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目が覚めたら、ゴブリンでした

第1回 目が覚めたら、ゴブリンでした


 最初に感じたのは、土の匂いだった


 湿った土と、青臭い草それから、雨上がりの山奥みたいな、少し冷たい空気


 頬に何かが当たっている


 ざらざらしていて、ひんやりしている


 地面だ


「……ん……」


 目を開けた


 緑


 視界いっぱいに、緑があった


 木


 草


 葉


 苔


 どこを見ても緑ばかりで、ところどころから差し込む朝らしい白い光が、薄暗い森の中に細い筋を作っている


 ぼんやりと、それを見上げた


「…………どこや、ここ」


 声が出た


 いや


 声らしきものが出た


「ギャ……グァ?」


 俺は固まった


 今、何て言った?


 もう一度、口を開く


「ここ……どこや?」


「ギャ、グギャ……?」


 おかしい


 頭の中では、間違いなく日本語で喋っている


 なのに耳に届いたのは、喉の奥を引っかくような、聞いたこともない濁った声だった


 寝起きだからとか、風邪を引いたとか、そういう次元ではない


 そもそも


「……待て待て待て」


「ギャ、ギャギャ」


 身体を起こそうとして、さらに違和感が増した


 地面が近い


 近すぎる


 四つん這いになっているわけでもないのに、目線が妙に低い


 腕をつく


 そこにあったのは――


「…………」


 緑色の腕だった


 細い


 短い


 そして、どう見ても人間の腕ではない


 指先には黒ずんだ爪があり、皮膚はくすんだ緑色をしている


 俺は右手を持ち上げた


 緑色の手も上がった


 下ろす


 下がった


 左手を上げる


 緑色の左手が上がる


「…………」


 右


 左


 右


 左


「いやいやいやいや」


「ギャギャギャギャ」


 怖い


 自分の声が怖い


 それ以上に、自分の手が怖い


 慌てて身体中を確認する


 足も緑


 細い


 短い


 腹も緑


 服らしい服は着ているが、粗末な布を身体に巻きつけただけに近い


 当然、スーツではない


 靴もない


 時計もない


 スマートフォンもない


 財布もない


 俺の知っている自分の持ち物は、何ひとつなかった


「……夢や」


 そう思った


 というより、そう思いたかった


 夢


 そう


 夢なら説明がつく


 森で目覚めたことも、身体が緑色になっていることも、変な声しか出ないことも


 全部、夢


 最近疲れていたから、妙な夢を見ている


 きっとそうだ


「……ほな、起きよか」


 目を閉じる


 三秒待つ


 開ける


 森


「…………」


 もう一度


 閉じる


 今度は十秒くらい待つ


 開ける


 森


「……起きへんな」


 当たり前だが、返事をする者はいない


 鳥の鳴き声らしきものが、遠くから聞こえている


 ただ、それも俺の知っている鳥とは少し違った


 甲高く、妙に長い


 どこかで葉が擦れる


 風が吹く


 木漏れ日が揺れる


 現実感がありすぎた


 土の冷たさ


 風の感触


 草の匂い


 喉の渇き


 手のひらに付着した泥


 夢にしては、何もかもが鮮明すぎる


 そこで


 記憶が戻ってきた


「……あ」


 間宮誠司


 三十九歳


 男


 大阪で働いていた


 そこまでは分かる


 自分が誰だったのかも覚えている


 家のことも、仕事のことも、日本で暮らしていたことも


 そして――


 死んだ


 その事実だけが、妙に鮮明だった


「俺……死んだんやったな」


 口から出た音は相変わらず奇妙だったが、今度は気にならなかった


 胸の奥が、すうっと冷えていく


 死んだ


 自分は確かに死んだ


 なのに、こうして考えている


 呼吸もしている


 心臓も動いている


 試しに胸へ手を当てると、どくどくと鼓動が返ってきた


「……生きてる」


 死んだはずなのに、生きている


 しかも


 緑色の身体で


