第二十二話
考えるより先に、足が動いていた。
炎へ向かって、一歩。
クライトの元へ。
「――だめだ!!」
けれど、腕を強く掴まれた。
引き戻される。振り向くと、ライが、フレンダの両腕を、後ろから抱え込むように掴んでいた。
「離して!先輩が……!先輩が、中に……!」
「行っちゃだめだ!」
フレンダは、もがいた。腕を振りほどこうと、全身で暴れた。
ライの腕は、びくともしなかった。
稽古の日、手首を掴まれて指一本動かせなかったときと、同じだった。けれど、あのときとは違う。ライの腕が、震えていた。
「あの煙を吸ったら、君は……っ!」
初めて見る、ライの焦った顔。
いつもの軽さなんて、どこにもなかった。必死で、ひび割れていて、今にも泣き出しそうな声。
「あの煙が、人に何をするか。……俺は、知ってる。知ってるんだ」
フレンダの動きが、止まった。
振り向いた先で、ライの顔が、真っ白になっていた。灰とも紫ともつかない瞳が、炎を映して、怯えたように揺れていた。
洗濯場で、刃を掴んだときにも。名簿のことを突きつけられたときにも。先生と向き合ったときにさえ、見せなかった顔。
「お願いだから」
ライの腕に、さらに力がこもった。
「お願いだから、行かないで」
「……っ、でも、先輩が」
フレンダの声が、震えた。
炎の向こうに、藍色の影は、もう見えなかった。白い煙と、橙色の炎だけが、渦を巻いている。
「クライトくんは、戻ってくる」
ライが、フレンダの耳元で、言った。
まるで、自分に言い聞かせるように。
「あいつの剣は、団長の剣だ。……あの剣は、無茶はしても、無謀はしない。勝てない賭けには、絶対に乗らない。大丈夫、戻ってくる」
ライの声は、まだ震えていた。けれど、その腕は、もう、ただフレンダを抱えているだけだった。押さえつけるのではなく、支えるように。
フレンダは、唇を噛みしめた。
炎の向こうを、睨むように見つめる。
追いかけたかった。けれど、必死に引き止めるライの震える腕を振り払うことはできなかった。
「……信じて、待とう」
ライの言葉に、フレンダは、小さく頷いた。
両手を、胸の前で、ぎゅっと握りしめた。
(先輩)
(戻ってきて)
(お願いだから、ちゃんと、戻ってきて)
◇
煙の向こうで、藍色の影が動いていた。
天井を這う炎。崩れかけた棚。弾け飛ぶ硝子の破片。
クライトは、身を低くしたまま、まっすぐに棚の端へ向かった。迷いがなかった。どこに何があるか、部屋に入った瞬間から、すべて見ていたかのように。
燃え始めた帳面の山に、外套を叩きつける。炎を押し潰し、その外套で帳面をまとめて包み込む。
頭上で、燃えた棚の板が、みしりと嫌な音を立てた。
(――崩れる!)
棚が、傾いた。
燃える板が、クライトの頭上へ倒れかかる。
クライトは、振り向かなかった。
帳面の包みを胸に抱えたまま、左腕だけを跳ね上げた。剣の鞘で、倒れてくる板を、横から殴りつけるように払う。
板が、弾き飛ばされて、壁に叩きつけられた。火の粉が、雨のように降り注ぐ。
その火の粉の中を、クライトは駆け抜けた。
◇
「先輩……!」
煙の中から、藍色の影が飛び出してきた。
クライトは、通路の石の床に膝をついた。激しく咳き込む。髪の先が焦げ、頬に煤がこびりつき、左の袖が裂けて、腕に赤い火傷の痕が走っていた。
けれど、その胸には、煤けた外套に包まれた帳面の束が、しっかりと抱えられていた。
「……全部、ある」
クライトは、咳き込みながら、外套の包みを開いた。
何十冊もの帳面。表紙の端が焦げているものもあったが、中身は無事だった。
「先輩、腕……!火傷……!」
フレンダは、クライトの腕に飛びついた。赤く腫れた肌に、震える指で触れる。
「なんで、こんな無茶……!」
「無茶じゃない」
クライトは、息を整えながら、フレンダを見下ろした。
「勝算はあった。部屋の中は、入ったときに全部見ていた。棚の位置も、帳面の場所も、崩れそうな板も」
「でも……!」
「それに」
クライトは、腕の中の帳面に、目を落とした。
「これがなければ、ジークの兄は、元に戻れないかもしれない。……情がなければ、守れないものがある。そう言ったのは、俺だ」
フレンダは、言葉を失った。
広場で、騎士団長に向かって、クライトがそう言い放った日のことを思い出していた。
背後で、重い足音がした。
騎士団長だった。
煤にまみれた息子を、見下ろしていた。焦げた髪。火傷を負った腕。そして、その腕に抱えられた、十年分の帳面。
騎士団長は、長い間、何も言わなかった。
凍てついた藍色の瞳が、揺れていた。
やがて、その大きな手が、ゆっくりと持ち上がった。
クライトの、煤けた頭の上に。
ぽん、と。
一度だけ、置かれた。
「……馬鹿者が」
低い、掠れた声だった。
それ以上は、何も言わなかった。騎士団長は手を離し、騎士たちに消火を命じるために、背を向けた。
