第十六話
朝の光の下、九人は、広場の北の端にある古い井戸を取り囲んでいた。昨夜、ライが片手でどけた重石が、何事もなかったかのように蓋の上に載っている。
「……こいつが、昨夜の井戸か」
ジークが、腕を組んだまま、少し離れて立つライを睨みつけた。
「そんなに睨まなくても、逃げないよ」ライは、いつものようににこにこと笑っていた。
「――ガルドさん。ここを」
ノアの声がした。
ガルドたちが、井戸の縁に駆け寄る。
ノアは、井戸の縁にしゃがみこんでいた。
「見てください。蓋と縁の間。石が擦れた跡が、新しい」
ガルドが身を屈める。確かに、苔むした井戸の縁石に、白く削れた筋が何本も走っていた。
「昨夜の一回だけじゃない。……何度も、だな」
「枯れ井戸の蓋を、何度も」
ガルドの目が、ゆっくりとライに向いた。
「ライ。お前が動かしたのは、何度だ」
「昨夜の一回だけだよ」
ライは、肩をすくめた。
「それより前の跡は、俺じゃない。……信じるかどうかは、ガルドさんに任せるけど」
「信じられるかよ」
ジークが、吐き捨てるように言った。ライは、それにも笑って答えただけだった。
ノアが、眼鏡を押し上げた。
「中を見ましょう」
レオンとジークが二人がかりで、ようやく石をどけた。
昨夜、ライはこれを片手で持ち上げたのだ。フレンダが思わず振り向くと、ライは何食わぬ顔で空を見上げていた。
蓋を外すと、ひやりとした空気が、井戸の底から吹き上がってきた。
覗き込む。
暗い。底は見えない。けれど、ガルドが小石を落とすと、ずいぶん経ってから、かつん、と乾いた音が返ってきた。
「水はない。……風が、吹き上がってくるな」
ガルドが、眉を寄せた。
「ただの井戸なら、下から風は来ない。どこかに、繋がってる」
クライトが、井戸の縁に手をついた。
唇に指を当てて、低く、短く、二度。昨夜ライがしたのと同じように、口笛を吹いた。
全員が、息を殺した。
音は、井戸の底へ吸い込まれていった。
――返事は、なかった。
いくら待っても、闇の底は、しんと静まり返ったままだった。
「ほらね。こだまだったでしょ」
ライが、のんびりと言った。
クライトは、井戸の底を見下ろしたまま、振り向かなかった。
「……昨夜は、返ってきた」
低い声だった。
「誰かが、いた。昨夜は、ここに」
ライは、何も答えなかった。ただ、にこにこと笑ったまま、井戸の暗がりを眺めていた。
フレンダは、息を呑んだ。
(港の、地下)
ゲームのクライトルートの記憶が、胸の奥でざわめいた。
井戸の底は、ただの闇だった。縄も梯子も、何もない。降りるには、それなりの準備がいる。
「一度、宿に戻って装備を整える。……縄と、灯りと、人手が要る」
ガルドがそう言いかけた、そのとき。
広場の向こうから、蹄の音が響いてきた。
◇
十数騎の騎馬隊だった。
王国騎士団の紋章を染め抜いた旗が、潮風にはためいている。先頭を行く黒馬の上に、ひとりの男がいた。
藍色の髪に、白いものが幾筋か混じっている。鋭く削いだような頬に、左のこめかみから顎にかけて走る古い傷。背筋はまっすぐに伸び、馬上にあってなお、微動だにしない。
そして、その瞳は。
フレンダは、思わず隣を見た。
クライトと、同じ色をしていた。
凍てついた冬の海のような、藍色の瞳。
「……騎士団長」
ガルドが、片膝をついた。駐屯地の騎士たちが、次々とそれに倣う。捜索隊の学生たちも、慌てて頭を下げた。
騎士団長は、馬から降りた。
大柄な人だった。クライトよりもさらに一回り大きい。けれど、その動きには音がなかった。
「ガルド・ベルトラン」
低い、よく通る声だった。
「状況は、報告書で読んでいる。ご苦労だった」
「はっ」
「次の新月は、五日後だ」
騎士団長は、広場をぐるりと見渡した。
「密輸の大口の荷が入るとされる夜。それに合わせて、王都から騎士団の本隊が到着する。作戦の指揮は、私が執る」
そして、学生たちに目を向けた。
一人ずつ、顔を確かめるように。セレナ、アルマ、レオン、ジーク、ノア、フレンダ。
最後に、クライトで、その視線が止まった。
父と子が、向かい合った。
