第十八話
深夜。
宿の一室で、ライは飛び起きた。
額に、首筋に、冷たい汗がびっしりと浮いている。寝間着が、背中に張りついていた。心臓が、肋骨を内側から叩くように鳴っている。
息を荒くさせたまま、ライはしばらく動けなかった。
また、あの夢だった。
十年経っても、何度見ても、慣れることのない夢。
◇
――お兄ちゃん。
小さな手が、袖を引いた。
十年前の、港町の外れ。海の見える、小さな家。
妹のルゥは、生まれつき体が弱かった。少し風が冷たくなると熱を出し、少し走ると息を切らした。
両親を早くに亡くしてから、ライは港で荷運びをして、ルゥを養っていた。
ルゥは、黒い髪を二つに結っていた。ライが市場で買ってきた、赤いリボンで。
赤い瞳をしていた。光の加減で、浜辺のシーグラスのように透き通る瞳。
『見て、お兄ちゃん。今日のは、すっごく赤いの』
調子のいい日には、二人で浜辺を歩いた。
ルゥは波打ち際にしゃがみこんで、角の取れた硝子のかけらを拾い集めた。赤いのを見つけると、目を輝かせて、ライに見せにきた。
『わたしの目と、おんなじ色』
そう言って、笑った。
町には、優しい先生がいた。
穏やかな声と、温かい手をした医師だった。
貧しい家の子どもも分け隔てなく診てくれて、薬代が払えないと言うと、「出世払いでいいよ」と笑ってくれた。
ライは、その先生を、心から信じていた。
『この薬を、毎晩、少しずつ飲ませてあげなさい。きっと良くなるよ』
先生が渡してくれたのは、甘い香りのする、乾いた葉だった。湯に浸して、その湯を飲ませる。薬は、いつも灰色の髪の若い男が、家まで届けてくれた。
ルゥは、最初、本当に良くなった。
頬に赤みが差し、咳が止まり、夜もぐっすり眠れるようになった。ライは嬉しくて、先生に何度も頭を下げた。
――それが、少しずつ、変わっていった。
薬が切れると、ルゥの手が震えるようになった。
眠れなくなった。泣くようになった。ライの袖を掴んで、何度も何度も、同じ言葉を繰り返すようになった。
『お兄ちゃん、お薬、ちょうだい』
『お兄ちゃん、お願い。お薬』
ルゥは、少しずつ、ルゥではなくなっていった。
大事にしていたシーグラスの小瓶を、ある日、窓から投げ捨てた。
ライが慌てて拾い集めてくると、それが何なのか思い出せないような顔で、ぼんやりと眺めていた。
夜中に、ひとりで笑っていることがあった。壁の一点を見つめたまま、くすくすと、楽しそうに。ライが名前を呼んでも、振り向かなかった。
かと思えば、急に泣き出して、ライの腕にしがみついて離れなかった。
『お兄ちゃん、こわい。へやのすみに、だれかいるの』
ルゥが指さした先には、誰もいなかった。
薬の湯を飲ませると、ルゥは嘘のように静かになった。とろんとした目で、ライに笑いかけた。
『お兄ちゃん、だいすき』
その笑顔が、ライには、どうしても以前の笑顔と同じに見えなかった。
◇
ライは、先生の診療所を訪ねた。
港を見下ろす坂の途中にある、白い壁の小さな家。いつも薬草の匂いがして、窓辺には季節の花が飾られていた。
「先生。ルゥの様子が、おかしいんです」
息を切らして飛び込んだライを、先生はいつもの穏やかな笑顔で迎えた。
「落ち着いて。座りなさい。……さあ、ゆっくり話してごらん」
ライは、すべてを話した。
薬が切れると手が震えること。眠れなくなること。シーグラスを捨てたこと。誰もいない部屋の隅を怖がること。夜中にひとりで笑っていること。
先生は、黙って聞いていた。
そして、話の途中で、机の引き出しから一冊の帳面を取り出した。
「震えは、薬が切れてからどれくらいで始まる?」
「え……」
「時間だよ。半刻か、一刻か。正確に思い出してごらん」
「た、たぶん、一刻くらい……」
先生のペンが、さらさらと帳面の上を走った。
「震えは手だけかな。足は? 唇は?」
「……唇も、少し」
「部屋の隅にいる誰か、というのは、どんな姿だと言っている? 男か、女か。大人か、子どもか」
