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森で生きるということ

第2回 森で生きるということ


 森の奥へ向かって歩き始めてから、どれくらい経ったのか分からない


 時計はない


 スマートフォンもない


 太陽は高い木々の向こうに隠れ、見上げても枝葉の隙間から白い光がちらちら覗くだけだった


 それでも、さっきより森の中が明るくなっている気はする


「……昼前くらいなんかな」


 返事はない


 代わりに、どこか遠くから鳥らしき声が響いた


 ピィィィ、と甲高く鳴いたあと、妙に低い声でグググと続く


「なんちゅう鳴き方やねん」


 少しだけ笑ってから、俺は足を止めた


 笑える程度には落ち着いてきたらしい


 ついさっきまで、人間に追いかけられて死に物狂いで逃げていた


 地面すれすれに矢が飛んできて、武器を持った男が距離を詰めてきて、俺は何もできずに逃げた


 思い出すだけで背中が寒くなる


 だから今は、何か面白いものを見つけても大声を出さない


 枝が揺れれば立ち止まる


 物音がすれば耳を澄ませる


 人間らしい声が聞こえても、今度は絶対に飛び出さない


「一回痛い目見たら学習するんやで、三十九歳は」


 そう呟いて、自分の足元を見る


 小さな緑色の足


 裸足なのに、森の地面を歩いても思ったほど痛くない


 小石を踏めば痛いし、尖った枝を踏めば当然飛び上がる


 ただ、前世の裸足より皮膚が丈夫なのかもしれない


 少なくとも、ここまで歩いて足の裏が傷だらけになっている感じはなかった


「三十九歳って言うても、この身体は何歳なんやろな」


 自分の腕を見る


 細い


 緑色


 何度見ても緑色


「……まあ、ええか」


 今すぐ分からないことを考えても仕方がない


 優先順位は決めた


 水


 食べ物


 安全に眠れる場所


 この三つだ


 水はさっき飲んだ


 だが、持ち運ぶ容器がない


 喉が渇くたびに水場を探すわけにもいかないから、本当なら川か小川の近くを拠点にしたほうがいい


 問題は食べ物だった


「腹減ったなあ……」


 意識した途端、腹がぐうと鳴った


「正直やな、お前」


 腹を撫でる


 転生しても空腹からは逃げられないらしい


 むしろ身体が小さいせいか、さっきから空腹感が強くなっている気がする


 森の中には植物がいくらでもある


 赤い実


 紫の実


 黄色い実


 小さなキノコ


 大きなキノコ


 見たことのない草


 見たことのない木の実


 食べ物候補だけなら、そこら中に転がっている


 ただし


「どれ食えるんや」


 これが分からない


 赤い実を一つ摘んでみる


 丸く、親指の先ほどの大きさ


 表面には細かな黒い点がある


 匂いを嗅ぐ


「……甘そう」


 腹が鳴る


「いや、待て」


 手を止めた


 こういうとき、見た目が美味そうなものほど毒だったりする


 異世界である


 日本の山菜知識ですらほとんどない俺が、異世界の野草を見分けられるはずがない


「転生二日目どころか初日で毒キノコ食って終了とか、笑われへんぞ」


 赤い実を元の枝へ戻そうとして、摘んだものは戻らないと気づく


「……ごめんな」


 地面へ置いた


 毒かどうかも分からないのに捨てるのはもったいない気もする


 だが命には代えられない


 少し歩く


 また実がある


 今度は青


「絶対あかん色に見える」


 通過


 黄色


「微妙」


 通過


 黒


「もっとあかん」


 通過


 白


「怖い怖い」


 通過


「食えるもん一個もないやんけ」


 森に文句を言っても仕方がない


 俺は腹を押さえながら歩いた


 そこで、ふと思い出す


「STATUS」


 意識すると、半透明の画面が現れた


 NAME セイジ


 RACE ゴブリンメイジ


 LEVEL 1


 HP F+


 MP E+


 筋力 F


 耐久 F+


 敏捷 E-


 器用 E


 精神 E+


 魔力 E+


 SKILL  《魔力感知》  《魔力操作》


 TITLE  なし


「変わってへんな」


 当たり前か


 人間から逃げただけでレベルが上がったら、それはそれでどうかと思う


 それより気になったのはMPだった


 表示はE+のまま


 けれど身体の内側へ意識を向けると、さっきより魔力が戻っているような感覚がある


「……回復してる?」


 火弾を何発か撃った直後は、身体が重くなった


