傷は魔法で治せるか
第14回 傷は魔法で治せるか
朝、目を覚まして最初に確認したのは左腕だった
昨日より少しだけ楽になっている
少しだけ、だ
動かせばまだ痛いし、噛まれた辺りには熱が残っている
けれど、昨日の朝みたいに身体を起こしただけで顔をしかめるほどではない
「……悪くはなってへんな」
布の上から軽く触れると、ずき、と痛んだ
「痛いもんは痛いけど」
隣ではルッカが丸くなって寝ている
昨日あれだけ俺に寝ろ寝ろと言っていた本人が、今日は俺より遅い
焚き火はほとんど消えていた
わずかに残った赤い火が、灰の下でぼんやり光っている
俺は右手だけで身体を起こした
森の朝は静かだった
鳥の声、葉が擦れる音、遠くから聞こえる水の音
あの戦いの朝みたいな嫌な気配はない
魔力感知をほんの少し広げる
近くに大きな反応はない
魔力のほうも昨日より戻っている
まだ完全とは言い切れないけど、昨日の朝よりは明らかに楽だ
「回復はしてるな」
戦闘の翌日を丸々休んだのは正解だったらしい
身体も魔力も、一晩で全部元通りになるわけではない
そういうところは妙に現実的だ
ゲームなら宿屋で一泊すれば全回復なのに
「異世界なんやから、その辺もうちょい便利でもええやろ」
誰に文句を言っているのか自分でも分からない
火を起こそうとして、やめる
灰の中へ細い枝を入れて息を吹きかける
何度か繰り返すと、小さな炎が戻ってきた
「お」
魔法を使わずに済んだ
少し嬉しい
何でも《火弾》で解決していたら、魔力がいくらあっても足りない
それに、火を起こす程度なら普通にできたほうがいい
燃え始めた枝を見ていると、背後から声がした
「火」
「起きたんか」
振り返ると、ルッカが寝床から顔だけ上げていた
「火」
「今日は俺が勝ったで」
「?」
「魔法なし」
右手を振り、それから火を指す
「火、魔法、ない」
ルッカが起き上がって焚き火を覗き込む
しばらく見て、
「弱い」
「なんでやねん」
炎は確かに小さい
「これから大きくなるねん」
「弱い」
「お前、昨日からそれ好きやな」
ルッカが笑う
俺も笑った
昨日より身体が軽い
それだけで気分も違う
朝の食事は残っていた肉と木の実だった
相変わらず味気ない
塩が欲しい
ものすごく欲しい
塩だけじゃない
調味料全部欲しい
醤油なんて見つけたら泣くかもしれない
「いつか町とか行けたらなあ」
肉を噛みながら呟く
ルッカが首を傾げる
「町」
「分かる?」
「人間」
「まあ、だいたいそうやな」
俺の中では町と人間が直結している
実際、この辺りにどんな町があるのか俺は知らない
村があることは、これまでの人間たちの動きからなんとなく分かる
もっと大きな場所もあるはずだ
そこには塩もあるかもしれない
布も、道具も、鍋も
「鍋ほしいなあ」
「ナベ?」
「これくらいの」
両手で形を作ろうとして左腕が痛み、片手だけで丸を描く
「水入れて、火にかけて、肉入れて」
「肉」
そこだけ反応した
「肉だけ聞き取るな」
「肉」
「ほんま好きやな」
そんな話をしているうちに、太陽が少し高くなった
昨日ルッカが言っていたことを思い出す
人間が今日、近くまで来る
「ほんまに来るんかな」
ルッカを見る
「人間、今日?」
ルッカは頷いた
「来る」
「何時とか分からんよな」
「?」
当然だ
時計なんてない
そもそもルッカに時間を聞いても仕方がない
朝とか昼とか夕方とか、その程度だろう
俺は左腕を見る
人間に会うなら、昨日よりはましな状態でよかった
特にエナ
あの子には、この傷を見てもらいたい
それと、回復魔法
昨日、何度も試した
全部失敗
最後に一度だけ右手が温かくなった気がした
あれが何だったのか
もしエナから治療について何か教えてもらえれば、少し進むかもしれない
問題は、
