第八話
その時は、突然やってきた。
休暇が一巡した翌朝。八人そろって宿を出て、港へ向かう坂を下りていたときだった。
「……おい。あいつ」
ジークが、低い声で顎をしゃくった。
通りの向こう、路地の入り口を、ひとりの男がふらふらと歩いていた。痩せこけた頬。焦点の合わない目。それなのに口元だけが、だらしなく緩んで笑っている。小刻みに震える指先で、何かを大事そうに胸に抱えていた。
風向きが変わり、かすかな匂いが流れてきた。
甘い。熟れすぎた果実のような、頭の芯を痺れさせる、あの匂い。
「……やってるな、ありゃ」
レオンが、顔をしかめた。
男は通りの先の角を曲がり、港の外れへと消えていく。一同は距離を取って後を追った。
男がたどり着いたのは、港の東の端に建つ、古い石造りの商館だった。
かつては異国の商人たちが出入りしていたのだろう。立派な柱と、半ば崩れた紋章が、往時の名残をとどめている。
けれど今は窓という窓に板が打ちつけられ、壁には蔦が這い、入り口の扉は片方が外れて傾いていた。
男は、その扉の隙間に、するりと吸い込まれていった。
「……廃墟、だな」
ガルドが、物陰から建物を見上げた。
「応援を呼ぶ。駐屯地まで走れば、半刻で戻れる」
「半刻もあったら、中の連中に逃げられるかもしれません」
ノアが、静かに言った。
「さっきの男、中の誰かに薬を受け取りに来たのだと思います。取引が済めば、建物は空になる。これまでの運び屋と同じように、何も知らない末端だけが残る可能性が高い」
「……王子殿下の手掛かりが、あるかもしれないってことですよね」
セレナが、剣の柄を握りしめた。
ガルドは長く黙り込み、それから、深い深い溜め息をついた。
「……全員で行く。絶対に、俺の指示に従え。勝手な真似をしたら、首根っこ掴んで王都に送り返すからな」
◇
フレンダの心臓は、男を見たときからずっと、爆発しそうなほど暴れていた。
(ゲーム通りだ)
怪しい男。港の外れの廃墟。八人での突入。
何度も何度も、画面越しに見た流れ。
このあと、セレナの背後から、あの灰色の髪の男が斬りかかる。そして、アルマがセレナを庇って――。
(大丈夫)
フレンダは、ゆっくりと息を吐いた。
(大丈夫。そうならないように、たくさん準備してきた)
夜の訓練場で、何百回と剣を振った。頭の中で、この場面を何千回となぞった。敵が出てくる場所。セレナの立ち位置。アルマが飛び込む瞬間。
それに。
『お前は一人じゃないだろう。助け合えばいい』
医務室での、あの言葉。重ねられた手の温かさ。
前を歩くクライトの背中を、フレンダは見つめた。
◇
廃墟の中は、しんと静まり返っていた。
板の隙間から差し込む細い光の筋が、埃の舞う空気を斜めに切り裂いている。
床には割れた木箱や崩れた棚が散乱し、吹き抜けの広間の奥には、二階へと続く朽ちかけた階段が見えた。
そして、匂いがした。
甘い。外で嗅いだものとは比べものにならないほど濃い、あの匂いが、建物全体に澱のように満ちている。
先に入ったはずの男の姿は、どこにもなかった。
物音ひとつしない。
先頭のクライトが、片手を上げて一同を止めた。藍色の瞳が、闇の奥を探る。
フレンダは、ごくりと唾を飲み込んだ。
知っている。
この広間を抜けた先。右へ折れる廊下の、最初の角。
「……この先の角」
小さな声だった。けれど、静まり返った廃墟の中で、それは全員の耳に届いた。
「敵が、いると思います。襲ってくると思います」
一同が、振り返った。
「……気配はないぞ」
ジークが眉を寄せる。確かに、角の向こうからは何の音も聞こえない。
「根拠は」
ガルドが問う。フレンダは、言葉に詰まった。
「……匂いが、あっちから一番濃いので」
苦しい言い訳だった。けれど、クライトが、短く言った。
「全員、剣を抜け」
迷いのない声だった。
クライトは、フレンダを振り返りもしなかった。ただ、その一言だけで、一同の空気が変わった。
ガルドが小さく頷き、しゃりん、と金属の擦れる音が、次々と闇に響く。
フレンダは、剣を抜きながら、さりげなくセレナの隣へ寄った。そして、セレナとアルマにだけ聞こえるよう、声を潜めた。
「戦闘になったら、私たち三人で背中を固め合おう」
セレナとアルマが、驚いたようにフレンダを見た。
