兄の訪い
よろしくお願いします。
リーシャさんとダンさんの前で気持ちを認めてから、わたしは変わった気がする。
仕事をしていて扉が開くたびにテオが来てくれたのではと、期待に胸が膨らみ、違うとわかってがっかりするのだ。
あんなに恋なんてしたくないと思っていたのに、リーシャさんの言う通りだった。恋は気がついたら落ちるものなのだ。
一度自覚してしまった気持ちは、坂を転がり落ちるようにテオへと傾いていった。
◇
「はあ……」
今日は仕事が休みだけど、どこにも行く気になれず、朝から部屋に籠っている。食欲も湧かないのは重症かもしれない。
前は時間があれば実家に帰っていたけれど、テオがいると思うと帰れなかった。まだ普通の顔で会える自信がない。
テオのことを考えると、幸せなのに苦しくなる。まだ意識してなかった時は、ただ元気か、辛いことはないかと心配していただけだった。
今はそれに加えて、会いたい、でも会えない、声が聞きたい、恋しい、そんな気持ちが溢れてくる。
「はあ……」
だからこうして、気持ちの代わりに溜息を吐き出しているのかもしれない。
コンコン。
控えめなノッカーの音に、びくりと体が震えた。ひょっとしてテオだろうか、なんて未練がましいことを考えて、そんなわけがないと頭を振る。
その間にもノッカーは音を奏でている。仕方なしにわたしは扉に近づくと、恐る恐る尋ねた。
「……どちら様、ですか?」
「クレア、私だ」
はっとして慌てて扉を開く。この自信に満ち溢れた声音の男性は一人しか知らない。
扉を開けてわたしの予想が当たっていたことを知る。
「お兄様……」
「久しぶりだな、クレア。入ってもいいか?」
そこにいたのは兄のアウグストだった。テオによく似た面差しだけど、あまり笑わないせいかどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。優しい人だと知っているから怖くはないけれど。
「ええ、どうぞ。狭いところですが……」
「ああ」
否定せずにアウグストはスタスタと中に入る。社交術は得意だけど、家族に対しては遠慮も謙遜もしないところは相変わらずだ。苦笑しながらアウグストの後をついて行く。
アウグストは居間のソファに深く腰掛けるとその長い足を組む。わたしは向かい合わせに座った。
「それで、お前が家に寄り付かないのはテオドールのことがあるからか?」
「お兄様、どうして……」
そう尋ねると、アウグストは片眉を上げた。
「気づくに決まっているだろう。お前は知らないだろうが、ここ最近テオドールの様子がおかしかったからな。上の空で生返事。元気もない」
「それでテオは大丈夫なんですか?」
テオの今の様子を聞いて心配になった。そんな状態に追い込んだのはわたしなのに。
「そんなに心配なら、自分の目で確かめたらどうだ?」
「それは……できません。わたしはテオを傷つけてしまったから」
「傷つけたと思うなら謝ればいい」
「いえ、お兄様、そういう問題ではないんです」
喧嘩なら、謝って仲直りで済むかもしれないけど、わたしが一方的に悪いのに、謝って許してもらおうなんて虫が良すぎる。
「じゃあ、どういう問題だ? お前がテオドールと家族でいたいと望んだんだろう?」
「……知っていたのですか」
「ああ。テオドールから聞き出した。母上も父上も知っていたんだな。私一人だけが知らなかったよ」
「え、お父様もですか?」
「ああ。娘を嫁に出すのは複雑みたいだが、テオドールなら少なくとも他所に行かなくていいからまだ許せるかもしれない、と言っている」
「なんで反対しないの……?」
つい疑問が口をついて出た。アウグストに尋ねたわけではなかったけれど、アウグストが答える。
「別に血は繋がっていないんだから構わないだろう」
「ですが、わたしは平民だったので……」
「母上もそうだ」
理由を話しても、アウグストは理由を潰していく。これ以上理由が見つからないわたしは黙り込むしかなかった。
今度はアウグストがわたしに疑問をぶつける。
「お前は何故、テオドールを受け入れないんだ? お前もテオドールが好きなんだろう?」
「……わかるのですか?」
アウグストは呆れたようにわたしを睥睨する。
「わかるに決まっているだろう。自分がどんな顔をしているのかわかっているか? そこまで思い悩むのはテオドールを心から思っているからではないのか? テオドールも同じような顔をしていた」
「……それでお兄様はわたしにどうしろと仰るのですか?」
「別にどうもしない。お前は私がこうしろと言ったからと言って従わないだろう? 私も上からねじ伏せるようなやり方は好きじゃない。ただ、教えておこうと思っただけだ」
「何を……?」
アウグストは組んだ足を下ろして、前のめりになる。真剣な表情で口を開いた。
「テオドールに縁談の話が来ている。まあ、これまでもそういった話はあったが……今回は違う。あいつはその縁談を受けるつもりだ」
アウグストの言葉を理解したくなくて、わたしはその瞬間考えることを放棄したのだろう。頭の中が真っ白になった。
いつか来る別れは、もうこんなに早く訪れていた。
理解を拒む自分を叱咤して、言葉を絞り出す。
「そう、ですか。おめでとう、と伝えて、ください……」
顔の筋肉が強張って笑うのが難しい。だけど、家族として祝福しなければ。
アウグストはわたしをじっと真顔でしばらく見つめていたけれど、視線を落として溜息をつく。
「……本当にいいんだな」
「……」
嫌だなんて言えるわけがない。わたしもテオにこうしろなんて上から押さえつけることはしたくないのだ。
テオがそれを選んだのなら受け入れよう。
だけど、これだけは確認しておきたい。
「……相手の方は、テオを幸せにしてくださいますか?」
「それは私にはわからない。だが、お前には関係ないだろう。冷たいようだが、中途半端に優しくする方が残酷なこともある。お前はテオドールを振ったんだ」
「……ええ、そうですね。わたしにはそんな資格がありませんでした」
わたしは苦く笑うことしかできなかった。アウグストの言うことはもっともだ。
アウグストは小さく呟く。
「……仕方がないな」
「何がですか?」
言葉を拾うことはできたけど、意味を計りかねてわたしは問うた。アウグストは素知らぬ顔で首を振る。
「いや、なんでもない。気にするな」
「そうですか……」
アウグストの言葉よりも、テオのことが心を占めていて、わたしは追及するのをやめた。そんな気力も湧いてこなかった。
「話はそれだけだ。そろそろ帰る。父上、母上……テオドールもお前の心配をしている。いつでもいいからまた顔を見せに帰って来い」
「はい、そのうち……」
この心の痛みが消えれば、テオと普通の顔で会えるだろうから。
その後すぐアウグストは帰って行った。
静寂が訪れると、わたしの胸にひしひしと寂しさが押し寄せる。泣く資格なんてないのに、涙が溢れた。
これでよかったという思いと、まだ間に合うのではという相反する思いで心の中がぐちゃぐちゃだった。
それでもまだ話を聞いただけだ。だけど、これから現実を突きつけられると思うと、泣き叫びたい気持ちになるのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。