「どう聞くかやな」
俺の人間語はまだ弱い
名前、危ない、大丈夫、待て、来る、行く、痛い、水、火、森
いくつか聞き取れる言葉は増えた
でも、医学の授業を受けられるほどではない
傷が治る仕組みを教えてください、なんて絶対に言えない
身振りで何とかするしかない
「傷、治る」
自分の腕を指す
「どうやって」
首を傾げる
「魔法」
右手をかざす
「……これで通じるか?」
ルッカが俺を見ている
「難しい顔」
「またそれ言う」
「難しい顔」
「はいはい」
午前の間は、拠点の近くで過ごした
今日は昨日より動ける
でも無理はしない
水汲みもルッカが行った
俺は岩陰の周りに落ちている枝を拾う程度
片腕だけでもできる
壁を作りたい場所も改めて確認した
岩陰の入口は広く、風が入る
雨も斜めからなら入ってくる
全部塞ぐと煙が困るから、一部だけ壁を作るのがよさそうだ
枝だけでは隙間だらけになる
葉、草、泥、土
いろいろ使えそうだ
「土魔法使えたら便利そうやな」
壁、器、かまど、排水、畑
土を動かせるなら、生活で使える場所はいくらでもある
昨日は回復魔法のことばかり考えていたけど、水も風も土も欲しい
火だけでも便利だった
一つ増えるだけで、できることが一気に増える
でも、
「今日は回復やな」
一度に全部は無理だ
まず傷
自分の身体で試せる今のうちに、少しでも手掛かりを掴みたい
昼が近づいた頃、ルッカが突然立ち上がった
俺も反応する
「来た?」
ルッカは森の奥を見る
槍を取る
でも、構えるまではしない
俺も魔力感知を広げた
いる
複数
三人
あの戦いで感じたことのある反応
「人間」
「来たな」
胸の奥が少しだけ緊張する
あの戦いでは一緒に戦った
だからといって、無条件で安心できるわけではない
俺は立ち上がり、左腕をかばいながら岩陰の外へ出る
ルッカも横に並ぶ
しばらくして、木々の間から最初に見えたのはダリオだった
剣は腰にある
手には持っていない
その少し後ろにエナ
そしてミラ
ローデンはいない
三人とも戦いの日より軽い装備に見える
少なくとも戦いに来た感じではない
ダリオがこちらを見つけ、足が止まる
俺も止まる
ルッカも止まる
少し離れた距離
誰もすぐには近づかない
あの戦いでは敵がいた
だから並べた
今日は違う
戦う理由がないからこそ、距離の取り方が難しい
最初に動いたのはミラだった
片手を上げる
「セイジ」
名前を呼ばれた
「ミラ」
俺も返す
少し驚いた顔をした
次に、
「エナ」
「はい」
エナが笑う
「ダリオ」
ダリオは少しだけ眉を上げた
「……覚えてるのか」
全部は聞き取れない
でもたぶん、名前を覚えていることに驚いた
「覚えた」
俺が言うと、ミラが笑った
「かなり言葉が増えたね」
速い
分からない
俺が首を傾げると、ミラは少しゆっくり言い直した
「言葉、増えた」
「ああ」
それなら分かる
「少し」
指で小さく示す
「少し」
エナが笑った
ダリオは周囲を見ている
岩陰、焚き火、干している肉、積まれた枝、水の器、寝床
視線が一つずつ動く
これまで、人間たちがここまで近くに来たことはない
俺は急に落ち着かなくなった
部屋に他人を入れた時みたいな感覚
掃除しておけばよかった
いや、掃除するほどの家ではない
そもそも床は地面だ
「……家」
気づけば口から出ていた
岩陰を指す
「家」
三人が見る
エナが俺を見る
ルッカも俺の横で、
「家」
と言った
ミラの表情が変わった
驚いたような、少し柔らかくなったような
「ここが?」
俺は頷く
「家」
ダリオは何も言わなかった
ただ、岩陰の中へ勝手に踏み込むことはしなかった
入口の少し手前で止まる
そのことに気づいて、少しだけ安心した
「ローデン?」
俺が聞く
三人の後ろを指す
名前を覚えている
でも姿がない