「これ……あれか?」


 嫌な予感と、妙に馴染みのある単語が頭に浮かんだ


「異世界転生……とかいうやつ?」


 自分で言ってから、しばらく黙った


 否定したい


 ものすごく否定したい


 だが、森


 緑の手


 意味不明な身体


 人間ではない声


 死亡した記憶


 他に説明できるものがない


「いや、でもなあ……」


 転生


 そこまではいい


 いや、よくはないが、百歩譲って受け入れよう


 問題は


「なんで緑やねん」


 転生するなら、もっとこう


 剣士とか


 魔法使いとか


 せめて普通の村人とか


 何かあったはずだ


 美形でなくていい


 若返っていなくてもいい


 贅沢は言わない


 ただ、人間ではいたかった


「よりによって、これ何やねん……」


 自分の手を見る


 答えは出ない


 だが、この姿には妙な既視感があった


 ゲームや漫画で何度も見た


 緑色


 小柄


 人型


 粗末な格好


「……ゴブリン?」


 呟いた瞬間だった


 視界の中に、何かが現れた


「うわっ!」


 反射的に後ろへ下がり、木の根に足を引っかけた


「ギャッ!」


 尻から落ちた


「いったぁ……!」


 痛い


 夢ではない


 たぶん


 だが、それどころではなかった


 目の前に、半透明の何かが浮かんでいる


 板


 いや


 画面と言ったほうが近い


 俺が顔を動かしても、それは視界の一定位置に浮かび続けていた


「……何これ」


 文字が並んでいる


 なぜか読める


 日本語ではない


 見たこともない文字のはずなのに、意味だけが自然に頭へ入ってくる


 そこに書かれていた


 NAME セイジ


 RACE ゴブリンメイジ


 LEVEL 1


 HP F+


 MP E+


 筋力 F


 耐久 F+


 敏捷 E-


 器用 E


 精神 E+


 魔力 E+


 SKILL  《魔力感知》  《魔力操作》


 TITLE  なし


「…………」


 もう一度読む


 NAME


 セイジ


「名字消えてるやん」


 そこか


 自分でも思った


 もっと気にするところがある


 だが、あまりに情報量が多すぎて、逆に細かいところが気になった


 間宮誠司ではなく、セイジ


 そして


「ゴブリン……メイジ」


 ただのゴブリンですらなかった


 メイジ


 つまり魔法使い


「……いや、ちょっと待って」


 俺は画面を眺める


 ゲームみたいだ


 レベル


 能力


 スキル


 ランク


 こういうものなら、ある程度は理解できる


 問題は数値ではないことだ


「FとかEとか……これ、強いんか?」


 見た感じ、強くはなさそうだ


 少なくとも、SSとかAとかなら強そうだが、Fが並んでいる


 その中ではEが比較的多い


「筋力F……」


 腕を見る


 納得した


「そらそうやろな」


 細い


 どう見ても力仕事向きではない


 それより気になるのは、魔力だった


 魔力E+


 MPもE+


 ゴブリンメイジという種族名


 そしてスキル


 《魔力感知》


 《魔力操作》


「……魔法、使えるんか?」


 そう考えた瞬間、別の情報が頭に浮かんだ


 火


 水


 風


 土


 光


 闇


 六つ


 どれも自分に適性がある


「全部?」


 一瞬、期待した


 すごいやん、と


 ゴブリンなのはともかく、全属性魔法使えるなら、だいぶ話が変わってくる


 だが、実際に使えるものを探ろうとすると、すぐに現実を突きつけられた


 使える魔法


 《火弾》


 以上


「……一個?」


 水


 使えない


 風


 使えない


 土


 使えない


 光


 使えない


 闇


 使えない


 回復


 使えない


 空間


 使えない


 上級魔法


 当然使えない


 無詠唱


 これも無理


「適性あるだけかい」


 思わず地面を叩いた


 ぺち


 弱い音がした


「……筋力F」


 悲しくなってきた