 胸の奥というか、腹の奥というか、身体の中心にある温かいものも明らかに減っていた


 今は、その温かさが少し戻っている


「時間で戻るんかな」


 断定はできない


 試すにも、今は無駄撃ちしたくない


 人間に追われたばかりなのだ


 何がいるか分からない森で、唯一の攻撃手段を使えなくするのはまずい


「火弾は非常用やな」


 STATUSを消す


 歩く


 少しして、また水の音が聞こえた


 今度はさっきより大きい


「お」


 音を頼りに進むと、小さな沢へ出た


 幅は俺の身長より少し広い程度


 水は浅く、底の石まで見える


 流れも速くない


「ここ、ええな」


 しゃがみ込んで水を飲む


 冷たい


 やっぱり美味い


「はぁ……」


 顔も洗う


 水面に映った緑色の顔が揺れた


 昨日までなら――いや、昨日という言い方が正しいのかすら分からないが――こんな顔を見たら確実に驚いていただろう


 今はもう、少し慣れた


「慣れたくはなかったけどな」


 頬を触る


 尖った耳にも触れてみる


 耳の先まで感覚がある


「ほんまに俺なんやな」


 昨日までの俺


 いや、前世の俺


 間宮誠司


 三十九歳


 人間


 大阪で働いていた男


 今はセイジ


 ゴブリンメイジ


 LEVEL1


「落差えぐいな」


 水面の自分が、何となく情けない顔をしているように見えた


 俺は立ち上がった


「まあ、生きてるだけええか」


 それは本心だった


 死んだ


 その事実だけは変わらない


 なのに今は腹が減る


 喉が渇く


 歩けば疲れる


 怖ければ逃げる


 魔法を使えば嬉しい


 生きている


 だったら、もう少しやってみたい


 せっかくの二度目だ


 派手な人生じゃなくていい


 むしろ派手なのは勘弁してほしい


「家あって、飯食えて、寝られたらええねん」


 少し考える


「風呂も欲しいな」


 さらに考える


「布団も」


 欲が出てきた


「……全然スローライフまで遠いな」


 まず今日の飯すらない


 現実は厳しい


 沢沿いを歩くことにした


 水から離れすぎなければ、少なくとも喉の問題は解決する


 それに動物も水を飲みに来るかもしれない


 動物がいるなら食べ物もある


 問題は、俺がその動物に食べられる側かもしれないことだ


「ゴブリンって食われるんかな」


 考えたくない


 沢沿いは歩きやすかった


 森の奥ほど下草が多いと思っていたが、この辺りは木々の間隔が少し広い


 ところどころ苔むした岩がある


 小さな虫も飛んでいる


 羽が青く光る虫


 やけに脚の長い虫


 俺の知っているトンボに似たものもいた


「虫は……最悪食えるんかな」


 飛んでいる青い虫を見る


「いや、まだそこまで追い詰められてへん」


 腹は減っている


 でも虫を生で食べる覚悟はない


 そんなことを考えながら進んでいると、茂みの向こうで音がした


 がさっ


 俺は止まった


「…………」


 がさ


 もう一度


 何かいる


 人間ではなさそうだ


 人間なら、もっと足音がする


 小さい


 俺は近くの木へ寄り、身を隠した


 右手を胸の前へ


 魔力を感じる


 まだ集めない


 火弾を撃つ準備だけしておく


 茂みが揺れる


 そこから


「……なんや?」


 丸いものが出てきた


 茶色い毛


 長い耳


 大きさは前世のウサギより少し大きいくらい


 鼻をひくひくさせながら沢へ近づいていく


「ウサギ……?」


 かなり似ている


 ただし、額に小さな角が一本生えていた


「……ウサギちゃうな」


 角がある


 しかも結構尖っている


 動物は俺に気づいていない


 水辺へ近づき、頭を下げた


 水を飲んでいる


 俺の腹が鳴った


 ぐうう


「…………」


 角ウサギらしきものの耳がぴんと立った


「あ」


 顔がこちらを向く


 目が合った


「…………」


「…………」


 数秒


 先に動いたのは向こうだった


 逃げる


「待っ――」


 反射的に追いかける


 茂みへ飛び込む


 茶色い尻が見える


「飯!」


 言ってから自分でも酷いと思った


 だが腹が減っている


 肉だ


 たぶん


 食えるかどうかは分からないが、少なくとも木の実よりは分かりやすい


 俺は追う


 角ウサギは速い


「速っ!」


 全然追いつかない


 むしろ離される


