5-2:上書きされた過去
「おい、三嶋。何をぼんやりしているんだ。次のページの読解作業を始めるぞ」
事務室のドアを開けた瞬間、白井の鋭い声が三嶋を刺した。
デスクの上には、すでに初日の倍以上の厚さに膨れ上がったあの黒い本が鎮座しており、その両脇に、白井と加瀬がいつものように並んで座っていた。
「俺は……俺はただの事務員だ。読解作業なんて、最初から俺の仕事じゃない。お前ら2人でやってくれ」
三嶋は壁に背中を押し付けながら、頑なに首を振った。
自分は外側の人間だ。その一線を守ることだけが、彼の最後の防壁だった。
しかし、そんな三嶋の言葉を聞いた白井は、心底不可解そうに眉をひそめ、隣の加瀬と全く同じタイミングで、フッと冷たい鼻笑いを漏らした。
「何を言っているんだ、三嶋。君の冗談はいつも退屈だな」
白井が言った。
「そうですよ、三嶋さん。そんな風に突き放すようなことを言われると、寂しいです。
私たちは、昔から3人でこの本の研究をしていたじゃないですか」
加瀬が、全く同じトーンで言葉を継いだ。
「……は? 昔から三人で……?
何を言ってるんだ、加瀬。俺がこの本を地下の旧資料倉庫から見つけて、お前たちに報告したのは、ほんの数週間前、五月の終わりだろ!」
三嶋の叫びに対して、白井は哀れみの混じった目を向け、手元の古いノートを開いて見せた。
「寝ぼけるのも大概にしろ。見ろ、これは去年の秋、我々がこの本の初期断片を発見した時のフィールドワークの記録だ。
ここに君の筆跡で、明確に『文字の構造分析』と書いてある。署名もあるだろ」
差し出されたノートの頁を、三嶋は恐る恐る覗き込んだ。
そこには、色褪せたインクで、几帳面な文字が並んでいた。
解読のプロセス、幾何学模様の模写、そしてページの最下部には、確かに、三嶋自身のサインが残されていた。
どこをどう見ても、彼が普段から書類に署名する際の見慣れた、彼自身の筆跡そのものだった。
「うそだ……こんなの、俺は書いてない……。
去年? 去年の秋なんて、俺はただの事務員だったはずだ!」
「君がこのプロジェクトの発案者だろう、三嶋」
白井が、淡々と事実を告げるように言った。
「君が地下倉庫の隠し扉の鍵を見つけ、僕と加瀬を誘ったんだ。
この本に宿る原初言語の魅力に、誰よりも最初に取り憑かれていたのは、君じゃないか」
「違います、三嶋さん」
加瀬が、白井の肩に手を置きながら微笑む。
「君が最初に、あの文字の夢を見たって、私たちに嬉しそうに話してくれたんですよ。
忘れてしまったんですか? 私たちがこの本に捧げてきた、あの濃密な数年間の時間を」
「数年間……? 数週間じゃなくて、数年……?」
三嶋の頭の中で、激しい耳鳴りが鳴り響いた。
彼自身の記憶にあるタイムラインと、二人が平然と語る現実が、音を立てて軋り、噛み合わなくなっていく。
「……ありえない。俺の記憶が正しい。絶対にそうだ」
俺はただの事務員で、怪異に巻き込まれただけの哀れな被害者だ。そう自分に言い聞かせることで、なんとか正気を保とうとした。
しかし、白井が見せるノートの筆跡、加瀬が語るディテールの数々――それらはあまりにも精緻で、具体的だった。
三嶋が抵抗するように自分の脳の奥底を手探りした瞬間、恐ろしい感覚に襲われる。
これまで存在しなかったはずの覚えのない記憶の断片が、脳の皺の隙間からじわじわと、黒い泥のように染み出してくるのだ。
薄暗い研究室で、三人で机を囲んで議論した夜の空気。
あの黒い本を囲み、狂ったように笑い合った記憶。
それらの残像が、まるで最初からそこにあったかのような顔をして、三嶋の正気を内側から激しく揺さぶり始めた。
「俺の記憶が……書き換えられてる……?」
三嶋は自分の両手を見つめた。
爪の間に、なぜか見覚えのない赤黒いインクの汚れがこびりついているように見えた。
自分の過去という強固な土台が、都合よく改ざんされ、上書きされていく。
自分という人間の存在そのものが、本のストーリーの整合性を取るためのキャラクターとして、都合よく配役し直されているのではないか。
その疑惑が頭をもたげた瞬間、三嶋は確かな足場を失い、底なしの沼へと沈んでいくような恐怖に絶叫しそうになった。




