第十話
翌日から、港での検問が再開された。
捜索隊は九人になった。ガルドが持ち場を割り振り、それぞれが入港した船の荷を改めていく。
いつもと同じ、潮と香辛料と汗の匂い。いつもと同じ、商人たちの不満の声。
違うのは、ひとつだけ。
(……見張らなきゃ)
フレンダは木箱の蓋を開けながら、何度も視線を横へ滑らせた。
二つ隣の検問所で、白い髪の男が麻袋を改めている。
ライは、驚くほど真面目に仕事をしていた。
荷の一つ一つに手を入れ、底まで確かめる。商人に柔らかく話しかけ、相手が気を緩めたところで、するりと核心を突く質問を差し込む。
昼前には、香辛料の樽の二重底から、早くも一件、甘い葉を見つけ出していた。
「お、すごいなライ! さすが本職!」
「いやー、たまたまだよ。レオンくんこそ力持ちで助かるなあ」
レオンに肩を叩かれて、へらりと笑う。怪しいところなど、何ひとつない。
(……普通に、ちゃんと騎士してる)
それが、かえって落ち着かなかった。
じっと見つめていると、ふいにライが顔を上げた。
目が合う。
ライは、にんまりと笑った。
「なに? 見惚れてたの?」
「なっ……ち、違うから!」
周りに聞こえる声で言われて、フレンダは真っ赤になって叫んだ。
近くでセレナが「え、そうなの?」と目を丸くし、アルマが困ったように笑う。ジークは「……は?」と眉をひそめた。
「違う! 全然違うからね!?」
「えー、残念」
ライはけらけらと笑って、また麻袋に手を戻した。
それから何度目が合っても、ライはそのたびに「また見てる」「今日も熱心だね~」と楽しそうにからかってきた。フレンダはそのたびに歯ぎしりをした。
◇
「……あいつが、どうかしたのか」
昼の休憩、桟橋の端で黒パンをかじっていたフレンダの隣に、クライトが腰を下ろした。
藍色の瞳が、少し離れたところで商人と談笑しているライを見ている。
「えっ、あ、いえ……」
「朝から、ずっと見ている」
(……気づかれてた)
フレンダは、黒パンを握りしめた。
話すべきなのかもしれない。月夜の広場のこと。名前を呼ばれたこと。浜辺でのこと。港の男について聞かれたこと。
けれど、それを話せば、あの日クライトについた嘘も、明るみに出てしまう。
『ひとりで、散歩してただけです』
「……新しい人だから、ちょっと気になっただけです。どんな剣を使うのかな、とか」
クライトは、じっとフレンダを見た。
長い沈黙だった。
「……そうか」
それだけ言って、クライトは海へ視線を戻した。
それ以上、何も聞いてこなかった。
そのことが、責められるよりもずっと、フレンダの胸に刺さった。
◇
数日後の夕暮れ。
検問を終え、一同は三々五々、宿へと戻り始めていた。フレンダは、最後の荷の記録をノアに渡してから、少し遅れて港を出た。
倉庫街の脇を抜ける近道。人通りはまばらで、西日が石畳に長い影を落としている。
セレナとアルマが、ずっと先を並んで歩いているのが見えた。クライトは、さらにその先。ガルドと何かを話しながら、坂の入り口に差しかかっている。
(今日も、何もなかったな)
そう思った、そのときだった。
背後で、石畳を蹴る音がした。
振り向く。
男が、いた。
倉庫の陰から飛び出してきた、痩せた男。血走った目。手には、夕陽を照り返す、鈍く光るナイフ。
その顔に、見覚えがあった。
(――廃墟の)
あの日。乱戦の最中、フレンダの脇をすり抜けて、裏口へと走り去った男。手を伸ばせば届いたはずの距離で、フレンダが取り逃がした男。
「お前のせいで……! お前のせいで、全部っ!」
男が、叫びながら距離を詰めてくる。
フレンダの手が、剣の柄に伸びた。
(間に合わない)
抜ききる前に、刃が届く。体が、それを理解していた。
「フレンダ!!」
遠くで、声がした。
クライトだった。坂の入り口から、こちらへ向かって駆け出している。けれど、遠い。あまりにも遠い。どれだけ速くても、あの距離は埋まらない。
ナイフの切っ先が、迫る。
夕陽が、刃の上で、ぎらりと光った。
――白が、視界を横切った。
どかっ、と。
鈍い音がして、男の体が、真横に吹き飛んだ。
倉庫の壁に叩きつけられ、ナイフが石畳を転がっていく。
「が……っ、は……」
男は、壁にもたれたまま、ずるずると崩れ落ちた。脇腹を両腕で抱え込み、体をくの字に折り曲げる。
息を吸おうとして、吸えない。口をぱくぱくと動かすたびに、ひゅう、ひゅう、と喉から掠れた音が漏れた。
「い……っ、いてえ……っ、いてえ、いてえよぉ……っ」
額を石畳に擦りつけ、男は身をよじってのたうった。立ち上がろうと片手をつくが、その腕にすら力が入らず、べしゃりと再び地に伏せる。
脂汗が、こめかみからぼたぼたと滴り落ちていた。
フレンダは、剣の柄を握ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
目の前に、白い髪の背中があった。
ライが、片足を下ろすところだった。蹴り飛ばしたのだ、と遅れて理解する。