「敏捷E-の限界!」


 木の根を飛び越えようとして


「うおっ!」


 足を引っかけた


 前から転ぶ


 顔面から地面へ


「いったぁ……!」


 起き上がったときには、角ウサギは消えていた


「…………」


 鼻を押さえる


「飯が……」


 逃げた


 初めて見つけた食べられそうなものが逃げた


「追いかけたらあかんのか」


 相手のほうが速い


 だったら待つしかない


 水場へ来るなら、隠れて待てばいい


「罠……作れるかな」


 前世で罠を作った経験などない


 動画か何かで見た記憶はある


 紐で足を引っかけるもの


 落とし穴


 木を曲げて使うもの


「紐ないやん」


 終了


「落とし穴……掘る道具ないやん」


 終了


「素手で捕まえる……無理やん」


 終了


 残ったのは魔法だった


「火弾で仕留める?」


 少し嫌だった


 生き物へ魔法を撃つ


 人間相手には撃てなかった


 今も、できれば何かを殺したくはない


 だが


 ぐううう


「……腹は減るんよな」


 現実だった


 この身体が何を食べるのかも分からない


 いつまで食べずにいられるのかも分からない


 森で生きるということは、コンビニへ行けば弁当が並んでいる生活とは違う


 肉を食べるなら、誰かが殺さなければならない


 前世では、その部分を見ずに済んでいただけだ


「……次見つけたら、やってみるか」


 気は重い


 それでも決めた


 沢へ戻る


 今度は少し離れた木の陰に座った


 待つ


 五分


 たぶん


 十分


 たぶん


「暇やな」


 時間を測れないのが地味に不便だった


 待っている間、《魔力感知》を試す


 自分の中の魔力


 それは分かる


 なら外はどうだろう


 目を閉じる


 呼吸をゆっくり整える


 森の音が聞こえる


 水


 風


 葉


 虫


 鳥


 そこから、音ではないものへ意識を向ける


「……ん?」


 何かある


 自分の中ほど明確ではない


 けれど、周囲にも薄く何かが漂っているような感覚


 空気とは違う


 温度とも違う


 掴もうとすると消える


 意識しすぎても分からなくなる


「これも魔力なんかな」


 分からない


 ただ、《魔力感知》という名前なら、自分の魔力だけを感じる能力とは限らない


 何度か繰り返す


 目を閉じる


 感じる


 消える


 もう一度


「むずいな」


 それでも最初より少し分かる気がした


 魔力というものは、力を入れれば感じられるわけではない


 むしろ余計なことを考えず、そこにあるものへ注意を向けたほうがいい


 水の音を聞き分けるのに似ている


「練習したら使えるようになるんかな」


 スキル


 成長するのか


 レベルがあるのか


 分からない


 STATUSにはスキル名しか表示されていない


「説明書欲しいわ」


 当然出てこない


「異世界転生サービス、サポート悪すぎへん?」


 自分で言って少し笑う


 そのとき


 何かを感じた


「……?」


 右


 目を開ける


 何もいない


 けれど


 何かいる気がする


 しばらく待つ


 茂みが揺れた


「……お」


 また角ウサギ


 さっきの個体かどうかは分からない


 同じような茶色い毛


 額に一本の角


 周囲を警戒しながら出てきた


 俺は息を止める


 まだ


 まだ


 角ウサギが沢へ近づく


 水を飲む


 右手へ魔力を集める


 ゆっくり


 気づかれないように


 胸の奥から腕へ


 腕から手のひらへ


 温かさが集まる


 角ウサギの耳が動いた


「…………」


 気づくな


 頼む


 狙う


 前回は止まった倒木にも外した


 今回は小さい


 しかも動く


 近づいたほうがいい


 だが動けば気づかれる


 俺は木の陰から右手だけを少し出した


 《火弾》


 赤い光


 角ウサギが顔を上げた


「今や!」


 放つ


 火の塊が飛ぶ


 角ウサギが跳んだ


 火弾は


 ぼっ


 地面へ当たった


「外した!」


 角ウサギが走る


「待て!」


 もう一発


 魔力を集める


 焦る


 うまく集まらない


「くそっ」


 角ウサギが茂みへ入る


 間に合わない


 そう思った瞬間


 何かが飛び出した


「え?」


 灰色


 大きい


 角ウサギへ横から飛びかかった


