第二十三話
宿に戻ったのは、すっかり日が昇ってからだった。
全員が、泥と煤と汗にまみれていた。食堂の椅子に座りこんだ途端、誰も動けなくなった。
レオンは卓に突っ伏して、ジークは壁にもたれたまま、ノアは眼鏡をかけたまま、それぞれ眠りに落ちていった。
セレナは、アルマの肩に頭を預けて眠っていた。アルマは、その重みを支えたまま、自分もこっくりこっくりと舟を漕いでいた。
(はい、尊い)
フレンダは、半分閉じかけた目で、それを見ていた。
心の中で手を合わせる力も、もう残っていなかった。
隣の椅子で、クライトが腕を組んで目を閉じている。
夜明け前に洞窟から戻ってきたクライトは、何も言わなかった。
けれど、その顔は、どこか静かだった。張り詰めていた何かが、ほどけたような顔。
フレンダは、その肩に、そっと頭を寄せた。
クライトは、目を閉じたまま、何も言わなかった。
ただ、少しだけ、肩の位置を低くしてくれた気がした。
◇
王子が王都へ発ったのは、その日の昼過ぎだった。
騎士団の精鋭が護衛につき、豪奢な馬車が駐屯地の門の前に停められた。王子は、湯浴みをして、清潔な服に着替えさせられて、すっかり王子らしい姿になっていた。
けれど、馬車に乗せられようとしたとき、王子は突然、護衛の騎士の腕から身をよじって飛び降りた。
小さな足で、とてとてと駆けていく。
見送りの列の中の、ひとりのもとへ。
「おにいちゃん!」
レオンの足に、ぎゅっとしがみついた。
レオンは、目を見開いて固まった。それから、ゆっくりと膝をついて、王子と目の高さを合わせた。
「……殿下。お母様のところへ、帰るんですよ」
「うん。でも、おにいちゃんも、くる?」
「俺は……まだ、ここで仕事があるので」
王子は、少しだけ唇を尖らせた。それから、首にかけていた鷲のペンダントを、小さな手で握りしめた。
「じゃあ、また、あいにきてね。やくそく」
「……はい。約束します」
レオンは、王子の小さな手を、両手でそっと包み込んだ。
王子は満足そうに笑って、護衛の騎士のもとへ戻っていった。馬車の窓から、小さな手が、ずっと振られていた。
馬車が見えなくなるまで、レオンは膝をついたまま、手を振り続けていた。
「……レオン先輩」
フレンダが声をかけると、レオンは、振り向かずに言った。
「悪い。今、こっち見ないでくれ」
肩が、震えていた。
「弟が見つかった朝も、こうだったんだ。……泣きすぎて、顔、ぐちゃぐちゃでさ」
フレンダは、黙って隣に立っていた。
ジークが、ぶっきらぼうに、自分の手巾をレオンの頭の上に放り投げた。
◇
その夜、宿の食堂に、ひさしぶりに全員が揃った。
ライもいた。
いつもの窓際の席で、いつものように頬杖をついて。右手には、まだ包帯が巻かれていた。
食堂の空気は、少しだけぎこちなかった。
新月の前夜、ライは消えた。証拠品の包みを持ったまま。誰もが、裏切ったと思った。
その沈黙を破ったのは、ガルドだった。
「……団長から、話は聞いた」
ガルドは、卓の上で手を組んだ。
「ライは、騎士団長直属の騎士だ。名簿に載らないのは、表には出せない任務を負う者だからだ。……今回の任務は、殿下の救出と、十年前に取り逃がした男を捕らえること」
全員の視線が、ライに集まった。
ライは、ひょいと肩をすくめた。
「あの包み、持っていったのはね。灰色の髪の人に、買収に乗ったって信じてもらうため」
「……は?」
ジークが、眉を寄せた。
「見本をもらったのに、騎士団に渡しちゃったって知られたら、信用されないでしょ。だから、こっそり返してもらった。『ちゃんと品質を確かめました、いい品です』って言って返したら、すっかり仲間だと思ってくれてさ。新月の夜に、先生のいる部屋まで案内してくれたよ」
ライは、にこにこと笑った。
「ごめんね、ガルドさん。黙って持ってっちゃって」
ガルドは、深い深い溜め息をついた。
「……せめて、一言、言っていけ」
「言ったら、止めたでしょ?」
「止めた」
「ほらね」
レオンが、ぷっと噴き出した。セレナがくすくすと笑い、ノアが眼鏡を押し上げながら、小さく口元を緩めた。
ジークだけが、むすっとした顔で、ライを睨んでいた。
やがて、ジークは、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
ライの前まで歩いていって、そっぽを向いたまま、言った。
「……悪かったな」
「ん?」
「疑って。……敵だって、決めつけて」
ライは、目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「何言ってるの。疑うのは、いいことだって言ったでしょ」
「……」
「ジークくんは、ちゃんと疑って、ちゃんと自分の目で見て、ちゃんとみんなに話した。だから、俺も動けた。……合格だよ」
