第二十一話
岩をくりぬいた小部屋に、波の音が低く響いていた。
壁一面の棚に、硝子の瓶が並んでいる。中には、乾いた葉、黒く煮詰めた液体、白い粉。それぞれに、几帳面な字で日付と番号を書いた札が貼られていた。
棚の端には、分厚い帳面が何十冊も積み上げられていた。背表紙に、年号が書かれている。十年前のものも、あった。
部屋の真ん中で、初老の男が膝をついていた。
白髪交じりの髪をきちんと整え、上等な黒い外套を着ている。その喉元に、白い髪の男の剣が突きつけられている。
それなのに、男は穏やかに微笑んでいた。
「――久しぶりだね、先生」
ライの声が、静かに響いた。
「ああ。本当に、久しぶりだ」
男は、ライを見上げて、懐かしそうに目を細めた。
「背が伸びたね。顔つきも変わった。でも、目は変わらない。……あの頃と同じ、まっすぐな目だ」
ライの剣先が、かすかに震えた。
フレンダは、通路の入り口で立ち尽くしていた。隣で、クライトが角灯を掲げたまま、息を詰めている。
(先生……?)
ライが、そう呼んだ。
誰なのか、わからなかった。ライとこの男の間に何があったのか、何ひとつ。
けれど、ライの横顔を見れば、わかることがあった。
この人は、ライにとって、許せない誰かなのだ。
「随分と、探したよ」
ライが言った。
「名前を変えて、顔を変えて。王都の宮廷医にまでなってるなんて、思わなかった」
「宮廷医……」
クライトが、小さく呟いた。
フレンダの頭の中で、何かが繋がった。
ジークの兄を診ているという、優しい宮廷医。白鷺商会の出資者名簿に、一度だけ載っていた名前。
「……ヴェルナー」
フレンダの声に、男がゆっくりと振り向いた。
「おや」
男――ヴェルナーは、フレンダを見て、興味深そうに首を傾げた。
「私の名を、ご存じとは。……ああ、そうか。君が、例の子だね」
「例の、子?」
「港で、私の部下に真っ先に食ってかかったという、小さな騎士さん。廃墟で、まるで先を知っているかのように仲間を動かしたという」
ヴェルナーの目が、静かに輝いた。
洗濯場でライが見せた、凍りつくような目とは違う。もっと穏やかで、もっと、ぞっとする目。
まるで、珍しい標本を見つけた学者のような目だった。
「とても、興味深い。ぜひ一度、ゆっくり話を聞いてみたかったんだ。君の目には、何が見えているのか」
フレンダの背筋に、冷たいものが走った。
クライトが、一歩前に出て、フレンダを背中に庇う。
「――その子に、話しかけるな」
ライの声だった。
低く、冷たく、ひび割れた声。
ヴェルナーは、ライに向き直った。
「相変わらずだね。君は昔から、大事なものを守ろうとするとき、そういう声になる」
「……」
「あの子のときも、そうだった」
ライの剣が、ヴェルナーの喉に、わずかに食い込んだ。赤い雫が、一筋、白い襟に滲む。
ヴェルナーは、眉ひとつ動かさなかった。
「あの子の記録は、本当に素晴らしかったよ。君が毎日、丁寧に書いてくれたおかげだ。あれがなければ、この葉の効き方は、ここまで正確にはわからなかった」
ヴェルナーは、壁の棚を、愛おしそうに見回した。
「眠りを深くする量。夢を見せる量。心を手放させる量。……そして、二度と目を覚まさない量」
ライの肩が、震えていた。
「全部、あの子が教えてくれた。そして君が、それを書き留めてくれた。君は、とても優秀な助手だったよ」
「――黙れ!」
ライの声が、割れた。
フレンダは、息ができなかった。
何の話をしているのか、わからない。
あの子が、誰なのか。記録とは、何なのか。わからない。わからないけれど。
ライの横顔が。
いつも余裕の笑みで、何を言われても「さあ」と軽く流していた、あの顔が。
