第四話
次の休暇まで、あと三日。
フレンダは宿のベッドの上で、指折り数えていた。
(次の休暇が、あの日)
ゲーム中盤の、海辺の夕暮れ。波打ち際に並んで座るセレナとアルマ。アルマが何かを言いかけて、唇を開いて、結局飲み込んで、ただ笑うスチル。
前世で、何百回とロードし直したあの一枚。
あの日、アルマは想いを伝えられなかった。そしてその後、伝えられないまま、セレナを庇って死んだ。
(今度は、言わせる)
枕元の小さな布袋に、そっと指で触れる。中には、藍色の硝子玉が二つ並んだ髪飾りが眠っている。
剣を持たなくていい日が来たら。クライトの言葉を思い出すと、なぜか少しだけ、胸がくすぐったくなった。
(いやいや、今はそれどころじゃない!)
フレンダはぶんぶんと首を振った。
三日。三日のうちに、アルマの背中を押さなければならない。
◇
その夜、夕食を終えて食堂を出ようとしたアルマの袖を、フレンダはこっそりと引いた。
「アルマ。ちょっといい?」
「フレンダ? どうしたの」
「いいから、来て」
連れ出したのは、宿の裏手にある井戸端だった。
洗濯物を干すための縄が何本も張られ、昼間は宿のおかみさんたちで賑わう場所だが、この時間には誰もいない。
壁に掛けられたランタンがひとつ、頼りなく揺れているだけだ。
「こんなところで、何の話?」
首を傾げるアルマに、フレンダは向き直った。
深呼吸をひとつ。
「アルマ。私、知ってるよ」
「え?」
「アルマが、セレナのこと好きだって」
一瞬、時が止まった。
それから、ランタンの薄明かりの下でもはっきりわかるほど、アルマの顔が、首まで一気に真っ赤に染まった。
「なっ……な、な、何言って……! ぼ、僕は別に、セレナとは幼馴染で、昔からずっと一緒にいるだけで、そういうのじゃ」
「パン屑」
「うっ」
「雨の日の傘」
「ううっ」
「狭い路地で、近いよって言いながら、顔赤くしてた」
「……っ!!」
アルマは両手で顔を覆って、その場にしゃがみこんだ。指の隙間から覗く耳まで、熟れた林檎のように赤い。
(尊い……!!)
フレンダは天を仰いだ。ランタンの灯りが、後光に見えた。
(落ち着け私。ここで尊死してる場合じゃない)
こほん、と咳払いをして、フレンダもアルマの前にしゃがみこんだ。
「ねえ、アルマ。言わないの?」
「……言えないよ」
覆った手の向こうから、くぐもった声が返ってきた。
「セレナは、僕のことを幼馴染としか思ってない。もし言って、今の関係が壊れたら……隣にいることすら、できなくなるかもしれない。それなら僕は、ずっとこのままでいい」
ゲームと同じ台詞だった。
海辺のスチルの後、アルマが一人で呟く独白。前世のフレンダが、画面の前で何度「ばか」と泣いた言葉。
「このままじゃ、だめだよ」
フレンダの声は、思ったより強く響いた。
アルマが、指の隙間からこちらを見る。
「ずっとこのまま、なんて、ないんだよ。明日も明後日も同じように隣にいられるなんて、誰にもわからないんだから」
言いながら、喉の奥が熱くなった。
知っているから。このままなら、アルマにはそう遠くないうちに、明日が来なくなることを。
「伝えられるうちに、伝えなきゃ。後悔するのは、伝えられなかったほうなんだよ」
「……フレンダ」
「それに、セレナだってアルマのこと」
そのとき、じゃり、と砂を踏む音がした。
「――あれ、フレンダ? アルマ?」
フレンダとアルマは、同時に跳ね上がった。
井戸端の入り口に、セレナが立っていた。
そして、その少し後ろに。
藍色の髪の、背の高い影。
(クライト先輩……!?)
フレンダの頭が、真っ白になった。
(な、なんで。なんでセレナとクライト先輩が、一緒にいるの)
夜の宿で。二人きりで。
ゲームのクライトルート。休日に出会って、少しずつ距離が縮まって、夜の見回りの途中で二人きりになるイベントが、確かにあった。
(嘘、まさか、ルートに入りかけてる? 私が休日に独占したのに?)
焦りと一緒に、胸の奥で何かが、もやっと渦を巻いた。
それが何なのか、フレンダにはわからなかった。ただ、なんだか嫌だ、と思った。セレナとアルマのために嫌なのか、それとも別の理由なのか。考えようとして、考えるのをやめた。
セレナは大きな空色の目を、ぱちくりと瞬かせた。
夜の井戸端。しゃがみこんで顔を寄せ合っていたフレンダとアルマ。真っ赤な顔のアルマ。
「……二人って」
セレナの声が、ほんの少しだけ、小さくなった。
「そういう関係、だったの?」
心なしか、その笑顔が、寂しそうに見えた。
(えっ)
フレンダは目を見開いた。
(今の、寂しそうな顔……!? セレナ、それって、それってもしかして――いやでも今はそれどころじゃない!!)
