逃げた家畜を追いかけろ
第18回 逃げた家畜を追いかけろ
朝
俺は昨日作った壁の前に立っていた
枝を編み、草を混ぜた泥を塗った部分
まだ完成には遠い
でも風は少し弱くなった
「ええやん」
指で軽く叩くと、乾いた泥がこんこんと鳴る
ひびも昨日より少ない
ローデンに言われた通り、細かくした草を混ぜたのが良かったらしい
「土魔法なくても、ちゃんと壁できるな」
少し悔しいような、安心したような複雑な気分だ
土魔法はまだ使えない
でも家は進んでいる
魔法がないと何もできないわけではない
それは昨日分かった
横ではルッカが塩を見ていた
正確には、小さな袋に入った塩をものすごく真剣に見ている
「……食うなよ」
「食べる?」
「そのまま食うもんちゃう」
「肉」
「肉焼いてからな」
「塩」
「そうそう」
「肉、塩」
「昨日からそればっかりやな」
昨日、人間側との交換で手に入れた塩
一度味を知ったルッカは、完全に気に入ってしまった
肉を失うのをあれだけ嫌がっていたのに、塩のためなら交換するというところまで価値観が変わった
恐るべし塩
俺も人のことは言えない
前世では当たり前すぎて意識もしなかった
でも何日もまともな味付けなしで肉を食べ続けたあとに塩を口にすると、ありがたみが違う
「今日の昼も塩焼きやな」
ルッカの顔が明るくなる
「塩」
「使いすぎたらなくなるから少しやぞ」
「少し」
「そう」
俺は新しく手に入れた小さな器へ右手を向ける
「《水球》」
掌の上に透明な球ができる
昨日より少しだけ自然に出た
大きさは拳より小さい
そのまま器へ落とす
ぱしゃ
もう一回
「《水球》」
ぱしゃ
朝の飲み水くらいなら、これで十分
「便利やなあ」
水場まで行かなくていい
ほんの数日前なら、朝起きて水が少なければ最初に汲みに行っていた
今はここで出せる
大量には無理だけど、朝飲む分、手を洗う分、料理に少し使う分
その程度ならかなり楽になった
「水」
ルッカが器を見る
「飲む?」
「飲む」
渡す
ルッカが飲む
そして、
「水」
「毎回確認せんでも水や」
俺も少し飲む
普通の水
それがいい
特別な味なんていらない
生活で使うなら、普通が一番だ
左腕を軽く回す
「よし」
痛みはほとんどない
傷そのものはまだ少し残っている
でも普通に動かす程度なら問題なさそうだ
重いものを長時間持つのはまだ怖い
それでも戦いの翌日とは比べものにならない
「今日は壁の続き――」
そう言いかけた時、ルッカが顔を上げた
森の向こうを見る
俺も止まる
「人間?」
ルッカは耳を澄ませる
少しして、
「人間」
俺も魔力感知を広げる
二人
片方は知っている
「エナ?」
もう一人も何度か感じたことがある
「ダリオか」
しばらくすると、木々の間からエナが現れた
いつもより速い
後ろにダリオ
二人とも少し息が上がっている
「おはよう」
俺が言う
エナも、
「おはよう」
と返す
でも今日はいつもの笑顔が薄い
「どうした?」
短い言葉なら、かなり自然に出るようになった
エナは森の奥を指した
次に村があるらしい方向
それから何かが走る仕草
「逃げた」
「逃げた?」
「家畜」
知らない言葉
「何?」