 短い悲鳴


 草が激しく揺れる


「な、なんや?」


 俺は立ち上がる


 茂みの向こう


 低い唸り声


 ぐるるるる


「…………」


 嫌な予感しかしない


 ゆっくり後ろへ下がる


 灰色の何かが姿を現した


 犬


 いや


 狼


 前世で見た狼より大きく見える


 俺の身体が小さいせいもあるだろう


 灰色の毛


 長い口


 鋭い牙


 口元には赤いものが付いている


 足元には、さっきの角ウサギ


 動かない


「……取られた」


 最初に浮かんだのがそれだった


 直後


「ちゃうちゃうちゃう!」


 肉を取られたことを気にしている場合ではない


 狼が俺を見る


 目が合う


「…………どうも」


 狼が唸る


「いや、俺そっちの飯取らへんから」


 通じるわけがない


 狼の身体が低くなる


 まずい


 俺は右手を構える


 逃げるか


 戦うか


 逃げる


 さっき角ウサギにも追いつけなかった俺が、この狼から逃げ切れるのか


「無理そうやな……」


 狼が一歩近づく


 俺も一歩下がる


 魔力を集める


 さっき一発使った


 まだ撃てる


 胸の奥の感覚


 大丈夫


 たぶん


「来んなよ」


 狼がさらに近づく


「ほんまに来んなよ」


 牙が見える


 怖い


 人間に追われたときとは違う


 あのときは逃げる方向があった


 今は背中を向けた瞬間に飛びかかられそうな気がする


 右手に魔力


 火弾を作る


 赤い光が生まれた


 狼が一瞬止まった


「お」


 火を警戒している


「そうや、そのまま帰ってくれ」


 俺は火弾を維持する


 これだけで逃げるなら、それでいい


 殺す必要はない


 狼は低く唸り続ける


 数秒


 長い


 手のひらの火が揺れる


「……これ、出しっぱなしでも魔力減るんかな」


 今考えることではない


 狼が横へ動く


 俺に正面から近づかず、回り込むように


「賢いやんけ」


 嫌だ


 ものすごく嫌だ


 俺も向きを変える


 正面を維持する


 狼が止まる


 俺も止まる


 また動く


 俺も動く


「何この時間」


 冗談を言っている場合ではない


 狼の脚に力が入った


 分かった


 来る


「っ!」


 狼が跳んだ


 火弾を放つ


 近い


 外しようがない


 ぼっ


 狼の肩へ当たった


「ギャウン!」


 身体が横へ逸れる


 地面へ転がる


「当たった!」


 逃げるなら今


 そう思った


 だが狼は立った


「嘘やろ」


 肩の毛が焦げている


 血も見える


 それでも立っている


 怒っている


 明らかに


「そら怒るわな!」


 狼が走る


 俺も横へ飛ぶ


 牙が腕をかすめた


「痛っ!」


 熱い


 左腕を見る


 皮膚が裂けている


 血


「うわ……」


 自分の血を見た瞬間、怖さが一気に現実になった


 死ぬ


 これに噛まれたら


 首を噛まれたら


 終わる


「嫌や」


 狼が向きを変える


「嫌やって!」


 魔力を集める


 焦るな


 右手


 手のひら


 火弾


 狼が来る


 撃つ


 外れた


「くそっ!」


 木の幹が焦げる


 狼が迫る


 避ける


 今度は服の端を牙が引っかけた


 身体が引っ張られる


「うわっ!」


 転ぶ


 狼が覆いかぶさる


 臭い


 獣の息


 牙


「やめろ!」


 左腕を前へ出す


 狼が噛む


「いっ――!」


 激痛


 頭が真っ白になる


 左腕に牙が食い込む


 振り回される


「離せ!」


 右手


 近い


 狼の顔が目の前


 魔力


 集める


 痛い


 集中できない


 それでも


「離せぇ!」


 火弾


 ほとんど押しつけるように撃った


 爆ぜる音


 狼の身体が離れる


 俺も地面を転がった


「はぁっ……はぁっ……」


 左腕が痛い


 血が出ている


 狼を見る


 まだ動いている


「……まだか」


 立たなければ


 足に力を入れる


 震える


 立て


「立て……!」


 立ち上がる


 狼も立とうとしている


 顔の横が焼けている


 さっきまでとは動きが違う


 ふらついている


 それでも目は俺を見ている


 逃げない


「なんでやねん……」


 俺も逃げられない


 ここで背中を向ける勇気がない