 だが、落ち込んでいても仕方がない


 今いる場所がどこなのかも分からない


 食べ物もない


 水もない


 そもそも、この森に何がいるのかも分からない


 ゴブリンがいる世界なのだから、もっと危険なものがいてもおかしくない


 俺は立ち上がった


 やはり目線が低い


 前世の感覚で立つと、自分の身体が妙に軽く感じられる


 ただし、軽いから速いというわけではなさそうだ


 少し歩いてみる


「……歩けるな」


 当たり前のことに安心する


 走ってみる


「おっ」


 思ったより動ける


 ただ、数歩で木の根につまずいた


「うおっ!」


 両手をばたつかせ、何とか踏ん張る


「危な……」


 敏捷E-


 器用E


 この差が何を意味するのかは分からない


 少なくとも、転生したからといって身体を完璧に扱えるわけではないらしい


「まず身体に慣れなあかんな……」


 俺は周囲を見回した


 木々は高い


 幹の太さもまちまちだ


 地面には低木や草が多いが、歩けないほどではない


 どこかに道があるようには見えない


 ただ、森の奥へ行くほど光が少なくなっているような気がした


 逆側は比較的明るい


「……明るいほう行くか」


 根拠はない


 だが、暗い森の奥へ進むよりはいい


 その前に


「火弾、試しといたほうがええよな」


 唯一の攻撃手段


 使い方を知らないまま何かに襲われるのはまずい


 周囲を見る


 乾いた草が多い場所は避けたい


 森で火事を起こしたら、転生初日にして人生終了である


「異世界来て最初にやったことが山火事とか、洒落ならんで」


 少し歩くと、土がむき出しになった場所があった


 そこに、倒れた古い木がある


 湿っていて、苔も生えている


「あれなら……大丈夫か?」


 右手を前へ出す


 どうする


 火弾


 頭の中には、魔法の存在だけは分かる


 だが、説明書があるわけではない


 唱えるのか


 魔力を込めるのか


「……火弾」


 何も起きない


「ファイアボール?」


 何も起きない


「火よ、我が敵を焼き尽くせ!」


 何も起きない


「…………」


 恥ずかしい


 誰もいないのに恥ずかしい


「ちゃうんかい」


 そこで、《魔力感知》という言葉を思い出した


 意識を自分の内側へ向ける


 すると


「……あ」


 何かある


 胸の奥


 いや、腹の奥


 身体の中心に、温かいものが流れている


 血液とは違う


 目では見えない


 けれど、確かに感じる


「これが……魔力?」


 意識すると、それは身体中へ薄く広がっていた


 右腕へ意識を向ける


 すると、ゆっくりと何かが集まってくる


「おお……」


 面白い


 思わず声が出た


 右腕から手のひらへ


 温かいものが移動する


 ただ、少し気を抜くと散ってしまう


「待て待て逃げんな」


 もう一度


 集める


 散る


 集める


 散る


「むずっ」


 三度目


 今度は急がず、流れを感じる


 押し込むのではなく、誘導する


 水を手ですくうような感覚


 少しずつ


 右腕へ


 手のひらへ


 すると、今度は残った


 小さな熱


「これか」


 《魔力操作》


 たぶん、今やっているのがそれだ


 手のひらに集めた魔力へ意識を向ける


 そして


 《火弾》


 今度は言葉ではなく、意味を強く思い浮かべた


 瞬間


 手のひらの前に、赤い光が生まれた


「うおっ!」


 驚いて腕を振った


 赤い塊が飛んだ


 狙っていた倒木ではなく、その横の地面へ


 ぼっ


 土が弾けた


「…………」


 小さな炎が一瞬だけ立ち、すぐ消える


 焦げた匂いが漂ってきた


 俺は固まった


「出た……」


 右手を見る


「出たやん!」


 もう一度、倒木を見る


 今度こそ


 魔力を集める


 一回目より少し楽だ


 手のひらへ


 形にする


 《火弾》


 赤い火の塊が生まれる


 狙う


「そこ!」


 放つ


 火弾が真っすぐ飛び――


 ぼんっ!


