第九話
その夜、フレンダはほとんど眠れなかった。
天井を見つめたまま、何度も寝返りを打つ。隣のベッドからは、セレナの穏やかな寝息が聞こえていた。
(終わったんだ)
前世を思い出したあの日から、ずっと、ずっと身構えていた日。アルマが死ぬはずだった日。
それが、終わった。アルマは生きている。今ごろ、隣の部屋で同じように眠っているはずだ。
なのに、胸の奥の重たいものは、少しも軽くならなかった。
(だって、ゲームだと、ここからが本番なんだよね)
アルマの死の後、落ち込むセレナに寄り添った攻略対象のルートへと、物語は分かれていく。そして、事件の終わり方も、ルートごとにまったく違った。
クライトルートでは、騎士団長である父親との確執と、港の地下に広がる密輸の拠点。
レオンルートでは、王都の貴族街にまで広がった中毒者たちの闇。ジークルートでは、ノアルートでは、ガルドルートでは――。
どのルートでも、危険な場面はいくらでもあった。
(でも今、セレナは誰のルートに入ってるの?)
思い返してみても、セレナが特定の誰かと急に親しくなった様子はなかった。休日も、検問の合間も、セレナの隣にいるのは、いつもアルマだ。
それは、推しカプ過激派のフレンダにとっては、涙が出るほど嬉しいことだった。
けれど同時に、この先に何が待っているのか、もう誰にもわからないということでもあった。
ゲームの知識という地図が、ここで途切れている。
(それに、あの男)
灰色の髪。目の下の傷痕。どの選択肢を選んでも必ず現れたはずの男が、今日は来なかった。
そして、白い髪の男。
外套のポケットの中の、赤いシーグラスを、フレンダは無意識に握りしめていた。
窓の外が白み始めても、眠気は一向に訪れなかった。
◇
「今日は全員、休みだ。昨日の今日だからな。剣も報告書も忘れて寝てろ」
朝食の席でガルドがそう告げると、レオンは「やったー!」と両手を挙げ、ジークは「……別に疲れてねえけど」と言いながら大きなあくびをした。
ノアはひびの入った眼鏡を直しに行くと言い、セレナとアルマは市場を見に行く相談を始めた。
フレンダは、ひとりで宿を出た。
休む気になれなかった。じっとしていると、頭の中で同じ考えばかりがぐるぐると回る。
剣を手に、町の外れへと歩く。坂を上り、家並みが途切れ、潮騒が遠くなる。たどり着いたのは、海を見下ろす丘の上に広がる、誰もいない原っぱだった。
膝丈ほどの草が、風に波打っている。遠くに、小さく港と海が見えた。
フレンダは剣を抜き、構えた。
振る。
振る。振る。振る。
踏み込み。下からの斬り上げ。懐への潜り込み。学園の訓練場で、何百回、何千回と繰り返した動き。
体を動かしている間だけは、頭の中のぐるぐるが少しだけ静かになった。
どれくらいそうしていただろう。額から汗が流れ落ち、腕が重くなり始めた頃。
草を踏む音がした。
振り向くと、藍色の髪が風に揺れていた。
「クライト先輩……」
クライトは、手に布で包んだ荷物を提げていた。もう片方の手には、鞘に収めた剣。
「……一緒に、練習してもいいか」
フレンダは、目を瞬かせた。
夜の訓練場では、いつも先にクライトがいた。フレンダは勝手にそこへ行き、勝手に隣で剣を振っていた。こんなふうに、彼のほうから「いいか」と聞かれたのは、初めてだった。
「……はい! お願いします!」
クライトは荷物を草の上に置き、剣を抜いた。
◇
打ち合いの音が、原っぱに響いた。
かん。かん。かきん。
クライトの剣は、相変わらず重かった。けれど、学園で初めて打ち合ったときのように、簡単に転がされることはもうなかった。受け流し、潜り込み、また距離を取る。
「肘が上がっている」
「はいっ!」
「今のはいい」
「はいっ!」
短い言葉。最低限の指示。けれど、それがひどく懐かしかった。
月明かりの訓練場。砂の匂い。まめだらけの手のひら。うさぎの缶の軟膏。
あの頃は、ただアルマを救うために強くなりたいと、それだけを考えていた。
(今は……)
剣を振りながら、フレンダはクライトの顔を見上げた。
無表情。けれど、藍色の瞳は、ちゃんとフレンダの動きを追っている。一振りごとに、見ていてくれている。
それだけで、なぜか、胸の奥のぐるぐるが少しずつほどけていく気がした。
◇
太陽が真上に来た頃、クライトが剣を下ろした。
「昼にする」