ジークは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……べ、別に、褒められたくて疑ったわけじゃねえからな」
「うん。知ってる」
ジークは、耳を真っ赤にして席に戻った。
◇
数日後、ジークのもとに、二通目の手紙が届いた。
今度は、ジークは食堂ではなく、宿の裏庭でひとりで封を切った。
フレンダがそれを知ったのは、夕方、裏庭の井戸端で膝を抱えているジークを見つけたからだった。
「……ジーク?」
「来んな」
ジークは、顔を伏せたまま言った。けれど、その手には、便箋が握られていた。
フレンダは、少し離れたところに、黙って腰を下ろした。
しばらくして、ジークがぽつりと言った。
「……ヴェルナーが捕まったあと、王都の医者たちが、兄貴を診に来てくれたんだと。あいつの薬を全部やめさせて、別の治療を始めたって」
「……うん」
「まだ、全然よくはなってない。夜は眠れないし、手も震えるし。でも」
ジークは、便箋の最後の行を、指でなぞった。
震える字だった。母の綺麗な字とは違う、ひどく歪んだ、ぎこちない字。
「兄貴が、自分で書いたんだ。一行だけ」
ジークの声が、かすれた。
「『剣ばっかり振ってる弟へ。よくやった』……だってよ」
ジークは、便箋を胸に押しつけて、膝に顔を埋めた。
「同情、すんなよ」
「しないよ」
フレンダは、空を見上げた。
「よかったね、ジーク」
返事はなかった。
ただ、小さく、鼻をすする音だけが聞こえた。
◇
ノアは、ヴェルナーの小部屋から押収された帳面を、騎士団から借り受けていた。
何十冊もの、十年分の記録。甘い葉が人の体と心に何をするのか、几帳面な字で、恐ろしいほど詳細に書き留められていた。
「……気分のいいものでは、ないですね」
食堂の隅で帳面をめくりながら、ノアは静かに言った。
「これは、人を壊すための記録です。どれだけの量で、どれだけ壊れるか。……でも」
ノアは、眼鏡を押し上げた。
「逆から読めば、壊れた人を、どうやって戻せばいいかの手がかりにもなります。どの段階で、何が起きているのか。それがわかれば、治し方も、きっとわかる」
「ノア……」
「王都に戻ったら、医学部の教授に、この帳面を見せようと思っています。ジークのお兄さんのような人が、ひとりでも多く元に戻れるように」
ノアは、帳面を、そっと閉じた。
「人を壊すために書かれた記録を、人を治すために使う。……それが、この帳面に書かれた人たちへの、せめてもの弔いになると思うので」
窓際の席で、ライが、黙ってその言葉を聞いていた。
頬杖をついたまま、窓の外を見ていた。けれど、その指先が、外套の内ポケットのあたりを、ずっと押さえていた。
◇
ガルドのもとには、騎士団本部から一通の書状が届いた。
昇進の内示だった。
「よかったじゃないですか、ガルドさん!」
セレナが手を叩くと、ガルドは、心底げんなりした顔をした。
「昇進したら、また学生の引率を押しつけられるに決まってる。……もう、こりごりだ」
溜め息をついて、それから、食堂の面々を見回した。
泥だらけになって井戸を覗いていた学生たち。廃墟で、地下で、背中を合わせて戦った学生たち。
「……だが、まあ」
ガルドは、無精ひげをさすりながら、そっぽを向いた。
「お前たちは、俺の自慢だ。……二度とは言わんぞ」
レオンが「ガルドさーん!」と抱きつこうとして、「暑苦しい」と押しのけられた。
◇
クライトは、洞窟でのことを、フレンダに詳しくは話さなかった。
ただ、夕暮れの防波堤で、ぽつりと言った。
「父と、話した」
「……はい」
「全部は、まだ話せていない。十年分だからな。……だが」
クライトは、海を見ていた。
「母に、手紙を書くそうだ」
フレンダは、目を見開いた。
「お父さんが?」
「ああ。何を書けばいいのかわからんと、三日も唸っている」
クライトの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……あの父が、だぞ」
フレンダは、思わず笑った。
笑いながら、目の奥が、じわりと熱くなった。
◇
そして、新月から五日目の夕暮れ。
フレンダは、浜辺の端の岩陰にいた。
手には、双眼鏡。またノアに借りた。今度は「入港する船の旗を」とは言わなかった。
ノアは何も聞かずに、黙って貸してくれた。眼鏡の奥の目が、少しだけ笑っていた気がした。
双眼鏡の向こうに、波打ち際が見えた。
セレナとアルマが、並んで座っていた。
人ひとり分の隙間は、もう、どこにもなかった。肩と肩が、触れるか触れないかの距離。
夕陽が、水平線に沈もうとしていた。
あの日と、同じ光だった。
前世で何百回と見た、あのスチルと、同じ構図。
(……今度こそ)
フレンダは、双眼鏡を握りしめた。
アルマが、セレナのほうを向いた。
唇が、開く。
――そして、止まった。
喉が、動いた。何かを言おうとして、言葉が出てこない。開いた唇が、かすかに震えている。
(強制力……?)