エナが自分の脚を指した
それから少し引きずるような仕草をする
「脚」
「足?」
「ローデン、脚、痛い」
「ああ」
脚の怪我がまだ残っていた
歩けないほどではなかったと思うけど、今日は休んでいるらしい
「大丈夫?」
俺が聞く
エナが頷いた
「大丈夫」
少し間を置いて、
「休む」
「そっか」
それならいい
今度はエナが俺の左腕を見る
表情が変わる
近づこうとして、一度止まった
俺を見る
「腕」
「痛い」
「見る?」
たぶん意味は分かった
俺は頷く
「お願い」
その言葉が通じたかは分からない
でもエナはゆっくり近づいた
ダリオが一瞬何か言いかけたが、止めなかった
エナは岩陰の入口付近にしゃがむ
俺も座る
ルッカはすぐ横
ダリオとミラは少し離れて立っている
エナが布を見る
「外す」
「うん」
昨日巻き直した布を取る
傷が出る
エナの眉が少し寄った
指で傷の周りを確認する
直接強く触らない
赤み、腫れ、熱を一つずつ見ている
「痛い?」
「ここ」
指で示す
「ここ、痛い」
「熱い?」
「少し」
エナが俺の言葉に少し驚いた
「熱い、分かるんだ」
「少し」
便利だな、この言葉
分からない時にも使える
エナは持ってきた袋を開いた
中には布と植物、小さな容器もある
傷を見るための準備をしてきたらしい
「これ」
エナが葉を見せる
「薬?」
口にしてみる
エナが反応した
「薬」
「薬」
一つ覚えた
ルッカも横から、
「薬」
と言う
エナが少し笑う
「そう、薬」
ルッカは得意そうな顔をした
お前、今覚えただけやろ
エナは傷を洗う準備を始める
持ってきた水を布に含ませ、丁寧に汚れを拭っていく
俺はその動きをじっと見る
これだ
知りたかったのは、傷をどう見るか、何をしているのか
エナが汚れを拭く
俺は指差す
「これ、何?」
エナが手を止める
「水」
「いや、それは分かる」
俺は傷を指す
次にエナの手を指す
「何する?」
言葉が足りない
エナも少し考える
ミラが近づいてきた
「どうしたの?」
速い
俺は両手を使えないので、右手だけで説明する
傷を指す
治療するエナの手を指す
そして右手を傷の上へかざす
「魔法」
三人の表情が変わった
「魔法?」
エナが聞く
「うん」
右手にほんの少し魔力を集める
火にはしない
ただ、集めるだけ
「傷」
傷を指す
「治す」
右手をかざす
「魔法」
エナが目を丸くした
ミラは俺と傷を交互に見る
ダリオは眉を寄せる
「回復魔法のことか?」
その言葉
回復
聞いたことがない
でも状況で分かる
俺はダリオを見る
「回復?」
ダリオが少し考えてから、傷を指す
「傷を治す魔法」
全部は分からない
でも、治す、魔法
この二つは分かる
「そう」
思わず身を乗り出す
「ある?」
「ある」
「あるんや!」
声が大きくなった
ルッカまで驚いた
「ある!」
俺がもう一度言うと、ミラが笑う
ダリオは苦笑した
「そこまで喜ぶのか」
意味は分からない
でもどうでもいい
ある
回復魔法は存在する
昨日一日、そもそも存在するか分からないものを練習していた
存在するだけで大きな前進だ
「光?」
俺は明るい空を指す
それから魔法の仕草
「光、魔法?」
エナとミラが顔を見合わせる
ダリオが答えた
「光」
「光!」
当たっていた
前世のゲーム知識も、たまには役に立つ
ただし、喜んでいる俺にダリオが何か続ける
長い
分からない
俺が困った顔をすると、ミラが言葉を選びながら説明してくれた
「光の魔法、使える人、少ない」
「少ない」
「治す魔法、もっと難しい」
「難しい」
それは昨日よく聞いた言葉だ
俺は頷く
「難しい、分かる」
身をもって分かっている
エナが興味深そうに俺を見る
「セイジ、光、使える?」
「まだ」
「まだ?」
「できない」
右手をかざす
何も起きない
