第82話 人生初めての後悔と嫉妬 ~ロスディン辺境伯視点~
彼女はそれを見て、満足そうにも嫌そうにもしなかった。
この時俺は、ふと「何を言われても、微笑を崩さない」と言っていたミーナの言葉を思い出した。
その時に抱いたのと、似たような疑問を彼女に抱いた。
――この女は何故笑っていて、何故目の奥がこんなにも冷めているのか。
そう思った。
不躾にも彼女の目を見据えた。
が、分からない。
彼女は「臣下の礼では頭を上げてはならない」という儀礼を破っている俺に何も言わず、しかし大抵の粗相が許される際の共通点――俺に見惚れて、もしくは見目のよさを気に入って許すという事もしなかった。
彼女の胸の内は読めないが、それに関して彼女が許容している事は理解した。
――私を見定める不躾くらい、許してあげる。
そんな彼女の心の表層だけが、上からで、不遜で、冷たさしか内包していない、俺に許された範囲の内心だけが読み取れた。
「楽しんでいるかしら」
「はい、王妃様」
「あらそう? それにしては誰とも話していなかったし、踊ってもいなければ食事にさえ碌に手も付けていなかったようだけど」
匂いは、視覚に隠れるのに邪魔になる。
だから意識的にこういう時に食事は取らない。
その事を知っているのか、ずっと俺を見ていたのか、それともただのあてずっぽうか。
どれかは分からないが、図星を突かれた事だけは確かで。
「王妃様程の麗しい女性に暴かれるのもいいものですね」
そう答えたのは、内心では少しギクリとした自身に対し、無意識下で「この程度の事暴かれたところでどうともない」と言い訳をしたかったからだ。
実際に、そうする事でほんの少し平静を取り戻せた自分がいた。
が。
「いつも自身は暴く側で、暴かれ慣れていないからそう思うのではない?」
「……別に、私は」
笑顔で刺され、思わず言い淀む。
たとえ思っていても、こんなふうに真正面から突き刺すように指摘してくる人間は、今まで一人も居なかった。
それは、おそらく社交場において外面が非常に大事で、俺の見た目に呆けていなくても辺境伯という立場とあらゆる貴族令嬢と少なからず繋がりがある、または作れると思っているからこそ、敵に回さないような立ち居振る舞いを相手が勝手にするからだ。
が、彼女には恐れや懸念はないのだろうか。
「別に隠す必要などないでしょう? 貴方のソレは公然の秘密も同然なのでしょう? ――まぁ、側妃との繋がりは本当に秘密のようですけれど」
分からない。
彼女という人間が、分からない。
大抵は少し話せば、表情や言葉の選び方、抑揚などでどういう女なのかが分かるものだが、彼女とは話せば話すほど、彼女の事が分からなくなる。
まるで、深淵のようだ。
――深淵を覗く時、また深淵もこちらを覗いている。
そんな言葉が存在するが、深淵を覗いても深淵しか見えず、そこが深淵である事しか分からない。
相手から自分が丸見えになる、もしくは深淵に自ら身を乗り出し、落ちる危険を冒しているだけだ。
彼女はそういう人だと思った。
――彼女と話してはいけない。
そう思う反面、分からないものを暴きたい衝動に駆られる。
今までそんな事、思った事もないのに。
いや、今まで暴けないものがなかったから、己の衝動に気付かなかったのか。
……いや、そんなのはどうでもいい。
ただ。
「貴方の事ですから、今方々で起きている事を耳に入れてはいるのでしょう? 貴方が今回仕掛けた妨害、それに関わった様々な人間を、根こそぎ洗い、処分している。――まぁ私は陛下にご報告差し上げているだけだけれど」
「……えぇ、驚きました。まさか陛下がこの件で処分者を出すなんて。あの方は事なかれ主義的だったと思ったんですが」
「そう見せるのがうまいだけ」
「では、貴方はそう見せるのがうまい陛下の事を、うまく操りこの現状を作り出した稀代の策士という事になりますね」
揺さぶりをかけたつもりだった。
言葉遊びの延長線上で、少しばかり踏み込んだ発言。
しかし彼女は微笑を湛えたまま。
本当なのか違うのか、俺に読ませない。
この徹底した表情管理の裏には、一体何があるのだろう。
生まれの環境か、境遇か。
それとも徹底した教育の賜物か。
残念ながら、それを推し量るだけの情報が俺の手の中には存在しない。