どこから現れたのか、まったくわからなかった。ほんの一瞬前まで、そこには誰もいなかったはずなのに。
「はーい、そこまで」
ライは軽い調子でそう言うと、地面でうずくまる男の腕を取り、くるりと背中に捻り上げた。
「ぎっ……ああああっ!」
男の口から、悲鳴とも呻きともつかない声がほとばしる。蹴られた脇腹がよほど効いているのか、抵抗しようと体をよじるたびに、その顔が苦痛で歪んだ。
「あー、動かないほうがいいよ。肋、何本かいってると思うから」
ライは、まるで天気の話でもするような口調で言った。
そして懐から取り出した縄で、手際よくその手首を縛り上げていく。男はもう、呻くことしかできなかった。
「危ないなあ。女の子に刃物向けちゃだめでしょ」
にこにこと笑いながら。
まるで、肩についた埃でも払うみたいだった。
「フレンダ!」
クライトが駆け込んできた。息が荒い。藍色の瞳が、フレンダの全身を素早く確かめる。
「怪我は」
「な、ない、です……」
「……そうか」
クライトの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
それから、彼の視線が、ライに向いた。
ライは、縛り上げた男の襟首をつまんで、ひらひらと手を振った。
「いやー、たまたま近くにいてよかったよ。ね、フレンダ」
クライトは、何も言わなかった。
ただ、ライを見つめるその目が、いつもより少しだけ、冷たく凪いでいた。
◇
その夜。
フレンダは、宿の裏手にある小さな庭へ向かった。
ライがそこにいることは、なんとなくわかっていた。夕食の後、ひとりでふらりと裏口から出ていく白い背中を見ていたから。
庭の隅の、低い石垣の上。ライは、そこに腰掛けて月を見上げていた。
「ライ」
声をかけると、ライはゆっくりと振り向いた。
「あれ、フレンダ。どうしたの、こんな夜中に。また眠れないの?」
フレンダは、ライの前に立った。
そして、まっすぐに、その目を見た。
「今日は、助けてくれてありがとう」
灰とも紫ともつかない瞳を、まっすぐ見上げる。
「ライがいなかったら、私、刺されてた。……本当に、ありがとう」
ライは、きょとんとした。
いつもの余裕の笑みが、一瞬だけ、すとんと抜け落ちた。目を丸くして、まるで、思ってもみなかったものを差し出された子どものように。
それから。
ふっと、その顔がほどけた。
「……あはは」
ライは笑って、石垣から立ち上がった。そして、大きな手を伸ばして。
わしゃわしゃわしゃっ。
フレンダの頭を、思いきり撫でた。
「ちょっ……!? ちょっと! やめて! 髪っ、ぐちゃぐちゃになるでしょ!!」
「あはははっ」
「笑ってないで! ツインテールが! ツインテールが崩れる!!」
フレンダが両手で頭を押さえて飛びのくと、ライはお腹を抱えて笑った。月明かりの下で、白い髪が揺れる。
クライトの撫で方とは、まるで違った。
あの人は、ツインテールの分け目を崩さないように、そっと、やさしく撫でてくれた。
(……って、なんで今それを比べてるの、私)
乱れた髪を必死に整えながら、フレンダはライを睨んだ。
ライは、まだ肩を震わせて笑っていた。
「ねえ、フレンダ」
笑いの余韻を残したまま、ライが首を傾げた。
「君さ、俺のこと、警戒してるんじゃないの?」
「してるわよ」
即答した。
ライは、一瞬目を瞬かせて、それからまた噴き出した。
「っはは! 正直だなあ」
「当たり前でしょ。名前のことも、港のことも、まだ何ひとつ答えてもらってないんだから」
「うん。それでいいよ」
ライは、石垣に腰を戻した。
「疑うことは、大事なことだからね」
笑みを浮かべたまま。けれど、その声は、少しだけ静かになっていた。
「信じてばかりだと、守れないときもある」
フレンダは、ライを見つめた。
月を見上げる横顔。整った鼻筋。薄い唇。いつも通りの、穏やかな笑み。
なのに、その言葉だけが、妙に重たく響いた。
「……ライは」
気づいたら、口が動いていた。
「守れなかったことが、あるの?」
夜風が、庭の草を揺らした。
ライは、すぐには答えなかった。
月を、見上げたまま。
「……さあ?」
やがて、いつもの間延びした声が返ってきた。
「どうだろうね~」
笑っていた。
いつもと同じように、にこにこと。
月の光が、白い髪を、整った横顔を、やさしく照らしていた。青白い光の中で、その笑顔は、どこか透き通って見えた。
どこか、寂しそうに見えた。
フレンダは、何も言えなかった。
何か言わなきゃ、と思った。けれど、どんな言葉をかければいいのか、わからなかった。この人のことを、まだ何も知らないから。
ライは、ひょいと石垣から降りた。
「さ、もう寝なよ。明日も早いんだから」
ひらりと手を振る。
「おやすみ、フレンダ」
そう言って、ライは裏口へと歩いていった。白い髪が、月明かりの中を遠ざかっていく。
扉が、静かに閉まる。
フレンダはひとり、月の下に取り残された。
ぐしゃぐしゃになった髪を指で梳きながら、彼女はさっきのライの横顔を、何度も、何度も思い返していた。