「昨日、やった」
傷を指す
「できない」
エナが目を瞬いた
「昨日から?」
「うん」
ミラが吹き出した
なぜ笑う
「何?」
「いや……」
ミラが何か言う
分からない
ダリオが短く言った
「無茶」
これはなんとなく分かった
「無茶?」
「何も知らずに魔法を試すな」
半分くらいしか理解できない
たぶん怒られている
「でも、火、できた」
右手を前に出して《火弾》の形を示す
「だから、光も」
ダリオが額を押さえた
ミラはまた笑っている
エナまで笑い始めた
「なんやねん」
意味は分からないけど、馬鹿にされている感じはしない
呆れられている感じだ
ルッカが俺の肩を叩く
「セイジ、難しい顔」
「今それ言う?」
さらに三人が笑った
人間三人とゴブリン二人が、森の岩陰の前で笑っている
変な光景だ
少し前ならあり得なかった
笑いが収まると、俺はもう一度傷を指した
「教えて」
エナを見る
「治す」
魔法の仕草
「教えて」
エナは困った顔をした
「私、回復魔法、使えない」
「使えない?」
「うん」
少し残念だった
てっきり使えると思った
これまでの治療が手慣れていたから
「薬」
エナが葉を持つ
「治療」
知らない言葉
「治療?」
「傷、治す」
「ああ」
エナは魔法ではなく、薬や手当てで傷を治す知識を持っている
なるほど
それでも十分だ
俺が知りたいのは、魔法の呪文だけじゃない
傷がどう治るのか
何を助ければいいのか
その考え方
「教えて」
もう一度言う
エナは少し考えた
そして頷く
「分かるところだけ」
最後は分からない
でも頷いたからいい
エナは俺の傷の処置を再開する
まず洗う
汚れを取る
薬草らしい葉を潰す
傷そのものではなく、その周囲を確認する
腫れ、熱、色
俺は一つずつ指差し、言葉を聞く
「傷」
「傷」
「血」
「血」
「腫れ」
「ハレ?」
「腫れ」
「腫れ」
「熱」
「熱」
全部覚えられるかは分からない
でも面白い
言葉と知識が一緒に増えていく
エナは自分の腕を使って説明し始めた
指で皮膚をつまむ
傷を作る真似をする
そこを両手で寄せる
「身体、治す」
「身体?」
自分を指す
エナも自分を指す
「身体」
「身体」
「傷、身体が治す」
俺は止まった
それ
昨日考えたことと同じだ
「身体、治す」
「そう」
エナは傷に薬を当てる
「薬、助ける」
「助ける」
「身体、治す、助ける」
完全な文章ではない
たぶん、俺に合わせて単語を並べてくれている
でも十分分かる
薬が傷を消すのではない
身体が治るのを助ける
俺が昨日最後に考えた方向
間違っていなかった
「魔法も?」
俺は右手をかざす
エナが考える
「たぶん」
知らない言葉
首を傾げると、
「分からない」
と言い直した
「分からない?」
「私、魔法、使えない」
「ああ」
そこまでは教えられないのか
でも手掛かりはある
身体が治す
助ける
その二つ
俺は傷へ右手を近づけた
ダリオがすぐ気づく
「おい」
「やる」
「今?」
「やる」
ミラが面白そうに座り込んだ
エナは少し心配そう
ルッカは慣れた顔
昨日から何度も見ている
俺は目を閉じる
魔力を感じる
昨日より回復している
少しなら使える
右手へ集める
火弾の時とは違う
火を作らない
熱くしない
攻撃しない
身体へ何かを押し込むのでもない
助ける
傷が治ろうとしている
そこへ魔力を添える
「……」
何も起きない
昨日と同じ
ダリオが何か言った
無視する
もう一度
身体が治す
俺が治すのではない
魔力で無理やり肉をくっつけるのでもない
治ろうとしている力を助ける
右手へ集めた魔力が、少し散る
違う
集めるだけでは駄目
火弾は魔力を火へ変える
なら光も、魔力を光の性質へ変える必要がある
「光……」
明るい
温かい
包む
守る
でも、光って何だ
太陽?