今、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「殺すかい?」
ヴェルナーが、穏やかに問うた。
「いいよ。君には、その権利がある。……でも、君にはできないと思うな」
「……なんで」
「君は、人を信じすぎる子だったからね」
ヴェルナーは、微笑んだ。
「私の薬を、最後まで疑わなかった。疑えなかった。あれほど、あの子がおかしくなっていくのを見ていたのに。……そういう子は、人を殺せないんだよ」
ライの剣が、大きく震えた。
握りしめた柄が、軋む音がした。
次の瞬間、ライの腕に、力がこもった。
「――ライ!!」
フレンダは、走り出していた。
クライトの背中から飛び出して、部屋を駆け抜けて。
ライの、剣を握る腕に、しがみついた。
◇
「離して」
ライの声は、聞いたことがないほど低かった。
「離さない」
「フレンダ。離して」
「離さない!」
フレンダは、ライの腕に、両手で、全身でしがみついていた。
ライの腕は、固かった。稽古の日に触れた手のひらと同じ。何年も、何年も剣を振り続けてきた腕。フレンダの力で、止められるはずがなかった。
それでも、ライの剣は、動かなかった。
「……あなたが、言ったんでしょ」
フレンダは、ライの顔を見上げた。
「疑うことは、大事なことだって。信じてばかりだと、守れないときもあるって」
ライの瞳が、揺れた。
「私、ずっと考えてた。あの言葉の意味。……ライは、きっと、信じて、守れなかったことがあるんだよね」
何があったのかは、知らない。
聞かない。ライが話したくないなら、聞かない。
でも。
「でもね、ライ」
フレンダの目から、涙がこぼれた。
「疑ってばかりでも、守れないんだよ」
ライの腕が、ぴくりと震えた。
「この人を、ここで殺したら。ライは、ずっとここから出られなくなる。この暗い部屋の中に、ずっと閉じ込められたままになる」
声が、震えた。
「私、知ってるよ。ライが、本当は、誰よりも稽古してること。手のひら、あんなに固くなるまで。……それは、誰かを殺すためじゃなかったはずでしょ」
ライは、何も言わなかった。
「港で、ナイフから私を守ってくれた。洗濯場で、刃を素手で掴んでまで庇ってくれた。私たちに、剣を教えてくれた。……だから、今日、みんな生きてるんだよ」
フレンダは、ライの腕を、ぎゅっと握りしめた。
「アルマも、セレナも、レオン先輩も、ジークも、ノアも、ガルドさんも、クライト先輩も。みんな、ライに教わったことで、生き残ったんだよ」
涙で、ライの顔がよく見えなかった。
「ライは、守れたんだよ」
部屋の中に、波の音だけが響いていた。
長い、長い沈黙だった。
やがて。
ライの腕から、ゆっくりと、力が抜けていった。
剣先が、ヴェルナーの喉から、離れた。
からん、と。
ライの手から、剣が滑り落ちて、石の床に転がった。
「……ずるいなあ」
ライが、呟いた。
笑おうとしていた。いつものように。軽く、柔らかく。
けれど、その笑顔は、うまく形にならなかった。口元が歪み、目元が震え、何度作り直そうとしても、すぐに崩れてしまう。
「そんなこと言われたら……もう、斬れないじゃん」
崩れた笑顔のまま、ライは、膝をついた。
フレンダは、その背中に、そっと手を置いた。
◇
ヴェルナーは、膝をついたまま、二人を眺めていた。
「……驚いたな」
その声には、本物の驚きが混じっていた。
「君が、止まるとは。てっきり、斬ると思っていたのに」
「――記録しておけ」
低い声が、通路から響いた。
全員が、振り向いた。
通路の暗がりから、松明の光が溢れ出してきた。鎧の擦れる音。重い足音。
先頭に立っていたのは、藍色の髪に白いものの混じった、大柄な男だった。
