈夫」


簡単やなあ


でも、それが正しいのかもしれない


知らない人間が大勢いる場所


そう考えると怖い


でも、エナがいる


ダリオがいる


ローデンもいるはずだ


ミラも来るかもしれない


俺たちが知っている人間は、もう一人や二人ではない


「俺の方がビビってるみたいやん」


「セイジ、怖い?」


「怖いっていうか……緊張やな」


「同じ?」


「ちょっと違う」


俺自身もうまく説明できない


この世界で最初に人間を見たとき、俺は逃げた


人間だった記憶があるのに


むしろ人間だったからこそ、今の自分が人間じゃないと分かっていたから逃げた


見つかったら殺されるかもしれない


ゴブリンだから


それだけで敵だと思われるかもしれない


実際、そうなってもおかしくないと思っていた


それからずいぶん経った


エナと出会って、ダリオと話して、ローデンに家を直してもらって、ミラに言葉を教えてもらって、第二水場を一緒に使うようになった


少し前には村人が来る道を守るために戦った


そして今日は、人間の村に自分から入ろうとしている


「ほんま、分からんもんやな」


「何が?」


「こっちの話」


「また?」


「またや」


食事を終えて、持っていく物を確認する


水、少しの保存食、縄、地図


今日は森を長く歩くわけではないと思うが、いつもの最低限は持っていく


応急処置用の物は、まだエナと相談できていない


それも今日聞けるかもしれない


紙の地図は丁寧に畳み、濡れないようにして持つ


第二水場


森の入口へ続く経路


危険だと分かっている地点


俺たちが歩いて確認した場所


全部ではないが、以前よりかなり情報が増えている


昨日ローデンが言っていた用事も、この地図が関係するはずだ


「準備できた?」


ルッカが聞く


「できた」


「肉は?」


「持った」


「何枚?」


「確認するとこそこなん?」


岩陰拠点を出る


天気はいい


雨のあとの湿気はまだ残っているが、森の中にも光が差している


LEVEL7になって敏捷がEになり、歩くときの体の軽さも少し分かるようになった


でも今日は、何かを試す気にはならない


むしろ歩く速度が微妙に遅い


「セイジ遅い」


前を歩いていたルッカが振り返った


「分かってる」


「七なのに」


「LEVEL関係ないねん」


「速くなった」


「体はな、気持ちが遅い」


「気持ち?」


「今日は難しい話やから気にせんでええ」


第二水場へ着くと、すでに何人かいた


エナ、ダリオ、ミラ、それから前にここへ来ていた村人の一人


少し離れたところにはローデンもいる


俺とルッカを見ると、エナが手を上げた


「おはよう」


「おはようさん」


言葉は以前より分かる


俺自身が覚えたものも増えたし、向こうも俺が理解しやすいように話してくれることがある


それでも込み入った話になると、ミラがいてくれると助かる


「来たね」


ミラが笑う


「来たで、めっちゃ緊張しながら」


「緊張?」


「村」


そう言って指差すと、意味が通じたらしい


ミラが少し笑った


「大丈夫、今日は一緒」


「それ聞いて来た」


ダリオが近づいてくる


「昨日ローデンから聞いたな」


「村に来てほしいって」


「ああ、ただし条件がある」


「やっぱりあるんやな」


むしろ、その方が安心した


いきなり今日から自由に入っていいと言われた方が怖い


昨日まで一度も村へ入っていないゴブリン二人が、急に好きなときに歩き回れるようになるわけがない


ダリオが指を折りながら説明する


「今日は昼の間だけ」


「うん」


「俺とエナが一緒にいる」


「うん」


「村の中でも、用事がある場所だけだ」


「勝手に歩き回らん」


「そうだ」


「分かった」


ルッカも頷く


「走らない?」


エナが言う


「走らん方がええ?」


俺が聞くと、ミラが少し言葉を補う


どうやら、急に村の中を走り回ると驚く人もいるからということらしい


「そらそうやな」