クライトは、何も言わなかった。
セレナの後ろで腕を組み、じっとこちらを見ている。いつもの無表情。けれど、どこか違った。口元が固く引き結ばれ、藍色の瞳が、冷たいほど静かに凪いでいる。
小屋で受け止めてくれたときとも、防波堤で笑ってくれたときとも違う。初めて見る、硬い顔だった。
「「違う!!」」
フレンダとアルマの声が、見事に重なった。
「違う違う違う! 全然違うから! ね、アルマ!」
「うん、全然違う! フレンダとは、そういうのじゃ絶対ないから!」
「絶対って言い方はちょっと傷つくけど、でも絶対違う!」
二人そろって、首がもげそうなほど横に振る。
「じゃ、じゃあ、こんなところで何してたの?」
「えっと、それは……!」
フレンダの頭が、全速力で回転した。
「アルマに、剣の相談をされてたの! ほら私、クライト先輩に特訓してもらって、懐に潜り込む戦い方覚えたでしょ? アルマもああいうの知りたいって! でも、人に教わってるとこ見られるの恥ずかしいって言うから、ここで!」
「そ、そう! 僕、いつもセレナより打ち合いで負けるし、こっそり強くなりたくて! だから顔も赤くて……ほら、恥ずかしくて!」
苦しい。あまりにも苦しい。
けれどセレナは、しばらくきょとんとしたあと、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「なんだ~。びっくりした」
「あ、あはは、ごめんね!」
「ううん。アルマ、そんなこと気にしてたんだ。言ってくれれば、私も一緒に練習するのに」
「い、いや、それだと意味がないっていうか……」
アルマがもごもごと口ごもる。セレナがくすくすと笑う。いつもの二人の空気が、少しずつ戻ってくる。
フレンダは、ほっと胸を撫で下ろした。
それから、恐る恐る、セレナの後ろを見た。
クライトは、結局、最後まで一言も発さなかった。
ただ、一度だけフレンダと目が合った。その瞬間、彼はすっと視線を外し、背を向けて、宿の中へと戻っていった。
靴音が、遠ざかっていく。
(……なんで、あんな顔)
胸のもやもやは、晴れないままだった。
◇
そして、休暇の日がやってきた。
雲ひとつない快晴。真昼の太陽が白い砂浜を焼き、どこまでも透き通った海が、穏やかな波を寄せている。
浜辺の端、大きな岩の陰に、フレンダはしゃがみこんでいた。
手には、ノアから借りた双眼鏡。
「入港する船の旗を確認したいから」と言ったら、ノアは眼鏡を押し上げて「休暇中も熱心ですね」と感心しながら貸してくれた。良心が少しだけ痛んだ。少しだけ。
双眼鏡を覗く。
波打ち際で、セレナとアルマが並んで歩いていた。
セレナが裸足になって、波に足を浸す。冷たい、と笑いながらアルマのほうを振り返る。
アルマが、困ったように笑いながらも、自分も靴を脱ぐ。セレナが、手のひらで掬った海水をアルマに浴びせる。アルマが「わっ」と声を上げて、仕返しをする。
(はああああ……!!)
フレンダは岩に額を打ちつけそうになった。
(海辺できゃっきゃする推しカプ! 水かけっこ! なにこれ、スチルにない! スチルにない供給が目の前で! 生きててよかった! 死んでてよかった!)
双眼鏡を握る手が震える。
けれど、浮かれてばかりもいられない。
この後、日が傾き始めたら、二人は波打ち際に並んで座る。そして、あのスチルの場面が来る。
(あの晩、ちゃんと背中は押した。あとはアルマ次第)
もし。
もし、それでもアルマが言えなかったら。
フレンダは、ぎゅっと拳を握った。
(そのときは、私が行く)
計画は完璧だった。浜辺を全力で走ってきて、つまずいたふりをして、二人のどちらかにぶつかる。体勢を崩した二人が、勢いあまって、こう、顔と顔が、ちょうどいい感じに――。
(事故チュー!! 少女漫画の伝統芸能!!)
