最終話
王都へ帰る日が、明日に決まった。
その朝、フレンダは、ライが今日の昼に港を発つと聞いた。
「次の任務だって。王都じゃなくて、北のほうらしいぞ」
レオンが、残念そうに言った。
「せっかく仲良くなれたのになあ。見送りくらいさせろって言ったら、『湿っぽいの苦手なんだよね~』だってさ」
フレンダは、黙って朝食のパンを置いた。
外套のポケットの中に、手を入れる。
指先に、二つの硬いものが触れた。
浜辺でもらった、新しいシーグラス。
そして、空っぽの部屋に残されていた、古いシーグラス。
『あいつが何者か、すべてが終わればわかる。そのとき、返せばいい』
クライトの言葉を、思い出した。
◇
ライは、あの浜辺にいた。
曲芸団を見に行った日の夕暮れ、二人で並んで座った、あの浜辺。
朝の光の中で、波打ち際にしゃがみこんで、何かを探すように砂を指で撫でていた。足元には、旅支度の小さな鞄がひとつ。
「――ライ」
声をかけると、ライは振り向いた。
少しだけ驚いたように目を瞬かせて、それから、いつものように笑った。
「あれ。見つかっちゃった」
「湿っぽいの苦手なんでしょ。だから、ひとりで来た」
「気が利くなあ」
ライは立ち上がって、膝の砂を払った。
フレンダは、ライの前まで歩いていった。
そして、外套のポケットから、古いシーグラスを取り出した。
手のひらに乗せて、差し出す。
「これ。返しに来た」
ライの笑顔が、一瞬、止まった。
角の丸く磨り減った、深い赤色の硝子のかけら。表面は白く曇って、何年も、何年も、誰かの手の中にあったような。
ライは、しばらくそれを、黙って見下ろしていた。
やがて、ゆっくりと手を伸ばして、フレンダの手のひらから、それを摘み上げた。
「……ちゃんと、返しに来てくれたんだ」
小さな声だった。
「なんで、置いていったの」
フレンダは、ずっと聞きたかったことを、聞いた。
「置き忘れたわけじゃないよね。窓辺に、ちゃんと置いてあった」
ライは、古いシーグラスを、朝の光に透かした。
赤い光が、ライの指の間で、ぽうっと灯る。
「……お守り、かな」
「お守り?」
「うん。もし、俺が戻ってこなかったら。誰かが持っててくれたらいいなって」
ライは、軽い口調で言った。
けれど、その言葉の意味に気づいて、フレンダの胸が、きゅっと締めつけられた。
戻ってこなかったら。
あの夜、ライは、戻ってこないつもりだったのかもしれない。
「……大事なもの、なんでしょ」
「うん」
ライは、迷わずに答えた。
「すごく」
それ以上は、言わなかった。
フレンダも、聞かなかった。
ライが、そのシーグラスを、外套の内ポケットにそっとしまう。何か布のようなものと一緒に、大切に。
「そっちのは?」
ライが、フレンダのもう片方の手を、顎で示した。
フレンダは、浜辺でもらった新しいシーグラスを、ぎゅっと握りしめた。
「これは、私がもらったんだから。返さないよ」
ライは、一瞬きょとんとして。
それから、声を立てて笑った。
「あはは。そっか。……うん。持ってて」
◇
波の音が、寄せては返していた。
二人は、しばらく並んで、海を見ていた。
「ねえ、ライ」
「ん?」
「次の任務も、危ないの?」
「まあね。名簿に載らない騎士だから」
「……怪我、しないでね」
「善処するよ」
「善処じゃなくて」
「はいはい。しない、しない」
ライは、ひらひらと手を振った。
それから、ふいに、黙った。
振り向くと、ライが、こちらを見ていた。
灰とも紫ともつかない瞳が、まっすぐに、フレンダを見下ろしている。
「フレンダ」
名前を、呼ばれた。
月夜の広場で、初めて呼ばれたときと同じ声で。でも、あのときとは、何かが違う声で。
ライの手が、ゆっくりと持ち上がった。
