第三話
手掛かりのない日々が、五日続いた。
倉庫街の奥も、旧漁師町の空き家も、岬の洞窟も、港に出入りする船の荷も。
どれだけ足を棒にして歩き回っても、王子に繋がるものは何ひとつ見つからなかった。
屋根の上の人影も、あの夜の灯りのない小舟も、それきり姿を見せない。
「このままじゃ全員潰れる。明日から、班ごとに交代で休みを取れ」
五日目の夜、ガルドが目の下の隈をさらに濃くしながら、そう告げた。
「最初は一班だ。クライト、アルマ、セレナ、フレンダ。明日は一日、剣を置いて頭を休めろ。いいか、これは命令だからな」
一同が頷く中で、フレンダだけが、スープの皿を見つめたまま固まっていた。
(休日……!)
来た。ゲームの、休日イベント。
捜索の合間の休日、ヒロインは誰と過ごすかを選べる。そして選んだ相手との距離が、ぐっと縮まる。
(問題は、クライト先輩とセレナが同じ班で、同じ日に休みってこと)
ゲームのクライトルートには、まさにこの休日に、街でセレナとクライトがばったり出会う導入イベントがあった。
そこから二人は一緒に街を歩き、セレナが、彼に惹かれ始める――。
(だめ。絶対にだめ)
セレナの隣は、アルマの場所だ。
なら、やることは決まっている。
(私がクライト先輩を、一日まるごと独占する!)
フレンダは、スプーンを握りしめた。
◇
翌朝。
宿の玄関を出ようとしたクライトの前に、フレンダは仁王立ちで立ちはだかった。
「おはようございます、クライト先輩!」
「……おはよう」
「どこか行くんですか?」
「街へ」
「私も行きます!」
クライトは、じっとフレンダを見下ろした。
「……なぜ」
「えっと、それは、その……ひ、一人だと迷いそうなので! 私、方向音痴なので!」
先日、迷路のような倉庫街の地図を誰よりも早く頭に叩き込んだのはフレンダだった。クライトはそれを知っている。知っているはずだった。
けれど彼は、ほんのわずかに首を傾げただけで、何も言わずに歩き出した。
「……勝手にしろ」
「はい! 勝手にします!」
フレンダはツインテールを弾ませて、その後を追った。
振り向くと、ちょうど宿の窓辺で、セレナとアルマが並んで朝の海を眺めていた。セレナが何か言い、アルマが笑う。
(よし。セレナはアルマと一緒。完璧)
フレンダは心の中で小さく拳を握った。
◇
休日の港町は、捜索のときに見る顔とはまるで違っていた。
朝市の喧騒。並べられた銀色の魚。籠いっぱいの貝。色とりどりの果物。遠い国から運ばれてきたらしい香辛料の、鼻をくすぐる匂い。
坂の上から見下ろすと、白い壁と橙の屋根の向こうで、海がきらきらと光っていた。
「先輩、見てください! あの魚、顔がおじさんみたい!」
「……」
「あっ、あっちのお店、貝殻で作った風鈴売ってます! ちりんちりんって! すごい、音が全部違う!」
「……」
「先輩、この香辛料の匂い嗅いだことあります? なんか、鼻の奥がすーってします! すーって!」
フレンダは、あっちへ行ってはこっちへ戻り、こっちで立ち止まってはあっちへ駆けていく。黒いツインテールが、くるくると風に踊る。
クライトは、ほとんど口を開かなかった。相槌も「ああ」か「そうか」くらいのものだ。
けれど、フレンダが立ち止まれば、彼も必ず立ち止まった。
フレンダが人混みに呑まれそうになれば、いつの間にかすぐ後ろにいて、大きな体で人の流れを遮ってくれていた。
フレンダが振り返って何かを指させば、彼は必ず、その指の先を見た。
(……あれ。もしかして、ちゃんと付き合ってくれてる?)
