第十七話
新月まで、あと四日。
騎士団の本隊が港町に入ると、町の空気は一変した。通りという通りに騎士の姿があり、港には臨時の詰所が設けられ、夜になっても松明の灯りが途切れることはなかった。
捜索隊の学生たちに与えられたのは、後方の仕事だった。
町中の古井戸や排水口を一つずつ調べて、地図に書き込んでいく。広場で見つかった枯れ井戸のように、地下へ通じている場所がほかにもないか。騎士団の本隊が新月の夜に動くための、下調べだった。
「地味だなあ……」
レオンが、十三個目の井戸を覗き込みながらぼやいた。
「でも、大事な仕事です」
ノアが、地図に小さな印をつける。
「地下の通路がどこまで広がっているかわからない以上、出入り口を一つでも多く押さえておかないと。新月の夜に、敵がどこから逃げるかわかりませんから」
「わかってるって。わかってるけどさあ」
レオンが大きく伸びをする。ジークは黙々と次の井戸の蓋を外していた。
フレンダは、少し離れたところで、セレナとアルマの様子を見ていた。
二人は、同じ井戸を調べていた。けれど、その間には、人ひとり分の隙間が空いていた。
「セレナ、そっちの縄、持とうか」
「う、ううん! 大丈夫! ひとりで持てるから!」
セレナは、アルマの手が届く前に、慌てて縄を抱え込んだ。アルマの手が、宙で止まる。
「……そっか」
アルマは、困ったように笑って、手を引っ込めた。
フレンダの胸が、きゅっと痛んだ。
ここ数日、ずっとこうだった。セレナはアルマを避けている。
正確には、避けているつもりはないのだろう。ただ、近くにいると、どうしていいかわからなくなるのだ。
手が触れると跳び上がり、目が合うと逸らし、名前を呼ばれると声が裏返る。
恋バナの夜、アルマに彼女ができたらと想像して、セレナは何かに気づいてしまった。
そして、気づいてしまった自分を、まだ持て余している。
(わかるよ、セレナ……)
フレンダには、痛いほどわかった。自分も、クライトの前で同じことをしているのだから。
昼の休憩のとき、アルマがフレンダの隣に腰を下ろした。
「……フレンダ」
「なに?」
「僕、セレナに何かしたかな」
アルマは、膝の上で組んだ自分の手を見つめていた。
「最近、セレナが僕を避けてる気がするんだ。話しかけても、すぐどこかに行っちゃうし。……何か怒らせるようなこと、したのかなって」
フレンダは、言葉に詰まった。
違う、と言いたかった。セレナはアルマのことを意識しているだけなんだよ、と。好きになりかけてるんだよ、と。
でも、それはフレンダが言っていいことではなかった。セレナの気持ちは、セレナが自分で伝えるものだ。
「……アルマは、何もしてないよ」
「でも」
「セレナ、今ちょっと、自分の気持ちを整理してるところなんだと思う。だから、待っててあげて」
アルマは、少し驚いたようにフレンダを見た。
「……気持ち?」
「うん。大丈夫。アルマが嫌われるなんて、絶対にないから」
アルマは、しばらくフレンダの顔を見つめていた。それから、ふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。
「フレンダがそう言うなら、信じるよ」
(この子は、本当に……)
フレンダは、心の中でそっと手を合わせた。
(早く。早く、くっついて。お願いだから)
◇
事件が起きたのは、その日の夕暮れだった。
町の東の外れ。倉庫街のさらに奥に、もう使われていない古い洗濯場があった。石造りの水槽がいくつも並び、その奥に、大きな井戸がひとつ。
その日、その井戸を調べる当番は、フレンダとライだった。
ガルドがその組み合わせを告げたとき、クライトは何か言いたげな顔をした。けれど、騎士団長の命令で、クライトは本隊の会議に呼ばれていた。
結局、何も言わずに、フレンダの肩に一度だけ手を置いて、駐屯地へ向かっていった。
『何かあったら、すぐ呼べ』
その手の重みを思い出しながら、フレンダは井戸の縁にしゃがみこんでいた。
「どう? 何か見える?」
背後から、ライの声がした。
「……風が、来てる。広場の井戸と、同じ」
「へえ。じゃあ、繋がってるかもね」
ライは、洗濯場の入り口の柱にもたれて、のんびりと夕陽を眺めていた。
あの夜から、フレンダはライとまともに話していなかった。
殺すつもり。十年前。似てない。
聞いてしまった言葉が、ずっと頭の中で渦を巻いている。
ライも、それをわかっているはずだった。それでも、ライはいつも通りだった。いつも通りに笑って、いつも通りに軽口を叩く。
それが、余計にわからなかった。
フレンダは、井戸の縁に縄を結びつけ、地図に印をつけた。
「終わった。戻ろう」
立ち上がった、そのとき。
ライの気配が、変わった。
柱にもたれていた体が、音もなく離れる。のんびりと夕陽を見ていた目が、一瞬で、洗濯場の奥の暗がりへ向いた。
「――フレンダ。動かないで」
低い声だった。
いつもの軽さが、どこにもなかった。
次の瞬間、水槽の陰から、影が三つ、飛び出してきた。
顔を布で覆った男たち。手には、反りの入った短い刃。
(敵――!)
