第二十話
月のない夜は、どこまでも暗かった。
広場の枯れ井戸のまわりに、九つの影が身を潜めていた。捜索隊の八人と、伝令役の駐屯地の若い騎士がひとり。ライは、いない。
松明は焚かない。灯りは、ガルドの手元の小さな角灯だけ。それも覆いをかけて、足元をかすかに照らすだけにしている。
「……静かすぎるな」
レオンが、ひそめた声で呟いた。
港の東の空が、うっすらと赤く染まっていた。第三倉庫を囲む騎士団本隊の松明だろう。岬の灯台のあたりにも、いくつかの灯りが見える。
けれど、物音ひとつ、聞こえてこなかった。
フレンダは、外套のポケットの中で、二つのシーグラスを握りしめていた。浜辺でもらった、新しいほう。そして、空っぽの部屋に残されていた、古いほう。
(ライ。どこにいるの)
隣で、クライトが井戸の底をじっと見下ろしていた。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。
一刻。二刻。
夜半を過ぎた頃、石畳を駆けてくる足音が響いた。
全員が、剣の柄に手をかける。
角灯の光の中に飛び込んできたのは、騎士団の伝令だった。息を切らし、顔は汗と煤で汚れている。
「ガルド殿!第三倉庫は、空です!」
「何……!」
「船は来ました。ですが、積み荷は空の木箱ばかり。乗っていたのは、何も知らない雇われの船乗りだけで……!」
「囮か」
ガルドが、低く唸った。
ノアの読み通りだった。第三倉庫の取引そのものが、騎士団の目を引きつけるための罠。
「灯台は」
「団長が、本隊の半分を率いて向かわれました。ですが、灯台の下の洞窟の入り口が見つからず……」
そのとき。
井戸の底から、かすかな音が、這い上がってきた。
全員が、息を止めた。
風の音ではなかった。
泣き声だった。
小さな、子どもの泣き声。遠く、くぐもって、それでも確かに。
――おかあさま。おかあさま。
レオンの顔から、血の気が引いた。
「……殿下だ」
誰かが、呟いた。
泣き声は、少しずつ遠ざかっていく。井戸の底の、さらに奥へ。灯台の方角へ。
「運ばれてる」
クライトが、低く言った。
「この井戸の下の道は、旧市場の下を通って、大桟橋の下で二つに分かれる。片方が、灯台へ続いている。……今、追えば、大桟橋の分かれ道で追いつける」
「待て」
ガルドの声が、鋭く響いた。
「団長の命令は、前線に出るな、だ。お前たちは学生だぞ。地下に入るのは――」
「ガルドさん」
セレナが、まっすぐにガルドを見た。
「殿下が、泣いてます」
ガルドは、口をつぐんだ。
井戸の底から、泣き声が、遠く、遠く、響いてくる。
レオンが、拳を握りしめていた。その肩が、かすかに震えている。
ガルドは、目を閉じた。
長い、長い溜め息をついた。
それから、目を開けた。
「――伝令。団長に伝えろ。捜索隊は、広場の井戸から地下に入り、殿下を追う。責任は、すべて引率の俺が取る、と」
「は、はい!」
伝令が駆け去っていく。
ガルドは、角灯の覆いを外した。
「縄を下ろせ。クライト、先頭だ。道案内を頼む。……全員、絶対に死ぬなよ。お前たちに何かあったら、俺は一生、溜め息しかつけなくなる」
◇
井戸の底は、思ったよりも広かった。
縄を伝って降りた先は、石を積んで造られた古い通路だった。
天井は低く、壁はじっとりと湿っている。角灯の光が、苔むした石の表面をぬらりと照らした。
潮の匂い。黴の匂い。そして、かすかに、あの甘い匂い。
「こっちだ」
クライトが、迷いなく歩き出した。
分かれ道。また分かれ道。クライトは一度も足を止めなかった。まるで、何度も歩いたことがある道のように。
十年前に、一度だけ聞いた父の話。その記憶だけを頼りに。
泣き声が、近くなってきた。
それと一緒に、別の音も聞こえてくる。足音。何かを引きずる音。低い、男たちの声。
