後日談①
王都の南、なだらかな丘の上に、小さな工房があった。
白い漆喰の壁に、蔦の絡まる木の扉。
軒先には、木彫りの小鳥や布の花や貝殻の風鈴が、ずらりと吊るされている。風が吹くたびに、ちりん、ころん、と、やわらかな音が鳴った。
扉の上の看板には、ちょこんと耳を立てたうさぎの絵。
「……ここだ」
クライトが、低く言った。
フレンダは、扉の前で、三回目の深呼吸をした。
今日は剣の授業がない。だから、ツインテールの根元には、藍色の硝子玉が二つ揺れている。
服は、セレナと二人で三日かけて選んだ、一番よそ行きのワンピース。手には、王都で一番評判の焼き菓子屋の包み。
「だ、大丈夫ですか、私。変じゃないですか」
「変じゃない」
「髪、乱れてないですか」
「乱れていない」
「お母様、甘いもの、お好きですか」
「好きだ。……落ち着け」
クライトの大きな手が、フレンダの頭にぽんと乗った。分け目を崩さないように、そっと。
「母は、怖い人ではない」
「わかってます、わかってますけど……っ!」
好きな人の、お母さん。
それだけで、心臓が口から飛び出しそうだった。
クライトが扉に手をかける。ちりん、と扉の鈴が鳴った。
◇
「――クライト!」
工房の奥から、明るい声が飛んできた。
作業台の向こうから、ひとりの女性が駆け出してくる。
亜麻色の髪をゆるく編んで肩に垂らし、木屑のついた前掛けをつけたまま。目尻に柔らかなしわを刻んだ、穏やかな顔立ち。
瞳も、クライトと違っていた。春の若葉のような、明るい緑色。
「よく来たわね!まあ、また背が伸びたんじゃない?」
「伸びていない」
「伸びたわよ。母さんにはわかるの」
クライトの母は、背伸びをしてクライトの頬を両手で挟んだ。クライトは、抵抗もせずに、されるがままになっていた。
(クライト先輩が……されるがまま……!)
フレンダは、目の前の光景に、思わず口元を押さえた。
それから、クライトの母の目が、フレンダに向いた。
若葉色の瞳が、まんまるに見開かれた。
「…………まあ」
「は、はじめまして!騎士科一年のフレンダです!クライト先輩には、いつもお世話になっていて、あの、これ、つまらないものですが――」
焼き菓子の包みを差し出しながら、深々と頭を下げる。
顔を上げた瞬間。
ぎゅっ、と。
抱きしめられていた。
「――かわいい!!」
「ふえっ!?」
「かわいい、かわいいわ!なんてかわいいの!黒髪のツインテールに、赤いおめめ!ちっちゃくて、ほっぺがふくふくで!」
クライトの母は、フレンダを抱きしめたまま、くるくると回った。
「うさぎさんみたい!!」
「う、うさぎ……!」
フレンダが目を回しながら振り向くと、クライトが、そっぽを向いていた。
耳が、真っ赤だった。
「……だから言っただろう」
「先輩!?手紙で、うさぎって書きましたよね!?」
「……書いていない」
「嘘です!耳が赤いです!」
クライトの母が、ころころと笑った。
「書いてたわよ。『うさぎに似た子を連れていく』って。手紙なんて、学園に入ってから一度もくれなかった子が、急に送ってきたと思ったら、それだけ」
「母上」
「うふふ。照れてる照れてる」
クライトは、両手で顔を覆った。
あのクライトが。騎士団長の父の前に一歩も引かずに立ったクライトが。灰色の髪の男の剣を、鍔元で封じたクライトが。
母親の前で、耳まで真っ赤にして、顔を覆っている。
フレンダは、たまらず、笑い出した。
◇
工房の奥は、宝箱のような部屋だった。
壁一面の棚に、うさぎ、うさぎ、うさぎ。木彫りのうさぎ、布のうさぎ、陶器のうさぎ、硝子のうさぎ。大きいのも、小さいのも、寝ているのも、跳ねているのも。
「すごい……!」
「全部、私が作ったのよ。この子が小さい頃、うさぎが大好きでね」
クライトの母は、棚から古びた木箱を下ろした。
蓋を開けると、中には、色褪せた布のうさぎが、ひとつ入っていた。片方の耳がちぎれかけて、何度も縫い直した跡がある。
「この子が三つのときに作ったの。どこに行くにも抱いて歩いてね。寝るときも離さなくて。耳がちぎれたときなんか、一晩中泣いて――」
「母上!」
クライトが、慌てて木箱の蓋を閉めようとした。クライトの母は、ひょいとそれをかわした。
「いいじゃない。フレンダちゃんには、知っておいてもらわなきゃ」