火と何が違う
明るいだけなら火も光る
昨日はそこで止まった
俺は目を開けた
「分からん」
エナが首を傾げる
俺は右手を見せる
「光、何?」
「え?」
難しい質問なのは分かっている
光とは何ですか
前世でも物理の授業みたいな話になる
そうじゃない
魔法の光
どういうものとして考えればいい
俺はエナを指す
「治す」
薬を指す
「助ける」
そして右手
「光」
エナはしばらく考えた
ミラと何か話す
ダリオも加わる
三人で短く言葉を交わす
俺にはほとんど分からない
でも、その様子を見ているだけで少し不思議だった
俺のために三人が考えている
ゴブリンの俺のために
やがてエナがこちらを向く
「光、治す魔法」
「うん」
「傷、なくす、違う」
「違う?」
「身体、元気」
身体を指す
「力、戻す」
力
戻す
「治る力、強くする」
ゆっくり、一語ずつ
俺が分かるように説明してくれる
治る力を強くする
その言葉が、すっと入ってきた
傷を閉じるイメージじゃない
傷が消えるイメージでもない
身体が持っている治る力
それを強くする
「なるほど」
日本語で言う
もちろん伝わらない
でも俺の中では繋がった
光は何かを作るのではなく、身体の中にある働きを後押しする
少なくとも初歩の回復なら、そう考えればいいのかもしれない
「もう一回」
ダリオが何か言う前に、俺は目を閉じた
魔力を感じる
右手へ集める
傷を意識する
痛い
腫れている
熱を持っている
でも身体は治ろうとしている
血が固まり、傷口が閉じようとし、壊れたものを戻そうとしている
俺は医学に詳しくない
でも、それでいい
全部理解する必要はない
身体は俺よりずっと賢い
なら、俺はそれを助けるだけ
魔力を傷へ送る
押し込まない
包む
ゆっくり
暖かいものを重ねるように
すると、
昨日感じたものが来た
右手が温かい
「……来た」
目を開けない
集中する
逃がさない
火の熱じゃない
もっと弱い
春の日差しみたいな、ぼんやりした温かさ
掌の奥にある
でも、その先へ行かない
傷へ届かない
「なんでや」
集中が切れる
温かさが消れる
目を開ける
エナが驚いた顔をしていた
「今」
「分かった?」
「少し」
俺は右手を見る
「温かい」
エナが俺の手に触れる
首を傾げる
もう普通に戻っている
「もう一回」
三回目
魔力を集める
治る力
助ける
温かさ
また来た
今度はさっきより早い
掌がわずかに温かくなる
次
傷へ
どうやって届ける
火弾なら飛ばす
でも、これは飛ばすものじゃない
触れる?
俺は右手を左腕の傷の近くへ置く
布はまだ巻いていない
直接傷に触れない位置
そこから魔力を流す
「っ」
左腕が少し熱くなった
痛い
いや、痛いというより、むずむずする
傷の奥が痒いような変な感覚
驚いて集中が切れた
「今の何?」
エナが傷を見る
「どうした?」
俺は左腕を指す
「変」
「痛い?」
「違う」
言葉がない
痒い
痒いって何て言うんだ
俺は指先で掻く仕草をする
「ああ、痒い?」
「かゆい」
新しい言葉を覚えた
今それどころじゃない
「中、かゆい」
エナが傷をじっと見る
ダリオも少し近づいた
ミラも覗き込む
「変わった?」
俺が聞く
エナはすぐには答えない
傷の周りを見る
「少し……?」
不確かそうだ
確信はない
でも何か起きた
昨日とは違う
俺はもう一度試す
魔力
治る力
助ける
温かさ
今度は前より滑らかだ
魔力が火へ向かわない
別の方向
柔らかい
広がる
掌から左腕へ
その瞬間、
淡い光が見えた
「え」
俺の声ではない
エナだった
目を開ける
右手の周りに、本当に薄い光がある
白とも黄色とも言えない
昼間だから分かりにくい
でも確かに光っている
「おお……」
集中が揺れる
光が消えそうになる
「見るな」
ダリオが言った
たぶん集中しろという意味だ
俺はすぐ目を閉じる
身体
治る
助ける
もう一度
光
今度は言葉ではなく感覚を追う
魔力が変わる
火弾とはまったく違う
攻撃するための鋭さがない
広がる
包む
左腕の傷へ触れる
温かい
痒い
少し痛い
でも嫌な痛みではない
数秒
十秒
もっとか
時間の感覚が分からない