 倒木に当たった


 黒い焦げ跡ができ、表面の苔が焼けた


「おおお……!」


 思わず駆け寄った


「魔法や……ほんまに魔法やん」


 触ろうとして、慌てて手を引く


「熱っ!」


 当たり前だ


 自分で焼いたばかりである


 だが、笑いが込み上げた


 さっきまでの不安が、ほんの少しだけ薄くなる


 魔法


 子どもの頃なら、一度は想像したことがある


 手から火を出す


 そんなことが、本当にできた


「すごいやん、俺」


 調子に乗って、もう一発


 ぼっ


 外れた


「……まあ、練習は必要やな」


 さらに一発


 今度は当たる


 続けて撃とうとして


「……ん?」


 身体が妙に重くなった


 息が少し乱れている


 胸の奥にあった温かいものも減っている


「これ、MPか」


 数値では見えない


 だが、分かる


 残量そのものを数字で言えと言われても無理だが、使えば減る感覚ははっきりある


「無限には撃てへん、と」


 当たり前だ


 何発撃てるのか試したい気もしたが、やめた


 この森で魔力切れになるのは危険すぎる


「使えるんは分かったそれで十分や」


 俺はその場を離れた


 しばらく歩く


 喉が渇いてきた


 水


 まず水が欲しい


 耳を澄ませる


 風


 葉


 鳥


 それ以外


「……水の音?」


 微かに聞こえる


 そちらへ向かった


 何度か枝に引っかかり、低い茂みを抜ける


 やがて小さな流れが見えた


「おお……!」


 幅は狭い


 小川と呼ぶほどでもないかもしれない


 だが水は澄んでいる


 俺は近づき、しゃがみ込んだ


「飲んで大丈夫なんかな」


 日本なら、生水は避ける


 だが今は他に選択肢がない


 少しだけ手ですくう


 匂いを嗅ぐ


 変な臭いはしない


 口へ


「……うま」


 冷たい


 もう一口


 今度はしっかり飲む


 身体へ水が染み込んでいくようだった


「生き返るわ……いや、一回死んでんねんけど」


 自分で言って、笑えなかった


 死んだ


 やはり、その事実は重い


 俺は水面を眺めた


 揺れる水


 その中に


 何かが映っている


「…………」


 緑色


 尖った耳


 低い鼻


 人間より大きく裂けた口


 黄色っぽい目


 小柄な身体


 俺は動かなかった


 水面のゴブリンも動かない


 いや


 俺が動けば、そいつも動く


 右手を上げる


 水面のゴブリンも右手を上げる


「…………これ」


 分かっていた


 手を見た時点で


 STATUSを見た時点で


 RACEにゴブリンメイジと書かれていた時点で


 分かっていたはずなのに


 実際に顔を見るのは、違った


「俺……なんやな」


 水面へ手を伸ばす


 波紋が広がる


 ゴブリンの顔が崩れる


 しばらく待つと、また戻ってきた


「……マジかぁ」


 その場に座り込んだ


 魔法が使える


 異世界


 転生


 そんな言葉だけなら、少し心が躍った


 けれど


 俺は、人間ではない


「せめて……人間がよかったなぁ」


 ぽつりと呟く


 異世界でやりたいことなんて、大層なものはなかった


 世界を救いたいわけでもない


 王様になりたいわけでもない


 最強になって暴れ回りたいわけでもない


 前の人生で十分疲れた


 もし本当にもう一度生きられるなら


 静かなところで


 飯を食って


 寝て


 気の合う誰かと喋って


 たまに面白いことがあって


 そんな生活でよかった


「スローライフとか……ゴブリンでもできるんかな」


 水面の自分を見る


「……無理そうやなあ」


 どう考えても、人間の村へ行って「今日から住ませてください」と言える顔ではない


 そもそも言葉すら人間のものではない


「これ、人と会ったらどうなんねやろ」


 嫌な想像が浮かぶ


 悲鳴


 剣


 討伐


「……いやいや決めつけんのはよくない」


 人間がいるかどうかすら分からない


 もしかしたらゴブリンが普通に暮らしている世界かもしれない


 ゴブリンの町があって、パン屋のゴブリンとか、八百屋のゴブリンとかいるかもしれない


「それはそれで見てみたいけど」


 少しだけ気持ちが軽くなった


 俺は立ち上がる


 考えていても仕方がない


 まず、この世界を知る


 食べ物を探す


 安全な場所を見つける


 そして可能なら、人を探す


「人……でええんかなまあ、誰かやな」


 一人というのは、想像以上に心細かった


 前世では一人で過ごす時間も嫌いではなかった


 だが、いつでも誰かと連絡できる一人と、この森に本当に誰もいない一人では意味が違う


 俺は明るい方向へ歩き始めた


 どれくらい歩いただろう


 時間を確認するものがない


 太陽も木々に遮られて、位置がよく分からない


 ただ、少しずつ森の様子が変わってきた


 草が踏まれている


「……これ」


 しゃがみ込む


 獣道


 いや


 もっとはっきりしている


 同じ場所を何度も何かが通っている


