第67話 陛下から聞くエリスの動き ~側妃ミーナ視点~
枕元に置いてあったピッチャーから、水を注いで一気に飲み干した。
体が重い。
怠い。
腰が痛い。
ふと見た鏡に映った自分と目が合った。
不快感に眉間にしわが寄った自分の姿は、起き掛けのボサボサの髪も相まって見るに堪えない。
そんな自分を見たくなくて、持っていたガラスコップを投げつけた。
バリィィィィインッ!
音を立ててコップが粉々に。
大きな姿見にピリリと深いひびが入った。
陛下をも虜にした自慢のプロポーションは、ポッコリと出たお腹によって大きくそのバランスを崩している。
分かっている。
純粋に太った訳じゃあない事は。
このお腹には陛下の子が宿っていて、全体的に少しふっくらしたのも、腹の中の子を育てるためには必要な過程なのだという事も。
昨日来た医者には、子どもが順調に育っているという報告を受けた。
この体の不調も妊娠特有の症状で、別に病気ではないらしい。
症状には個人差があり、腹の子に影響がある可能性から、薬を飲む事は許されない。
そんなふうに言われたから、この付きまとうような不快感に耐えるしかない。
最近特にイライラするのは、きっと不調のせいだろう。
私が妊娠して以降、当たり前だけど陛下の夜の渡りがなくなった。
それは仕方がないと思う。
でもその分昼間に私の体調とお腹の子を心配して、様子を見に来てくれると思っていたのに。
そもそもその前から少しずつ、夜の渡り自体少なくなりつつあった。
そのせいなのか、別の理由か。
彼は仕事の忙しさを理由に更にここから足が遠のいた。
――私から会いに、行けないのに。
こんな日々を送っていると、どうしても「腹の中に子どもなんていなければ」と思ってしまう時がある。
そうすれば私はこんなふうに体が辛いような事もなければ、どこへだって行けるのにって。
少し前までみたいに執務室に行って、忙しさにかまけて休憩を忘れている陛下と一緒に、休憩の食事やティータイムの時を過ごせたら、どんなにいいか。
王妃はそんな事はしない。
まぁ、いつも作り笑いばかりしているあの女に、陛下が癒せるとは思わないから、無駄な努力をした結果私の邪魔をしないだけ、まだマシだとは思うけど、可哀想に。
「その立場を脅かされる可能性だけは、考えなくていいのは楽だけど」
殊癒しに関しては、王妃エリスに負ける筈がない。
その確信が持てるから、何もかもがうまく行っていない現状でも、まだ比較的心に余裕が残ってい――。
コンコンコン。
「何」
「ミーナ様、国王陛下がお越しです」
ニヤリと口角がつり上がる。
ほら来たわ、私に癒しを求めて。
最近会えていなかったけど、会いたかったのは私だけではないのよ。
「応接室にお通して」
「それから少しだけ身だしなみを整えるわ」
「畏まりました」
整えたのは、髪と顔だけだ。
敢えて服は着替えない。
着ていたマタニティドレスはお腹に楽で、見た目だってそれなりだ。
外に出るのなら未だしも、後宮内くらいなら十分に来客に耐え得るという判断だった。
――これが、あの女の発案したものだっていうのは、少しだけ気に食わないけど。
さっきの鏡が割れてしまったので、新しいのを持ってこさせて全身くまなく確認しながら、私はニヤリとほくそ笑む。
この装いで陛下の気が引けた後あの女に「貴女のあのドレスのお陰で、陛下からの寵愛が深くなったわ」と、笑顔で勝ち誇ってやるのが今から楽しみだわ。
……うん、よし。
完璧だわ!
ちょっと直しただけなのに、鏡の中の自分の見目は見違えた。
心なしか、体調もよくなったような気がする。
結局愛が、何者にも勝るのだ。
「お待たせいたしました、陛下」
ニコニコと微笑みながら応接室に姿を見せると、振り返った陛下が「あぁ」と答える。
「すまなかったな、顔を出せなくて。ミーナの体調不良の件は何度も耳にしていたんだが、最近少し忙しくて」
「構いません。こうして来てくださったんだもの! でも、少し寂しかったわ」
こういう時は、我儘を言わない。
でも、可愛く急貸して見せると、男心を擽るための常套手段に、彼はニコリと微笑んで「次はちゃんと早く来るよ」と言ってくれた。
ほぉら、私の手にかかれば陛下もこんなものよ!