「何をだ」
「あなたが、本当はどんな子なのか」
クライトの母は、布のうさぎを、そっとフレンダの手に乗せた。
やわらかかった。何度も何度も抱きしめられて、毛羽立って、くたくたになった布の感触。
「あの人に、顔に出すなって言われ続けて。この子、いつの間にか、笑わなくなっちゃったの。私の前でもね」
クライトの母の声が、少しだけ静かになった。
「学園に入る頃には、もう、ほとんど表情が動かなかった。……私、ずっと心配だったのよ」
フレンダは、手のひらの布のうさぎを見つめた。
それから、隣のクライトを見上げた。
クライトは、黙って、布のうさぎを見ていた。
「でもね」
クライトの母が、くすりと笑った。
「さっき、扉を開けて入ってきたとき。この子、笑ってたの。あなたの隣で」
「え……」
「ほんの少しだけど。母さんには、わかるの」
クライトの母は、フレンダの手を、両手で包み込んだ。
「ありがとう、フレンダちゃん。この子を、笑わせてくれて」
フレンダの目の奥が、じわりと熱くなった。
「……あの人からもね、手紙が来たのよ」
クライトの母が、ぽつりと言った。
「騎士団長様から。十年ぶりに。……便箋三枚にわたって、ひたすら謝ってた。字がひどく震えてて、最後のほうなんて、ほとんど読めなかったけど」
クライトの母は、少しだけ困ったように、それでいて、どこか嬉しそうに笑った。
「今度、会いに来るんですって。あの人が。この工房に。……うさぎだらけの部屋に、あの仏頂面で座ってるところ、想像したら、おかしくって」
クライトが、小さく噴き出した。
フレンダも、つられて笑った。
◇
日が傾くまで、三人は工房で過ごした。
クライトの母に教わって、フレンダは小さな木彫りのうさぎを作った。刃物の扱いは剣と少し似ていて、意外と上手にできた。クライトは、隣で黙々と、何かを彫っていた。
「先輩、何作ってるんですか?」
「……見るな」
「えー、見せてください」
「完成したら見せる」
クライトの母が、二人を見て、ずっとにこにこしていた。
帰り際、クライトの母は、フレンダをもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「また来てね。いつでも。この子がいなくても、ひとりで来ていいのよ」
「はい……!絶対、また来ます!」
「それから」
クライトの母は、フレンダの耳元に、そっと囁いた。
「この子、ああ見えて、すっごく甘えたがりだから。いっぱい甘やかしてあげてね」
「――母上。聞こえている」
「あら」
◇
夕暮れの丘を、二人は並んで下りていった。
茜色の空の下、王都の屋根が、遠くに連なっている。
クライトは、ずっと黙っていた。けれど、その横顔は、どこか穏やかだった。
坂の途中で、クライトが、ふいに足を止めた。
「フレンダ」
「はい?」
クライトが、外套のポケットから、何かを取り出した。
手のひらに乗るほどの、小さな木彫り。
二羽のうさぎだった。
一羽は、少し大きくて、すらりと背が高い。もう一羽は、小さくて、ぴんと二本の耳を立てている。二羽は、寄り添うように、肩を並べて座っていた。
「……さっき、彫っていたものだ」
クライトは、それを、フレンダの手のひらに乗せた。
「下手だが」
「下手じゃないです……!」
フレンダは、二羽のうさぎを、じっと見つめた。
大きいほうのうさぎの耳の先が、ほんの少しだけ、藍色に塗られていた。
「先輩……これ……」
声が、震えた。
「一生、大事にします」
クライトの口元が、ほんのわずかに、緩んだ。
それから、少しだけためらうように、言った。
「……その、先輩、というのを」
「え?」
「やめないか」
フレンダは、目を瞬かせた。
クライトは、夕陽のほうを向いていた。耳が、また、赤くなっていた。
「学園の外では。……名前で、呼んでほしい」
フレンダの顔が、ぼっと、熱くなった。
名前で。
クライト、と。
「……く」
口を開く。
「く、くら……」
声が、裏返った。
「…………クライト」
蚊の鳴くような声だった。
クライトが、ゆっくりと、こちらを向いた。
藍色の瞳が、大きく見開かれていた。
それから。
クライトは、笑った。
防波堤で見せてくれた笑顔より、もっと、ずっと、やわらかい顔で。
「――ああ」
