第74話 ロディスの『ありがとう』攻撃
「お母さま! これをペタンッてするの?」
小さな手に大きなスタンプの持ち手を握って振り返ったロディスに、私は「えぇ」と頷く。
出店が立ち並ぶ通りを過ぎ、私たちはスタンプラリーのチェックポイントへとやってきていた。
少し遠くに王城を臨める場所。
城の警備の都合上少し遠くはある代わりに、城の全体像を一度に視界に淹れる事のできるこの位置は、私がアランに指示し、彼が指揮する部下たちが、この王都を隅から隅まで歩いて見つけた最良のスポットだ。
そこに辿り着き、私たちの顔を知っている人たちが名を呼び敬礼をしようとしたところを目で制して、他と同じく台紙を貰った。
そして彼らが持つスタンプを、今ロディスが押させてもらっているところだ。
「見てください、お母さま! 上手にできた!」
「あら本当。綺麗に押せているわ」
その言葉に嘘はない。
きちんと欠けなく、薄すぎずインクをつけすぎて滲むような事もなく、真ん中に押せている。
勿論そこにはロディスのスタンプ押しを手伝ってくれていた、ここが持ち場のメイドの尽力あっての事だ。
「ここの印は、国旗のものね」
「こっき?」
「えぇ、この国を象徴する絵よ」
そう言い私が目くばせをすると、騎士がスッと現れた。
ここにこの時間待機している騎士だが、彼の仕事は警備ではなく説明だ。
「殿下は、この国の国旗の意味をご存じですか?」
「ううん、知らない」
「国旗はこの通り鮮やかな琥珀色ですが、これは我が国が富に溢れた経済大国である事を象徴しています」
その通り。
この国は経済大国だ。
基本的に裕福で、貧民は存在するものの、その数自体は他より少ない。
勿論その上に立つ貴族や王族の下には必然的に、より多くのお金が集まる。
――時戻り前の私たちには、大した予算も割り振られなければ、大したお金が使われる事もついになかったけれど。
「また、それを決して武力には投じない国・平和を尊重する国という事を示すのが、こちらの中央に盾と、その中に描かれた嘶く馬です。左右に添えられているこのオリーブは、近隣国との調和を大事にするという宣言でもあります」
その通り。
この国は平和を尊ぶ国だ。
伝統的に、武力行使に対しては否定的な風潮があり、その証拠に国王派と呼ばれる派閥の人たちは、反戦派でありその数も多い。
――なのに時戻り前の私たちは、平和の欠片もない日々を送った挙句に、子どもたちは幼くして死に至ったけれど。
「我が国はすごいのですね! お母さま!!」
そう言って、ロディスが私を見上げて笑った。
嬉しそうで、誇らしそう。
元々勤勉の気があるこの子は、色々な事を知るのが好きだ。
初めて知ったこの国の事にはしゃいでいるように、私には見えた。
――この笑顔を、裏切りたくはない。
私はそう思った。
少なくとも時戻り前は、それを裏切るような世界に住んでいた。
しかし今は、生きるか死ぬかの賭けを潜り抜けてきたお陰で、時戻り前に比べると幾分かは、環境が改善されている。
――この子の笑顔を裏切らないためには、この子の周りだけじゃ駄目だわ。
この子が何処を見ても、この国旗が――この国旗の意味を知って笑ったこの笑顔が嘘にならないようにするために、国を変えていかねばらならない。
いずれ私は、国王から自立する。
その過程で、正妃という肩書を捨てる日が来るのかもしれない。
でも、少なくとも今私はこの国の王妃で、そうである限り世界を変えるためにできる事はある。
「あらロディス、この国は本当に今富に溢れ平和だと思う? 本当にそういう国だったなら、貧民は生まれないし、諍いも起きないわ」
座り、ロディスと目の高さを合わせた。
彼はハッとし、ここに来るまでに見てきたものを反芻しているような顔をしている。
賢い子だ。
こうして実際に目で見たものを、思い出し、思い直せるのだから。
「でもね、ロディス。たしかに国旗はこの国の在り方を象徴するものではあるけれど、同時に目標として掲げたものでもあるの」
「もくひょう?」
「えぇそうよ。目標、未来に目指すべきもの。つまりね、この国旗は意思表明なのよ。『こうなって見せる』という、私たち王族や貴族の誓い」
私はそう告げて、ロディスの両手を優しく握る。
「私たちの理想のために、たくさんの人たちが助けてくれている。ここにいるメイドや騎士もそう。文官も、それに町の人たちもね」
「町の人も?」
「えぇそうよ。たまには悪い人たちもいるけれど、殆どの人たちは国の法律――ルールに則って暮らしてくれている。色々な仕事の人がいるから、人々の暮らしは成り立ち、税金が集まる。私たちはその税金を、私利私欲にではなく国のために使わなければならないわ」
そう言うと、ロディスはキョトンとしてしまった。
まだ少し難しい話だったかしら。
でも。
「ねぇロディス、覚えておいて。私たちは王族で、立場的にはこの国で一番高いところにいる。でも、私たちが手放しにえらい訳じゃないの。私たちは、他より高い地位にいて恵まれた暮らしをしている分、周りの人たちが経済的に困窮せず、楽しく平和に生きられるように尽力するから、偉いのよ。私たちには既にそれができる立場があるけれど、実際にするかは私たちの心持ちによるわ。――ロディスは、アンの事が好き?」
「うん、好き!」
「そうよね。だってアンはいつもよくしてくれるもの。アンと私たちとの間には身分の差が存在するけれど、だったらアンに『ありがとう』と『ごめんなさい』を言わなくてもいいと思うかしら」
「ううん。『ありがとう』と『ごめんなさい』は、ちゃんと言わないといけないんだよ。だってとっても大切な言葉だもん。お母さまがそう教えてくれた!!」
幼い息子のその言葉に、私はふわりと笑顔になった。
「そうね。その通りよ。身分の差があっても、お礼と謝罪の心は変わってはいけないわね。その心を、ずっと忘れないで」
「分かった!」
そう言うと、ロディスはリリアを抱いたアンを見上げた。
「アン! いつも僕とリリアと仲良くしてくれて、ありがとう!」
「!! 私の方こそ、ありがとうございます! いつもロディス様とリリア様の笑顔に元気をいただいています!」
ロディスはとても素直な子だ。
そして知った事をすぐに実践する行動力も持っている。
私の、自慢の息子――。
「騎士のおじさん! 国旗の事、教えてくれてありがとう!」
「! 身に余る光栄です!」
「メイドさん、ハンコ押すの手伝ってくれて、ありがとう!」
「! どういたしまして」
大変だ。
自慢の息子が、『ありがとう』教に入ってしまった。
「そっちの騎士さんは……普段何してる人?」
「あ、え、わ、私は、王国内の守衛をさせていただいていますが……」
「いつもしゅえい、してくれてありがとう!」
「はうっ! いえっ、こちらこそ!」
あ、自慢の息子が天使の笑顔で、騎士を一人陥落させた。
それから当分の間、私が彼を止めるまで、彼は辺りにいた人たちに手当たり次第話しかけ、『ありがとう』と沢山言った。
そこにはスタンプラリーに参加していた平民も含まれていて――。