クライトの表情は、変わらなかった。騎士団長の表情も、変わらなかった。同じ藍色の瞳が、同じ無表情で、互いを見つめている。
それだけで、広場の空気が、きりきりと張り詰めていくのがわかった。
「学生たちは、ここまでだ」
騎士団長が、静かに告げた。
「新月作戦は、騎士団のみで行う。捜索隊の学生は、明後日の朝、王都へ帰還せよ」
「え……!」
セレナが、思わず声を漏らした。
「待ってください! 私たち、殿下の手がかりを、やっと――」
「だからこそだ」
騎士団長の声は、少しも揺らがなかった。
「ここから先は、学生の手に負える場所ではない。お前たちは十分に働いた。あとは、我々の仕事だ」
レオンが拳を握りしめ、ジークが歯噛みする。ノアは黙って俯き、アルマはセレナの肩にそっと手を置いた。
フレンダは、唇を噛んでいた。
(ゲーム通りだ)
クライトルートの、この場面。騎士団長が来て、学生の撤収を命じる。
そして、次の言葉も、フレンダは知っていた。
「クライト」
騎士団長が、息子の名を呼んだ。
「お前は残れ。私の隊に入れ」
広場が、静まり返った。
学生たちの視線が、一斉にクライトに集まる。
クライトは、父を見ていた。
ゲームでは、ここで――。
(ここで、セレナが前に出るんだ)
仲間を置いてはいけないと、クライトの代わりに騎士団長に食ってかかる。その姿に、クライトは初めて心を揺らす。クライトルートの、一番の名場面。
でも、今、セレナは呆然と立ち尽くしている。アルマの隣で。
なら。
フレンダは、一歩、踏み出しかけた。
その腕を、大きな手が、そっと押さえた。
クライトだった。
父を見たまま、フレンダのほうを見もせずに。ただ、手のひらで、フレンダの腕をそっと押し留めていた。
「――俺が言う」
低い、静かな声だった。
クライトは、一歩、前に出た。
「断る」
広場の空気が、凍りついた。
騎士団長の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……何と言った」
「断ると言った」
クライトの声は、震えていなかった。
「俺は、この捜索隊のメンバーだ。仲間を置いて、自分だけ残ることはできない」
「仲間、か」
騎士団長の目が、細められた。
「騎士に情は要らない。そう教えたはずだ」
「聞いた。何度も」
クライトは、まっすぐに父を見返していた。
「だが、俺はここで、それが間違いだと知った」
フレンダは、息を呑んだ。
「廃墟で、俺たちは誰ひとり欠けなかった。互いの背中を守り合ったからだ。一人では、守れなかった。……情がなければ、守れないものがある」
クライトの拳が、外套の陰で、ぎゅっと握られた。
「残れと言うなら、全員を残せ。殿下を見つけたのは、こいつらだ」
長い、沈黙が落ちた。
潮風が、広場を吹き抜けていく。騎士団の旗が、ばたばたと音を立てる。
騎士団長は、息子を見つめていた。
その凍てついた藍色の瞳の奥で、何かが、ほんのかすかに揺れたように見えた。
やがて、騎士団長は、静かに口を開いた。
「……感情が顔に出ているぞ、クライト」
「出している」
クライトは、言った。
「出したいと、思った」
騎士団長は、何も言わなかった。
ただ、長い間、息子の顔を見ていた。
それから、ふいに背を向けた。
「――学生の帰還は、保留とする」
誰かが、小さく息を呑んだ。
「ただし、前線には出さん。後方の支援に回れ。私の命令に背いた者は、即刻王都へ送り返す。……以上だ」
騎士団長は、それきり振り返らずに、黒馬の手綱を取った。
学生たちは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
最初に声を上げたのは、レオンだった。
「……やった。やったぞ、クライト!」
レオンがクライトの背中をばしばしと叩き、ジークが「……ふん、たまにはやるじゃねえか」とそっぽを向く。
セレナが泣きそうな顔で笑い、アルマとノアが顔を見合わせて頷き合った。
クライトは、黙って父の背中を見送っていた。
フレンダは、その横顔を見上げた。