「最近お忙しいって、何かあるの?」
「あぁそうか、君は最近社交界に出ていないから知らないのだったな。エリスが少し大規模な慈善事業をする予定なのだが、それが意外とよくできていてな。諸侯からの評判も良く、俺も少し忙しくなっている」
「へ、へぇー……」
笑顔が少し引きつる。
エリス。
それは王妃の名だ。
あの女、慈善事業なんてしようとしているのね。
しかも結構派手なのを。
まったくもう、あのメイド。
そんな事になっているのなら、とっとと探りを入れて情報を持ち帰ってくればいいものを。
きっと何も掴めていないから見せられる顔がないのだろうけど、本当にドン臭いったらないわ!
「し、しかしたかが慈善事業でしょう? 男の陛下のお手間を取らせるような事にはならないのでは……?」
「それがあの案の興味深い所でな。愛国心を育て、経済の活性化を図り、弱きに援助する慈善事業。エリスが提案したのは、そういう国を巻き込む新しい慈善事業だ」
「そ、そんなのは……」
「『女がやるような事じゃない』? まぁ実際にそういう声もあるな」
「そうですよね!」
「だが」
光明が見えて飛びついた私に、彼はまるで何かを思い出すかのように、フッと柔らかな笑みを浮かべて言った。
「これが俺の名声を高める事にもなるのだと、エリスには言われている」
嬉しそうなその顔にイラっとしたのは、その笑顔が向けられている先がエリスだからに他ならない。
――今まで私の前であの女の名を出す時は、いつも煩わしそうだったり、どうでもよさそうだったりしていたのに。
今後もそうでなければ困る。
でなければ、私の立場は……。
「そ、そうだ! 陛下。慈善事業なら、クリーラント教会への慰問などがいいと思いますわ! 少々大変な奉仕ですが、国をも巻き込むだなんて、そんな新しい事をする程に元気が有り余っているのなら、ちょうどいいと思いますもの!」
「何を言っている。既に慈善事業は王妃に与えられる予算の範囲内で、ある種の国家事業として動き出している。今更止められるものではない。止める理由もないしな」「しかし!」
「そんなにクリーラント教会が気になるのなら、そなたがその子を産んだ後に、慰問に行けばよいだろう」
食い下がった私に、彼は少し怪訝な顔をしてそう言った。
少しばかり、投げやりな声色になっている。
かつてエリスに向けられていた筈のその色の声が、今は私に……。
「か、考えておきますわ」
これ以上食い下がるのは、悪手だと思った。
トーンダウンした私に、陛下は「そろそろ行く。お前の体に障ってもいけないしな」と言って出て行った。
陛下の背中をお見送りして、扉がパタンと音を立てて閉まる。
それからしっかり三秒間。
私はちゃんと我慢した。
そして。
ギュッと握った両手が震える。
怒りだ。
沸々と沸き上がるような怒りが、私の制御を大きく超える。
「あんの、クソ女!!」
陛下に出されていたティーカップを、壁にガンッと投げつけた。
パリンッという軽い音が響く。
白かった壁に紅茶染みが付いたが、そんな事はどうでもいい。
何か。
何か、しなければ。
邪魔してやる。
絶対に、邪魔してやる。
……そうよ。
あんなに陛下が期待している新しい慈善事業だもの。
失敗なんてしようものなら、陛下の心証がどうなるか。
いえそれ以上に、一種の国家事業のようなものだとも言っていた。
失敗すれば、国の名に泥を塗る事になるだろう。
「王妃のせいで」。
いいじゃない、それ。
少しだけ気持ちが浮上した。
腹の中から、トンッという重い衝撃が来る。
あら、陛下と私の子も後押ししてくれているわ。
なら猶の事頑張らないとね。
母親だもの。
さぁて、何をしようかしら。
楽しみだわ。
計画を練る事さえ楽しみだなんて、満足に動けない身重の身に、あの女にしてはいい遊び道具をくれたようね。