ゴブリンが突然全力疾走してきたら、俺が村人でも身構えるかもしれない


「魔法も使わん方がええよな」


俺から言うと、ダリオが頷く


「必要がなければな」


「今日は必要ないやろ」


「その予定だ」


よし


今日は火弾を見せない


風も出さない


水も土も使わない


治癒も怪我人が出なければ使わない


別に隠すわけではない


俺が魔法を使えることは、知っている人は知っている


でも村の中で急に火を出したら、そら怖い


「それと」


ダリオが続ける


「今日入ったからといって、次から勝手に入っていいわけじゃない」


「そこも分かってる」


「用事があるとき、その都度だ」


「了解」


自由入村ではない


正式な用事があるときだけ


しかも人間側の誰かと一緒に


今はそれくらいがちょうどいい


「で、今日何するん?」


俺が地図を軽く叩く


「これやろ?」


ミラが頷いた


「第二水場、道、危ない場所」


「やっぱり」


第二水場を使う人が増えた


でも村人全員が森を知っているわけではない


俺とルッカが歩いてきた経路


ダリオたちと安全確認した道


三体の魔物が出た辺り


その辺を、村側でも一度まとめて共有したいらしい


特に最近は、普段ならもっと森の奥にいるはずの魔物が浅い方で見つかっている


その話もある


「なら行こか」


口では軽く言ったが、いざダリオが村方向へ歩き始めると、足が少し重くなった


第二水場から人間側へ続く経路


今まで何度か途中までは来ている


人間の気配が濃くなるところ


畑らしい開けた場所が遠くに見えるところ


家の屋根が木々の向こうへ見えるところ


その辺りまで来ると、いつもなら引き返していた


今日は引き返さない


ルッカが俺の横を歩く


前にはダリオとエナ


後ろにはミラ


ローデンも少し離れて一緒に来ている


囲まれている感じではない


守ってもらっているという方が近い


木々が少なくなる


空が広くなる


森の匂いに、別の匂いが混じる


煙、食べ物、土、家畜


人の生活の匂い


見える家の数が増える


木や土を使った建物


囲い


置かれた道具


乾かしているもの


積まれた薪


森の中では見ない、人間が暮らすために整えられた景色


「……村や」


思わず言う


「村」


ルッカがそのまま返す


当たり前だ


何度も名前は聞いていた


ハルナ村


でも名前だけ知っている場所と、実際に足を踏み入れる場所は全然違う


俺は一度立ち止まりそうになった


人がいる


数人


遠くにも


近くにも


こっちを見ている


俺が見れば、向こうも見る


そりゃそうや


ゴブリンが二人歩いてきた


しかもダリオとエナと一緒に


見ない方がおかしい


最初に反応したのは、道具を持って歩いていた男だった


俺たちを見る


一瞬止まる


ダリオを見る


それから、


「よう」


と短く言った


俺は少し遅れて手を上げる


「……よう」


普通に挨拶された


それだけ


でも、妙に嬉しい


少し先では別の人が作業の手を止めている


こっちを見たまま動かない


さらに向こうでは、家の前にいた女の人が近くにいた小さな子供の肩へ手を置いた


子供は俺たちを見ている


大人が何か言うと、その子は家の中へ入った


胸の奥が少しだけ冷える


でも、当然やと思う


俺たちを知らない


ゴブリンがどんな存在だと思われているのか、全部は知らない


自分の子供の近くへ見知らぬ魔物が来たら警戒する


それを責める気にはなれない


「セイジ」


ミラが小さく呼ぶ


「大丈夫」


「うん」


たぶん顔に出ていた


「全員、同じじゃない」


ミラがゆっくり言う


俺にも分かる言葉を選んでいる


「知ってる」


本当にそうだ


普通に挨拶する人もいる


遠くから見るだけの人もいる


近づかない人もいる


怖がる人もいる


それでいい


全員から歓迎されるなんて、むしろ不自然だ


少し進んだところで、今度は別の男がルッカを見た