包帯の取れたばかりの右手。刃を掴んで裂けた、傷痕の残る手のひら。何年も、何年も剣を振り続けて、革のように固くなった手。
頬に触れる、ほんの手前で。その指先が、ためらうように止まった。
まるで、触れたら壊れてしまうものを前にしたように。
それから、そっと。
ライの指先が、フレンダの頬に触れた。
フレンダは、動けなかった。
ライの手のひらは、固くて、少しだけ冷たくて、それなのに、驚くほどやさしかった。
ライが、少しだけ、身を屈めた。
白い髪が、朝の光の中で揺れる。整いすぎるほど整った顔が、近づいてくる。灰とも紫ともつかない瞳に、自分の顔が映っているのが見えた。
その瞳の奥に、僅かな熱を感じた。
いつもの余裕の笑みの下に、ずっと隠されていた何か。軽い口調にも、ひらひらと振る手にも、一度も見せなかったもの。
あと少しで、唇が触れ合いそうな距離。
息が、止まった。
――あと少し、で。
そこで、ライが止まった。
瞳が、揺れる。
ほんの一瞬、何かをこらえるように、ライの眉が寄った。唇が、何かを言いかけて、閉じた。
そして。
ライは、ゆっくりと、身を引いた。
頬に添えられていた手が、離れていく。名残惜しむように、指先が、ほんの少しだけ頬を撫でて。
その手は、フレンダの頭の上に、ぽん、と乗った。
そっと。
ツインテールの分け目を崩さないように。髪を、一筋も乱さないように。
わしゃわしゃと、乱暴に撫でた、あの夜とは違う撫で方で。
「……君は、君だね」
ライは、笑った。
いつもの軽い笑顔だった。けれど、その目元が、ほんの少しだけ、赤かった。
「ちゃんと、わかったよ。……もう、誰かには見えない」
それから、ライは少しだけ迷うように、視線を海へ逸らした。
「……ねえ、フレンダ。ひとつだけ、教えてあげる」
「……なに?」
「ライって名前、嘘なんだ」
フレンダは、目を瞬かせた。
知っていた。最初に名乗られたときから、偽名だろうと思っていた。けれど、本人の口から聞くと、なぜか胸がきゅっとなった。
「どこか遠い国の言葉でね、『嘘』って意味なんだって。……ぴったりでしょ」
ライは、くすりと笑った。
「昔ね。嘘を信じて、取り返しのつかないことをしたんだ」
笑っていた。けれど、その目は、凪いでいた。
「だから、自分で自分に、この名前をつけた。ライ、って呼ばれるたびに、あのときのことを思い出すように。……あのときの気持ちも、憎しみも、一日だって忘れないように」
潮風が、白い髪を揺らす。
「十年間、ずっと、そうやって生きてきた」
それから、波の音にまぎれるくらいの、小さな声で言った。
「――エスペル」
「え?」
「本当の名前。エスペル」
エスペルは、フレンダを見なかった。水平線の向こうを見ていた。
「『希望する者』って意味なんだって。母さんがつけてくれた。……名前負けもいいとこだよね。十年間、何にも希望なんて持ってなかったのに」
「エスペル……」
フレンダが、その名前を口にした瞬間。
エスペルの肩が、小さく揺れた。
ゆっくりと、こちらを向く。灰とも紫ともつかない瞳が、ひどく無防備に、見開かれていた。
「……久しぶりに、呼ばれた」
掠れた声だった。
「もう、この名前で呼んでくれる人、どこにもいなかったから」
「……どうして、私に」
エスペルは、少し困ったように笑った。
「どうしてだろうね。……君には、嘘のままで、さよならしたくなかったのかも」
それから、人差し指を唇に当てた。
「みんなには、内緒ね。外では、ライのままで」
フレンダは、こくりと頷いた。
胸の奥で、何度もその名前を繰り返した。
エスペル。希望する者。
笑ってばかりで、何も話してくれなかったこの人の、たったひとつの本当。
「じゃーそろそろ行こっかな。クライトくんに、よろしく」
エスペルは、フレンダの頭から手を離して、足元の鞄を拾い上げた。