「そ、そこまでは」
「次は聞いておいてくれるかな。大事なことだから」
さらさら、さらさら。
「夜中に笑っているのは、薬を飲ませてからどれくらい経った頃? 笑い声の長さは? 名前を呼んで、反応するまでにどれくらいかかる?」
「先生……」
「瞳はどうかな。黒目が大きくなっていないか。光を当てたとき、すぐに縮むか、それとも遅れるか」
「先生!」
ライは、思わず声を荒らげていた。
先生のペンが、止まった。
「ルゥは……ルゥは、本当に良くなるんですか」
声が、震えた。
「最初は、良くなったんです。咳も止まって、よく眠れて。でも、今は……今のルゥは、俺の知ってるルゥじゃない。あの薬を飲ませると静かになるけど、その顔が、なんだか……」
うまく、言葉にできなかった。
「……他に、薬はないんですか。もっと別の、あの子の体に合う薬は」
先生は、帳面からゆっくりと顔を上げた。
そして、微笑んだ。
いつもの、穏やかで優しい笑顔だった。
けれど、その目が。
心配そうに眉を寄せるでもなく。困ったように目を伏せるでもなく。
まるで、興味深い何かを見つけたかのように、静かに輝いていた。
「大丈夫だよ、――。順調だ」
「……順調?」
「体が薬に慣れてきている証拠だよ。今が、一番大事な時期なんだ」
先生は、帳面を閉じた。
「量を、少し増やしてみよう。夜の分を、今の倍に。そうすれば、震えも、怖い夢も、きっと治まる」
「倍……」
「それから、ひとつお願いがある。ルゥが飲んだ時刻と量、そのあとの様子を、毎日書き留めておいてくれないかな。眠った時間、起きた時間、笑った回数、泣いた回数。どんな小さなことでもいい」
先生は、白い紙の束を、ライの手に握らせた。
「次に来るときに、持ってきてね。……他の薬は、ないよ。あの子を救えるのは、この薬だけだ」
その手は、いつもと同じように、温かかった。
ライは、紙の束を握りしめたまま、診療所を出た。
坂を下りながら、一度だけ振り返った。
白い壁の家の窓辺で、先生が帳面を開いていた。ペンを走らせながら、楽しそうに、口元をほころばせていた。
背筋を、冷たいものが撫でた。
けれど、ライはそれを、振り払った。
先生が、大丈夫だと言ったのだ。あんなに優しい人が。貧しい自分たちを、ずっと診てくれた人が。
疑うなんて、できなかった。
疑ってしまったら、もう、ルゥを救える人は、どこにもいなくなってしまうから。
ライは、薬を渡した。
だって、先生が、それで良くなると言ったから。
だって、薬を飲ませると、ルゥはまた笑ってくれたから。
渡して、渡して、渡し続けて。
ルゥは、日に日に痩せていった。シーグラスを拾いに浜辺へ行くこともなくなった。赤いリボンで髪を結う力も、なくなった。
そして、ある冬の朝。
ルゥは、もう目を覚まさなかった。
枕元には、ライが渡した薬の湯の、空になった椀があった。
◇
騎士団の男たちが小さな家に踏み込んできたのは、その三日後だった。
町に出回っている甘い葉を追っていた騎士たちだった。その先頭にいた、藍色の髪の若い騎士が、空っぽの家の中で膝を抱えていたライを見つけた。
先生は、もう町から消えていた。灰色の髪の男も、一緒に。
『……すまない』
藍色の髪の騎士は、ライの前に膝をついて、そう言った。
『間に合わなかった』
ライは、何も答えなかった。
答えられなかった。
だって、間に合わなかったのは、騎士だけじゃない。
俺は、違和感に気付いていたんだ。なのに、気付かないふりをして、先生の言うことをただただ信じてしまった。
ルゥに、あの薬を飲ませ続けたのは。
毎晩、毎晩、自分の手で、あの椀を差し出していたのは。
ルゥを殺したのは。
――俺だ。
◇
ライは、目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。
右手が、じくじくと痛んだ。夕方、刃を掴んで裂けた手のひら。医務室で縫ってもらい、きれいに包帯が巻き直されている。