 さらに進む


 切られた枝を見つけた


 断面は自然に折れたものではない


「誰かおる」


 胸が高鳴った


 人間か


 それともゴブリンか


 別の何かか


 分からない


 だが、少なくとも知性のある存在がいる可能性が高い


 慎重に進む


 やがて


 声が聞こえた


「――――!」


 俺は足を止めた


 人の声


 間違いない


「人や!」


 嬉しさが先に来た


 木の陰から覗く


 三人


 人間だった


 少なくとも、俺にはそう見えた


 武器を持っている


 森の中を歩く姿も慣れている


 先頭にいるのは、がっしりした体格の男


 残りの二人も周囲を警戒している


「ほんまに人おるやん……」


 胸の奥が熱くなった


 たった数時間


 もしかしたら、それより短いかもしれない


 それでも、目覚めてから初めて見る他人だった


 人間


 知っている形


 知っている存在


「よかった……」


 思わず木の陰から出た


 三人が一斉にこちらを向く


「おーい!」


 手を上げる


「俺、怪しいもんちゃうで!」


 出たのは


「ギャッ! ギャギャ、グァ!」


 ゴブリンの声だった


「…………あ」


 忘れていた


 三人の表情が変わる


 先頭の男が武器へ手をかけた


「――――!」


 何か言っている


「え?」


 俺は足を止めた


「――――! ――――!」


 聞き取れない


 日本語ではない


 いや、どんな言語なのかすら分からない


「何言うてんの?」


 当然、こちらの言葉も通じない


 一歩、近づいた


 三人の緊張が強くなる


 先頭の男が何かを叫んだ


 短い言葉


 命令するような強い口調


「……?」


 意味が分からない


 俺は首を傾げた


「大丈夫やって俺、人間やから」


 言ってから


「……ちゃうわ」


 今はゴブリンだ


 最悪だった


 どう説明すればいい


 言葉は通じない


 見た目はゴブリン


 相手は武装している


「敵ちゃうって、どうやったら伝わるんや……」


 両手を上げる


 武器を持っていないことを示す


 これなら分かるだろう


 そう思った


 だが、そのとき


 先頭の男の視線が、俺の後方へ動いた


 俺もつられて見る


 木の幹


 黒い焦げ跡


「あ」


 さっきの火弾


 練習しながら移動したせいで、ここへ来る途中にも何ヶ所か痕跡を残していた


 まずい


 何がまずいのか分からないが、相手の表情を見れば分かる


 警戒が一段上がった


「いや、これはちゃうねん」


 何が違うのか、自分でも説明できない


 魔法を撃ったのは事実だ


 先頭の男がもう一度叫ぶ


「――――!」


 おそらく警告


 だが意味が分からない


「分からへんって!」


 焦る


 どうする


 魔法


 そうだ


 火を出して、攻撃せず消せば


 いや


 何か別の使い方ができれば


 自分に敵意がないと示せるかもしれない


 俺は無意識に魔力を集め始めた


 胸の奥から右腕へ


 手のひらへ


 その瞬間


 三人の反応が変わった


「――ッ!」


「え?」


 先頭の男が動いた


 速い


 何かが横から飛んできた


「うわっ!」


 反射的に身体をひねる


 直後


 俺が立っていた場所のすぐ横へ、それが突き刺さった


 矢


「…………え?」


 地面に刺さった矢を見る


 頭が真っ白になった


 撃たれた


 俺が


「ちょ、待て!」


 次の攻撃


 今度は正面


 男が一気に距離を詰めてくる


「うわああっ!」


 逃げた


 考えるより先に身体が動いた


 背中を向け、森へ飛び込む


「――――!」


 後ろから声


 追ってくる


「なんでやねん!」


 枝が顔に当たる


 痛い


 木の根を飛び越える


 危うく転ぶ


「話! 話したら分かる!」


「ギャギャギャ!」


 分かるわけがない


 俺の口から出ているのはゴブリンの声だ


 後ろから何かが飛んできた


 木に当たる


 びくっと身体が縮む


「殺す気か!」


 いや


 狙いが微妙にずれている


 足元


 進路


 追い立てるような攻撃


 そんなことを冷静に考える余裕はなかった


 怖い


 純粋に


 怖かった


 死ぬ


 また死ぬ


 せっかく生き返ったのに


「嫌や!」


 走る


 息が苦しい


 小さな身体


 前世より軽いが、体力があるわけではない


 枝を掻き分ける


 木と木の間を抜ける


 後ろの足音が近い


「くそっ……!」


 魔法


 火弾


 撃てば


 頭に浮かんだ


 だが


 撃てなかった


 人間だ


 相手は俺を襲っている


 それでも、まだ俺は相手を殺したいわけではない


「なんで転生初日からこんなんなんねん!」


 右へ


 斜面


 そのまま滑るように下る


 足元の土が崩れた


「うわっ!」


 転んだ


 身体が一回転する


 肩を打つ