フレンダは、剣を抜いた。
今度は、間に合った。倉庫街で襲われたときとは違う。毎晩、抜く練習をしてきたのだ。鞘から刃が滑り出る感触を、手が覚えている。
先頭の男が、フレンダに向かって刃を振りかぶった。
(下から入る――)
踏み込もうとした、その瞬間。
腕を、強く引かれた。
「っ!?」
体が、後ろへ引き戻される。目の前に、白い髪の背中が立ちはだかった。
ライだった。
ライは、フレンダを自分の背中の後ろに押しやったまま、振り下ろされた男の刃を素手で掴んだ。
掴んだのだ。刃を。
男が目を見開く。ライは、刃を掴んだ手首をひねり、男の腕ごとねじり上げた。骨の軋む音がして、男が悲鳴を上げる。
二人目が、横から斬りかかる。
ライは振り向きもせずに、それを蹴り飛ばした。男の体が、石の水槽に叩きつけられる。
三人目。
フレンダは、ライの背中の陰から飛び出そうとした。
「下がって」
ライの腕が、再びフレンダを押し戻した。
「ライ、私も――」
「いいから、下がって」
有無を言わせない声だった。
ライは三人目の刃を剣で受け、弾き、その喉元に切っ先を突きつけた。男が、刃を取り落とす。
ほんの、数呼吸の出来事だった。
三人の男たちは、石畳の上に転がっていた。ひとりは腕を押さえて呻き、ひとりは水槽の陰で気を失い、ひとりは喉元に剣を突きつけられたまま、震えている。
ライは、その男を見下ろしていた。
フレンダは、ライの横顔を見て、息を呑んだ。
灰とも紫ともつかない瞳が、凍りつくほど冷たく、男を見下ろしていた。
剣の切っ先が、男の喉の皮膚に、ほんのわずかに食い込んでいる。赤い雫が、一筋、首を伝った。
このままでは。
「――ライ!」
フレンダは、ライの腕を掴んだ。
ライの肩が、びくりと揺れた。
ゆっくりと、こちらを振り向く。
その目が、フレンダを映した瞬間、ほんの一瞬だけ、焦点が合わなかった。まるで、フレンダを通り越して、別の誰かを見ているような目。
それから、ふっと、いつもの色に戻った。
「……ああ。大丈夫だよ」
ライは剣を引き、男の手首を縄で縛り上げた。手際よく、残りの二人も。
そして、ライの右手から、血が滴っていることに、フレンダは気づいた。
刃を、素手で掴んだ手だった。手のひらが、ぱっくりと裂けていた。
「ライ、手……!」
「ん? ああ、平気平気。これくらい」
ライは、血まみれの手をひらひらと振ってみせた。
フレンダの中で、何かが、ぷつりと切れた。
「――平気じゃない!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
ライが、目を丸くした。
「なんで、そんなことしたの!私、剣抜けてた!ちゃんと構えてた!あの男の懐に入れた!なのに、なんで私を後ろに押しやって、自分が刃を掴むの!」
「フレンダ、落ち着いて」
「落ち着かない!」
フレンダは、ライの前に立ちはだかった。
赤い瞳で、まっすぐに、灰とも紫ともつかない瞳を睨み上げた。
「この前の夜、聞いちゃった。ライと騎士団長の話」
ライの表情が、わずかに固まった。
「似てないって、言ってたよね。最初は似てると思ったけど、全然似てなかったって」
「……」
「誰に似てると思ってたのか、知らない。聞かない。でも」
フレンダは、ライの血まみれの手を、両手で掴んだ。
「私は、その誰かの代わりじゃない」
ライの指先が、かすかに震えた。
「守られるだけなんて、嫌。ライの背中に隠れて、ライが傷つくのを見てるだけなんて、絶対に嫌」
声が、震えた。それでも、目は逸らさなかった。
「私も騎士なの。まだ見習いだけど、それでも騎士なの。……だから、隣で戦わせて」
夕陽が、洗濯場の石畳を、茜色に染めていた。
ライは、何も言わなかった。
ただ、フレンダを見下ろしていた。その目が、ゆっくりと見開かれていく。まるで、初めて見るものを見るように。
長い、沈黙だった。
やがて、ライは、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
いつもの軽い声では、なかった。
「そうだね。……ごめん」
その一言は、驚くほど静かで、驚くほど素直だった。
フレンダは、ライの手を握ったまま、自分の外套の裾を引き裂いた。そして、裂けた手のひらに、ぐるぐると巻きつけていく。
「……下手だね、包帯巻くの」
「うるさい。医務室に着くまで我慢して」
「はいはい」
ライは、笑った。
けれど、その笑みは、いつもの余裕の笑みとは、どこか違って見えた。