「ああ」


何か思い出したような顔をする


短く言葉を交わす


俺には全部聞き取れなかった


ミラが教えてくれる


「前、ヤギ」


「ヤギ?」


「探したとき」


「ああ!」


以前の家畜探し


俺たちが手伝ったやつだ


男はルッカを見る


「森、見つけた」


ミラが簡単に訳す


どうやらルッカが追った痕跡のことを聞いているらしい


ルッカは少し胸を張った


「見つけた」


男が笑った


それから俺にも軽く頭を下げる


俺も返す


知っていることが一つあるだけで、反応が変わる


あのとき俺たちは村へ入らなかった


でも、やったことは村の中に届いていたらしい


「なんか変な感じやな」


「何が?」


エナが振り返る


「俺ら、ここ来たことないのに、知ってる人おる」


ミラが意味を伝えると、エナが笑った


「セイジたち、いろいろした」


「そうやな」


第二水場


ヤギ


森の道


怪我


魔物


気づけば、人間側と関わった出来事はかなり増えている


村へ入ったことがなかっただけだ


案内されたのは、村の中でも入口からそれほど遠くない場所だった


広く歩き回る必要はない


何人かが集まれる場所で、すでにローデンが準備していたらしい板のようなものが置かれている


椅子代わりになる木もある


俺たちが到着すると、数人の村人が待っていた


知らない顔が多い


緊張が戻る


ダリオが何か説明する


俺とルッカ


第二水場


森


地図


聞き取れる単語がある


全員が俺たちへ話しかけるわけではない


でも追い出されるわけでもない


それだけで十分だ


「地図」


ミラに言われ、俺は持ってきた紙を出す


広げる


何度見ても、最初に俺が描いた部分よりミラが整えたところの方が分かりやすい


「ここ」


第二水場を指す


「水」


村人たちが覗き込む


俺は次に、人間側から来る道を指す


「こっち、村」


「うん」


ミラが隣で補う


安全確認したところ


危ない場所


前に大型の痕跡を見つけた辺り


三体の中型捕食魔物と遭遇した場所


俺が言葉につまるとミラが代わりに説明する


ルッカにも聞く


「前に戦ったやつ、ここらへんやったよな?」


ルッカが地図を見る


少し考えて、俺の指より少し横を指した


「こっち」


「そっちか」


俺が修正する


こういうところはルッカの方が正確だ


「三匹」


ルッカが言う


ミラが村人へ説明する


数人の顔が真剣になる


一人が何か質問した


俺には速くて分からない


ミラがこちらを見る


「いつも、そこにいる?」


「いや」


俺は首を振る


「ルッカ、あの魔物って普段あそこらへんおるん?」


「もっと奥」


「やんな」


ミラへ伝える


「もっと奥におるやつ、らしい」


ミラが村人たちへ説明する


今度は別の人が何か言った


それを聞いて、ダリオが眉を寄せた


「何?」


俺が聞く


ミラが少し考えながら訳す


「最近、別の獣、見た」


「どこで?」


地図を見る


村人が指を出す


俺たちが三体の魔物と戦った場所とは違う


第二水場からも少し離れている


ただ、森のかなり浅い側だ


「何の獣?」


ルッカも地図を覗く


説明を聞く


俺には名前が分からない


ルッカもすぐには反応しない


村人は手で大きさを示したり、何か特徴を説明したりする


ルッカが首を傾げた


「見てないから分からない」


「そらそうやな」


ミラがさらに話を聞く


どうやら、その村人もはっきり確認したわけではない


少し離れたところで見ただけ


しかも一度だけ


「深い方にいるやつかもしれない」


ダリオが言う


「前に戦ったやつとは別?」


「ああ、話が合っていれば別だ」


「また浅いとこ?」


「一件だけだ」


すぐ釘を刺された


「まだ決めつけるなよ」


「分かってる」


大型魔物


前に戦った中型捕食魔物


今の話


全部同じ原因とは限らない


たまたまかもしれない