「泣かせたら、俺が攫いに来るって。そう伝えといて」
「なっ……!」
フレンダの顔が、一気に赤くなった。
エスペルは、楽しそうに笑って、背を向けた。
砂浜を、歩いていく。白い髪が、潮風に揺れる。
「――エスペル!」
フレンダは、叫んでいた。
エスペルが、足を止める。
「また、会える?」
エスペルは、振り向かなかった。
しばらく、背中を向けたまま、立っていた。
やがて、ひらりと片手を上げた。
「ちゃんと、疑っといてね」
軽い声だった。
「疑って、疑って。……それでも、また会いたいって思ってくれたら。そのときは、会いに来るよ」
港の検問所で、フレンダがあの少年に言った言葉だった。
疑って、疑って、それでも信じたいって思える人だけ、信じればいい。
聞いていたのだ。あのときから、ずっと。
エスペルは、それきり振り返らずに、歩いていった。
白い背中が、朝の光の中に、少しずつ、少しずつ、小さくなっていく。
フレンダは、その背中が見えなくなるまで、ずっと、浜辺に立っていた。
手のひらの中で、赤いシーグラスが、温かかった。
◇
港へ続く坂道の途中で、エスペルは足を止めた。
振り返らなかった。振り返ったら、きっと、行けなくなるから。
浜辺から見えない、石垣の陰。そこに背中を預けて、エスペルは空を見上げた。
笑顔は、もう、崩れていた。
右手を、見下ろす。
彼女の頬に触れた、あの感触が、まだ残っていた。
――あと、少しだった。
あと少しで、触れられた。
でも、触れたら、きっと、もう手放せなくなる。大切なものを作らないと決めた十年が、全部、崩れてしまう。
それに、あの子の心は、もう、別の誰かのところにある。
藍色の髪の、不器用な、まっすぐな男のところに。
エスペルは、外套の内ポケットに手を入れた。
指先に、二つのものが触れる。色褪せた赤いリボン。そして、さっき返してもらった、古いシーグラス。
ルゥが、一番大事にしていた、一番赤いかけら。
――エスペル。
あの子の声が、まだ耳に残っていた。
十年ぶりに呼ばれた、本当の名前。ルゥが、最後まで呼んでくれていた名前。
もう二度と、誰にも呼ばれることはないと思っていた。
「……これで、よかったんだよね」
誰もいない坂道で、エスペルは、小さく呟いた。
答える声は、なかった。
けれど、潮風が、ふわりと白い髪を撫でていった。小さな手が、袖を引くように。
エスペルは、目を閉じた。
それから、ゆっくりと、笑った。
「……困ったなあ」
十年ぶりに、心の底から、困ったように笑った。
「大切なもの、また、できちゃった」
鞄を肩にかけ直して、エスペルは、坂道を下りていった。
◇
夕暮れが近づいた頃、フレンダは、宿の部屋で鏡の前に座っていた。
「動かないで、フレンダ。せっかく綺麗に結えたのに」
背後で、セレナが楽しそうに言った。
フレンダのツインテールを、丁寧に結い直してくれている。いつもよりほんの少しだけ高い位置で、いつもよりほんの少しだけふんわりと。
「はい、できた。……つけるよ?」
セレナが、小さな布袋から、それを取り出した。
銀の細い留め具に、深い藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように並んだ髪飾り。
防波堤の夕焼けの中で、クライトがフレンダの手のひらに乗せてくれたもの。
剣を持たなくていい日が来たら、そのときにつければいい。
セレナが、それを、フレンダの右のツインテールの根元に、そっと留めた。
鏡の中で、藍色の硝子玉が、夕陽を受けてきらりと光った。
「……かわいい」
セレナが、うっとりと呟いた。
「フレンダ、すっごく似合ってる」
「ほ、ほんと……?」
「ほんと。クライト先輩、きっと固まっちゃうよ」
