第十九話
三日前
「――で、なんで俺が、また先生役なわけ?」
駐屯地の訓練場で、ライは右手の包帯をひらひらと振りながら、心底面倒くさそうに言った。
「怪我人なんだけど、俺」
「左手は空いてるだろ」
ジークが、木剣を突きつけた。
「この前の稽古で言われたこと、ずっと考えてたんだよ。『最初の一撃が外れると、焦って全部同じ高さになる』って。……直したかどうか、確かめろ」
ぶっきらぼうな口調だった。けれど、その目は真剣だった。
「俺も頼む!『振る前に肩が下がる』ってやつ、一人じゃ直ってるかわかんねえんだよ」
レオンが大剣を担いで並ぶ。ノアが手帳を閉じて木剣を取り、セレナとアルマが顔を見合わせてから、そろって進み出た。
ライは、ずらりと並んだ顔を見回した。
そして、なぜか少しだけ、困ったように笑った。
「……しょうがないなあ。左手だけね」
その日の稽古は、前回とは違っていた。
ライは左手一本で、一人ずつの相手をした。打ち合いは短く、そのたびに一言、二言。
「レオンくん、肩、下がらなくなったね。でも今度は、下がらないように気をつけすぎて、剣が遅れてる。……わざと下げて見せるのも手だよ。来ると思わせて、来ない」
「ジークくん。高さ、ちゃんと散らせてる。あとは息。外れたら、一回吸って」
「ノアくんは、相手の癖を読むのが上手いんだから、自分の癖を消すより、相手に読ませたい癖を作ったほうが早いかもね」
一言ずつが、短く、的確だった。
セレナとアルマの番になったとき、ライは二人をしばらく黙って見ていた。
二人は、まだぎこちなかった。並んで構えてはいるものの、その間には、人ひとり分の隙間がある。
「……二人とも、相手のこと、見すぎ」
ライは、前回と同じことを言った。
「でも、前とは違う意味でね」
セレナが、びくりと肩を揺らした。アルマが、きょとんとする。
ライは、くすりと笑った。
「戦ってるときは、相手を見なくていいんだよ。自分の前だけ見てればいい。隣にいるのは知ってるでしょ? ずっと、隣にいたんだから」
二人は、顔を見合わせた。
それから、セレナがほんの少しだけ、アルマのほうに足をずらした。人ひとり分の隙間が、半分になった。
最後に、ライはフレンダの前に立った。
「フレンダは」
ライは、左手の木剣を、軽く構えた。
「懐に入ったあと、どうするか。考えてきた?」
「考えてきた」
フレンダは、低く構えた。
踏み込む。ライの剣の下へ。懐に入る。
ライの左手が、フレンダの手首を掴もうと伸びる。
――その前に。
フレンダは、柄頭を突き上げるふりをして、そのままライの脇をすり抜けた。背中側へ。掴もうとした手が、空を切る。
振り向いたライの喉元に、フレンダの木剣の切っ先が、ぴたりと止まっていた。
「入ったら、抜ける。抜けた先で、もう一回入る」
フレンダは、息を弾ませながら言った。
「捕まる前に、逃げ道を作っておく。……どう?」
ライは、喉元の切っ先を見下ろした。
それから、ゆっくりと、目を細めた。
「――うん。合格」
いつもの軽い声だった。けれど、その目は、どこか、ひどく嬉しそうに見えた。
壁際で、クライトが腕を組んでそれを見ていた。
稽古が終わってから、クライトは一人で、ライの前に立った。
「……俺にも、一言くれ」
ライは、少し驚いたように眉を上げた。
それから、クライトの顔をじっと見て、言った。
「クライトくんは、もう知ってるでしょ」
「……」
「この前、俺と打ち合ったとき。最後に、俺がどうやって君の剣を止めたか」
クライトの目が、わずかに見開かれた。
「あれ、俺が考えたんじゃないよ。教わったんだ」
ライは、にこりと笑った。
「君が一番よく知ってる人にね」
それだけ言って、ライはひらりと手を振って、訓練場を出ていった。
クライトは、その場に立ち尽くしていた。
自分の手のひらを見下ろす。
相手の剣に沿って、自分の剣を滑らせる。鍔元で、殺す。
幼い頃、一度だけ父と打ち合ったとき、最後に自分の剣を止めた、あの捌き。
◇
二日前
駐屯地の大広間に、騎士団の主だった者たちと、捜索隊の面々が集められた。
卓の上に、港町の大きな地図が広げられている。学生たちがこの数日で調べ上げた古井戸や排水口の位置が、赤い印で書き込まれていた。
騎士団長が、地図の前に立った。