 痛い


 それでも立つ


 後ろを見る


 人影


「来んなって!」


 通じない


 俺は再び走った


 森の奥へ


 明るい方向から離れて


 人間がいた場所から離れて


 必死に


 ただ必死に


 やがて


 声が聞こえなくなった


 足音も


 追ってくる気配も


 それでも俺は走った


 しばらく走って


 もう無理だと思ったところで、大きな木の根元へ倒れ込んだ


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息が苦しい


 喉が痛い


 心臓が激しく鳴っている


 耳を澄ます


 何も聞こえない


 追ってきていない


「……助かった?」


 返事はない


 俺は木へ背中を預けた


 手が震えていた


「……怖っ」


 笑おうとした


 無理だった


 矢が地面へ刺さった光景が何度も浮かぶ


 あと少しずれていたら


 身体に刺さっていた


 人間を見つけたとき、嬉しかった


 やっと誰かに会えたと思った


 話せると思った


 助けてもらえるかもしれないと思った


 なのに


「そら……そうか」


 自分の手を見る


 緑色


「向こうから見たら、俺……ゴブリンやもんな」


 しかも


 森


 一人


 魔法を使った痕跡


 近づいてくる


 何か言われても止まらない


 そのうえ魔力まで集めた


「……俺でも怖いわ」


 相手の立場で考えれば、少しだけ理解できた


 人間だった頃の俺が森を歩いていて、突然ゴブリンが現れたら


 しかも何か叫びながら近づいてきて


 止まれと言っても止まらず


 手に魔力を集め始めたら


「……攻撃するかもしれんな」


 もちろん、だからといって怖くなかったわけではない


 納得できたわけでもない


 ただ


 この世界での自分の立場を、少しだけ理解した


 俺は人間ではない


 少なくとも、他人から見れば


 言葉も通じない


 姿も違う


 何も知らない


 魔法が一つ使えるだけ


 レベルは一


「……詰んでへん?」


 口に出したら、本当に詰んでいる気がしてきた


「いやいやいや」


 首を振る


「死んだんやぞ、俺」


 一度


 前の人生は終わった


 理由が何であれ、今はもう一度生きている


 だったら


「初日に諦めてどうすんねん」


 膝を抱える


 怖い


 不安だ


 帰りたいという気持ちもある


 でも、帰る場所はもうない


 日本の生活は終わった


 ここがどこなのか


 なぜ転生したのか


 どうしてゴブリンなのか


 何ひとつ分からない


 それでも


 腹は減る


 喉も渇く


 痛ければ痛い


 怖ければ逃げたくなる


 生きている


「……ほな、まずは」


 立ち上がる


 足が少し震えた


 それでも立った


 森を見回す


 さっきまでとは違って見えた


 目覚めたときは、知らない場所だった


 魔法を使えたときは、少し面白い場所に思えた


 人間を見つけたときは、助けてもらえる場所に思えた


 今は違う


 ここは


 何も知らずに歩いていい場所ではない


「生き残ろ」


 声に出す


 森の中に、ゴブリンの低い声が響いた


「まず、生き残る」


 水を探す


 食べ物を探す


 安全に眠れる場所を探す


 魔法を覚える


 この身体に慣れる


 この世界を知る


 人間に近づくのは――


「……もうちょい考えてからやな」


 さすがに懲りた


 俺は自分の頬を軽く叩いた


「よし」


 ぺち


「……弱っ」


 筋力F


 こんなときまで律儀に仕事をしなくてもいい


 ほんの少しだけ笑えた


 それで十分だった


 俺は森の奥を見る


 知らない世界


 知らない身体


 知らない言葉


 手元にあるのは、一発の火を生み出す魔法と、前世の記憶


 それだけ


 英雄になるつもりはない


 世界を救う予定もない


 大それた野望もない


 できれば静かに暮らしたい


 美味いものを食べて


 安心して眠れて


 たまには誰かと笑えて


 そんな生活ができれば、それでいい


 ただ


 そのためには


「まず今日を越えなあかんな」


 俺は歩き出した


 今度は、人間がいた方向とは逆へ


 森のさらに深いほうへ


 一歩


 もう一歩


 小さな緑色の足で、湿った土を踏む


 木漏れ日の届かない場所へ入る直前、俺は一度だけ振り返った


 人間の姿はない


 声も聞こえない


 少し寂しい


 けれど今は、それでいい


「……いつか、ちゃんと話せたらええな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた


 返ってくるのは、葉の擦れる音だけだった


 俺は前を向く


 こうして


 間宮誠司、三十九歳


 異世界での二度目の人生は――


 ゴブリンとして、生き残るところから始まった

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