時期による移動かもしれない


俺たちが今まで気づかなかっただけかもしれない


ただ、深い場所にいるはずのものが浅い場所で見つかる話が、少しずつ増えている


「水のある谷」


俺が呟く


ダリオが地図を見る


前に大型魔物が向かった方向


まだ詳しく確認していない場所


「行くん?」


ルッカが聞く


「今日ちゃうで」


俺は即答した


そこはもう学習した


「確認は必要になる」


ダリオが言う


「ただし準備してからだ」


「俺もそのつもり」


「本当か?」


「なんで疑うねん」


「前歴がある」


「行ってへんやん」


エナが笑う


少し空気が軽くなる


地図の話は続いた


第二水場へ行く経路を全部安全と決めつけないこと


三体の魔物が出た辺りは特に注意すること


一人で奥へ入りすぎないこと


村側から水場へ向かうときも、できれば複数で動くこと


俺たちが決めるわけではない


村側の人間が話し合い、ダリオが危険について意見を出し、ルッカが道を補足し、俺が地図を指す


ミラが言葉をつなぎ、ローデンは水場の設備について話している


役割が分かれている


俺一人が説明する必要はない


昨日思ったことと同じだ


できることをする


分からないことは頼る


話題は第二水場に置く物へ移った


俺が前から気にしていたことだ


「水はある」


俺が言う


第二水場だから当然だ


ただし持ち運ぶ容器は必要


保存食、縄、怪我をしたときに使うもの


俺たちだけでなく、村側から利用する人も増えるなら、何を準備しておくべきか


「食べ物ずっと置いとくんは危ないと思う」


俺が言う


ルッカも頷く


「動物来る」


エナも同意する


食べ物は必要なときに持参する方が良い


水も、その場で飲めるだけでなく移動用の容器が必要


縄は一本くらいあれば便利だが、誰かが持って帰ればなくなる


応急処置について話すと、俺はエナを見る


「そういや聞こうと思ってたんや」


「何?」


「怪我したときに持っとくもん、何がええ?」


エナが少し考える


薬草だけではないらしい


清潔な布


傷を洗うための水


止血や固定に使えるもの


俺に分かる言葉と、分からない言葉が混ざる


ミラが間に入る


「全部置く?」


俺が聞くと、エナは首を振った


湿気、汚れ、管理


そういう問題があるようだ


「ほな、持ってくる用にまとめる?」


ミラが意味を伝える


エナが頷く


必要なものをひとまとめにして、第二水場へ行く人間が持つ


俺たちも同じ


それなら食べ物の匂いで動物を呼ぶ心配も減る


置きっぱなしで使えなくなることもない


「それええな」


少し前から考えていたことが、少し形になってきた


最低限の物を決める


全部を第二水場へ置くのではなく、行く人が持つ


使ったら補充する


細かなやり方まではまだ決まらない


でも方向は見えた


話がひと段落すると、緊張していた肩が少し下がった


俺は改めて周囲を見る


村の中


今まで地図の向こう側だった場所


話し合いをしている場所の近くには、生活の道具が置かれている


木を加工したもの、紐、籠、容器


森で拾ったものをそのまま使う俺たちとは、やっぱり違う


壊れたら直しやすいように作られていたり、持ち運びやすい形になっていたり、長く暮らしてきた工夫が見える


家もそうだ


岩陰拠点とは違う


壁がある


屋根がある


入口がある


当たり前のことなのに、妙に見てしまう


「何見てる?」


ローデンが聞く


「家」


「家?」


「ちゃんと家やなと思って」


「お前のところも家だろ」


「そうやけど、俺らのは岩陰やん」


「屋根も棚も寝床もある」


「それローデンが作った部分多いやろ」


「お前たちも作ってる」


言われて少し嬉しくなる


村の家を見たら、岩陰拠点が急にみすぼらしく感じるかと思っていた


不思議とそうでもない


こっちはこっちで便利そうだし、広くて丈夫そうだ


でも俺が帰りたいと思うのは、今のところ岩陰拠点だ