そう言って、草の上に置いていた布の包みをほどく。中から出てきたのは、木の箱に詰められた弁当だった。
黒パンに、焼いた魚と香草を挟んだもの。茹でた卵。小さな甘い果実がいくつか。それが、二人分。
「……え、これ、先輩が?」
「宿の女将に頼んだ」
「二人分?」
「……お前が、朝から出ていくのを見た」
それだけ言って、クライトはパンのひとつをフレンダに差し出した。
フレンダは、それを受け取った。
二人は、並んで草の上に座り、黙って食べた。
風が吹く。草が鳴る。遠くで、かもめの声がする。
どちらも、何も喋らなかった。けれど、浜辺の岩陰で並んで座ったあの夕暮れと同じように、沈黙は少しも苦しくなかった。
魚は香草の香りがして、少しだけしょっぱかった。黒パンは、噛むほどに甘かった。
最後の果実を食べ終えると、クライトは弁当箱を包み直し、それから――。
ごろん、と。
草の上に、仰向けに寝転がった。
「えっ」
フレンダは、思わず声を上げた。
あのクライトが。騎士団長の息子で、捜索隊一の剣士で、いつも背筋をまっすぐに伸ばしているクライトが。原っぱのど真ん中で、大の字になって空を見上げている。
「せ、先輩?」
「お前も、寝転がってみろ」
「え、でも」
「いいから」
有無を言わせない声だった。
フレンダは戸惑いながら、クライトの隣に、そろそろと横になった。
背中に、草のやわらかさが伝わる。土の匂い。陽に温められた、乾いた草の匂い。
見上げた空は、どこまでも青かった。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。風が頬を撫でる。遠くの潮騒が、子守歌のように寄せては返す。
(……あ)
まぶたが、重い。
昨夜、ほとんど眠れなかった。その前の夜も、その前の前の夜も。廃墟での戦いが近づくにつれて、浅い眠りしか取れなくなっていた。
(だめ、寝ちゃ……先輩の、前で……)
青い空が、ぼやけていく。
隣で、クライトが小さく息を吐いた気配がした。
それを最後に、フレンダの意識は、温かい闇の中へとすとんと落ちていった。
◇
目が覚めたとき、空の色が変わっていた。
青かった空は、淡い黄金色を帯び始めていた。太陽が、ずいぶん西へ傾いている。
(……え、私、どれくらい寝て)
ぼんやりと横を見る。
クライトが、座っていた。
片膝を立て、その上に腕を乗せて、遠くの海を見ている。傾いた陽が、彼の横顔を柔らかな橙色に縁取っていた。藍色の髪が、風にさらさらと揺れている。
いつもの無表情。けれど、どこか穏やかだった。
フレンダは、しばらく、その横顔を見つめていた。
綺麗だな、と思った。
思ってから、自分で驚いた。
「……起きたか」
クライトが、こちらを向いた。
「あっ、は、はい! す、すみません、私、すっかり……!」
慌てて飛び起きる。髪には草がからまり、頬には草の跡がついていた。
「よく眠れたか」
静かな声だった。
フレンダは、言葉に詰まった。
「……先輩、もしかして」
「目の下に、隈がある」
クライトは、自分の目の下を、指で軽く叩いてみせた。
「ここ数日、ずっとだ」
(……気づいてたんだ)
誰にも言わなかった。セレナにも、アルマにも。笑ってごまかして、平気なふりをしていた。
なのに、この人は。
だから、弁当を二人分作ってもらって。わざわざ追いかけてきて。寝転がれと言って。
そして、目が覚めるまで、ずっと隣にいてくれた。
「……はい」
フレンダは、膝を抱えた。
「すごく、よく眠れました」
クライトは、何も言わなかった。
ただ、その口元が、ほんのわずかに緩んだのを、フレンダは見逃さなかった。
◇
夕暮れの宿に戻ると、食堂の前でガルドが待っていた。
「お、戻ったか。ちょうどいい。全員集まってくれ、話がある」
食堂には、すでに他の面々が揃っていた。市場帰りのセレナとアルマ。眼鏡を直してきたノア。一日寝ていたらしく、髪に寝癖をつけたままのレオンとジーク。
ガルドは一同を見回し、咳払いをひとつした。
「昨日の件で、お前たちは敵に顔を覚えられたかもしれない。末端とはいえ、拠点を一つ潰したんだ。恨みを買っていてもおかしくない」
空気が、引き締まる。
「そこで、騎士団本部の判断で、この捜索隊に現役の騎士をもう一人つけることになった。今日、王都から着いたところだ」
フレンダは、目を見開いた。
(……え?)