「新月の夜、密輸船は港の東、第三倉庫に荷を降ろす。これは、捕らえた運び屋たちの証言が一致している」
騎士団長の指が、港の東の端を叩いた。
「本隊は、第三倉庫を包囲し、荷の受け渡しの瞬間を押さえる。同時に、広場と洗濯場の二つの井戸に人を置き、地下から逃れる者を塞ぐ。捜索隊の学生は、ガルドの指揮のもと、広場の井戸を守れ」
「地下には、入らないんですか」
セレナが、思わず問うた。
「殿下は、地下におられるかもしれないのに」
「地下の構造が、わからん」
騎士団長は、静かに答えた。
「井戸の底から、どこへ通じているのか。どれほどの広さがあるのか。闇雲に兵を入れれば、迷い、分断され、各個に討たれる。……だから、出口を塞ぐ。地上で、待つ」
大広間が、静まり返った。
理にかなっていた。誰も、反論できなかった。
そのとき。
「――入り口は、七つある」
低い声がした。
クライトだった。
全員の視線が、クライトに集まる。騎士団長の目が、ゆっくりと息子に向いた。
クライトは、卓に歩み寄った。そして、地図の上に、指を置いた。
「広場の井戸。洗濯場の井戸。旧市場の排水口。教会の地下墓所。魚市場の裏の涸れ水路」
指が、地図の上を滑っていく。学生たちがまだ印をつけていない場所にまで。
「港の大桟橋の下。……それから、岬の灯台の、真下」
指が、止まった。
「港の地下には、昔の密輸人たちが掘った迷路がある。百年以上前、この国にまだ王の目が届かなかった頃の道だ。入り口は七つ。中は網の目のように繋がっていて、すべての道は、最後には灯台の下の洞窟に出る。……そこから、船で海へ出られる」
大広間が、ざわめいた。
「クライト、お前、なんでそんなこと……」
レオンが、目を丸くする。
クライトは、答えなかった。ただ、まっすぐに、父を見ていた。
騎士団長は、息子を見つめていた。
長い沈黙のあと、その唇が、かすかに動いた。
「……覚えていたのか」
「一度だけ、聞いた」
クライトの声は、静かだった。
「十年前、父上が話してくれた。港の地下の、密輸人の迷路の話。……父上が俺に話してくれた仕事の話は、あれだけだったから」
騎士団長は、何も言わなかった。
けれど、その凍てついた藍色の瞳が、ほんの一瞬、揺れたのを、フレンダは見た。
「すべての道が灯台に通じているなら」
ノアが、眼鏡を押し上げて、地図に身を乗り出した。
「第三倉庫の取引そのものが、囮という可能性があります。騎士団が倉庫を囲んでいる間に、本命の荷も、殿下も、地下を通って灯台から海へ」
「……灯台にも、人を置く」
騎士団長が、即座に言った。
「本隊を分ける。第三倉庫と、灯台。……クライト」
「はい」
「七つの入り口を、すべて地図に書き込め。お前の記憶にある限り、中の道もだ」
「はい」
クライトが、ペンを取った。
その背中を、騎士団長は黙って見ていた。
会議が終わり、人々が大広間を出ていく中で、騎士団長はひとり、地図の前に残っていた。
クライトが書き込んだ、七つの入り口と、網の目のような道。
騎士団長は、それを、長い間、見つめていた。
◇
前日
新月の前夜は、風のない、静かな夜だった。
細い、細い月が、西の空に沈もうとしていた。明日の夜には、それも消える。
夕食のあと、フレンダは宿の屋根の上にいた。
ひとりではなかった。
隣に、クライトがいた。
「……屋根に上るのは、ひとりで出歩くことに入りますか?」
「俺がいる」
「ふふ、ですよね」
フレンダは、膝を抱えて静かに笑った。
眼下に、港町の灯りが広がっている。騎士団の松明が、港の東の倉庫街と、岬の灯台に向かって、点々と続いていた。
明日の夜。
ゲームの記憶は、もうほとんど役に立たなかった。アルマは生きている。灰色の男は、廃墟に現れなかった。ライという、ゲームにいない人間がいる。騎士団長が、ゲームより早く港に来ている。
この先に何が待っているのか、フレンダにはもう、わからなかった。
「怖いか」
クライトが、静かに聞いた。
「……怖いです」
フレンダは、正直に答えた。
「でも、前とは違う怖さです。前は、ひとりで全部背負わなきゃって思ってた。でも今は……みんながいるから。先輩がいるから」
「……そうか」
クライトは、夜の海を見ていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「全部、終わったら」