フレンダの全身が、冷たくなった。
アルマは、新月の前夜に、「全部終わったら、言いたいことがある」と言えた。それなのに。
あのスチルの構図に戻った途端、また。
(だめ。だめだよ。お願い)
アルマの唇が、ゆっくりと、閉じかけた。
そのとき。
セレナが、アルマの手を、取った。
アルマが、目を見開く。
セレナは、アルマの手を両手で包み込んで、まっすぐに、アルマを見上げていた。
夕陽に照らされた、空色の瞳。
セレナの唇が、動いた。
双眼鏡越しでも、フレンダには、その言葉が読めた。
――アルマ。私から、言ってもいい?
アルマが、呆然と、頷いた。
セレナは、深く息を吸った。
そして。
――好きだよ。
――幼馴染じゃなくて。家族みたい、でもなくて。
――アルマのことが、好き。
フレンダは、息をするのを忘れていた。
ゲームでは、いつもセレナは告白される方だった。
攻略対象からの告白に、頷く方。
けれど、セレナは今、自分から 思いを告げたのだ。
ゲームの誰も選ばなかった人を。ルートすら用意されなかった人を。
自分の言葉で。
アルマの顔が、くしゃりと歪んだ。
泣いていた。泣き虫だった頃のように。顔をぐしゃぐしゃにして、それでも、笑っていた。
アルマの唇が、動いた。
今度は、止まらなかった。
――僕も。
――ずっと、ずっと前から。
――セレナが、好きだった。
セレナが、アルマの胸に飛び込んだ。
アルマが、その背中を、両腕で抱きしめた。
夕陽が、二人をひとつの影にして、波打ち際に長く伸ばしていた。
「――――っ」
フレンダは、双眼鏡を握りしめたまま、声にならない声を上げていた。
涙が、止まらなかった。
前世で、何百回とロードし直したあの夕暮れ。言いかけて、飲み込んで、笑って、そして死んでいったアルマ。ルートのない、攻略対象外の、誰よりも優しかった男の子。
その子が、今、好きな人に、好きだと言われて、好きだと言えた。
(よかった……よかったね、アルマ……! よかったね、セレナ……!)
双眼鏡が、涙で曇って、何も見えなくなった。
それでもフレンダは、双眼鏡を下ろせなかった。一瞬でも、見逃したくなかった。
ふいに、大きな手が、双眼鏡の上に重ねられた。
そっと、下へ。
「……見すぎだ」
低い声がした。
振り向くと、クライトが、隣にしゃがみこんでいた。いつからいたのか、わからなかった。
「く、クライト先輩……っ」
「あとは、二人だけにしてやれ」
クライトは、双眼鏡をフレンダの手から取り上げて、自分の外套の中にしまった。
それから、ぐしゃぐしゃに泣いているフレンダの顔を見下ろして、ほんの少しだけ、困ったように眉を下げた。
「……お前が泣いて、どうする」
「だ、だって……っ、だって、ずっと……ずっと見たかったんです……っ!」
フレンダは、しゃくり上げながら言った。
「あの二人が、幸せになるところ……っ、ずっと、ずっと……っ!」
クライトは、何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして、フレンダの頭を撫でた。
ツインテールの分け目を崩さないように、そっと、やさしく。
何度も、何度も。
フレンダが泣き止むまで、ずっと。
波の音が、寄せては返していた。
夕陽が、ゆっくりと、水平線に沈んでいった。