 魔力


 残っている


 少ない


 はっきり分かる


 身体が重い


 あと何発撃てる


 一発


 二発


 分からない


「これで……終わってくれ」


 右手を向ける


 魔力を集める


 さっきより遅い


 狼が動く


 俺も狙う


「来んな……」


 狼が一歩


「来んなって……」


 もう一歩


「頼むから」


 狼が走った


 俺は撃った


 赤い火が飛ぶ


 狼の胸へ当たる


 ぼっ


 身体が倒れる


 勢いのまま地面を滑る


 俺の足元近くまで来て


 止まった


「…………」


 動かない


 俺も動けない


 右手を向けたまま、しばらく立っていた


 狼の身体を見る


 胸が上下していない


「……死んだ?」


 近づけない


 怖い


 また起き上がる気がする


 少し待つ


 動かない


 さらに待つ


 動かない


「…………」


 右手を下ろした


 膝から力が抜ける


 その場に座り込む


「はぁ……」


 左腕がずきずきする


 見る


 噛まれた跡


 血


 かなり痛い


「これ……大丈夫なんか」


 治療


 できない


 回復魔法も使えない


 薬もない


 布


 自分が身につけている粗末な布を見る


「……切るしかないか」


 端を引っ張る


 意外と丈夫


「切れへん」


 噛む


「俺、何してんねやろ」


 それでも何度か引っ張って、ほつれた部分を裂いた


 細長い布


 沢へ戻る


 左腕を水で洗う


「っ……!」


 痛い


「痛い痛い痛い……」


 血と汚れを流す


 正しい処置かどうか分からない


 でも泥まみれのままよりはいいはずだ


 裂いた布を巻く


 片手では難しい


「くそ……」


 口も使う


 何度か失敗する


 やっと巻けた


「……これでええんかな」


 分からない


 医者はいない


 薬もない


 不安しかない


 そのとき


 視界の端で何かが変わった


「ん?」


 妙な感覚


 身体の中


 さっきまでとは違う


 何かが流れ込んできたような


 熱いわけではない


 冷たいわけでもない


 ただ


 自分の中で何かが増えた


「……何や?」


 STATUSを開く


 NAME セイジ


 RACE ゴブリンメイジ


 LEVEL 1


「変わってへん……」


 そう思った直後


 文字が揺れた


「え?」


 LEVEL 1


 その表示が一瞬ぼやける


 そして


 LEVEL 2


「…………」


 俺は瞬きをした


 LEVEL 2


「上がった?」


 もう一度見る


 LEVEL 2


「レベル……上がった」


 狼を見る


 動かない


 俺を見る


 LEVEL2


「……倒したから?」


 そう考えるのが自然だった


 角ウサギを追いかけても上がらなかった


 人間から逃げても上がらなかった


 狼を倒した直後に変化した


「敵を倒したら経験値……ってことか?」


 経験値の表示はない


 だから断定はできない


 でも可能性は高い


 能力を見る


 HP F+


 MP E+


 筋力 F


 耐久 F+


 敏捷 E-


 器用 E


 精神 E+


 魔力 E+


「ランクは変わらんのか」


 何が強くなったのか分からない


 身体も急に元気になったわけではない


 腕も痛い


 魔力も減っている


「レベルアップで全回復、とかはないんやな」


 残念


 かなり残念


 ゲームなら期待するところだ


 俺はSTATUSを閉じた


 狼を見る


「…………」


 喜んでいいのか分からなかった


 レベルが上がった


 ゲームなら嬉しい


 でも目の前には、俺が殺した生き物がいる


 生きるためだった


 向こうが襲ってきた


 逃げられなかった


 それでも


「……俺が殺したんやな」


 胸の奥が重くなる


 初めてだった


 前世でも、生き物を殺した経験がまったくなかったわけではない


 虫くらいならある


 でも


 自分と戦った相手を


 自分の手で


 魔法で


 殺した


「…………」


 手を見る


 小さな緑色の手


 さっきまで魔法を撃っていた手


「ごめんな」


 狼へ向けて呟いた


 何に謝っているのか、自分でも分からない


 殺したことか


 生き残ったことか


 それとも、これからその肉を食べようとしていることか