その前に、誰かが巻いてくれた、ひどく下手な包帯のことを思い出した。
外套の裾を引き裂いて、ぐるぐると、何重にも。
ライは、寝台を降りた。
枕元の小卓に、色褪せた赤いリボンが置いてあった。外套の内ポケットに、いつも入れているもの。
それを、指先でそっと撫でる。
初めてあの子の存在を知ったのは、港の検問所の報告書に添えられた、捜索隊の名簿でだった。黒髪を二つに結った、小柄な騎士科の一年生。赤い瞳。
息が、止まるかと思った。
月夜の広場で、実際に顔を見たとき。井戸の縁に腰掛けて、月を見上げていた横顔を見たとき。
――ルゥ、と。
危うく、呼びかけるところだった。
だから、構った。気になって、目が離せなくて、気づけば名前を呼んでいた。
浜辺で、ルゥが一番好きだった色のシーグラスを拾って渡した。
曲芸団の天幕を下見する日に、わざわざ連れて行った。ルゥが一度も見ることのできなかった、空中ブランコを見せたくて。
――でも。
ライは、包帯の巻かれた右手を見下ろした。
『私は、その誰かの代わりじゃない』
まっすぐに睨み上げてきた、赤い瞳。
『守られるだけなんて、嫌』
ルゥは、そんなことを言わなかった。
ルゥは、いつも誰かを信じていた。先生を信じて、兄を信じて、渡された薬を、疑いもせずに飲み続けた。
あの子は、違う。
名前を呼ばれた夜、すぐに足の位置を変えて、身構えた。
正体のわからない男と出かけながら、ずっと剣の位置を確かめていた。「警戒してる」と、真正面から言い放った。
疑う。ちゃんと、疑う。
それでいて、助けてくれてありがとうと、まっすぐに目を見て言う。血まみれの手を、両手で掴んで、隣で戦わせてと言う。
疑いながら、それでも、人を信じようとする。
「……全然、似てないよ」
ライは、小さく呟いた。
誰にも聞かれない声で。
ルゥは、ルゥだった。あの子は、あの子だ。
そんな当たり前のことに気づくまでに、ずいぶんかかってしまった。
ライは、赤いリボンを外套の内ポケットに戻した。
それから、壁に立てかけてあった剣を手に取った。
窓の外は、まだ暗い。夜明けまで、あと一刻ほど。
ライは、音もなく部屋を出た。
宿の裏庭の、誰も来ない片隅。そこで、剣を振る。
一振り。二振り。三振り。
縫ったばかりの右手が痛んだ。それでも、振る。
十年間、毎晩そうしてきた。夢を見た夜も、見なかった夜も。
強くなれば、もう誰も失わなくて済むと思ったから。
大切なものを、もう二度と作らなければ、もう二度と失わなくて済むと思ったから。
だから、誰にでも笑った。誰にでも軽口を叩いた。誰の懐にも入らず、誰も自分の懐に入れなかった。
――なのに。
一振りごとに、あの下手な包帯の感触がよみがえる。
ライは、剣を止めた。
白み始めた空を見上げて、小さく、笑った。
今度は、誰にも見せない笑い方で。
「……困ったなあ」
◇
翌朝。
フレンダが食堂に下りると、ライはいつもの窓際の席にいた。右手には、真新しい包帯が巻かれている。
「おはよう、フレンダ」
「……おはよう。手、大丈夫?」
「おかげさまで。誰かさんの包帯のおかげで、医者に笑われたけどね」
「なっ……!」
フレンダが顔を赤くすると、ライは楽しそうに笑った。
いつもの、ライだった。
けれど、その日の検問で、フレンダが荷の陰から飛び出してきた男を取り押さえたとき。
ライは、すぐ隣にいた。
前ではなく。後ろでもなく。
フレンダの、隣に。
男の刃をフレンダが受け、ライがその手首を打つ。崩れた男の懐に、フレンダが潜り込む。
息が、合っていた。
「――やるじゃん」
男を縛り上げながら、ライが言った。
軽い口調だった。けれど、その目は、まっすぐにフレンダを見ていた。
守るべき誰かの代わりとしてではなく。
ひとりの騎士として。
「……当然でしょ」
フレンダは、胸を張った。
少し離れた場所から、クライトがこちらを見ていた。その目は、ライに向けられていた。
昨日までとは、ほんの少しだけ違う目で。
新月まで、あと三日。