エナが困る
ダリオが両手を頭の横に上げ、角みたいにする
「メエ」
「……」
ダリオを見る
ダリオが少し恥ずかしそうな顔になる
「笑うな」
まだ笑っていない
でも意味は分かった
「ヤギ?」
エナが頷く
「ヤギ」
「ヤギ、逃げた?」
「そう」
何頭か、数を指で示す
三本
「三?」
前にローデンに少し教わった数字だ
「三」
三頭
「森?」
「森」
なるほど
村のヤギが三頭、森へ逃げた
「なんで?」
これは難しい
エナとダリオが説明する
長い
ほとんど分からない
聞き取れたのは、柵、壊れる、逃げる、朝
そのくらい
「柵、壊れた?」
「そう」
ダリオが頷く
「三頭、森に入った」
「三、ヤギ、森」
「そうだ」
ダリオが森を見る
「追った」
人が歩く仕草
「でも」
さらに森の奥
「危ない」
「ああ」
村の人間だけで追いかけた
でも深く入りすぎるのは危険
魔物もいる
狼みたいな獣もいる
だから戻った
そこまでは理解できた
そしてエナがルッカを見る
「ルッカ」
「何?」
「足跡」
地面を指す
「追う」
ルッカがすぐ理解する
俺も分かった
「ルッカに探してほしい?」
エナの表情が明るくなる
「そう」
少し間を置いて、俺も指される
「セイジも」
「俺も?」
「危ない時」
エナが火を出す仕草
「火」
「ああ」
なるほど
追跡はルッカ
危険が出たら俺
「頼む」
ダリオが言った
短い
はっきり分かった
俺は少しだけ止まった
頼む
人間が、俺たちに頼んでいる
昨日は交換だった
その前は家を教えてもらった
その前は傷を治してもらった
今度は向こうが困って、俺たちのところへ来た
「……ええで」
日本語で答える
通じない
だから頷く
「行く」
エナがほっとした顔になる
ダリオも少しだけ肩の力を抜いた
「ルッカ」
俺が呼ぶ
「ヤギ」
ルッカが首を傾げる
角を作る
「ヤギ」
「食べる?」
「食うな!」
一番大事なところだ
「人間の」
エナを指す
「ヤギ」
ルッカ、森
「探す」
「探す」
「食べない」
念を押す
「……食べない」
少し残念そうなのが気になる
「絶対やぞ」
意味は分からなくても、顔で伝わったらしい
ルッカが槍を取る
俺も立つ
水を少し飲む
念のため木の器へ《水球》を入れて持つ
左腕も確認
問題なし
「行こか」
四人で森へ向かう
途中、ダリオが何度か俺を見る
「何?」
「いや」
「何?」
「腕」
「ああ」
左腕を上げる
「大丈夫」
曲げる
伸ばす
「ほとんど痛くない」
長く言いすぎた
ダリオは「痛くない」だけ聞き取ったらしい
「ならいい」
前なら、ダリオに身体の心配をされるなんて考えられなかった
なんだか変な感じだ
少し歩くと、森の端に近い場所へ出た
そこには人間が二人待っていた
村人だろう
俺たちを見る
固まる
分かりやすい
「ゴブリン……」
聞こえた
ルッカも人間を見る
村人は一歩下がる
ダリオが何か説明する
エナも
男たちはまだ怖そうだ
当然
俺は何もしない
ただ立つ
ルッカにも、
「待つ」
と言う
やがて一人が地面を指した
足跡
「ここ?」
エナ
「ここから」
その先は森
ルッカがしゃがむ
急に表情が変わった
さっきまで、
ヤギ食べる?