ふと見上げたクライトの横顔は、相変わらずの無表情だった。
けれど、捜索中の張り詰めた空気は、そこにはなかった。
藍色の瞳が、どこか柔らかく、賑やかな通りを映している。
◇
通りの角に、小さな雑貨屋があった。
初日に一同が通りがかった、あの店だ。窓辺に、貝殻細工や硝子の小物がずらりと並んでいる。
クライトの足が、そこでぴたりと止まった。
「先輩?」
返事はない。クライトは、吸い寄せられるように店の中へ入っていった。フレンダも慌てて後に続く。
店内は、潮の香りと木の香りが混じり合った、ほの暗く温かい空間だった。
棚という棚に、手のひらに乗るほどの小物が所狭しと並んでいる。
クライトは、奥の棚の前で立ち止まっていた。
その視線の先にあったのは、小さなうさぎの置物だった。
白い貝殻を削って作られた、親指ほどの大きさのうさぎ。
耳の先だけが黒い貝で細工されていて、目には小さな赤い石がはめ込まれている。
ぴんと二本の耳を立て、ちょこんと前足を揃えて、こちらを見上げていた。
クライトは、それをじっと見つめていた。
手に取るでもなく。値札を確かめるでもなく。ただ、じっと。
そして――ほんのわずかに、本当にわずかに、その口元が緩んだ。
(……あ)
フレンダは、目を瞬かせた。
知っている。
ゲームのクライトルートの後半、夜の駐屯地で、クライトがセレナにだけ打ち明ける秘密。
無口で無表情な騎士団長の息子が、本当は可愛いものに目がないこと。
前世の私は、あの告白シーンで「ギャップ……!」と叫んで枕を殴った。
でも、画面越しに見るのと、目の前で見るのとでは、まるで違った。
立ち絵の表情差分なんかじゃない。ほんの数ミリの、口元のゆるみ。
うさぎを見つめる目尻の、かすかなやわらかさ。棚の前で、大きな背中をほんの少しだけ丸めている、その姿勢まで。
(……しかもこれ、本来はセレナが見るはずの顔なんだよね)
ちくりと罪悪感が湧く。けれど、目が離せなかった。
(そういえば、まめの軟膏の缶も、うさぎだった)
初日、この店の前で足を止めていたのも、きっと。
知識としては、全部知っていたはずなのに。胸の奥が、むずむずとくすぐったい。
(……かわいい)
うさぎが、ではなく。
うさぎを見つめる、この大きな人が。
「……行くぞ」
はっと我に返ると、クライトはもう棚から目を離し、扉のほうへ歩き出していた。結局、うさぎには一度も触れないまま。
「えっ、買わないんですか?」
「……用はない」
クライトは振り返らずに店を出た。扉のベルが、ちりん、と鳴った。
フレンダは、棚の上のうさぎを、もう一度だけ振り返った。
◇
それから二人は、港沿いの通りを食べ歩いた。
揚げたての小魚に塩を振っただけのもの。炭火で焼いた大きな貝に、香草のバターを落としたもの。蜂蜜をたっぷり染み込ませた、焼きたての丸パン。
「ふぁっ、あつっ、あつい! でもおいしい! 先輩、この貝すっごくおいしいです!」
「……口に入れたまま喋るな」
「ふぁい」
フレンダが頬をぱんぱんに膨らませて頷くと、クライトは小さく息を吐いた。それから、屋台の店主に硬貨を渡し、焼き貝をもう一つ受け取って、黙ってフレンダの手に乗せた。
「え? これ、先輩のじゃ」
「お前が食え」
「でも」
「もっと食えと言った」
小屋で受け止められたときの言葉だった。覚えていたのか、とフレンダは思った。
「……じゃあ、半分こしましょう!」
フレンダは貝の身を器用に半分に割り、片方をクライトの口元に突き出した。
クライトの動きが、止まった。
「はい、先輩!」
「……」
数秒の沈黙ののち、クライトはフレンダの手から、貝を指で受け取った。そしてそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
「……うまい」
「でしょう!」
フレンダが満面の笑みで胸を張る。クライトは視線を海へ逸らしたが、その目元が、ほんの少し和らいでいるように見えた。
◇
通りの中ほどに、小さな装身具の店があった。
店先の台には、貝殻や珊瑚、色硝子を使った首飾りや耳飾り、髪飾りが、陽の光を浴びて並んでいる。
「わあ……」
フレンダは、思わず足を止めた。
目に留まったのは、ひとつの髪飾りだった。
銀の細い留め具に、深い藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように並んでいる。
光にかざすと、硝子の中で海の色がゆらゆらと揺れた。
「かわいい……」