 腹が鳴った


「……ほんま、容赦ないな」


 生きるというのは、そういうことなのかもしれない


 綺麗事だけでは腹は膨れない


 俺は立ち上がった


 角ウサギの死体もある


 狼が仕留めたものだ


 こちらのほうが小さく、扱いやすそうだった


「これ……どうやって食うねん」


 最大の問題が残っていた


 刃物がない


 火は出せる


 でも解体できない


「丸焼き?」


 さすがに無理がある


 毛がある


 内臓もある


 そもそも火弾は料理用の火ではない


 当てれば焦げる


「生活魔法とか欲しいなあ」


 そんな便利なものがあるかどうかも知らない


 俺は角ウサギの死体を見下ろす


 次に狼


 そして自分の手


「爪で……いける?」


 試してみる


 無理


「ですよね」


 枝


 石


 何か使えそうなもの


 周囲を探す


 沢の中に、薄く割れた石があった


「これ」


 拾う


 縁が少し鋭い


 刃物ほどではない


 でも何もないよりまし


「石器時代からスタートか……」


 思わず遠い目になる


「魔法使えるのに石器て」


 落差がすごい


 それでも使うしかない


 角ウサギを沢から少し離れた場所へ運ぶ


 重い


 俺の身体が小さいせいで、余計に重く感じる


「よいしょ……!」


 狼は無理だ


 後回し


 石を使う


 当然、うまくいかない


「これ……どこからやるんや」


 分からない


 知識がない


 何度も手を止める


 血を見るたびに気分が悪くなる


 それでも腹は減っている


「生きるって大変やな……」


 誰に言うでもなく呟く


 かなり時間をかけて、どうにか食べられそうな肉を少しだけ取った


 綺麗な解体とは程遠い


 もったいない部分も多い


 正しい処理なのかも分からない


「次までに何とかせなあかんな」


 次


 その言葉に自分で少し驚いた


 もう次を考えている


 生きるつもりなのだ


 俺は


 ここで


 肉を前にして、今度は火の問題


 枯れ枝を集める


 落ち葉


 乾いていそうな木片


 小さく組む


「キャンプ動画、もっと真面目に見とけばよかったな」


 記憶を頼りに形を作る


 火弾を直接当てる


 ぼっ


「うおっ!」


 枝が弾けた


 火の粉が飛ぶ


「強い強い!」


 慌てて足で周囲を踏む


 山火事だけは避けたい


 もう少し離れて撃つ


 今度は端へ


 火がつく


「おお……!」


 小さな炎


 すぐ消えそう


 息を吹く


「ふー……ふー……」


 火が揺れる


 枝へ移る


「ついた!」


 嬉しい


 魔法で敵を倒したときより、こっちのほうがずっと嬉しかった


「火や!」


 焚き火


 小さい


 頼りない


 でも火だ


「これで焼ける」


 肉を枝に刺す


 焚き火へかざす


 じゅう


 匂いがする


「…………」


 腹が鳴る


「待て待て、ちゃんと焼け」


 生焼けは怖い


 焦げてもいい


 むしろ焦げるくらいでいい


 くるくる回す


 脂が落ちる


 火が少し強くなる


「おお……」


 肉の焼ける匂い


 前世なら、味付けも欲しい


 塩


 胡椒


 タレ


 醤油


 焼肉のタレ


「やめよ」


 想像すると辛くなる


 今は肉があるだけでありがたい


 かなりしっかり焼く


 表面は少し焦げた


「……いけるか?」


 恐る恐る口へ運ぶ


 熱い


「はふっ」


 噛む


 硬い


 味が薄い


 少し臭みもある


 でも


「…………うま」


 涙が出そうになった


 美味い


 料理としてなら、たぶん全然美味くない


 でも今の俺には、何より美味かった


 もう一口


「うまい……」


 食べる


 ゆっくり


 噛む


 飲み込む


 腹に入る


 それだけで安心する


「飯や……」


 朝


 森で目覚めて


 ゴブリンになっていて


 魔法を覚えて


 人間に追われて


 森の奥へ逃げて


 狼に襲われて


 腕を噛まれて


 ようやく


 飯


「長い一日やな」


 笑った


 肉を食べる


 全部は食べられない


 残りをどう保存するか分からない


「保存……」


 冷蔵庫はない


 塩もない


 容器もない


「文明って偉大やったんやな」


 心から思う


 前世では、冷蔵庫が動くことなんて当たり前だった