とか言っていた奴とは別人みたいだ
地面を見る
葉、土、折れた草、小さな跡
一つずつ指で触る
匂いも嗅ぐ
「分かる?」
俺が聞く
ルッカは頷く
「三」
「三頭?」
「三」
もう分かるのか
俺が見ても、地面に跡があるくらいしか分からない
ルッカは少し進み、また止まる
「こっち」
迷いがない
「すご」
エナも驚いている
ダリオは、
「任せた理由が分かった」
みたいなことを言う
長いので無視する
森へ入る
ルッカが先頭
俺
エナ
ダリオ
村人二人は森の入口付近に残ることになった
危険だからだろう
少し進む
ルッカはほとんど止まらない
たまに地面を見る
葉を見る
木の枝を見る
「ここ」
草が押し倒されている
「ヤギ?」
「ヤギ」
少し先では木の皮が剥がれている
「これも?」
「ヤギ」
「何で分かるん?」
「ヤギ」
答えになってない
でも分かっている
それでいい
途中、足跡が二方向へ分かれた
ルッカが止まる
地面を見る
「二」
右
「一」
左
「分かれたんか」
三頭一緒ではない
二頭と一頭
どちらから行く
ルッカは右を指す
「近い」
「近い?」
「二、近い」
「じゃあ二頭から」
エナも頷く
右へ進む
少しして、
「メエエ」
聞こえた
「お」
ヤギ
本当にいる
俺が進もうとすると、ルッカが腕を伸ばして止める
「待つ」
今度は俺が言われた
「何?」
ルッカが前を指す
茂みの向こう
白っぽい毛
一頭
もう一頭
二頭いる
でも様子がおかしい
一頭は草を食べている
もう一頭は蔓のような植物に角が引っかかっている
動くたび、さらに絡まる
「うわ」
エナが近づこうとする
ヤギが暴れる
「メエエエ!」
「待って」
俺が止める
近づけば怖がって余計暴れる
角がもっと絡むかもしれない
「どうする?」
俺はルッカを見る
先生の出番だ
ルッカはしゃがんだまま、ヤギと周りを見る
そして俺たちへ、
「待つ」
と言う
自分だけゆっくり近づく
ヤギが気づく
身体が強張る
ルッカは止まる
何もしない
しばらく待つ
一歩
また止まる
ヤギが鳴く
ルッカは止まる
少しずつ
少しずつ
「……上手いな」
俺なら、さっさと近づいて蔓を切ろうとしていた
たぶんもっと暴れさせた
ルッカはヤギが落ち着く速度に合わせている
ようやく近くまで行く
腰の袋から、前に採った食用草を少し出した
「それ持ってたん?」
さすが食い物担当
ヤギへ差し出す
匂いを嗅ぐ
食べる
その間に、ルッカが角へ絡んだ蔓を見る
引っ張らない
絡み方を確認
一本ずつ外す
器用だ
最後の一本
する、と抜けた
ヤギが自由になる
でも逃げない
草を食べ続けている
「……すご」
エナが小さく言う
俺も同じ
すごい
魔法なんていらない
《火弾》も《水球》も《治癒》も何も
ただ森を知っていて、獣を知っていて、どう近づけばいいか分かっている
それで解決した
ルッカが俺を見る
得意そうだ
「ルッカ、すごい」
言う
「すごい」
自分で言うな
でも今日は言っていい
もう一頭もルッカが食べ物で寄せる
エナが持っていた紐を使う
二頭を繋ぐ
「これ、帰す?」
エナが頷く
「でも一頭」
まだ残っている
二頭をここへ置いて探しに行くわけにはいかない
ダリオが連れて戻る案を出す
でも一人減る
セイジ、ルッカ、エナで残り一頭を探す
それでも問題ない
「俺、行く」
ダリオが言う
二頭を連れて森の入口へ戻る
「大丈夫?」
「このくらいならな」
「無理しない」
言う
ダリオが少し妙な顔で俺を見る
「何?」
「お前、本当に言葉増えたな」
全部は分からない
でも、たぶん褒められた
「少し」
俺が返す
ダリオが笑う
二頭を連れて戻る
俺、ルッカ、エナ
三人になる
分岐まで戻る
左へ
一頭の跡
さっきより森の奥
「遠い?」