魔力が減っていく
火弾一発より多い気がする
でも戦闘で何発も撃った時ほどではない
そして、頭の中にひとつの形が落ちてきた
《治癒》
言葉というより意味
これは、この魔法は、
《治癒》
「……治癒」
口にした瞬間、光が少し強くなった
傷の周りを包む
エナが息を呑む音が聞こえた
ルッカが、
「光」
と呟く
俺はできるだけ維持する
でも、すぐに限界が来た
魔力が大きく削られている
まだ完全回復していない身体
あの戦いからの疲れ
これ以上はまずい
俺は魔力を止める
光が消えた
静かになる
「……できた?」
目を開ける
四人が俺の左腕を見ていた
いや、ルッカを含めて四人だ
俺も見る
傷はある
普通にある
「治ってないやん」
思わず言った
エナが傷を確認する
そっと周囲に触れる
「痛い?」
「痛い」
「ここ?」
「痛い」
「ここ」
「……少し」
これまで触られた時より、痛みが弱い気がする
エナが腫れている部分を見る
最初に比べて、ほんの少し赤みが落ち着いたようにも見える
劇的ではない
傷口が閉じたわけでもない
牙の跡が消えたわけでもない
「全然治らん」
俺が呟くと、ダリオが何か言った
ミラが笑う
「初めてで全部治ったら怖いよ」
ゆっくり言ってくれたので、だいたい分かった
「初めて」
俺は右手を見る
そうか
初めてだ
しかも負傷してから時間も経っている
一発で完全回復なんて、そっちのほうがおかしい
エナが嬉しそうに傷を見ている
「治るの、早くなると思う」
「早く?」
「身体、治す、助ける」
昨日から何度も出てきた言葉
「助ける」
俺は頷いた
この魔法は傷を消す魔法じゃない
少なくとも今の俺が使える《治癒》は、身体の治癒を促すもの
それなら納得できる
ゲームみたいにHPが一瞬で満タンになるわけじゃない
でも使える
戦う以外の魔法
初めて覚えた
「やった」
小さく言う
もう一度、
「やった」
今度は大きく
「できた!」
ルッカが両手を上げる
「できた!」
意味を分かっているのか怪しい
でも一緒に喜んでいる
「光!」
「光や!」
「セイジ、光!」
「火だけちゃうぞ!」
ルッカと二人で騒いでいると、ミラが笑う
エナも笑う
ダリオだけは腕を組んでいた
それでも、これまでより顔が柔らかい
「また無茶すると思ったが」
意味は全部分からない
俺はダリオを見る
「できた」
「見れば分かる」
「できた」
「……ああ」
「できた」
「分かった」
少し面白くなってきた
「できた」
「しつこい」
最後は分からなかったけど、たぶん怒られた
俺は笑った
覚えた
本当に
火以外の魔法
《治癒》
胸の奥が妙に嬉しい
強い魔法だからじゃない
敵を倒せるからでもない
誰かを助けられる魔法だから
今はまだ自分の小さな傷すら完全には治せない
それでも、いつかルッカが怪我をした時、誰かが傷ついた時、何もできずに見るだけじゃなくなるかもしれない
その可能性だけで十分だった
「エナ」
俺は呼ぶ
「ありがとう」
これは覚えている
エナが一瞬止まる
それから、
「どういたしまして」
知らない言葉で返された
「何?」
「どういたしまして」
「ドウイタ……」
無理だ
長い
エナが笑う
ミラも笑う
「ありがとう、言われた時」
「ありがとう?」
「どういたしまして」
「長いわ」
日本語で文句を言う
通じない
でも雰囲気で分かったのか、また笑われた
ルッカまで真似を始める
「ドウイタシマシテ」
「お前言えるんかい」
妙に発音がいい
悔しい
治療が終わると、エナが新しい布を巻いてくれた
昨日使っていたものよりきれいだ
持ってきた薬草も使われている
俺はその一つを指す
「薬」
「そう」
「名前?」
エナが名前を言う
聞き慣れない
「……もう一回」
もう一度
やっぱり難しい
三回目
少しだけ近づく
でも覚えられない
「また今度」
俺が諦めると、エナが笑った
人間語を覚える道も長い
魔法より難しいかもしれない
三人はすぐに帰らなかった
少し離れたところで休むことになった
俺たちの家の前
正式には岩陰の前だ
ミラが持ってきた包みを出した
中には硬そうなパンのようなもの
「これ」
俺に差し出す