「はい」
「髪飾りを、つけているところが、見たい」
フレンダは、息を呑んだ。
防波堤の夕焼け。藍色の硝子玉が二つ並んだ髪飾り。剣を持たなくていい日が来たら、そのときにつければいい。
「……はい」
声が、少しだけ震えた。
「絶対、つけます。一番に、先輩に見せます」
クライトの口元が、ほんのわずかに、緩んだ。
ふと、フレンダは眼下に目をやった。
宿の裏手の小さな浜辺に、二つの影があった。
金色の髪と、茶色の髪。
セレナとアルマだった。
◇
二人は、波打ち際に並んで立っていた。
人ひとり分の隙間は、もうなかった。けれど、触れ合ってもいなかった。半歩分の、もどかしい距離。
「……セレナ」
アルマが、口を開いた。
屋根の上までは、声は届かない。けれど、フレンダには、二人の唇の動きが見えた気がした。
いや、見えなくても、わかった。何度も、何度も、画面越しに見てきた二人だから。
アルマが、セレナのほうを向いた。
セレナが、びくりと肩を揺らして、それでも、アルマのほうを向いた。
アルマの唇が、開く。
――あの夕暮れと同じように。言いかけて、閉じる。
(ああ、また……)
フレンダが、拳を握りしめた、そのとき。
アルマは、もう一度、唇を開いた。
今度は、閉じなかった。
何を言ったのかは、わからなかった。
けれど、セレナが、目を見開いた。それから、両手で口元を覆って、こくこくと、何度も頷いた。
アルマが、笑った。
困ったような、照れくさそうな、それでいて、どこか晴れやかな顔で。
「……何を言ったと思う」
クライトが、静かに聞いた。
フレンダは、目元を拭った。
「たぶん……全部終わったら、言いたいことがある、って」
告白ではない。まだ、言えていない。
でも、あのスチルでは、アルマはそれすら言えなかった。言いかけて、飲み込んで、笑って、そして――。
(言えた。言えたんだよ、アルマ)
「明日が、終わったら」
フレンダは、涙声で呟いた。
「絶対に、言わせてあげなきゃ」
隣で、クライトが、そっとフレンダの頭を撫でた。ツインテールの分け目を崩さないように、やさしく。
◇
その夜、ライは宿に戻らなかった。
気づいたのは、夜半を過ぎて、ガルドが最後の見回りをしたときだった。
ライの部屋の扉が、薄く開いていた。中は、空っぽだった。寝台は乱れておらず、外套も剣も、なくなっていた。
「……あいつ」
翌朝、集まった面々の前で、ガルドは、自分の部屋から持ってきた小箱を開けた。
ライが、食堂で「証拠品」として預けていった、甘い葉の包みが入っているはずの小箱。
しかし中には何も入っていない。
「いつの間に……」
レオンが、呆然と呟く。
「やっぱりな」
ジークが、壁を拳で殴りつけた。
「あいつは、最初から向こう側だったんだ。新月の前の夜に消えるなんて、それ以外に何がある」
誰も、言い返せなかった。
セレナが不安そうにアルマの袖を掴み、ノアが黙って眼鏡を押し上げ、ガルドが深い深い溜め息をついた。
フレンダは、空っぽの部屋の入り口に立っていた。
寝台の上に、何も残っていなかった。手紙も、書き置きも。
ただ、窓辺の小卓に、ひとつだけ。
小さな、赤いものが置いてあった。
フレンダは、部屋に入って、それを手に取った。
シーグラスだった。
浜辺でもらったものと、よく似た、深い赤色の硝子のかけら。
けれど、それよりもずっと小さく、ずっと古びていた。角は丸く磨り減り、表面は白く曇っている。何年も、何年も、誰かの手の中にあったような。
(……私のじゃ、ない)
フレンダは、外套のポケットに手を入れた。浜辺でもらったシーグラスは、ちゃんとそこにあった。
なら、これは。
誰のものなのか。なぜ、ここに置いていったのか。
置き忘れたのか。それとも。
「フレンダ」
クライトが、背後に立っていた。
フレンダは、手のひらの古いシーグラスを、クライトに見せた。
クライトは、しばらくそれを見つめていた。それから、静かに言った。
「……持っていけ」
「え?」
「あいつが何者か、すべてが終わればわかる。そのとき、返せばいい」
フレンダは、古いシーグラスを、そっと握りしめた。
冷たかった。
握っているうちに、少しずつ、手のひらの熱を吸っていった。