「少し」
ルッカが答える
進む
森が少し暗くなる
地面の草も減る
途中、ルッカが何度か止まる
足跡が見えにくくなっているらしい
それでも折れた枝、削れた苔、落ちた毛
そんなものを見つける
「俺には全然分からんな」
エナも同じらしい
二人でルッカの後ろをついていく
しばらくして、ルッカが止まった
低くなる
俺もすぐ止まる
「何?」
ルッカが前を指す
「ヤギ」
いる
でも、それだけではない
「何かいる?」
ルッカが頷く
俺も魔力感知を広げる
少し先
ヤギらしい大きさとは別
小さい反応
一つ
二つ
三つ
「獣」
エナも気づく
茂みの向こう
一頭のヤギが木の根元へ追い詰められている
その少し手前
狼よりずっと小さい、細身の肉食獣が三匹
ヤギを囲んでいる
まだ襲いかかってはいない
でも時間の問題
「火?」
エナが俺を見る
俺も右手を見る
《火弾》
撃てる
三匹
倒すなら一匹ずつ狙う
でもヤギが近い
火を撃てば驚いて逃げる
下手をすればもっと森の奥へ
あるいはヤギに当たる
乾いた草もある
森で火を使う
危ない
「……倒さなくていい」
日本語で呟く
エナは分からない
俺は獣を指す
森の横
「逃げる」
次に火
少し離れた地面
「火、ここ」
「ヤギ、違う」
ヤギには撃たない
獣にも直接撃たない
エナが理解する
「追い払う?」
知らない言葉
身振りで分かる
「そう」
右手を上げる
小さく
威力を抑える
「《火弾》」
炎が生まれる
獣たちの横、少し離れた地面へ撃つ
ぼっ
枯れ葉が一瞬燃える
小さな火
肉食獣たちが、びくっと跳ねる
一匹
二匹
俺を見る
「行け」
分からなくても声で十分
もう一発
今度は逃げてほしい方向とは反対
「《火弾》」
地面
ぼっ
三匹が走り出す
ヤギから離れる
森の奥
少しして気配が遠ざかる
「よし」
追わない
倒さない
必要ない
ヤギが無事なら、それでいい
火が残っている
「水」
すぐ《水球》
火の上へ
ぱしゃ
消える
もう一か所
《水球》
ぱしゃ
完全に消えたことを確認する
「……便利」
エナが言う
「火、水」
俺も言う
火を使って、水で消す
少し前まではできなかった
でも大事なのはそこではない
「殺さなくてよかったな」
俺は肉食獣が逃げた方向を見る
敵ではない
あいつらも食べるためにヤギを狙っただけ
俺たちを襲いに来たわけではない
倒せば経験値になるのかもしれない
レベルも上がるかもしれない
でも、だから殺すは違う気がする
必要なら戦う
危険なら倒す
食べるために狩ることもある
でも逃げれば終わるなら、それでいい
「セイジ」
ルッカがヤギを指す
そうだった
考えるのは後
ヤギ
怖がっている
俺たちが近づくと逃げる可能性がある
「ルッカ先生、お願いします」
当然通じない
でもルッカは任せろみたいな顔
また食用草を出す
「どんだけ持ってんねん」
小さい袋
ほぼ食べ物しか入っていない
ルッカがゆっくり近づく
さっきより時間がかかる
肉食獣に囲まれていたせいで、ヤギがかなり怯えている
一歩
止まる
一歩
止まる
ルッカは決して追わない
逃げようとしたら自分が下がる
距離を戻す
「……これ俺には無理やな」
待てない
たぶん俺なら、もうちょっと、もうちょっとと近づいて逃げられる
ルッカは違う
相手が落ち着くまで待つ
それを何度も繰り返す
ようやくヤギが草を食べた
次の一枚
また一枚
少しずつこっちへ
最後はエナが持っている紐を首の辺りへ通す
捕まえた
「やった」
エナが笑う
俺も、
「やった」
ルッカはヤギを見て、
「食べる?」
「食うなって」
最後までそれか
◇
帰り道は今度は少しゆっくり
ヤギを引っ張りすぎない
ルッカが前
ヤギ
エナ
俺
途中、ヤギが止まる
草を食う
また止まる