悪くない。いや、最高だ。ちょっと痛いかもしれないけど、推しカプのためならおでこの一つや二つ、喜んで捧げよう。
「……何をしている」
隣で、低い声がした。
「ひゃあっ!?」
フレンダは双眼鏡を取り落としかけた。
振り向くと、いつの間にか、クライトが隣に腰を下ろしていた。
「く、クライト先輩……!? なんで、ここに」
「通りがかった」
浜辺の端の、岩陰を。通りがかる理由があるとは思えなかった。
クライトは、フレンダの手の双眼鏡を見た。それから、その双眼鏡が向いていた先を見た。
波打ち際で笑い合う、セレナとアルマ。
クライトの顔が、わずかに強張った。
「……あいつらを、見ていたのか」
「え、えっと……はい。まあ、その、見守り、というか」
「……そうか」
それきり、クライトは黙った。
フレンダも、何を言えばいいのかわからなかった。あの夜から、なんとなく、まともに話せていなかったのだ。
「……先輩。この前の夜、セレナと一緒でしたよね」
思わず口にしてから、しまった、と思った。何を聞いているんだろう、私は。
クライトは、海を見たまま答えた。
「廊下で会った。お前を探していると言うから、裏手で見かけたと教えた。それだけだ」
「……そう、だったんですか」
それだけ。
それだけ、だったのか。
胸の奥のもやもやが、すうっと溶けていくのがわかった。なぜ溶けたのかは、やっぱりわからなかった。
「……そうです、か」
もう一度呟いて、フレンダは膝を抱えた。
それから、二人は何も話さなかった。
並んで座ったまま、ただ前を見ていた。波の音。かもめの声。遠くで笑うセレナとアルマの声。
潮の香りを含んだ風が、フレンダのツインテールと、クライトの藍色の髪を、同じ方向へなびかせていく。
不思議だった。
沈黙が、少しも苦しくなかった。
夜の訓練場で、二人で黙々と剣を振っていたあの時間と、同じだった。言葉がなくても、隣にいるだけで、なんとなく、大丈夫だと思える。
太陽が、ゆっくりと西へ傾いていった。
◇
空が、茜色に染まり始めた。
波打ち際で遊び疲れたセレナとアルマが、砂浜に並んで腰を下ろした。濡れた裸足の先を、寄せては返す波が撫でていく。
フレンダは、息を呑んだ。
夕陽を背にした、二人の影。
寄り添うようで、触れ合わない、ほんのわずかな距離。
セレナが、水平線に沈んでいく太陽を見つめている。
そして、アルマが、そのセレナの横顔を見つめている。
(――スチルだ)
前世で、何百回と見たあの一枚が、今、目の前にあった。
寸分違わず。光の色も、波の形も、アルマの瞳に浮かぶ、言葉にならない想いの色も。
フレンダは双眼鏡を握りしめた。指先が白くなるほど、強く。
(いけ)
アルマの唇が、わずかに開く。
(いけ、言うんだアルマ!!)
心臓が、口から飛び出しそうだった。
(言って! あの夜の話、思い出して! 伝えられるうちに伝えなきゃって、私言ったでしょ! 今だよ! 今しかないんだよ!!)
身を乗り出す。岩の縁を掴む。いつでも駆け出せるように、足に力を込める。事故チューの準備は万端だった。
「……もう、行かないか」
隣から、静かな声がした。
「え?」
フレンダは、双眼鏡から目を離さないまま答えた。
「あ、私はもう少しここにいるので。先輩は、先に戻っててもらって大丈夫ですよ」
返事は、なかった。
波の音だけが、寄せては返す。
十秒。二十秒。三十秒。
クライトは、立ち上がらなかった。
「……お前は」
ようやく聞こえてきた声は、低く、ひどく言いにくそうだった。
「あいつのことが、好きなんじゃないのか」
「……えっ?」
今度こそ、フレンダは双眼鏡を下ろした。
振り向く。
クライトは、海を見ていた。フレンダのほうを見ないまま、膝の上で組んだ両手に、ぎゅっと力がこもっている。
「……時々、あいつのことを見て、嬉しそうにしていただろ」
「え、あの」
「馬車の中でも。路地でも。……この前だって、夜に二人きりでいた」
クライトの声が、わずかに掠れた。
「好きなんじゃないのか。アルマのことが」
フレンダは、目をぱちくりさせた。
一回。二回。三回。
(……え?)
アルマを。私が。好き。
言葉の意味が、ゆっくりと頭に染み込んでいく。そして、染み込みきった瞬間。
「違います!!」
フレンダは、きっぱりと言い切った。
クライトが、弾かれたようにこちらを見た。
「全っ然、違います! 私が好きなのは、アルマじゃなくて」
フレンダは、波打ち際の二人を指さした。
「あの二人です! アルマと、セレナ! あの二人が、二人一緒にいるのが好きなんです! 私は、アルマとセレナがくっつけばいいって、ずっと、ずーっと思ってるんですよ!」
胸を張って、高らかに宣言する。
それから、フレンダはまた、海辺の二人に目を向けた。
夕陽の中で、アルマが、何かを言おうとしている。セレナが、不思議そうに彼のほうを振り向く。
「……がんばれ、アルマ」
小さく呟いたフレンダの横顔を、クライトは見ていた。
夕焼けに照らされたその顔は、嬉しそうだった。
心の底から。祈るように、願うように。まるで自分のことのように、幸せそうに。
もしアルマを想っているのなら、セレナと並ぶ彼の姿を、こんな顔で見ていられるはずがない。
クライトは、ゆっくりと前に向き直った。
そして、一つ、長い息を吐いた。
組んでいた両手から、いつの間にか、力が抜けていた。