そんな展開、ゲームにはなかった。
捜索隊の引率は、最初から最後までガルドひとりだった。どのルートでも、新しい騎士が加わるなんて場面は、一度もなかった。
(誰? どういうこと?)
「入ってくれ」
ガルドの声に、食堂の扉が開いた。
入ってきた人物を見て、フレンダの呼吸が止まった。
白い髪。
整いすぎるほど整った顔立ち。灰とも紫ともつかない瞳。真新しい王国騎士団の外套を、どこか着崩すように肩に引っかけて。
にこにこと、人懐っこい笑みを浮かべて。
「どーも。ライです」
軽い声が、食堂に響いた。
「王都から来ました。剣はまあ、そこそこ使えるかな。しばらくお世話になります。よろしくね~」
ひらひらと手を振る。それだけだった。
「……軽っ」
ジークが、思わず呟いた。
「おう、よろしくな! 俺はレオン! 困ったことがあったら何でも言えよ!」
「レオン先輩、相手は現役の騎士様ですよ」
レオンが勢いよく立ち上がり、セレナが苦笑し、ノアが眼鏡の奥で目を細める。クライトは腕を組んだまま、黙ってライを見ていた。
ライの視線が、一同を順に撫でていく。
そして、フレンダの上で、止まった。
目が合う。
ライは、にこりと、微笑んだ。
あの浜辺と同じ顔で。あの月夜と同じ顔で。
フレンダの頭の中は、真っ白になっていた。
(なんで。なんで、ライが)
ゲームにない展開。ゲームにいない人物。モブにしては、あまりにも顔の整いすぎた男。
(騎士、だったの?)
だから、私の名前を知っていたの?
騎士団の誰かから、捜索隊の名簿を聞いていたから?
港での一件を知っていたのも、騎士として報告を受けていたから?
辻褄は、合う。合ってしまう。
けれど、それなら、どうして最初から名乗らなかったの。どうして、あんな夜中に、気配もなく現れたの。どうして、港の男のことを、あんなふうに聞いたの。
(わからない)
わからないことが、増えていくばかりだった。
◇
「それじゃあ、今日は解散。明日からはライも検問に入る。以上だ」
ガルドの声で、一同がばらばらと席を立った。
フレンダは、食堂を出ていこうとする白い背中を、廊下の角で呼び止めた。
「――ライ!」
ライが、振り向いた。
「やっほー」
片手をひらりと上げる。
「また会ったね、フレンダ」
まるで、浜辺で別れたのがほんの数分前のことのように。何でもないことのように。
フレンダは、ライの前に立ちはだかった。睨み上げる。
「あなた、騎士だったの?」
ライは、首を傾げた。
灰とも紫ともつかない瞳が、廊下のランプの灯りを映して、ゆらりと揺れた。
それから、その目が、楽しげに細められた。
「味方で、よかったね?」
にこり、と。
答えになっていない答えを残して、ライはくるりと背を向けた。
廊下の奥へ遠ざかっていく白い髪を、フレンダは、ただ黙って見送るしかなかった。
胸のポケットの中で、赤いシーグラスが、かすかに重く感じられた。