「自由やなあ」
急ぐと動かない
引っ張ると踏ん張る
ルッカが草を見せると動く
「完全にルッカの仕事やな」
俺はほとんど何もしていない
火弾二発
水球二回
それだけ
でも、それでいい
むしろ俺が全部やる必要がない
追跡はルッカ
動物を落ち着かせるのもルッカ
エナは紐や村側のこと
俺は危険が出た時だけ
それで解決した
少し前、俺は何でも自分でできるようにならないと、と思っていた
一人だったから
でも今は違う
誰かがいる
得意なことが違う
全部を奪う必要も、全部を覚える必要もない
森の入口が見えてくる
人の声
先に戻ったダリオ
村人たち
二頭のヤギ
そして俺たちが連れてきた一頭
「おお!」
村人が声を上げる
ヤギを見る
走ってくる
途中、俺たちを見て少し止まる
でもさっきとは違う
恐怖だけじゃない
一人がルッカを見る
何か言う
分からない
エナが短く言い直す
「ありがとう」
ルッカが、
「ドウイタシマシテ」
完璧に返した
村人が固まる
俺は笑う
エナも笑う
ダリオも横を向いて笑っている
もう一人の村人は俺を見る
「火を使ったのか?」
火だけ分かる
俺は頷く
「少し」
指で小さく示す
「倒した?」
知らない
身振り
獣
剣
倒れる
「ああ」
「倒さない」
首を振る
森
「逃げた」
村人が驚く
ダリオも
詳しい説明を聞いていなかったらしい
エナが話す
火を横へ撃って追い払い、水で消したこと
たぶんそんな内容
ダリオが俺を見る
「殺さなかったのか」
「必要ない」
言えるか考える
「ヤギ、大丈夫」
ヤギを指す
「獣、逃げる」
森
「終わり」
ダリオは少し黙った
そして、
「そうだな」
と答えた
短い
分かった
そう
終わり
それでいい
村人たちはヤギ三頭を確認する
怪我
大きなものはない
絡まっていた一頭は角の周りが少し擦れている
最後の一頭も怪我はなさそう
エナが見ている
「大丈夫」
よかった
本当に、よかった
俺はそこで初めて妙に安心した
ヤギなんて俺のものじゃない
名前も知らない
村の家畜
それだけ
でも無事に戻せた
人間が困って、俺たちを頼って、それに応えられた
「なんか……嬉しいな」
ルッカは俺を見る
「嬉しい?」
覚えたのか
「うん」
「肉?」
「ちゃうわ」
ルッカは分からない顔
「頼られた」
人間語では出ない
説明もできない
でも胸の辺りが少し温かい
《治癒》とは違う
自分たちが、この森でただ隠れて暮らすだけの存在ではなくなっている
誰かに必要とされた
ほんの少し
それが嬉しい
村人の一人が何かを差し出した
小さな布袋
「何?」
開ける
中は干した実のようなもの
「食べ物?」
頷く
「ありがとう」
礼らしい
受け取る
ルッカが覗く
「食べる?」
「食べる」
一つ渡す
ルッカが食べる
噛む
「甘い」
「ほんま?」
俺も一つ
甘い
少し酸っぱい
干した果物みたいな味
「うま」
塩の次は甘いもの
人間の暮らしには、まだまだ知らない味があるらしい
ルッカの目が輝いている
「交換」
「すぐ交換考えるな」
でも俺も考えた
これも欲しい
次に何と交換できるか聞こう
村人が俺とルッカを見る
まだ少し緊張している
でも最初より近い
ゴブリンという言葉を怖そうに言っていた人間が、今は食べ物を渡している
一日で全部変わったわけではない
たぶん村へ行けば、もっと怖がる人もいる
嫌う人も、攻撃しようとする人もいるかもしれない
だからまだ行かない
急がない
今は森の入口
このくらいでいい
「帰る」
俺が言う
エナが、
「もう?」
と聞く
「家」
壁を作る仕草
「壁」
エナが笑う
「家、作る?」
「そう」
「頑張って」
知らない言葉
首を傾げる
エナが拳を握って、
「頑張る」
「頑張る?」
「うん」
また一つ覚える