クライトは、膝をついたまま、動けなかった。
父の手が触れた場所に、そっと、自分の手を当てていた。
フレンダは、その横顔を見た。
煤だらけの、無表情。
けれど、その目の端が、ほんの少しだけ、光っていた。
◇
大桟橋の下の空洞に戻ると、騎士団の本隊が、縛り上げられた男たちを次々と運び出していた。
空洞の隅で、レオンが王子を抱いて座っていた。
王子は泣き疲れたのか、レオンの胸に顔を埋めて、すうすうと寝息を立てている。レオンは、その小さな背中を、ずっと優しく撫で続けていた。
セレナとアルマが、並んで壁にもたれていた。ジークとノアが、捕らえた男たちの数を騎士に報告している。ガルドが、騎士団長の前に進み出て、片膝をついた。
「団長。命令に背き、学生たちを前線に出したのは、俺の判断です。処分は、俺ひとりに」
騎士団長は、ガルドを見下ろした。
それから、空洞を見回した。王子を抱くレオン。背中を合わせるセレナとアルマ。縄をかけられた灰色の髪の男。
「……殿下を見つけたのは、誰だ」
「学生たちです」
「殿下を取り戻したのは」
「学生たちです」
「死者は」
「おりません」
騎士団長は、目を閉じた。
「――処分は、ない。よくやった、ガルド・ベルトラン」
ガルドは、深々と頭を下げた。その肩が、かすかに震えていた。たぶん、ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩んだのだろう。
騎士団長の目が、最後に、ひとりの青年の上で止まった。
クライトだった。
父と子が、向かい合った。
「……七つの入り口」
騎士団長が、静かに言った。
「お前が書いた地図がなければ、灯台の洞窟は見つからなかった。この部屋にも、辿り着けなかった。……あの記録も、灰になっていた」
「……」
「私が話した、たった一度の話を。……覚えていたんだな」
クライトは、何も答えなかった。
ただ、まっすぐに、父を見ていた。
騎士団長は、長い間、息子を見つめていた。
それから、空洞にいる捜索隊の面々を、もう一度見回した。
「――いい仲間を、持ったな」
それだけだった。
それだけ言って、騎士団長は背を向けた。
クライトは、その背中を見送っていた。
無表情だった。けれど、外套の陰で握られた拳が、かすかに震えていた。父の前に立ったあの日と同じように。けれど、あの日とは違う理由で。
フレンダは、そっとクライトの袖を引いた。
クライトは、フレンダを見下ろした。
そして、ほんのわずかに、口元を緩めた。
◇
夜明け前。
灯台の下の洞窟の入り口で、騎士団長は海を見ていた。
その隣に、白い髪の男が並んで立った。
「十年、かかったね」
ライが、言った。
「……ああ」
「団長も、ずっと探してたんでしょ。あの人のこと」
「探していた。……お前に、二度と、あんな顔をさせないために」
ライは、少しだけ驚いたように、騎士団長の横顔を見た。
騎士団長は、海を見たまま、続けた。
「十年前、空っぽの家で膝を抱えていたお前を見たとき、私は、自分の息子のことを思った。……まだ六つだったあいつを。もしあいつが、同じ目に遭ったらと」
「……」
「だから、お前に剣を教えた。二度と、何も失わなくて済むように。……あいつには、教えてやれなかったのにな」
洞窟の岩陰で、誰かが、息を呑んだ。
クライトだった。
父に、ひと言だけ伝えたいことがあって、追いかけてきたのだ。そして、聞いてしまった。
「なんで?」
ライが、静かに問うた。
「なんで、クライトくんには教えなかったの」
騎士団長は、しばらく黙っていた。
「……怖かった」
ぽつりと、言った。
「情を捨てろと、あいつに言い続けた。顔に出すなと。……十年前、私は情に流されて判断を誤り、あの男を取り逃がした。お前の妹を、救えなかった」
波の音が、寄せては返す。
「あいつに剣を教えて、あいつが私と同じ過ちをしたら。あいつが、私と同じように、守れなかったら。……そう思うと、怖くて、近づけなかった」
騎士団長の声が、ほんのわずかに、掠れた。
「だから、遠ざけた。あいつの母親ごと。……最低の父親だ」
ライは、何も言わなかった。
しばらくして、小さく笑った。
「団長。それ、俺じゃなくて、本人に言ったほうがいいと思うよ」
「……」
「ほら。そこにいるし」
騎士団長が、弾かれたように振り向いた。
岩陰から、クライトが、ゆっくりと姿を現した。
父と子が、夜明け前の薄闇の中で、向かい合った。
ライは、ひらりと手を振って、その場を離れた。
「じゃ、俺はお邪魔だから」
軽い足音が、洞窟の奥へ遠ざかっていく。
残された二人は、しばらく、何も言わなかった。
やがて、クライトが、口を開いた。
「……父上」
「……」
「さっき言ったことを、もう一度、俺に言ってくれ」
騎士団長は、息子を見つめていた。
凍てついた藍色の瞳が、揺れていた。
水平線の向こうが、ゆっくりと白み始めていた。