「食べ物?」
「お礼」
知らない言葉
ミラはあの戦いの方向を指す
剣を振る真似
俺が火弾を撃つ真似
最後に頭を下げた
「ああ」
分かった
あの戦いのこと
「ありがとう?」
「そう」
俺はパンを受け取る
「こっちがありがとうやけどな」
人間語では言えない
あの戦いでは、俺たちだって助けられた
人間側がいなければ危なかった
だから一方的に礼を言われるのは少し違う
俺はルッカを指す
自分を指す
三人を指す
あの戦いの方向
そして、
「仲間」
と言った
三人が静かになった
少し言い過ぎたかと思う
昨日ルッカに聞かれた時は、仲間になれたらいい、そう考えただけだった
でも今は少し違う
エナは俺に治療を教えてくれた
ミラは言葉を繋いでくれる
ダリオも完全には信用していないだろうに、ここまで来た
少なくとも、あの日だけの偶然よりは近い
「仲間?」
俺はもう一度言う
疑問形
決めつけるのではなく、聞く
最初に答えたのはミラだった
「そうだね」
短い
たぶん肯定
エナも頷く
「仲間」
ダリオは黙っている
俺を見る
ルッカを見る
岩陰を見る
森を見る
長い
「……今はな」
最後の言葉しか分からない
でも否定ではなさそうだ
俺は頷いた
それでいい
全部一気に変わらなくていい
人間と魔物
今まで積み重なったものがある
俺一人が変だからといって、すぐに全部なくなるわけじゃない
少しずつでいい
パンを一口食べる
硬い
かなり硬い
でも、
「うまっ」
肉と木の実ばかりだった舌には衝撃だった
塩気がある
ほんの少し
それだけで別世界だ
「塩!」
俺が叫ぶ
三人が驚く
「塩?」
ミラが聞く
「これ、塩」
パンを指す
「塩、ある?」
「あるよ」
「欲しい」
即答した
ダリオが笑った
初めて見た気がする
「そこなのか」
意味は分からない
でも塩は大事だ
「塩、欲しい」
もう一度言う
「肉、塩」
肉を焼く真似をする
「うまい」
ミラが笑いながら頷いた
エナも何か言う
交換とか、村とか
聞き取れない言葉が混ざる
俺は首を傾げる
ミラが考えて、持っているパンを指す
次に俺たちの乾燥肉を指し、両手を入れ替える
「交換」
「交換?」
「これ、これ」
入れ替える
「交換」
「ああ!」
分かった
物々交換
「交換!」
俺は乾燥肉を見る
パンを見る
「できる?」
「たぶん」
便利だけど不安な言葉だ
でも、人間側と物を交換できる可能性
これは大きい
俺たちだけでは手に入らないものがある
塩、布、道具
もしかしたら鍋
逆に、森には人間側が欲しがるものもあるかもしれない
薬草、木の実、獲物
俺には何が価値になるのか分からない
でもルッカなら知っているものがある
人間側なら価値を判断できる
「ええやん」
思わず笑う
世界がまた一つ広がった
少し前まで、人間は敵かもしれない存在だった
今は教えてくれる相手になった
食べ物を持ってくる相手になった
物を交換できるかもしれない相手になった
まだ村へ行けるわけではない
むしろ行ったら大騒ぎになる可能性のほうが高い
でも、村へ行かなくてもここで会える
この家を中心にして外と繋がれる
それならいい
俺は岩陰を見る
ここを捨てる必要はない
外へ出るために家をなくす必要はない
帰る場所を残したまま、少しずつ世界を広げられる
それが一番いい
三人が帰る前、俺はもう一度《治癒》を試そうとした
エナに止められた
「今日は駄目」
「なんで?」
「魔力」
「魔力?」
エナは俺が少し疲れているのを見抜いているらしい
「休む」
昨日ルッカにも散々言われた言葉
「また休むん?」
「休む」
ルッカまで加わる
「寝る」
「寝えへんわ」
エナは意味が分からず首を傾げる
ルッカは楽しそうだ
ダリオが何か言う
ミラが訳すように、
「魔法、使いすぎ、危ない」
と言った
それなら分かる
あの戦闘で経験済みだ
《治癒》は火弾より維持時間が長い
一回で使う魔力も少なくない
今の俺が連発するのは危険だ
「分かった」
素直に右手を下ろす
エナが満足そうに頷く
なんだろう
少しルッカに似てきた
俺を休ませる人が増えた
「俺、そんな無茶するように見えるんかな」
ルッカ
エナ
ミラ
ダリオ