「頑張る」
俺も拳を握る
ルッカも、
「頑張る」
村人まで少し笑った
ダリオは、
「無理はするな」
と言う
無理
分かる
「大丈夫」
返す
ダリオの顔が嫌そうになる
「その言葉、嫌いになってきた」
分からない
でも何か言われたのは分かる
「何?」
「何でもない」
最近これ多いな
◇
エナたちと別れて、俺とルッカは家へ戻る
帰り道、追跡の跡を今度は俺も見ようとする
足跡、折れた草、毛
「これ?」
地面を指す
ルッカが見る
「違う」
「これは?」
「違う」
「これ」
「違う」
「全部違うやん」
ルッカが笑う
四つ目
「これ?」
「ヤギ」
「やった!」
初正解
何となく土が少し沈んでいる
「難しいな」
「難しい」
これも俺の言葉が完全に移った
「ルッカ、すごいな」
言う
ルッカが、
「すごい」
と胸を張る
今日は許す
本当にルッカがいなければ、ヤギは見つからなかった
俺の魔力感知では、近くまで行けば生き物の気配は分かる
でも、どっちへ行ったか、何頭か、いつ通ったか
そんなことは分からない
追跡は別物
俺には俺の得意
ルッカにはルッカの得意
エナにはエナ
ローデン
ミラ
ダリオ
それぞれできることが違う
そのほうがいい
「全部できる必要ないな」
ルッカが、
「何?」
と聞く
「ルッカ、森」
指す
「セイジ、魔法」
自分
「エナ、薬」
「エナ」
「ローデン、家」
「家」
「ダリオ……」
止まる
何だろう
剣?
戦い?
判断?
「ダリオ、難しい顔」
ルッカが言った
「それは役割ちゃう」
笑う
でも、なんとなくみんなの顔が浮かぶ
一人で生きていた頃にはなかった感覚
帰る場所だけじゃない
そこへ来る人
頼る人
頼られる人
少しずつ増えている
家へ戻る
壁
昨日より少し家らしくなった場所
「ただいま」
言ってみる
ルッカが、
「タダイマ?」
「帰ってきた時に言うねん」
説明できない
俺は岩陰を指す
外
歩く
戻る
「ただいま」
ルッカが考える
「タダイマ」
「そう」
次は、
「おかえり」
「オカエリ?」
「帰ってきた人に言う」
難しい
自分が外へ出る
戻る仕草
「ただいま」
ルッカ、
「オカエリ」
「そうそう」
もう一回
俺、
「ただいま」
ルッカ、
「オカエリ」
「完璧」
今度は逆
ルッカが外へ数歩行く
戻る
「タダイマ」
俺、
「おかえり」
ルッカが笑う
「家」
「家やな」
帰ってきて、ただいまと言う場所
それに、おかえりと返す相手
それがある
「ええな」
◇
昼は朝言っていた通り、塩を少し振った肉
それから、もらった甘い干し実
ルッカは完全に甘い実を気に入った
「甘い」
「うまいな」
「交換」
「分かった分かった」
また人間側が来たら聞こう
午後、壁作りを再開する
細い枝、草、泥、《水球》
今日は魔法の練習はしない
水球も泥を作る分だけ
新しい魔法も試さない
土魔法も今日はやらない
朝から森を歩いた
火弾も使った
水球も使った
左腕もほぼ治っているとはいえ、無理する必要はない
「今日は手で作る」
ルッカが、
「魔法、まだ?」
と聞く
「今日はなし」
「まだ」
「それ便利に使いすぎや」
枝を編む
ルッカが材料を渡す
俺が通す
交代
少しずつ、一面の壁が埋まる
途中、俺は思った
今日、魔法で一番役に立ったのは火弾でも水球でもない
いや、魔法は役に立った
肉食獣を追い払えた
火も消せた
でもヤギを見つけたのはルッカ
捕まえたのもルッカ
俺が火弾を使った時間なんて、ほんの数秒
「魔法使わんほうがいい時もあるんやな」
ヤギが蔓に絡まっていた時、火弾なんて撃ったら最悪だった
怖がらせる
暴れさせる
森を燃やすかもしれない
最後のヤギでも、直接獣を倒す必要はなかった
横に撃って逃がした