ルッカと作った場所


寝床があって、棚があって、屋根から雨が漏れないか毎回気にして、肉の置き場所で揉める


あそこが家だ


「セイジ」


エナに呼ばれて振り返る


何か差し出される


食べ物らしい


小さく切ったもの


少し乾いている


「何これ?」


「食べる」


「それは見たら分かる」


ミラが笑う


「果物、乾かした」


「干し果物?」


言葉が通じたかは分からないが、意味は分かった


エナが一つ俺へ渡す


横から視線を感じる


ルッカだ


ものすごく見ている


「……欲しい?」


「うん」


即答


俺より先にルッカへ一つ渡される


口に入れた瞬間、目が少し大きくなった


「甘い」


「甘いん?」


俺も食べる


甘い


肉でもない


塩味でもない


久しぶりに感じる種類の味だった


「おお、うま」


ルッカはもうエナの手元を見ている


「もう一個」


「早いって」


エナは笑いながら、もう一つ渡した


「セイジも」


「俺もええん?」


もらう


前に甘いものの話をしたことがあった


ルッカがやたら興味を示していた気がする


それを覚えていたのかどうかは分からない


でもルッカは完全に気に入ったらしい


「これ、村にある?」


「ある」


「いっぱい?」


エナが何か答える


ミラが笑う


「いっぱい、ではない」


「残念やったな」


ルッカが俺を見る


「交換」


「何と?」


「肉」


「それ、ルッカの一番大事なもんちゃうん」


少し考える


かなり真剣に考えている


「少し肉」


「甘いもん強いな」


エナたちが笑う


俺も笑う


村へ来る前は、もっと重い空気になると思っていた


ゴブリンが来た


人間が見る


怖がられる


緊張する


もちろんそういう部分もあった


実際、俺たちを避けた人もいる


今も遠くから見ている人がいる


でも、それだけではない


地図を囲んで話す


水場のことを考える


怪我の備えを相談する


食べ物をもらう


ルッカが甘い物に食いつく


そういう普通のこともある


少し休んでいると、さっき子供を家へ入れた人が遠くを通った


こちらを見る


目が合う


すぐ逸らされた


俺も追わない


無理に笑いかけたりもしない


怖いなら怖いでいい


今日一日で全部変わるわけがない


むしろ、変わらなくていい


今日の俺に必要なのは、村全員から好かれることではない


用事があって、呼ばれて、入って、必要な話をして、問題を起こさず帰る


それで十分だ


「セイジ」


ダリオが近づいてくる


「そろそろ戻るぞ」


「もう?」


「用事は終わった」


空を見る


昼をかなり過ぎている


村の中へ長居する理由はない


条件も、用事のある範囲だけだった


「分かった」


俺は立ち上がる


ルッカも立つ


その手には、いつの間にか小さな干し果物がもう一つある


「それ何個目?」


「三個」


「いつもろたん?」


「さっき」


「油断も隙もないな」


帰る前に地図を畳む


ミラが一部を指し、今日出た情報をあとで書き足そうと言う


浅い場所で見たという獣の話


確定ではない


だから断定して描くのではなく、情報があった場所として残す


「ええな」


分からないことを分からないまま記録する


最近、その大切さが分かってきた


村の入口方向へ戻る


来たときより足取りは軽い


敏捷Eだから、ではないと思う


途中、朝に挨拶してくれた男がいた


こちらを見る


俺が先に手を上げてみる


少し迷ってから、向こうも上げた


「またな」


言ってから気づく


次いつ来るか分からんけど


男は何か返した


完全には聞き取れなかった


たぶん挨拶だ


それで十分


村を出るところで、俺は一度振り返った


ハルナ村


今日、初めて中へ入った


ずっと遠くから意識していた場所


人間が住んでいる場所


俺が近づけば危険かもしれないと思っていた場所


その中で今日は、話をして、飯をもらって、地図を広げた