クライトの手が、フレンダの頬に、そっと添えられた。
大きくて、温かくて、少しだけ硬い手。
藍色の瞳が、近づいてくる。
フレンダは、目を閉じた。
唇に、やわらかな温もりが、そっと触れた。
一瞬だった。
けれど、永遠みたいに、長かった。
目を開けると、クライトが、すぐそばで、フレンダを見下ろしていた。
無表情だった。
――と、思ったら、耳から首まで、夕焼けよりも真っ赤だった。
「……顔に、出ているか」
「出てます。……すっごく」
「……そうか」
クライトは、もう一度、フレンダの頬に手を添えた。
「なら、いい」
そして、今度は、少しだけ長く。
茜色の坂道に、二つの影が、ひとつに重なっていた。
フレンダの手の中で、二羽の木彫りのうさぎが、寄り添うように、夕陽を浴びていた。
☆
「……ほんとに、変じゃない?」
寮の鏡の前で、フレンダは三回目の同じ質問をした。
「変じゃないってば。すっごくかわいい」
背後で、セレナがうっとりと手を組んでいる。
鏡の中のフレンダは、いつものフレンダではなかった。
ツインテールを、ほどいていた。
肩の下まである黒髪が、ゆるやかに背中へ流れている。
セレナが朝から丁寧に梳いてくれたおかげで、艶やかにまっすぐだ。
そして、左耳の上。藍色の硝子玉が二つ並んだ髪飾りが、ひとつだけ、そっと留められていた。
「ツインテールじゃないフレンダ、初めて見た……。クライト先輩、絶対びっくりするよ」
「び、びっくりさせたいわけじゃ……」
「させたいでしょ?」
「……ちょっとだけ」
セレナがくすくすと笑った。
今日は、学園が休みの日。王都の街で、クライトと待ち合わせをしている。付き合い始めてから、ちゃんとした「デート」は、これが初めてだった。
◇
待ち合わせは、王都の中央広場の噴水の前だった。
クライトは、もう来ていた。
藍色の髪。すらりと高い背。騎士科の制服ではなく、濃紺の外套を羽織った私服姿。
噴水の縁に立って、腕を組んで、人混みの中をじっと見ている。たぶん、黒いツインテールを探しているのだろう。
フレンダは、小走りに駆け寄った。
「クライト、お待たせ!」
クライトが、振り向いた。
そして。
固まった。
藍色の瞳が、大きく見開かれる。フレンダの顔を見て、肩に流れる黒髪を見て、左耳の上の髪飾りを見て、もう一度、顔を見る。
口が、わずかに開いていた。
組んでいた腕が、ほどけていた。
「……クライト?」
「…………」
返事がない。
「おーい。クライトー?」
フレンダが目の前で手を振ると、クライトは、はっとしたように瞬きをした。
それから、ばっと顔を逸らした。
「……行くぞ」
くるりと背を向けて、歩き出す。
右足と右手が、同時に出ていた。
(……え)
フレンダは、目をぱちくりさせた。
(クライトが……動揺してる?)
灰色の髪の男の剣を、鍔元で封じた人が。騎士団長の前に、一歩も引かずに立った人が。
髪をおろしただけの自分を見て、右手と右足を同時に出している。
胸の奥から、くすぐったいものが、じわじわと込み上げてきた。
(――かわいい)
◇
それからのクライトは、ずっと、おかしかった。
並んで歩いていても、フレンダのほうを見ない。正確には、見ようとしては、すぐに目を逸らす。
露店の店主に「かわいい彼女さんだねえ」と言われて、手に持っていた焼き菓子を落としかけた。曲がり角で、街灯の柱にぶつかりそうになった。
フレンダは、だんだん楽しくなってきた。
「ねえ、クライト」
「……なんだ」
「こっち見て」
「見ている」
「見てない。さっきからずっと、あっちの屋根見てる」
「屋根に用がある」
「どんな用?」
「…………」
クライトが、黙り込んだ。耳が、赤い。
フレンダは、そっとクライトの腕に、自分の腕を絡めた。
クライトの肩が、びくりと跳ねた。
「――っ」
「似合う?髪」
下から覗き込むように見上げる。肩に流れた黒髪が、さらりと揺れた。
クライトは、ぎこちなく、ほんの少しだけ、フレンダを見下ろした。
それから、また目を逸らした。
「……似合う」
「どれくらい?」
「……どれくらい、とは」
「いつものツインテールと、どっちが好き?」
「…………」
クライトの耳が、首まで赤くなった。
「……答えないと、だめか」
「だめ」
「…………どちらも、だ」
絞り出すような声だった。