力があるから使う、ではない
必要だから使う
「これ大事かもな」
《火弾》が強くなればなるほど、きっともっと大事になる
いつか今より大きな魔法が使えるようになったとして、何でも吹き飛ばせばいいわけじゃない
家を守るための力で家ごと壊したら意味がない
仲間を守る力で仲間を怖がらせても意味がない
「使わない判断も、魔法使いやな」
勝手な理屈かもしれない
でも俺はそう思う
夕方
壁一面がかなり埋まった
まだ完全ではない
隙間もある
泥が乾いていない場所もある
でも向こう側が見えにくくなった
風も明らかに弱い
ルッカが壁の裏へ回る
俺は反対
見えない
「ルッカ」
「何?」
声だけ
「おお」
壁だ
ちゃんと壁
「家!」
向こうから叫ぶ
「家や!」
俺も返す
ルッカが入口から戻ってくる
得意そう
何もしていないみたいな顔しているけど、今日は材料も集めた
ヤギも見つけた
大活躍だ
「今日はルッカの日やな」
「ルッカ?」
「すごい」
「すごい」
やっぱり胸を張る
◇
夕食後、もらった干し実を一つだけ残す
明日の分
ルッカが見ている
「明日」
「食べる」
「明日」
「今」
「明日」
「少し」
「ダメ」
「交換」
「何と交換すんねん」
ルッカが肉を持ってくる
「肉、交換」
俺に?
「自分らの食いもん同士で交換してどうすんねん」
でも、ちょっと面白い
「肉二つ」
指二本
「干し実一つ」
ルッカ、難しい顔
「一」
干し実
「一」
肉
「ダメ」
「二」
「少し」
「三」
「交換」
「成立すんのかい」
干し実一つと肉三枚
ものすごい相場になった
もちろん本当に肉を取り上げるつもりはない
干し実を渡す
ルッカが嬉しそうに食べる
「甘い」
「よかったな」
◇
夜
焚き火の前で今日のことを考える
三頭のヤギ
一頭は絡まり、二頭は一緒
最後は獣に囲まれていた
全部、無事に戻った
誰も怪我をしなかった
人間も
俺たちも
ヤギも
肉食獣も死ななかった
LEVELは上がっていない
何か新しい魔法を覚えたわけでもない
STATUSすら見ていない
でも今日は、ちゃんと何かが増えた気がした
村の人間から、
ありがとう
と言われた
頼む
と言われた
ルッカの得意なことが誰かの役に立った
俺の魔法も必要な分だけ役に立った
「強くなるだけが成長ちゃうな」
誰かの役に立つ
人と繋がる
自分が何をするべきか考える
そういうものも、たぶん成長だ
「セイジ」
ルッカが寝床から呼ぶ
「何?」
「タダイマ」
「今ずっと家におったやろ」
「タダイマ」
「……おかえり」
ルッカが嬉しそうに笑う
「オカエリ」
「それ俺の台詞や」
笑う
でも悪くない
「ただいま」
俺も言う
「オカエリ」
返ってくる
家の中
壁が一枚増えた
薬草、塩、器、布、肉、木の実
森から、人間から、少しずつ増えたもの
そこに俺とルッカ
外にはエナたち、村の人たち、まだ知らない人間
怖がる人間もいる
それでも今日、誰かが困った時、俺たちを思い出してくれた
それだけで、この森の家が少し違って見える
誰にも知られない隠れ家ではなく、必要な時に誰かが訪ねてくる場所
そんな場所に少しずつ変わっている
「居場所って、こうやってできるんかな」
最初からあるものではない
家を作るみたいに一本ずつ
壁を作るみたいに少しずつ
人と関わって
助けて
助けられて
帰ってきて
ただいま、と言う
それで少しずつ、ここにいていい場所になる
俺は目を閉じる
明日はまた家を作る
土魔法もそのうち再挑戦する
水球も練習したい
でも急がなくていい
今日みたいに必要なことを、必要な分だけ
それでいい
「おやすみ、ルッカ」
「オヤスミ」
少しして、
「オカエリ」
と聞こえた
「もう寝ろ」
暗い岩陰に、ルッカの笑い声が小さく響いた




