第88話 ある神の視界➁ ~何故、排斥しないのか~
時は不可逆である。
目の前の砂時計が上から下にしか落ちないように、世の理は単方向にしか流れない。
それを捻じ曲げる事ができるのが、神であり、我である。
我の仕事はあくまでも時の巡行を見守る事だ。
他の何者かが時に干渉し運命に割り込む事を防ぐのが役目。
しかし時には気まぐれで、ヒトの心につき動かされて、僅かばかりの手を貸すことがある。
王妃エリスに手を貸したのも、それが理由だった。
我には人の心が読める。
今も、過去に遡っても。
だから、本心からエリスが後悔している事を、過去が如何に自分本位で、悪意なく周りが見えていなかったかを知った。
悪意がなくても子どもの事が見えていなかったのは人心の欠如と言っていいが、あの切なる願いが「もう同じ失敗は犯さぬだろう」と我に思わせた。
結果は、この通り。
我は、過去に何度かした事のあるすべての『時戻り』の結末をこの目で見てきている。
今回も例外なく自らの力の責任をもって観測し続けているが、エリスは当初の願いを一切曲げず、他の幸せの可能性を選ばず、それこそ脇目も振らずに子どものために生きている。
――夫に愛される可能性を捨てて。
――兄と和解する可能性を捨てて。
――大貴族の指示を受けて誉めそやされる可能性を捨てて。
――側妃に勝利する可能性を捨てて。
不思議なのは、エリスが側妃を排斥しようとしない事だ。
エリスの行動の根底にはすべて「子どものため」というのがあり、そのために邪魔な障害はすべて排除する。
子どものために有利な人間関係を築き、味方になり得る人間を探し、周りを固めようとしている。
そんな事をするのなら敵を排除した方が早いと我は思うのだが、エリスは目下その筆頭であろう側妃に対し、積極的にその罪を指摘し、罰を与えようとはしていない。
排斥した方が早くて確実だろうにとは思うが、その回りくどささえ子どものためだ。
今すぐに排斥したら、どのような報復があるか分からない。
まだ守れる環境が整っていない。
子どもの安全が完全に保証されないうちは、幾らでも賭けを綱渡りしてみせる。
そんな太い鎖のような頑強な決意がエリスの中にはある。
今もまさに、エリスの綱渡りが進行中だ。
「それでエリスはどうだ、ルリゼ」
「はい陛下。王妃様は今週も滞りなく、お子様方とお過ごしです」
「客は」
「文官のアラン・ベトナーと、エインフィリア公爵夫人、それからティーディルディ侯爵夫人が初めてお越しになりました」
ルリゼはエリス付きのメイドだ。
そして、国王の目としてエリスに関する定期的な報告役を担っている。
ルリゼは、エリスが王妃になった時から変わらず付いているメイドだが、国王がこのように直接会って報告をさせるようになったのは最近だ。
以前は――時戻り前に至っては最後まで、報告はすべて書面でなされていた。
その内容も毎回似たようなもので、最後の方に至っては報告書に目を通す事すらしなくなっていた。
それが、何故このように口頭報告をするような事になっているのかと言えば、偏に国王がそれを望んだからだ。
何故国王がそれを望むのかは。
「エリスは、何一つとして報告して来ないな」
「私の方からも、『陛下の所に侍るのも王妃の務め』や『せめて定期的にお手紙を差し上げては』と、助言はしているのですが」
「聞き入れないか」
「……申し訳ありません、力及ばず」
ルリゼの返答に、国王は残念そうなため息を吐いた。
エリスからの交流の意思が見えない事に、不満を持っている様子はない。
時戻り前も含めてこの男の内心を遡ってみれば、どうやら価値基準を『自分に対する有用性』に置いているようだ。
エリスの名声が高まりつつある今、仲睦まじさを内外に示す事で自分の立場が一層盤石になるという思いはあるものの、「苦言を呈して機嫌を損ねるのは面倒だ」とも思っている。
ルリゼという名の『目』があるから、直接的に交流がなくとも行動報告は入ってくる。
それでよしと思っている。
それで十分だと思っている。
エリスがその心の余裕を――慢心を利用しているとは、まだ知らずに。