 蛇口をひねれば水が出る


 ボタンを押せば火がつく


 コンビニへ行けば飯がある


 夜になれば布団で寝る


「戻りたいかって言われたら……」


 言葉が止まる


 戻れない


 分かっている


 だから考えても仕方がない


 それでも、少し寂しかった


 俺は焚き火を見る


 ぱち


 枝が鳴る


「……まあ」


 火がある


 飯がある


 水もある


「朝よりだいぶマシや」


 それでいい


 一個ずつ


 今日はそれでいい


 食事を終える


 沢の水を飲む


 腕の布を見る


 血はまだ滲んでいるが、さっきよりは落ち着いたように見える


「寝る場所やな」


 空を見る


 木々の向こうの光は、まだ明るい


 ただ、いつ暗くなるか分からない


 暗くなってから探すのは危険だ


「ここ、水あるけど……」


 狼がいた


 つまり他の獣も来る


 水場のすぐ横で寝るのは危ないかもしれない


 少し離れた場所


 できれば背後を守れるところ


 洞窟


 岩陰


 大木の根元


「洞窟は逆に何か住んでそうで怖いな」


 前世の知識が役に立つようで役に立たない


 俺は焚き火を消した


 水をかける


 煙が上がる


「よし」


 火事にならないよう、念入りに確認する


 角ウサギの残り


 どうする


 置いていけば他の獣が来る


 持っていけば匂いで寄ってくるかもしれない


「……食える分だけ持つか」


 大きな葉を何枚か取る


 肉を包む


 蔓のような植物で縛ろうとして


「切れた」


 別のもの


「これも切れた」


 三本目


「お、いける」


 何とか包めた


「アイテムボックス欲しいなあ」


 使えない


 適性以前に、今の俺には空間魔法そのものが使えない


「いつか絶対覚えたる」


 初めて、具体的に欲しい魔法ができた


 荷物を持てる魔法


 地味かもしれない


 でも今は攻撃魔法より欲しい


 包んだ肉を抱える


 石も持っていく


 刃物代わりだ


「荷物増えたな」


 粗末な布


 肉


 石


「文明レベルが一上がった気がする」


 何を基準に一なのかは分からない


 俺は沢から少し離れ、周囲を探し始めた


 左腕が痛むので、歩く速度は遅い


 魔力もかなり減っている


 何かに襲われたら危ない


 だから慎重に


 音を聞く


 周囲を見る


 ときどき《魔力感知》も試す


 まだ何を感じているのか自信はない


 それでも、何もしないよりはいい


 しばらくして、大きな岩が見えた


「……あれ」


 岩というより、斜面から巨大な石が突き出している


 下側に少し空間がある


 近づく


 入口は狭い


 俺の身体なら入れる


 中を覗く


 暗い


「怖っ」


 石を一つ投げる


 ころころ


 何も出てこない


 枝を入れる


 何もない


「……火」


 小さな枯れ枝に火をつけたい


 焚き火を消したことを少し後悔する


 火弾で直接照らすのは危ない


 魔力も減っている


「しゃあない」


 入口で目が慣れるのを待つ


 少しずつ中が見える


 奥行きはそれほどない


 俺が横になれる程度


 獣の骨も見えない


 糞らしきものもない


「いけるか?」


 中へ入る


 狭い


 でも


「……ええやん」


 背後は岩


 入口は一つ


 雨も多少は防げそう


 地面は土


 硬いけれど、むき出しの外より安心できる


「今日の家、決定」


 家


 そう呼ぶと少し嬉しくなった


 枝と葉を集める


 地面へ敷く


 一度寝転がる


「硬っ」


 葉を追加


 もう一度


「……硬いけど、さっきよりマシ」


 さらに集める


 左腕が痛い


 腹もまた少し重い


 疲れた


 でも


 寝床らしいものができていく


 ただの葉っぱ


 ただの枝


 それでも、自分で作った


「これがスローライフ第一歩……なんかな」


 想像していたものとはだいぶ違う


 木造の小屋


 畑


 暖炉


 美味しい料理


 そんなものを想像していた


 現実は岩の下


 葉っぱの布団


 腕には噛み傷


 持ち物は石と肉


「……底辺スタートにも程があるやろ」


 笑ってしまう


 でも朝は、何もなかった


 今は水場を知っている


 食べ物も少しある


 火を起こせる


 寝床も見つけた


 LEVELも2になった


「ちゃんと進んでるやん」