「……ほんまに入ったな」


「入った」


ルッカが隣で言う


「俺、最初に人間見たとき逃げたんやで」


「知ってる?」


「ルッカおらんかった頃や」


「じゃあ知らない」


「せやな」


あの頃の俺が今を見たら、どう思うやろう


ゴブリンの姿で、人間の村へ自分から歩いて入る


しかも逃げずに、地図を広げて話している


意味分からんやろうな


俺自身、今でも少し意味が分からん


「でも」


ダリオが前から言う


「勘違いするなよ」


「分かってるって」


何を言われるか分かった


「今日入れたから、次も勝手に来ていいわけじゃない」


「用事あるときだけ」


「そうだ」


「誰か一緒」


ルッカが加える


「ああ」


俺たちと村との距離は縮まった


でも、なくなったわけではない


俺たちは村人ではない


ハルナ村に家があるわけでもない


俺たちの家は森の岩陰だ


村へ自由に出入りできるわけでもない


今は、正式な用事があるとき、昼間、人間側の知っている誰かと一緒に、必要な範囲へ入る


それだけ


でも以前は、そのそれだけすらなかった


「十分や」


俺が言うと、ダリオが振り返る


「何がだ」


「こっちの話」


最近これ多いな


第二水場へ戻る


村から森へ入った瞬間、少しだけ体の力が抜けた


やっぱり緊張していたらしい


いつもの木


いつもの水


簡易屋根


長椅子


見慣れた景色


ここへ来ると安心する


「帰ってきた感じするな」


「まだ家じゃない」


ルッカが言う


「そうやな、ここはみんなの場所や」


岩陰拠点とは違う


でも村と森の間にある


俺たちも使う


人間も使う


今日、村へ入ってみて、この場所の意味が前より分かった気がする


ここがあったから、いきなり村へ入らずに済んだ


ここで会って、話して、一緒に何かして、少しずつ知ってもらえた


最初から村の中で全部やろうとしていたら、たぶん無理だった


第二水場は水を飲む場所で、休む場所で、それだけじゃない


俺たちと人間が、ちょうど真ん中くらいで会える場所だった


「備えの話も進んだな」


俺は長椅子へ座る


ダリオも少し休むらしい


エナとミラもいる


ローデンは村で別の用事があるため残った


「水、保存食、縄」


俺が指を折る


「怪我のやつ」


ルッカが言う


「応急処置な」


エナが持ってきたものを見せてくれる


布、必要な薬草、傷を洗うために使えるもの


全部をここへ常に置くのではなく、まとめて持ち運べるようにする


細かい形はこれからだ


「ルッカ用は干し果物も入れとく?」


俺が言う


「入れる」


「それ応急処置ちゃう」


「元気出る」


「精神的にはそうかもしれんけど」


ミラが笑う


「保存食なら、少し」


「おお、候補入りした」


「肉も」


「結局そこに戻るんかい」


少し休んだあと、地図をもう一度広げる


今日村人から聞いた場所へ小さな印を入れる


危険確定ではない


魔物がいると決まったわけでもない


だから今までの危険地点とは区別する


「ここで見た、だけ」


ミラが言う


「せやな」


情報だけ


その横に、水のある谷へ続く方向


前に大型魔物が向かった方


俺は指でなぞる


前に戦った魔物


今日聞いた話


まだ全部ばらばらだ


それでも、


「やっぱり、一回確認せなあかんか」


ダリオが頷く


「谷はな」


エナも地図を見る


ルッカは少しだけ森の奥へ視線を向けた


「行く?」


「今日は行かへんって」


「明日?」


「まだ決めてへん」


今度こそ準備する


誰が行くか


何を持つか


どこまで見るか


戻る時間


危険だったらどこで引くか


全部決めてから


前に遭遇したような大型魔物がまだいる可能性もある


前に戦ったような捕食魔物が出るかもしれない


LEVEL7になったからって、何でも勝てるわけではない


昨日それを確認したばかりだ


「調査するなら、ちゃんと準備してからやな」