フレンダは、口元が緩むのを止められなかった。
◇
昼食は、川沿いの小さな食堂で食べた。
フレンダは、木のスプーンに甘く煮た林檎をひと切れ乗せて、クライトの口元に差し出した。
「はい、クライト。あーん」
「……っ」
クライトは、匙と、フレンダの顔を、交互に見た。
そして指で林檎を掴もうとするクライトに、フレンダは腕を引いた。
「今日は、だめ。そのまま食べて」
「なぜだ」
「デートだから」
クライトは、長い間、スプーンを見つめていた。まるで、灰色の髪の男と対峙したときのような真剣な顔で。
やがて、観念したように、身を屈めた。
ぱくり。
「……うまい」
「でしょ!」
フレンダが満面の笑みを浮かべると、クライトは片手で顔を覆った。指の隙間から、真っ赤な頬が見えた。
「……今日のお前は、心臓に悪い」
「ふふ。クライトが、かわいいから」
「……かわいいのは、お前だ」
ぼそりと言われて、今度はフレンダが一瞬固まった。
けれど、すぐに立て直す。
(だめだめ。今日は、私が攻める日なんだから)
「ねえ、クライト。耳、真っ赤だよ」
「言うな」
「顔に、出てるよ」
「……言うな」
クライトは、とうとう卓に突っ伏した。
フレンダは、声を立てて笑った。
◇
夕暮れ時。
二人は、川にかかる石橋の上に並んで立っていた。
茜色の空が、川面に映って揺れている。王都の屋根の向こうに、太陽がゆっくりと沈んでいく。
「今日は、楽しかったね」
フレンダは、欄干に頬杖をついて、満足げに笑った。
「クライト、ずっと赤かった」
「……誰のせいだ」
「私のせい」
フレンダは、くるりとクライトに向き直った。
下ろした黒髪が、夕陽を受けて、きらりと光る。左耳の上で、藍色の硝子玉が揺れた。
「今日は、私の完全勝利ですね、先輩」
わざと、昔の呼び方で言った。
得意げに胸を張って。
クライトは、黙ってフレンダを見下ろしていた。
夕陽の中で、藍色の瞳が、すっと細められた。
「――そうか」
低い声だった。
次の瞬間。
クライトの手が、フレンダの頬に添えられた。
もう片方の手が、下ろした黒髪を、耳にかけるように、そっと梳いた。
「え」
フレンダが目を瞬かせる間もなかった。
唇が、重なっていた。
不意打ちだった。
大きな手が、頬から首の後ろへ回って、逃がさないように、やさしく引き寄せる。下ろした髪に、指が絡む。
フレンダの頭の中が、真っ白になった。
長い口づけの後、ようやく唇が離れたとき、フレンダは、欄干にもたれかかったまま、動けなかった。
顔が、熱い。耳が、熱い。首まで、全部熱い。
心臓が、うるさすぎて、何も聞こえない。
見上げると、クライトが、すぐそばで、フレンダを見下ろしていた。
――笑っていた。
ほんのわずかに口角を上げて。少しだけ、意地悪く。
「顔に、出ているぞ」
「――っ!!」
フレンダは、両手で顔を覆った。
「ず、ずるい……! 今のは、ずるい……!」
「お前が一日中、やっていたことだ」
「キスはしてない!」
「同じようなものだ」
クライトは、フレンダの顔を覆う手を、そっとどけた。真っ赤になった顔を、じっと覗き込む。
「……完全勝利、だったか」
「う……っ」
「どちらの勝ちだ」
「…………く、クライトの」
蚊の鳴くような声で答えると、クライトは、満足そうに目を細めた。
それから、フレンダの下ろした髪を、ひと房、指先ですくい上げた。
「……この髪」
「え?」
「おろすのは、俺の前だけにしろ」
フレンダは、息を呑んだ。
「……今日、すれ違う男が、みんなお前を見ていた」
クライトは、少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。
「心臓に悪い。……いろいろな意味で」
フレンダの顔が、さらに、真っ赤になった。
「……そ、それって、やきもち……?」
「…………」
クライトは、答えなかった。
代わりに、すくい上げた髪の先に、そっと唇を落とした。
「――――っ!!」
フレンダは、その場にしゃがみこんだ。
頭上で、クライトが、小さく声を立てて笑う気配がした。
夕陽が、川面を茜色に染めていた。
石橋の上で、真っ赤な顔をした少女と、満足げに口元を緩めた青年の影が、長く、長く伸びていた。
攻守交代は、どうやら、一瞬で終わったらしい。