そういえば、彼女は『国の頭脳』と評されるスイズ公爵家の出だった事を思い出す。
だとすれば、うまく陛下を操っているとしても不思議はないのかもしれない。
「貴方にも処分の手を伸ばしてもいいのだけど……面倒だから止めておくわ」
「面倒などという理由で、首謀者を見逃してよいのですか?」
「面倒というのは、私が面倒臭いという意味ではないわ。貴方のような『構ってほしたがり』に構うと逆効果だという意味よ」
あまりにも素っ気ないその言葉に、俺は一瞬キョトンしてしまった。
しかしすぐにプッと吹き出す。
「構ってほしたがり。そのような事、初めて言われました」
「そう? 私にはそうとしか見えないけど」
そんな訳がないだろう、と思って言ったのに、彼女はまるで子ども相手に噛んで言い含めるように「そうなのよ」と俺に言って聞かせた。
少なくとも俺にはそうされたように思えて、その事に僅かながらに反感を抱いて。
そんな事はない、と言いかけて――。
「らしくもなく強く否定したい衝動に駆られた時は、大抵図星を突かれている時なのよ」
喉元で吐き出しかけた言葉がギリギリ止まる。
その時の俺がどんな顔をしていたのかは知りようもないが、俺を見ていた彼女が今日初めて少し満足げに笑ったのを見るに、おそらく俺の表情は彼女に敗北を期した物だったのだろう。
何も言わず、彼女が踵を返した。
コツリコツリと音を立てて、俺から遠ざかっていく。
周りには人が大勢いて、ダンス用の音楽が流れていた。
にも拘らず彼女の足音が妙に頭に響いて――。
「王妃様」
思わず呼び止めていた。
こんな事は初めてだった。
こんなにも目が釘付けになって、他が見えなくなる事なんて。
彼女との時間が、終わるのが惜しい。
「王妃様、私を使ってくれませんか」
咄嗟に出たのはそんな言葉だ。
出た後で、「そうだ、俺は彼女の役に立てる」と思う。
簡単だ。
今まで通り、女を駒に社交界を動かせばいい。
彼女に敵対する人間を消し、彼女の味方を増やしていく。
俺にはそれが必ずできる。
そうしてミーナをもう少しで正妃というところまで担ぎ上げた俺ならば、必ず。
「貴方は私の世界に必要ないわ」
氷のような声に、愕然とした。
思考が止まる。
本気の拒絶が、こんなにも恐ろしく痛いものだという事を初めて知った。
「――何故」
思わずそんな言葉を漏らした俺に、彼女は言う。
「私、一度でも敵対した人間を心から信用できる程、心に余裕も慈悲もないの」
敵対、とは今回の事を言っているのだろうか。
そんなにもこの慈善事業が大事だったのか。
もしくはそうして陛下やこの国に貢献する事が……?
「私は、私の大切な人たちを傷つける人間を許さない。直接的でも間接的でも関係ない。たとえ一度の過ちであっても、どんなに優秀で有用でも意味はない。――私は、あの子たちを守るためだけに生きている。誰かを許したり懸念を無視して重用した結果、取り返しのつかない結果になるくらいなら、私は頑ななまでの潔癖でいると決めているの」
その言葉は、まるで過ちや失敗に対して寛容でいられない自らを、少し責めているようにも聞こえた。
俺にそう聞こえるという事は、きっとそういう事実が彼女の中にあるという事で、それは即ち彼女が元からそういう人間という訳ではない事で。
――あぁ、と思わずため息が出る。
やっとの事で、彼女という人間の芯が見えたような気がした。
しかしそこには手が届かず、理解した瞬間に挽回しようのない拒絶を受けて。
始まった瞬間に終わった恋、なんていう言葉を聞いた事があった。
その言葉を初めて聞いた時から、今までずっと「そんな状況になる奴が馬鹿なだけだ」「そんな状況に後悔するなんて、馬鹿な奴らだ」と思っていたが。
俺に言葉を告げる時も、そして今正に遠ざかる彼女も。
一度もこちらを振り返りはしなかった。
自ら他人の死角に入る事。
そうする事で気配を消して、周りの話を盗み聞き表情を読んで利を得ていた俺を初めて見つけた筈の彼女の目に、きっと俺はもう映らない。
その事実がただただ口惜しい。
これから彼女の目に映るすべての人間が、恨めしい。
そう思った自身に自分で驚き、俺は一人ひどく戸惑う事しかできない。