「十年前の取り逃がし、ここで返してもらう。……宮廷医ヴェルナー。王子殿下誘拐、および違法薬物の密輸と頒布の罪で、拘束する」
騎士団長だった。
背後から、騎士たちが次々と部屋に雪崩れ込んでくる。ヴェルナーの両腕が、後ろ手に縛り上げられた。
ヴェルナーは、抵抗しなかった。ただ、騎士団長を見上げて、穏やかに笑った。
「団長殿。十年ぶりですね。……あなたも、あの頃と同じ顔をしている」
「連れて行け」
騎士団長は、それきりヴェルナーを見なかった。
騎士たちに引き立てられて、ヴェルナーは通路の闇へと消えていった。最後まで、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
部屋に、静けさが戻った。
騎士団長は、膝をついたライを見下ろした。
ライは、顔を上げなかった。
「……斬らなかったのか」
「止められちゃった」
ライは、床に転がった自分の剣を見つめたまま、小さく笑った。
「団長。この子、すごいよ。俺の腕にしがみついて、離さないの。俺の力なら、振りほどけたはずなのに。……振りほどけなかった」
騎士団長の目が、フレンダに向いた。
フレンダは、慌てて背筋を伸ばした。
凍てついた冬の海のような、藍色の瞳。クライトと同じ色。
騎士団長は、しばらく黙ってフレンダを見ていた。
それから、ほんのわずかに、頭を下げた。
「……礼を言う」
「えっ……」
「十年前、私がこいつにしてやれなかったことを、お前がした」
それだけ言って、騎士団長は踵を返した。
騎士たちに支えられて、ライが立ち上がる。フレンダがその隣に寄り添い、一同が通路へ向かいかけた、そのときだった。
ぱち、と。
乾いた音がした。
棚の奥。乾いた葉の束が積み上げられた、その足元。
細い縄のようなものが、赤く、じりじりと燃えていた。
「――火縄だ!」
騎士のひとりが叫んだ。
次の瞬間、棚の下から、炎が噴き上がった。
乾ききった葉の束が、一瞬で燃え移る。炎が棚を這い上がり、硝子の瓶が熱で次々と弾け飛ぶ。甘い匂いが、焦げた煙と混じり合って、小部屋に一気に充満した。
「吸うな!口を覆え!」
騎士団長の声が響いた。
「あの葉の煙だ!吸えば、正気を失うぞ!全員、通路へ出ろ!」
騎士たちが、外套の裾で口元を覆いながら、通路へ殺到する。フレンダはライの腕を引いて、煙の中を走った。
――あの男は、最初から。
誰かがこの部屋に辿り着いたら、すべてを燃やすつもりだったのだ。十年分の記録も、葉も、証拠も、何もかも。
通路に転がり出て、フレンダは咳き込みながら振り返った。
小部屋の中は、もう橙色の炎と白い煙で埋め尽くされていた。
棚の端に積まれていた、何十冊もの帳面。その表紙に、炎の舌が届きかけている。
「……あの帳面」
フレンダの隣で、誰かが呟いた。
クライトだった。
藍色の瞳が、炎の向こうの帳面の山を、じっと見つめていた。
「あれは、十年分の記録だ。あの男が何をしたのか。どれだけの人間に、何を与えたのか。……王都の貴族たちに、今、何が起きているのか」
フレンダは、はっとした。
ジークの兄。眠れない夜に、甘い香を勧められた人たち。今も、王都のどこかで、手を震わせている人たち。
あの帳面がなければ、ヴェルナーの罪は証明できない。
それに、あの帳面がなければ。
壊された人たちを、どうやって元に戻せばいいのかも、わからなくなる。
「――クライト!よせ!」
騎士団長の声が、鋭く響いた。
クライトは、もう走り出していた。
外套を脱ぎ、頭からかぶる。口元を袖で覆い、身を低くして。
炎の中へ。
「先輩っ!!」
フレンダの叫びは、炎の轟音にかき消された。
橙色の炎が、藍色の背中を、音もなく呑み込んでいった。
天井が、みしりと鳴った。
――そして、何も見えなくなった。