手に取って、そっと自分のツインテールの根元に当ててみる。
店主のおかみさんが「あら、似合うわねえ」と笑った。
値札を、ひっくり返す。
「……うっ」
フレンダは小さく呻いた。学生の小遣いでは、なかなかに勇気のいる値段だった。
それに、と彼女は思う。
(捜索中に、もし戦闘になったら。こんな繊細なもの、絶対どこかで落としちゃう)
剣を振るえば、髪は乱れる。転がれば、留め具は外れる。せっかく手に入れても、なくしてしまったら、きっと泣くほど悔しい。
「……やっぱり、やめておきます」
フレンダは髪飾りをそっと台に戻した。
「ありがとうございました、おかみさん!」
明るく笑って、店を後にする。クライトは、その背中を黙って見ていた。
それから、台の上の髪飾りに一度だけ視線を落とした。
◇
港の外れにある防波堤まで来たところで、フレンダは「あっ」と声を上げた。
「先輩、すみません! 私、さっきのお店で買い忘れたものがあって!」
「どの店だ」
「えっと、すぐ戻るので、先輩はここで待っててください! ほんとにすぐなので!」
言うが早いか、フレンダは石畳の坂を駆け上がっていった。
息を切らして飛び込んだのは、あの雑貨屋だった。
奥の棚。白い貝殻のうさぎは、さっきと同じ場所で、ちょこんと前足を揃えていた。
(よかった、まだあった)
値段は、髪飾りよりずっと安かった。それでも、決して安くはない。けれど、フレンダは迷わなかった。
「これ、ください!」
店主のおじいさんが、うさぎを小さな布袋に入れて、口を紐で結んでくれた。
◇
防波堤に戻ると、クライトは海を背にして立っていた。
傾き始めた陽が、彼の藍色の髪を、紫がかった色に染めている。
「お待たせしました、先輩!」
フレンダは息を整えながら、布袋を両手で差し出した。
「これ、どうぞ!」
クライトは、差し出された袋を見下ろした。それから、フレンダの顔を見た。
「……なんだ、これは」
「開けてみてください」
クライトの大きな指が、不器用に紐をほどく。袋の口が開き、中から、白いうさぎが顔を覗かせた。
クライトの目が、見開かれた。
「……お前、これ」
「先輩、ずっと見てたじゃないですか。今日、一日付き合ってくれたお礼です!」
クライトは、何も言わなかった。
手のひらの上のうさぎを、じっと見つめている。黒い耳の先。赤い石の目。ぴんと立った二本の耳。
やがて、その顔が、ゆっくりとほどけていった。
いつものわずかな口角の緩みではなかった。目元が和らぎ、眉がほどけ、頬がほんの少しだけ上気している。大切なものを、大切に包み込むような顔。
「……ありがとう」
低い声だった。けれど、今まで聞いたどの声よりも、温かかった。
フレンダの心臓が、どくんと跳ねた。
(な、なんで私がどきどきしてるの)
「ど、どういたしまして!」
慌てて目を逸らすと、クライトが、外套の内側から何かを取り出す気配がした。
「……俺からも」
「え?」
差し出された彼の手のひらの上で、陽の光を受けて、藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように揺れていた。
あの、髪飾りだった。
「えっ……えっ!? な、なんで、これ」
「お前が店に戻っている間に、俺も戻った」
「で、でも、これ高かったのに! それに私、戦闘でなくしちゃうかもしれないから」
「わかっている」
クライトは、フレンダの手を取った。そして、その小さな手のひらに、髪飾りをそっと乗せた。
「今はつけなくていい。事件が片付いて、剣を持たなくていい日が来たら、そのときにつければいい」
フレンダは、手のひらの髪飾りを見つめた。
剣を持たなくていい日。
事件が終わった、その先の日。
ゲームでは描かれなかった、ずっと先の未来の話を、この人は当たり前のようにしてくれている。
「……はい」
声が、少しだけ震えた。
「大事に、します」
顔を上げる。
夕焼けが、空も海も、防波堤も、何もかもを茜色に染めていた。
その光の中で、クライトが笑っていた。
ほんのわずかに口角が上がる、あの笑い方ではない。目を細めて、唇をほころばせて。少しだけ困ったような、少しだけ照れたような、どうしようもなく優しい顔で。
初めて見る、彼の笑顔だった。
(……ゲームのスチルにも、こんな顔、なかった)
波の音が、遠くで寄せては返していた。
フレンダは、手のひらの髪飾りをぎゅっと握りしめた。胸の奥で鳴り続ける音の名前を、彼女はまだ、知らなかった。