セレナは、くすくすと笑った。
それから、鏡越しに、フレンダの目を見た。
「ねえ、フレンダ」
「なに?」
「ずっと、ありがとう」
フレンダは、目を瞬かせた。
「私とアルマのこと。……フレンダがいなかったら、私、きっとずっと気づかないままだった。アルマが、隣にいるのが当たり前すぎて」
セレナは、フレンダの肩に、そっと手を置いた。
「だから、今度は、フレンダの番だよ」
フレンダの胸が、いっぱいになった。
前世で、何百回と画面越しに見てきた、大好きなヒロイン。
その子が今、鏡の中で、自分の背中を押してくれている。
「……行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
◇
防波堤の上に、藍色の髪の背中があった。
夕焼けが、空も海も、何もかもを茜色に染めていた。
あの日と、同じ光だった。うさぎと髪飾りを交換した、あの夕暮れと。
フレンダは、深呼吸をひとつした。
「――クライト先輩」
クライトが、振り向いた。
そして、固まった。
藍色の瞳が、大きく見開かれる。フレンダの顔を見て、ツインテールの根元で光る藍色の硝子玉を見て、もう一度、フレンダの顔を見る。
口が、わずかに開いていた。
(ほ、本当に固まった……!)
「あ、あの。剣を持たなくていい日、来たので。……つけて、みました」
フレンダは、頬を真っ赤にしながら、もじもじと指を組んだ。
「一番に、先輩に見せるって、約束したから」
クライトは、何も言わなかった。
長い、長い沈黙だった。
波の音だけが、寄せては返す。
(あ、あれ……? 似合って、ない……?)
フレンダが不安になりかけた、そのとき。
「……似合う」
低い声が、ぽつりと落ちた。
フレンダは、顔を上げた。
クライトが、笑っていた。
あの日、この防波堤で初めて見せてくれた笑顔。目を細めて、唇をほころばせて。少しだけ困ったような、少しだけ照れたような、どうしようもなく優しい顔。
「すごく、似合う」
フレンダの心臓が、どくんと跳ねた。
◇
二人は、防波堤の縁に並んで腰を下ろした。
足の下で、波が穏やかに岸壁を洗っている。
クライトが、外套の内側に手を入れた。
取り出したのは、小さな、白いものだった。
フレンダは、目を見開いた。
貝殻を削って作られた、親指ほどの大きさのうさぎ。
あの日、雑貨屋の棚の前で、クライトがじっと見つめていたもの。フレンダが、買い忘れたものがあると嘘をついて、ひとりで買いに戻ったもの。
「ずっと、持ってたんですか」
「ああ」
クライトは、手のひらの上のうさぎを、じっと見つめていた。
「……あの日、店で、これを見ていた理由を、言っていなかった」
「可愛いものが、好きだから……ですよね?」
「それもある」
クライトは、うさぎを、フレンダの目の前に掲げた。
「誰かに似てると思わないか」
フレンダは、うさぎを見つめた。
白い体。小さな、小さな体。
耳の先だけが、黒い貝で細工されている。
目には、小さな赤い石。
ぴんと立った、二本の耳。
――黒い、髪。
――赤い、瞳。
――二つに結った、髪。
――小さな、体。
「…………え」
フレンダの顔が、ゆっくりと、赤く染まっていった。
「わ、わ、わたし……!?」
「……お前に、似ていた」
クライトは、そっぽを向いた。耳が、夕陽よりも赤かった。
「店の窓辺で、最初に見かけたときから、ずっと。……だから、見ていた」
「え、えっ、ちょっと待ってください、最初って、それ、到着した日の……!?」
「……ああ」
「そんな前から……!?」
フレンダは、両手で顔を覆った。
心臓が、うるさすぎて、何も考えられなかった。
可愛いものが、好きな人。
うさぎを見つめて、顔を綻ばせていた人。
そのうさぎが、自分に似ていたから。