「そうだ」


ダリオの返事は短い


それで話は終わった


今すぐ決める必要はない


夕方になる前に、俺とルッカは第二水場を出た


帰り道、森の中へ入るとルッカが突然言った


「村、甘い」


「感想そこ?」


「干し果物」


「家とか人とか色々あったやろ」


「甘かった」


「まあ、ルッカらしいけど」


「また行く?」


「用事あったらな」


「干し果物」


「それを用事にしようとすんな」


岩陰拠点へ着く


入口、屋根、棚、寝床


昨日増えた新しい棚


見慣れた全部


俺は荷物を置く


地図は棚へ


縄も戻す


残った保存食も置く


村の中には、俺たちの家よりちゃんとした建物がいくつもあった


便利そうな道具もあった


食べ物もあった


甘い干し果物まであった


でも、


「やっぱここ落ち着くな」


口から自然に出た


ルッカはもう寝床の近くへ座っている


「家だから」


「せやな」


村へ入った


初めて


でも俺たちが村人になったわけではない


村の家に住むわけでもない


帰ってきたのは岩陰拠点


それが妙にしっくりくる


夕食を食べながら、ルッカが今日もらった干し果物の話をする


正確には、


「次は肉と交換」


という話を何回もしているだけだ


「ほんまに肉出すん?」


「少し」


「相当気に入ったんやな」


「甘い」


「分かったって」


食べ終わったあと、俺はSTATUSを開こうか少し考えた


やめた


今日は戦っていない


LEVELが上がる理由もない


魔法も使っていない


何か新しく習得したわけでもない


LEVEL7


そのままでいい


今日は数字が増える日ではなかった


でも、変わったものはある


昨日まで、ハルナ村は近くにあるけど入ったことのない場所だった


今日からは、用事があるときだけ、条件つきで、入ったことのある場所になった


たったそれだけ


でも大きい


最初にこの森で人間の姿を見た俺は、人間から逃げた


今日の俺は、人間の村へ向かって歩いた


怖くなくなったわけではない


全員に受け入れられたわけでもない


今日だって、俺たちを避けた人がいた


子供を家へ入れた人もいた


遠くからずっと見ていた人もいた


当然だと思う


その一方で、普通に挨拶してくれた人もいた


前に助けたことを覚えている人もいた


一緒に地図を見た人もいた


食べ物をくれた人もいた


全部が本当だ


どっちかだけじゃない


「これでええんやろな」


「何が?」


ルッカが聞く


「ちょっとずつで」


「ちょっと?」


「急に全部変わらんでええってこと」


ルッカはしばらく俺を見る


それから、


「干し果物は、いっぱい欲しい」


「そこは急ぐんか」


笑ってしまう


外は少しずつ暗くなってきている


俺は棚の地図を見る


第二水場


人間側の経路


今日入ったハルナ村


そして、まだ何も分かっていない水のある谷の方向


村でも、新しい話が一つ増えた


深い場所にいるはずの獣を、浅い場所で見たという話


一件だけなら何も分からない


前に戦った魔物と関係があるのかも分からない


大型魔物との関係も分からない


森の奥から聞こえた低い音も、まだ正体不明


分からないから、見に行く


でも今度は、気になったからそのまま行くわけじゃない


準備して


仲間と一緒に


危なければ戻る


「谷か」


「行く?」


「そのうちな」


「みんなと?」


「もちろん」


ルッカが頷く


俺も地図から目を離す


今日はもう終わりだ


LEVEL7のまま


新しい魔法もない


新しいSKILLもない


強くなったわけでもない


それでも、昨日より少しだけ人間のいる場所が近くなった


俺たちの家は変わらない


第二水場も変わらない


でも、その向こう側にある村が、今までより少しだけ地図の上の名前ではなくなった

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