5-3:行間に溶ける記憶
「さあ、三嶋。無駄な抵抗はやめて、こちらの席に座るのです」
「さあ、三嶋。無駄な抵抗はやめて、こちらの席に座るのです」
白井と加瀬の声が、完全に重なり合って事務室に響いた。
もはや、2人の口調の同期は一時的なバグなどではなかった。
彼らは呼吸のタイミングだけでなく、瞬きの速度、指先を動かす角度、果ては肌の不自然な土気色の質感に至るまで、完全に同一の人格へと収束していた。
2人の肉体は物理的には離れているが、その魂の根底は、あの黒い本という邪悪な源泉に等しく繋がれ、完全に同一のものへと塗り替えられていた。
白井という男の矜持も、加瀬という女の承認欲求も、本の魔性に飲み込まれる過程で跡形もなく消え失せ、今や2人は本の意志を語るための器という、同じ役割に成り果てていた。
そして、最も三嶋を戦慄させたのは、自分自身の口調だった。
「断る。俺は……俺はそんな席には座らない。
この本には、明らかな危険がある。これ以上の読解は、世界を、私たちの認知を完全に破滅させることに他ならない」
三嶋は愕然として、あわてて両手で自分の口を塞いだ。
――自分は今、なんと言おうとしたのか。
普段の自分なら、絶対に「俺たちの」と言ったはずだった。
そして「~に他ならない」という硬質で無機質な文末の構造は、さっきまで白井と加瀬が使っていたあの不気味な口調と、完全に同調していなかったか。
三嶋の背筋に、冷たい氷柱のような戦慄が走った。
自分の中に、自分ではない何かが言葉の端々から浸食してきている。
まるで、誰かが自分の肉体を借りて、本の内容を語り継ごうとしているかのように。
三嶋の背筋に、冷たい戦慄が走った。
自分の中に、自分ではない何かが、言葉の端々から浸食してきている。
「ほら、君もこちら側に来ている」
白井が言った。
「ほら、君もこちら側に来ている」
加瀬が言った。
「君の言語も、正しく洗練されつつあるのです」
「君の言語も、正しく洗練されつつあるのです」
2人の目が、光を失った真っ黒な瞳が、三嶋をじっと見つめる。
三嶋は、デスクの上に置かれたその本へと、吸い寄せられるように視線を向けた。
ページ数がまた増えている。
その、何百ページあるかも分からない分厚い本の、今まさに開かれているページ。そこには、あの歪んだ幾何学模様の羅列がびっしりと印刷されているはずだった。
だが、今の三嶋には、その文字の並びが、全く別のものに見え始めていた。
(読める……いや、これは文字じゃない……。これは、俺の……記憶だ)
視線がページに触れた瞬間、三嶋の脳内に、幼い頃に見た夕焼けの光景が、学生時代に味わった挫折の痛みが、そして今朝、掲示板の前で感じた恐怖のディテールが、圧倒的な濁流となって逆流してきた。
本のページに印刷されている文字列は、三嶋という人間のこれまでの人生の全記録そのものだった。
彼が何を考え、何を恐れ、どのようにしてこの事務室に辿り着いたのか。
彼のプライベートな精神の秘部が、一文字一文字の記号へと変換され、あの黒い本のインクとして、紙面に完全に記述されている。
「俺が……本の中に、書かれている……?」
三嶋は狂ったように頭を振った。
見間違えだ、これは本が仕掛けた巧妙な幻覚だ。
しかし、彼がそうやって拒絶の思考を巡らせるたびに、本の次の行に、新しい記号が「シュッ、シュッ」と不快な音を立てて、リアルタイムで印刷されていくのが、彼の五感に直接伝わってきた。
彼の拒絶、彼の恐怖、彼の正気への執着。そのすべてが、本のストーリーを進行させるためのテキストとして消費され、回収されていく。
三嶋の人格の輪郭が、日本語という個人の言語を失いながら、あの本が求める完璧な記述のパーツへと、急速に収束しつつあった。