「……可愛いものが、好きだと言っただろう」
クライトの声が、少しだけ掠れた。
指の隙間から見上げると、クライトが、こちらを見ていた。
まっすぐに。藍色の瞳に、夕焼けと、フレンダの顔を映して。
「フレンダ」
名前を、呼ばれた。
「好きだ」
波の音が、遠くなった。
世界から、自分とクライト以外のすべてが、消えてしまったような気がした。
「夜の訓練場で、お前が初めて来た日から。……小さいくせに、何度転がされても立ち上がってくるお前を見ていた。仲間のために、泣きそうな顔で剣を握るお前を見ていた。俺の前で、笑ったり、怒ったり、泣いたりするお前を、ずっと見ていた」
クライトの手が、フレンダの手を、そっと取った。
大きくて、温かくて、少しだけ硬い手。
医務室で重ねてくれた手。夜の訓練場で、拳をほどいてくれた手。
「顔に出すなと、言われて育った。……だが、お前の前だと、出てしまう」
クライトの口元が、ほんのわずかに、緩んだ。
「出したいと、思う」
フレンダの目から、涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
前世で、乙女ゲームが大好きだった。
攻略対象との恋を、何百回と画面越しに見てきた。ヒロインが選ばれて、告白されて、幸せになる物語を。
自分は、その隣に立つ、友人キャラだと思っていた。
推しカプを見守る特等席に座る、脇役だと思っていた。
でも。
「……私も」
声が、震えた。
「私も、好きです」
クライトの手を、ぎゅっと握り返した。
「気づいたのは、最近なんです。でも、きっと、ずっと前から。……夜の訓練場で、先輩が『握りが甘い』って言ってくれた、あの日から」
涙で、クライトの顔が、ぼやけて見えた。
「クライト先輩のことが、大好きです」
クライトは、何も言わなかった。
ただ、フレンダの手を握ったまま、もう片方の手で、そっと、フレンダの涙を拭った。
それから、少しだけためらうように、言った。
「王都に戻ったら」
「……はい」
「母に、会わせたい」
フレンダは、息を呑んだ。
可愛いものが好きな、クライトの母。幼いクライトに、うさぎの小物を作ってくれた人。クライトにとって、本当の自分を許してくれた、たったひとりの人。
「母は、きっと、お前のことを気に入る。……うさぎに似ていると言ったら、たぶん、泣いて喜ぶ」
「う、うさぎって言わないでください……!」
フレンダが真っ赤になって抗議すると、クライトは、声を立てて笑った。
初めて聞く、クライトの笑い声だった。
低くて、少しだけぎこちなくて、それなのに、驚くほどあたたかい笑い声。
フレンダも、泣きながら、笑った。
夕陽が、二人をひとつの影にして、防波堤の上に長く伸ばしていた。
ツインテールの根元で、藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように揺れていた。
◇
春が来た。
王立学園の中庭に、柔らかな日差しが降り注いでいる。
昼休みのベンチに、金色の髪の少女と、茶色の髪の少年が、並んで座っていた。
「セレナ、パン屑ついてるよ」
「え、どこ?」
「ここ。……あ、動かないで」
アルマの指先が、セレナの口の端をそっと拭う。セレナは「ありがとう」と笑って、それから、少しだけ頬を染めて、アルマの肩に頭をこてんと預けた。
アルマの耳が、みるみる赤くなった。
(はい、尊い)
少し離れたベンチで、フレンダは、サンドイッチを握りしめていた。
入学したばかりの頃と、同じ光景だった。同じベンチ。同じくるみパン。同じ、パン屑。
違うのは、ひとつだけ。
もう、二人の間に、遠慮はなかった。
(ああ……生きててよかった……死んでてよかった……)
心の中で床を転げまわりながら、フレンダは、ほうっと息を吐いた。