「絶対に、気を抜かないで。後ろから来ることもあるから。お互いの背中、絶対に空けないで」
二人は、顔を見合わせた。
まるで、この先に何が起こるのかを知っているような、フレンダの言葉。不思議に思わなかったはずがない。
けれど、フレンダの赤い瞳が、あまりにも真剣だったから。
「……わかった」
セレナが、まっすぐ頷いた。金色の髪を、高い位置で結い直す。
「うん。背中は、任せて」
アルマも、静かに頷いた。
(ゲームでは、セレナの背後から、あの男が来た)
フレンダは、剣の柄を握り直した。
最初は、アルマが死ななくていいように、自分が誰よりも強くなればいいと思っていた。アルマに届く刃より先に、自分の剣が届けばいいと。
今は、違う。
アルマを信じる。セレナを信じる。みんなを信じる。
一人で全部を背負うんじゃない。みんなで、助け合うんだ。
一同は、息を殺して、角へと近づいていった。
一歩。二歩。三歩。
角に、クライトの爪先がかかった、その瞬間。
「――来るぞ!」
闇が、弾けた。
◇
角の向こうから、男たちが雪崩れ込んできた。
五人、六人、いや、もっと。廊下の奥からも、吹き抜けの二階からも、次々と影が飛び降りてくる。
手には錆の浮いた剣、棍棒、短刀。その目はどれも、あの男と同じように、どろりと濁っていた。
「囲まれるな! 壁を背にしろ!」
ガルドの怒号が飛ぶ。
最初に斬り込んできた男の剣を、クライトが受けた。
受けた、と思った瞬間には、もう男の剣は宙を舞っていた。
手首を返し、柄で顎を打ち上げ、崩れ落ちる体を盾にして、次の男の突きを逸らす。流れるような動き。一切の無駄がない。
三人目が棍棒を振りかぶったときには、クライトの剣の切っ先が、すでにその喉元でぴたりと止まっていた。
「……動くな」
男は、棍棒を取り落とした。
(クライト先輩……)
息を呑む暇もなかった。
「ノア、下がってろ!」
大剣を振るうレオンが、ノアの前に躍り出る。
二人がかりで斬りかかってきた男たちの剣を、分厚い刃でまとめて受け止め、そのまま力任せに押し返した。
「うちの後輩に、刃物向けてんじゃねえ!」
いつもの明るい笑顔はどこにもない。けれど、その背中はやっぱり、誰よりも頼もしいお兄ちゃんのそれだった。
「レオン先輩、左の階段上に二人! 弓を持ってます!」
レオンの背後で、ノアが鋭く叫んだ。細身の剣を構えたまま、眼鏡の奥の目は戦場全体を見渡している。
「ジーク、右の柱の陰! ガルドさん、奥の扉から増援が来ます!」
「わかってるっての!」
ジークが、床を蹴った。
速い。崩れた木箱を足場に跳び上がり、柱の陰に潜んでいた男の手から短刀を叩き落とす。返す刀で、横から迫った別の男の膝を払う。
「遅えんだよ、どいつもこいつも!」
そう吐き捨てながら、ジークの立ち位置は、いつの間にかフレンダたち三人の側面をかばう位置にあった。
「ジーク……!」
「勘違いすんな! こっちから来る奴を斬ってるだけだ!」
奥の扉から雪崩れ込んできた男たちの前に、ガルドが立ちはだかる。長剣を一振り。重い金属音とともに、先頭の男が壁際まで吹き飛んだ。
「数で押すしか能がねえのか、お前らは」
無精ひげの騎士は、溜め息まじりにそう言って、剣を構え直した。十年以上を最前線で生き抜いてきた、本物の騎士の構えだった。
◇
「フレンダ、右!」
アルマの声に、フレンダは身を沈めた。
頭上を、錆びた剣が唸りを上げて通り過ぎる。フレンダより頭ふたつ分も大きな男だった。振り下ろしの勢いで、男の上体が前に流れる。
(下から入れ)
夜の訓練場の声が、耳の奥で響いた。
(相手の懐に。小さいということは、潜り込めるということだ)
フレンダは、床を蹴った。
男の剣の下へ、滑り込むように。腕と胴の隙間に、体ごと飛び込む。
驚いた男が剣を引き戻そうとするが、遅い。この距離では、長い剣は振れない。
剣の柄頭で、男の鳩尾を思いきり突き上げた。
「ぐっ……!」
男が体をくの字に折る。その手から剣を払い落とし、足を払う。巨体が、どさりと床に崩れた。
「フレンダ、後ろ!」
セレナの声。
振り向く必要はなかった。フレンダの背中には、アルマの背中が触れていた。
アルマの剣が、フレンダの背後から迫った刃を、がきん、と受け止める音がした。
「僕が見てる!」
「ありがとう、アルマ!」
三人は、背中を合わせていた。