クライトが、片手を上げた。
全員が、止まる。
通路の先が、ひらけていた。
天井の高い、広い空洞だった。いくつもの通路が、ここで合流している。空洞の真ん中を、地下水が細い川になって流れていた。大桟橋の真下。
そこに、男たちがいた。
十人。いや、もっと。木箱を担ぎ、荷車を押し、灯台へ続く通路へ向かって進んでいる。木箱から漏れ出す甘い匂いが、空洞に満ちていた。
そして、その列の中ほどに。
大きな麻袋を背負った男がいた。
麻袋が、もぞもぞと動いていた。中から、かすれた泣き声が聞こえる。
レオンが、一歩踏み出しかけた。
ガルドが、その肩を掴んだ。
「……数が多い。まず、袋の男を――」
そのときだった。
列の最後尾の男が、ふと振り返った。
角灯の光が、目に入ったのだろう。
「――誰だ!」
男の叫びが、空洞に反響した。
◇
男たちが、一斉に荷を捨てて、刃を抜いた。
「行くぞ!」
ガルドの声と同時に、八人は空洞へ飛び込んだ。
最初に敵とぶつかったのは、レオンだった。
大柄な男が、棍棒を振りかぶって突っ込んでくる。レオンは大剣を構えた。
肩を、下げた。
わざと。大きく。誰が見ても、横薙ぎが来るとわかるように。
男が、棍棒で横を守る。
レオンの大剣は、横には来なかった。下げた肩をそのまま沈め、地面すれすれから、男の足を払い上げた。
「来ると思わせて、来ない、ってな!」
男の巨体が、宙を舞った。
ジークは、二人を同時に相手にしていた。
最初の突きを、かわされた。
瞬間、ジークの頭に血が上る。次を、次を、早く――。
(外れたら、一回吸って)
ジークは、息を吸った。
たった一呼吸。それだけで、視界が広がった。
二人の男の、構えの高さ。重心。次の一手。
ジークの剣が、走った。一人目の膝。二人目の肩。一人目の手首。同じ高さは、一度もなかった。
二本の刃が、からん、からんと石の床に落ちた。
「……ちっ。あいつの言う通りかよ」
ジークは、舌打ちしながら、次の敵に向き直った。
ノアは、細身の剣を構えて、ひとりの男と向かい合っていた。
男は、慎重だった。ノアの動きを、じっと読んでいる。
ノアは、左に踏み出した。打ち合い、離れる。また左に踏み出す。打ち合い、離れる。三度、四度。
男の目が、細められた。
(こいつは、左に動く癖がある)
そう読んだのだろう。五度目、ノアが踏み出す前に、男の剣が左を塞いだ。
ノアは、右にいた。
「――読ませたい癖、です」
細い刃が、男の剣を持つ腕を、正確に打った。
セレナとアルマは、背中合わせに立っていた。
四人の男が、二人を取り囲んでいる。
セレナの剣が、正面の男の刃を受ける。視界の端で、アルマの背中が動く気配がする。後ろの男が、アルマに斬りかかる音がする。
振り向きたい。アルマは大丈夫か、確かめたい。
(自分の前だけ見てればいい)
セレナは、振り向かなかった。
(隣にいるのは知ってるでしょ。ずっと、隣にいたんだから)
知っている。
生まれたときから、ずっと隣にいた。泣き虫だった頃も、背を抜かされた日も。昨夜、波打ち際で、言いたいことがあると言ってくれたときも。
だから、振り向かない。
自分の前だけを、見る。
セレナの剣が、鋭く踏み込んだ。正面の男の剣を払い、懐を突く。男が崩れる。返す刀で、右から来た男の刃を弾く。
背中で、アルマの剣が鳴る音がした。一度。二度。男の呻き声。倒れる音。
「――セレナ、右!」
「わかってる!」
二人の声が、重なった。
互いの顔は、一度も見ていなかった。それでも、二人の剣は、まるでひとつの生き物のように、四人の男を次々と退けていった。
フレンダの前には、熊のような大男が立ちはだかっていた。
両手に、太い鉈を一本ずつ。振り回すたびに、空気が唸る。
フレンダは、低く構えた。
鉈が、振り下ろされる。