 そう思うと、不思議と満足した


 入口近くに座る


 森を見る


 光が少しずつ弱くなっている


「夕方……なんかな」


 正確には分からない


 でも夜が近づいているのは分かる


 夜


 怖い


 昼でも狼が出た


 暗くなったら、もっと危険なものが出るかもしれない


「火、あったほうがええよな」


 入口の外


 岩から少し離れた場所に小さな焚き火を作る


 また火弾を使う


 魔力がさらに減る


「……これ以上は使いたくないな」


 焚き火へ枝を足す


 火が揺れる


 少し安心する


 岩陰へ戻り、入口から火を見る


「キャンプやと思えば……」


 腕を見る


「こんな怪我するキャンプ嫌やな」


 夜が来る


 森の色が変わる


 昼間は緑だった場所が、黒へ沈んでいく


 鳥の声が減る


 代わりに虫の声が増える


 遠くで何かが鳴いた


 低い


 大きい


「…………」


 俺は焚き火へ枝を足した


「今日はもう来んなよ」


 誰に言っているのか分からない


 狼か


 人間か


 もっと別の何かか


 何でもいい


「今日はもう十分や」


 本当に


 十分すぎる


 俺は葉っぱの上へ横になった


 硬い


 身体が痛い


 左腕はもっと痛い


 でも横になれる


 目を閉じる


 すぐには眠れない


 森の音が気になる


 枝が鳴るたび目を開ける


 葉が揺れるたび身体を起こす


「……寝られへん」


 当たり前だ


 安全だという保証はどこにもない


 入口から焚き火を見る


 赤い火


 それだけが、今の俺にとって唯一の明かりだった


「明日……」


 何をする


 食べ物


 もっと必要


 道具


 欲しい


 刃物


 絶対欲しい


 水を持ち運ぶもの


 欲しい


 服


 今の布一枚みたいな格好では心許ない


 魔法


 もっと覚えたい


 回復魔法があれば、この腕も治せるのだろうか


「使えへんけどな」


 空間魔法も欲しい


 水魔法も便利そうだ


 火はもうある


「火、水、回復、収納……」


 生活に必要な順番を考える


「異世界来て魔法に求めるもんが家事寄りすぎるな」


 でも、それでいい


 最強なんていらない


 今日みたいな戦いは、できればもうしたくない


 狼を倒せたのは嬉しいというより、ほっとしただけだった


 死なずに済んだ


 それだけ


「強くなるにしても……」


 俺は天井代わりの岩を見る


「生きるためやな」


 誰かを倒したいからではない


 偉くなりたいからでもない


 生きたい


 飯を食いたい


 安心して寝たい


 そのために必要なら強くなる


「目標、低いんか高いんか分からんな」


 目を閉じる


 今度は少し長く閉じていられた


 疲労が勝ち始めている


 眠い


 前世で仕事から帰って、風呂にも入らずベッドへ倒れ込んだときのような眠気


「……風呂」


 思い出してしまった


「入りたいなあ……」


 沢で身体を洗うことはできる


 でも温かい湯に浸かりたい


「いつか作ろ」


 何を


 風呂を


 どうやって


 分からない


 でも


「家も……作ろ」


 岩陰ではなく


 ちゃんとした家


 雨を防げて


 扉があって


 寝る場所があって


 火を使えて


 飯を作れて


「畑とか……」


 できるかもしれない


 何を育てるか知らないけれど


「ほんまにスローライフできるかもしれんな」


 少しだけ楽しくなった


 朝には考えられなかった


 ゴブリンになった


 人間に襲われた


 狼にも襲われた


 腕は痛い


 明日どうなるかも分からない


 それでも


 明日やりたいことがある


「……生きよ」


 小さく呟く


 焚き火がぱちりと鳴った


 目を閉じる


 森の音


 水の音は、ここまでは届かない


 虫


 風


 葉


 遠くの獣


 怖い


 でも


 少しずつ意識が沈んでいく


 最後に思ったのは


 明日は、もう少しマシな飯が食いたい


 そんな、どうでもいいような願いだった


 間宮誠司


 今はゴブリンメイジのセイジ


 LEVEL2


 異世界で迎える最初の夜


 俺は岩陰に敷いた葉っぱの上で、小さく身体を丸めた


 外では、消えかけた焚き火が静かに揺れていた

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