5-4:独りよがりの逃避行
三嶋はついに理性の限界を迎え、獣のような悲鳴を上げながら、デスクの上の黒い本へと飛びかかった。
白井と加瀬が制止するよりも早く、彼はその分厚い、革表紙の不快な質量を両手でひったくると、事務室のドアを蹴破って外へと走り出した。
この本を、この世界から消し去らなければならない。
燃やすか、底なしの海に沈めるか、あるいは誰も近づけない場所へ埋めるか。
これが存在する限り、自分という人間は、世界という現実は、すべてインクの染みに変えられてしまう。
三嶋は息を切らし、大学の長い廊下を全力で駆け抜けた。
すれ違う学生たちの顔が、一瞬だけ見えた。その誰もが、やはりスマートフォンを手にしたまま、白井や加瀬と全く同じ無表情で三嶋を見つめてきた。
彼らの口が、音もなく動き、三嶋の逃走を嘲笑うかのように同じ言葉の形を形作っていた。
事務室を飛び出し、初夏の照りつける太陽の下へ出た。
三嶋は大学の敷地の隅にある、大型のゴミ焼却炉へと向かった。管理員の姿はない。
三嶋は焼却炉の重い鉄の扉を開け、その暗い炉の奥底に向かって、手に持った黒い本を、全身の力を込めて投げ入れた。
「燃えろ! 燃え尽きて消えろ、こんな化け物の本!」
ガチャン、と重い鉄格子の扉を閉め、点火ボタンを強く押し込む。
ブォンという凄まじい駆動音とともに、炉の内部で猛烈な炎が巻き起こるのが、覗き窓の耐熱ガラス越しに見えた。
覗き窓の奥、炉の内部は、まるで地獄の釜のように赤熱し、呪われた黒い紙を、表紙を、文字の配列を、一切の灰も残さず食らい尽くしていく。
炎の赤が、三嶋の顔を不気味に照らし出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……。やった、やったぞ……。消したんだ……」
三嶋は焼却炉の前にへたり込み、激しい呼吸を繰り返しながら、歪んだ笑みを浮かべた。
これで終わる。記憶の書き換えも、あの不気味な視線も、すべてはただの悪夢として収束していくはずだ。
だが、彼が安堵の息を漏らし、自分のスマートフォンの画面で時間を確認しようとポケットから端末を取り出した瞬間、彼の世界は、完全に停止した。
スマートフォンの液晶画面。
そこに映し出されていたのは、いつものホーム画面でも、炎上するSNSのタイムラインでもなかった。
画面のガラスの内側に、まるで電子の壁を突き破って出現したかのように、あの光を反射しない、漆黒の革表紙の立体的なグラフィックが、圧倒的な存在感を持って表示されていた。
「な……に、これ……」
三嶋が戦慄していると、スマートフォンの画面がドロドロと溶けるように変形した。
同時に、右手に奇妙な質感が戻ってくる。
焼却炉に放り込んだはずの、あの物理的な重みが、唐突に――まるで最初からそこに存在していたかのように、三嶋の手の中に居座っていた。
――な、なんで……?
三嶋が呆然と視線を落とすと、そこにはあり得ない光景があった。
焼却炉に叩き込んだはずのあの黒い本が、なぜか三嶋の右手に握られている。
「ひっ……!」
三嶋は悲鳴を上げ、手の中にいつの間にか握られていた異物と、ドロドロに溶けかけていたスマートフォンを同時に放り投げた。
アスファルトに2つの物体が落ちたが、三嶋の視線はスマートフォンを一瞥することなく、ただ一つ、開いたページに釘付けになっていた。
たった今、焼却炉で灰にしたはずの、あの黒い本だ。
ページの1枚も焦げていない。それどころか、本そのものが炎の熱を吸い込んだかのように生温かい体温を帯び、三嶋を嘲笑うかのようにそこに横たわっていた。
三嶋は半狂乱になり、今度はアパートへ向かって走った。
駅の公衆便所に本を投げ捨て、心臓を早鐘のように鳴らしながらその場を離れた。しかし、どれだけ距離を離そうとも無駄だった。
駅の改札を通ろうと切符を投入すれば、排出口から出てくるのは切符ではなく、細長く折り畳まれたあの本のページだった。
喉の渇きを癒そうと自動販売機で缶コーヒーを買えば、取り出し口に転がり落ちてきたのは、缶ではなく、あの黒い本の実物だった。
先ほど便所に捨てたはずの本が、いつの間にか先回りしてそこに収まっている。もはや物理的な距離や破壊は、この呪いには何の意味もなさなかった。
三嶋は本をその場に放置し、逃げるようにしてアパートへ駆け込んだ。
震える手でドアを開け、安堵を求めてベッドに崩れ込んだ三嶋だったが、視界の隅に違和感を覚えた。
枕元には、先ほど駅の自動販売機に置き去ったはずのあの黒い本が、まるで一足先に帰宅していたかのように静かに横たわっていた。
「……追いかけてきていたんじゃないのか。ずっと、俺の一部だったんだな」
三嶋は虚ろな目で天井を見つめた。
この本は、物理的な距離を超えて彼を追いかけてきていたのではない。とっくの昔に、三嶋の魂の深淵に根を張っていたのだ。
彼が見るもの、触れるもの――そのすべてが、あの黒い本の色に塗りつぶされている。
彼が世界を覗き込むたび、その瞳には本が映り込み、何かに手を伸ばすたび、その指先には本の感触がまとわりつく。
この呪いに囚われた今、彼が生きている限り、世界はどこまでもあの本で埋め尽くされていく。
彼が本を見捨てるなど、土台不可能な話だった。彼自身の見るという行為そのものが、すでにあの本の一部に成り果てているのだから。
三嶋は枕元の本へ手を伸ばし、拒絶することなく、ゆっくりと両手で抱き上げた。
表紙は、まるで彼の腕の皮膚に吸い付くように、しっとりとした親密な熱を返してくる。
「もう逃げられない」――そんな声が聞こえてくるかのような、あまりにも甘美で恐ろしい感触だった。
世界からすべての余白が消え去り、彼自身の正気のタイムラインが、完全に終幕へと向かって収束していくのを、三嶋はただ、静寂の中で感じていた。