(下から入る)
踏み込んだ。鉈の下をくぐり、大男の懐へ。
大男の太い腕が、フレンダを抱き込もうと伸びてくる。捕まったら、終わりだ。この腕に締め上げられたら、骨が折れる。
(入ったら、抜ける)
フレンダは、柄頭で大男の鳩尾を突いた。そして、その反動のまま、大男の脇の下をすり抜けた。背中側へ。
大男の腕が、空を抱く。
(抜けた先で、もう一回入る)
振り向こうとした大男の膝の裏を、フレンダの剣が打った。巨体が、がくりと崩れる。膝をついた大男の、今度は正面から、もう一度懐へ。
柄頭が、顎を打ち上げた。
大男は、白目をむいて、仰向けに倒れた。
フレンダは、肩で息をしながら、剣を構え直した。
(……ライ。ちゃんと、できたよ)
空洞の入り口で、ガルドが退路を守っていた。
通路から湧き出してくる新手を、たったひとりで押し返している。長剣の一振りごとに、男たちが壁際まで吹き飛んだ。
「数で押すしか能がねえのか、お前らは。……何度目だ、この台詞」
溜め息まじりに、ガルドは剣を構え直した。
そして、麻袋の男。
クライトが、その前に立っていた。
男は麻袋を背負ったまま、灯台へ続く通路へ逃げようとしていた。クライトの剣が、その行く手を塞ぐ。
「袋を、下ろせ」
低い声だった。
男は、震える手で麻袋を地面に下ろした。袋の口から、金色の髪が覗いた。小さな、小さな頭。泣き腫らした目が、怯えたように、角灯の光を見上げていた。
首に、鷲の紋章のペンダントが光っていた。
「――殿下!」
レオンが、駆け寄った。
袋の男を蹴り飛ばし、膝をついて、麻袋の口を大きく開く。泥と涙にまみれた、三歳の男の子が、そこにいた。
レオンは、その小さな体を、そっと抱き上げた。
「もう大丈夫だ。……もう、大丈夫だからな」
男の子は、レオンの胸にしがみついて、声を上げて泣き出した。
レオンも、泣いていた。
――そのときだった。
フレンダの背筋を、冷たいものが走り抜けた。
空洞の、壁際。合流する通路のひとつ。その暗がりの中で、何かが動いた。
セレナの、背後だった。
セレナは、正面の最後の男と打ち合っていた。アルマは、その背中を守りながら、別の男と剣を交えている。
二人とも、自分の前だけを見ていた。
ライに言われた通りに。
暗がりから、影が音もなく伸び上がった。
仕立ての良い深緑の外套。後ろに撫でつけた灰色の髪。左の目の下に走る、古い傷痕。
その手に、細身の長剣。
(――来た)
ゲームで見た構図だった。何百回と見た、あの場面。セレナの背後から斬りかかり、庇ったアルマの胸を貫く、あの男。
灰色の髪の男の剣が、セレナの背中に向かって、振り上げられた。
「セレナの後ろ!!」
フレンダの叫びが、空洞に響いた。
セレナは、振り向かなかった。
アルマも、飛び込まなかった。
セレナは目の前の男の剣を払いながら、身を低く沈めた。アルマは自分の敵を蹴り離し、セレナの頭上で、自分の剣を横に掲げた。
灰色の男の刃が、アルマの剣に受け止められた。
がきん、と鋭い音。
アルマは、倒れなかった。踏みしめた足が、石の床を噛んでいた。
「――倒れたら、守れない、って」
アルマが、歯を食いしばって言った。
「教わったんだ」
灰色の男の目が、わずかに見開かれた。
その瞬間。
藍色の影が、男の横から滑り込んだ。
クライトだった。
灰色の男は、すぐに体勢を立て直した。アルマの剣から刃を外し、クライトに向き直る。速い。そして、重い。今まで戦ったどの敵とも違う、本物の剣だった。
二人の剣が、ぶつかり合った。
かん。がっ。かきん。
灰色の男の剣は、蛇のようにしなやかだった。受けたと思った瞬間に、刃が滑り、別の角度から喉元を狙ってくる。クライトの剣が、それを弾く。また来る。弾く。
クライトの額に、汗が浮いた。
(押されてる……!)