あの港町から戻って、季節がひとつ巡った。
ヴェルナーは、王都で裁きを受けた。ノアは医学部の教授と一緒に、あの帳面を使った治療法の研究を始めた。ジークの兄は、少しずつ、少しずつ、良くなっているらしい。レオンは、約束通り王宮に招かれて、王子殿下に「おにいちゃん」と飛びつかれては、毎回泣いている。ガルドは昇進して、案の定、新しい学生たちの引率を押しつけられて、溜め息ばかりついている。
そして。
「――また、見ているのか」
頭の上から、低い声が降ってきた。
見上げると、藍色の髪の青年が、ベンチの後ろに立っていた。
「ク、クライト先輩……!」
「飽きないな」
「飽きるわけないです!一生見てられます!」
「……そうか」
クライトは、フレンダの隣に腰を下ろした。手には、布で包んだ弁当箱。二人分。
今日は、剣の授業がない日だった。
だから、フレンダのツインテールの根元には、藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように光っている。
クライトが、それをちらりと見て、ほんのわずかに、口元を緩めた。
「……似合う」
「もう何回目ですか、それ」
「何回でも言う」
フレンダは、真っ赤になって、サンドイッチにかじりついた。
◇
その日の夕方、寮の部屋に、一通の手紙が届いていた。
差出人の名前は、なかった。ただ、封筒の隅に、小さく「E」とだけ書かれていた。
封を開けると、中には、小さな便箋が一枚だけ。
見覚えのある、軽やかな字で、一行だけ書いてあった。
『ちゃんと、疑ってる?』
フレンダは、思わず噴き出した。
机の引き出しを開ける。中には、小さな硝子の小瓶。赤いシーグラスが、ひとつ、入っている。
フレンダは便箋を小瓶の隣に置いて、窓の外を見た。
夕焼けの空の向こう、ずっと北のほうに、白い髪の騎士がいるのだろう。今も、名簿に載らない任務の中で、誰かを守っているのだろう。
「……疑ってるよ」
フレンダは、小さく呟いた。
「疑って、疑って。……それでも、また会いたいって、思ってるよ」
◇
前世の私は、乙女ゲームが大好きだった。
『金色の剣~Promise of Dawn~』。
夜明けの約束、という名前のついた物語。
その世界に、ヒロインの友人として生まれ変わった私は、推しカプを見守る特等席を手に入れたと思っていた。
大好きな二人が結ばれる瞬間を、一番近くで見届けるための席。
実際、その通りになった。
アルマは生きている。セレナの隣で、笑っている。
でも、特等席に座っていたつもりの私の隣には、いつの間にか、もうひとつ席ができていた。
そこには、無口で、無表情で、可愛いものが大好きで、私のことをうさぎに似ていると言う、不器用な人が座っている。
ゲームには、描かれていなかった物語。
選択肢も、好感度も、スチルもない、私だけの物語。
「フレンダ」
「はい、先輩」
「明日、母のところへ行く。……一緒に、来てくれるか」
「――はい!」
藍色の硝子玉を揺らして、私は、大好きな人の手を取った。
夜が明けて、また、新しい一日が始まる。
剣を持たなくていい、穏やかな日々が。
大切な人たちと交わした、たくさんの約束と一緒に。
これにて本編完結です。お読みいただき本当にありがとうございました!
この後、後日2話と、レオンの話ののち!
ライルートを公開します!(本編の流れでフレンダがライと結ばれるので、短いですが)
作者がこの結末を書いた後にどうしてもどうしても苦しくて作りました。
今作はルート分岐しないぞ!と思っていたのですが、ライを幸せにしたくて手癖が出てしまいました。
気になる方は読んでいただけたらと思います!
まずはクライトとの後日談、引き続きお楽しみいただけたら幸いです。