フレンダが正面。アルマが右。セレナが左。三人で、三方を見る。どこから刃が来ても、誰かの目が、誰かの剣が、必ずそこにある。
セレナが、金色のポニーテールを翻して踏み込んだ。正確な突き。男の肩を浅く裂き、剣を握る手を緩ませる。アルマがすかさずその剣を絡め取り、床に叩き落とす。
息が、合っていた。
幼い頃から、ずっと隣にいた二人。言葉を交わさなくても、互いの次の動きがわかっている。
(……やっぱり、最高のコンビだよ、二人とも)
こんなときなのに、フレンダの口元が、ほんの少し緩んだ。
そして、その瞬間が来た。
セレナの、背後。
崩れた棚の陰から、ひとつの影が音もなく伸び上がった。
ゲームで見た、あの角度。あの位置。あのタイミング。
「セレナ、伏せて!!」
フレンダが叫ぶのと、セレナが身を沈めるのは、ほぼ同時だった。
フレンダは叫んでいた。けれど、それより先に、セレナは動いていた。フレンダの言葉を、最初から信じていたから。
空を切った刃が、セレナの金色の髪を数本、はらりと散らす。
影が、たたらを踏んだ。
その隙を、アルマは見逃さなかった。
――飛び込まなかった。
セレナの前に、自分の体を投げ出すのではなく。アルマは一歩踏み出し、しっかりと地面を踏みしめて、剣を振るった。影の剣を、真っ向から弾き返す。
影が、よろめく。
フレンダが、その懐に潜り込んだ。
柄頭で、顎を打ち抜く。
影は、声もなく崩れ落ちた。
フレンダは、肩で息をしながら、倒れた男を見下ろした。
痩せた、見知らぬ男だった。
灰色の髪でも、目の下の傷痕もない。ゲームの立ち絵には、どこにも似ていなかった。
◇
戦いは、それからまもなく終わった。
奥の裏口から、何人かは運河へ飛び込んで逃げていった。
レオンが追いかけようとしたが、ガルドがそれを止めた。深追いは危険だ、と。
それでも、広間の床には、縄をかけられた男たちが七人、うなだれて座り込んでいた。
二階の小部屋からは、大量の甘い葉が詰められた木箱と、取引を記したらしい紙の束が見つかった。
「……怪我人は」
ガルドが、一同を見回した。
レオンの腕に、浅い切り傷が一つ。ジークの頬に、擦り傷が一つ。ノアは眼鏡にひびが入っていたが、本人は無傷だった。セレナは髪を少し切られただけ。
そして、アルマは。
「アルマ、大丈夫?」
「うん。平気だよ。セレナこそ、髪……」
「髪くらい、すぐ伸びるよ」
セレナが笑い、アルマが困ったように笑う。
アルマが、生きている。
笑っている。
フレンダの膝から、すとんと力が抜けた。床にへたりこみそうになったところを、大きな手が、肘を掴んで支えた。
「……よくやった」
クライトだった。
藍色の瞳が、まっすぐにフレンダを見下ろしていた。
「角に敵がいると、よく気づいた。三人の連携も、悪くなかった」
いつもの、抑揚の少ない声。けれど、そこには確かな温度があった。
「……ありがとう、ございます」
フレンダは、かろうじて笑った。
(よかった)
アルマは死ななかった。セレナも無事だった。みんな、生きている。
ゲームの筋書きを、変えられた。
そのはず、なのに。
フレンダは、広間を見回した。縄をかけられた男たち。散らばった木箱。板の隙間から差し込む、細い光。
(……あの男が、いない)
灰色の髪。目の下の傷痕。深緑の外套。
ゲームでは、どの選択肢を選んでも、この場面には必ずあの男が現れた。
どのルートでも、どの好感度でも。物語の要として、必ずセレナの背後から刃を振るった。
なのに、今日は来なかった。
まるで、最初からこの場に来るつもりなどなかったかのように。
港で見た、あの微笑みが、脳裏をよぎった。
何もかもを知っているとでも言うような、あの笑み。
(アルマが助かったのは、私が筋書きを変えたから?)
それとも。
(筋書きが、私の知らない形に、変えられたから?)
背筋を、冷たいものが這い上がる。
「フレンダ?」
セレナが、心配そうに覗き込んでくる。
「どうしたの、どこか痛む?」
「……ううん。なんでもない。ちょっと、気が抜けちゃって」
フレンダは笑って、首を振った。
アルマが生きている。それは、何よりも嬉しいことのはずだった。
なのに、胸の奥の重たいものが、どうしても消えてくれなかった。
外套の内側、胸のポケットの中で、赤いシーグラスが、かすかに冷たく触れた気がした。