四人とも俺を見る
なんで全員同じ顔なんだ
「……分かったって」
三人が帰る
俺とルッカは少し離れたところまで見送った
ダリオが最後まで周囲を警戒している
でも何度か振り返った
敵を警戒する目ではない
たぶん、まだ確認している
俺たちがどういう存在なのか
それでいい
急がない
エナが手を振る
「また」
聞き取れた
「また」
俺も手を上げる
ミラも、
「またね」
「また」
ダリオは何も言わない
でも最後に少しだけ手を上げた
三人の姿が森に消える
静かになった
ルッカが俺を見る
「仲間」
「そうやな」
俺は頷く
「たぶん仲間」
「タブン?」
「それは覚えんでええ」
「タブン」
「覚えるん早いな」
拠点へ戻る
さっきまでは人がいた場所
今は俺とルッカだけ
少し静かに感じる
でも嫌な静けさではない
また来る
その言葉が残っている
俺は左腕を見る
新しい布
薬草
傷
そして右手
「《治癒》」
小さく呟く
魔法は使わない
名前だけ
新しい魔法
火ではない
戦うためではない
治すための魔法
まだ弱い
一回使っても傷は残った
完全には治らない
魔力も結構使う
それでも、できた
「火」
ルッカが右手を指す
「火も使える」
次に左腕
「光」
「光も使える」
ルッカが嬉しそうに笑う
「セイジ、火、光」
「二個になったな」
二個
たった二個
でも昨日までは一個だった
その差は大きい
俺は岩陰に座る
今日はこれ以上魔法を使わない
エナにも止められた
身体も休ませる
代わりに考える
次に人間たちが来た時、何を聞くか
塩、交換、薬、言葉、魔法
聞きたいことが増えた
家の改善もしたい
壁、寝床、保存、水、風呂
畑もいつか
やりたいことだらけだ
前世では、やらなければならないことが増えるのが嫌だった
仕事、連絡、締切、責任
増えるほど重かった
今は違う
やりたいことが増えている
誰かに決められた予定ではない
俺がこうしたいと思ったこと
だから不思議と嫌じゃない
「忙しくなりそうやな」
「忙しい?」
「これもまだ早いか」
ルッカが隣に座る
二人で硬いパンの残りを食べる
少しずつ、大事に
塩気がうまい
「次は交換やな」
「交換」
「お前も覚えたん?」
「交換」
「何と何交換する?」
ルッカが肉を指す
パンを指す
「交換」
「全部肉で解決する気やな」
ルッカは満足そうに頷いた
まあ、分かりやすくていい
夕方
傷の痛みは朝より少し軽くなっていた
《治癒》のおかげなのか
普通に時間が経ったからなのか
薬のおかげなのか
全部なのか
分からない
だから魔法の効果を過信しない
エナの治療も続ける
休む
食べる
傷を清潔にする
その上で《治癒》を使う
魔法があるから何でも魔法だけでいい
そういうことではないらしい
それも今日覚えたことだった
夜
焚き火の前で右手を見る
火を出す手
光を出せるようになった手
この先、水も風も土も、いつか扱えるようになるかもしれない
闇はまだ何をするものなのかすら分からない
でも急ぐ必要はない
今日一日だけで十分進んだ
人間が家の近くまで来た
エナに傷を見てもらった
新しい言葉を覚えた
回復魔法について知った
《治癒》を覚えた
人間たちと仲間という言葉を使った
交換という可能性も知った
少し前まで、森の中で二人だけだった世界に少しずつ道が伸び始めている
一本は人間へ
一本は魔法へ
一本は生活へ
その全部が、この岩陰から伸びている
俺は背中を岩に預ける
「ここ、ほんまに家になってきたな」
ルッカがすぐ答える
「家」
「うん」
焚き火が揺れる
その向こうには森
森の向こうには人間たちの暮らしがある
まだ知らない場所
知らない言葉
知らないもの
でも、もう完全に遠い世界ではない
明日すぐそこへ行くわけじゃない
まず傷を治す
身体を戻す
《治癒》も少しずつ練習する
家も直す
できるところから一つずつ
「おやすみ、ルッカ」
「オヤスミ」
俺は横になる
左腕はまだ痛い
傷も残っている
でも昨日までとは違う
この腕を治す方法を、俺は今日一つ手に入れた
完全じゃない
万能でもない
それでいい
小さな火から始まった俺の魔法に、今日、小さな光が増えた