フレンダは、剣を握りしめた。
灰色の男が、笑った。
「団長の息子か。……親父と同じ、つまらん剣だ」
クライトの表情は、変わらなかった。
ただ、その目が、すっと細められた。
灰色の男の剣が、渾身の力で振り下ろされる。
クライトは、それを受けた。
受けた剣を、そのまま、相手の刃に沿って滑らせた。
鍔元まで。
そして、そこで、止めた。
灰色の男の剣が、動かなくなった。
押しても、引いても。クライトの剣に絡め取られたまま、ぴくりとも動かない。
「……っ、なに」
灰色の男の顔から、初めて笑みが消えた。
稽古の日、ライがクライトの剣を止めた、あの捌き。
幼い頃、父がクライトの剣を止めた、あの捌き。
「つまらん剣で、悪かったな」
クライトが、低く言った。
「――フレンダ!」
呼ばれる前に、フレンダは走っていた。
低く。灰色の男の剣の下へ。懐へ。
剣を封じられた男は、フレンダを振り払おうと、空いた片手を伸ばす。
フレンダは、柄頭で男の脇腹を突き、そのまま脇をすり抜けた。
入ったら、抜ける。
男の手が、空を掴む。
抜けた先で、もう一回入る。
フレンダの剣が、背後から、男の膝の裏を打った。
灰色の男の体が、がくりと崩れた。
クライトの剣が、男の剣を弾き飛ばした。細身の長剣が、くるくると宙を舞い、地下水の川に落ちて、水音を立てた。
クライトの切っ先が、膝をついた男の喉元に、ぴたりと突きつけられた。
「……動くな」
◇
空洞が、静かになった。
倒れた男たちの呻き声。地下水の流れる音。レオンの腕の中で、しゃくり上げる王子の小さな声。
ガルドとジークが、男たちを次々と縄で縛り上げていく。ノアが王子の額に手を当て、熱がないかを確かめる。セレナとアルマは、背中合わせのまま、まだ剣を下ろせずにいた。
フレンダは、膝をついた灰色の男を見下ろしていた。
ゲームで、アルマを殺した男。前世で、何度も画面を殴りそうになった顔。
その男が、今、縄をかけられて、石の床に座り込んでいる。
アルマは、生きている。
セレナの背中を守って、自分の足で立っている。
(……変えられた)
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
灰色の男が、顔を上げた。
フレンダを見て、その唇が、歪んだ。
「……あの方は、もう灯台にはいない」
かすれた声だった。
「お前たちが、いくら急いでも、間に合わん。……もっとも」
男は、低く笑った。
「先に、追いついた奴がいるがな」
「……誰のこと」
フレンダの問いに、男は答えなかった。
ただ、空洞の奥、灯台へ続く通路とは別の、もうひとつの暗い通路を、顎で示した。
「白い髪の、亡霊だ」
フレンダの心臓が、止まった。
「十年前と、同じ目をしていた。……あの目は、殺す目だ」
◇
「フレンダ!」
クライトの声を背中に聞きながら、フレンダは走り出していた。
暗い通路。足元も見えない。けれど、止まれなかった。
すぐに、背後から足音が追いついてくる。クライトだった。角灯を手に、フレンダの隣に並ぶ。
「ひとりで行くなと言った」
「……はい。ごめんなさい」
「謝らなくていい。走れ」
二人は、闇の中を駆けた。
通路は、ゆるやかに下っていた。潮の匂いが濃くなる。波の音が、壁の向こうから聞こえてくる。
やがて、前方に、ぼんやりと灯りが見えた。
通路の突き当たり。岩をくりぬいた、小さな部屋。
壁際に、いくつもの棚が並んでいた。棚の上には、硝子の瓶。乾いた葉の束。そして、何冊もの、分厚い帳面。
部屋の真ん中に、二つの人影があった。
ひとりは、床に膝をついていた。上等な仕立ての、黒い外套。白髪交じりの髪をきちんと整え、穏やかな顔立ちをした、初老の男。
その喉元に、剣の切っ先が突きつけられていた。
剣を握っているのは。
白い髪の男だった。
「……ライ」
フレンダの声が、かすれた。
ライは、振り向かなかった。
膝をついた男を、ただ、見下ろしていた。
角灯の光が、その横顔を照らす。
灰とも紫ともつかない瞳が、凍りつくほど冷たく、静かに燃えていた。洗濯場で見た、あの目。いや、それよりも、ずっと、ずっと冷たい目。
膝をついた男は、喉元に剣を突きつけられているというのに、穏やかに微笑んでいた。
まるで、診察室で患者を迎えるときのように。
「やあ。随分と、大きくなったね」
男が、柔らかな声で言った。
ライの剣先が、ほんのわずかに、震えた。
「――久しぶりだね、先生」
ライの声は、静かだった。
いつもの軽さは、どこにもなかった。