無表情だった。けれど、外套の陰で握られた拳が、かすかに震えていた。
(……ゲームと、違った)
セレナが前に出るはずだった場面。それを、クライトは自分で言った。誰かに背中を押されるのではなく、自分の足で、父の前に立った。
フレンダは、そっとクライトの袖を引いた。
クライトが、こちらを見下ろす。
「……かっこよかったです」
小さく言うと、クライトは一瞬、目を見開いた。
それから、ふいっと顔を背けた。その耳が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。
◇
その夜、フレンダは眠れなかった。
今度は、ひとりで外へ出たりはしない。クライトと約束したのだ。ひとりで夜中に出歩かない、と。
けれど、喉が渇いた。
フレンダはそっと部屋を出て、軋む階段を忍び足で下りた。一階の厨房で水を一杯もらって、すぐに戻るつもりだった。
厨房の手前の廊下に差しかかったとき、声が聞こえた。
廊下の奥。普段は使われていない、宿の小さな応接間。その扉が、ほんの指一本分だけ、開いていた。
細い灯りが、廊下の床に一筋、漏れている。
フレンダは、足を止めた。
「――まだ、あの男を殺すつもりか」
低い、よく通る声だった。
昼間、広場で聞いた声。
騎士団長だ。
フレンダは、反射的に壁に身を寄せた。心臓が、どくんと跳ねる。
誰と話しているのか。あの男とは、誰のことか。
答えた声に、フレンダは息を止めた。
「そうだよ、って言ったら、どうする?」
軽い声だった。
いつもと同じ、間延びした、柔らかい声。
ライだった。
「……十年前と、同じことを言わせるな」
騎士団長の声には、怒りも苛立ちもなかった。ただ、ひどく重たかった。
「団長こそ」
ライの声が、少しだけ笑った。
「十年前と、同じ顔してるよ」
沈黙が落ちた。
フレンダは、壁に背中を押しつけたまま、動けなかった。
(十年前……?)
ライと、騎士団長が。十年前から、知り合いだった?
殺すつもり。あの男を。
誰を?
「お前を、ここに寄越したのは」
騎士団長が、ゆっくりと言った。
「殿下をお救いするためだ。それを忘れるな」
「わかってるよ」
ライの声は、軽いままだった。
「殿下は、必ず助ける。それは約束する。……でも、それだけで終わらせるつもりがないのも、団長は最初からわかってたでしょ」
「……」
「わかってて、俺を寄越した。違う?」
騎士団長は、答えなかった。
長い沈黙のあと、その声が、ほんの少しだけ低くなった。
「……あの娘か」
フレンダの心臓が、止まりかけた。
「お前が、妙に構っているという」
「ガルドさん、報告書に余計なこと書くなあ」
ライが、くすりと笑った。
それから、少しだけ、間があった。
「……似てないよ」
ぽつりと、ライが言った。
「最初は、似てると思ったんだけどね。全然、似てなかった」
誰に、と。
その言葉は、続かなかった。
フレンダは、口元を両手で押さえていた。
(私の、こと……?)
似ている。誰に。似ていない。何が。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
そのとき。
みしり、と。
フレンダの足の下で、古い床板が、小さく鳴った。
応接間の声が、ぴたりと止んだ。
「――誰か、いる?」
ライの声だった。
軽い、柔らかい声。けれど、その一言だけで、廊下の空気が、すっと冷えた気がした。
フレンダは、息を殺して、後ずさった。
一歩。二歩。足音を立てないように、壁伝いに。階段の手前まで来たところで、身を翻して、駆け上がった。
部屋に飛び込み、扉を閉める。
背中を扉に押しつけて、ずるずると床に座りこんだ。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。
隣のベッドで、セレナが「……フレンダ……?」と寝ぼけた声を出した。
フレンダは「なんでもない、水飲んできただけ」と小さく答えて、毛布の中に潜りこんだ。
水は、結局、飲まなかった。
◇
翌朝。
食堂に下りると、ライはいつもの窓際の席で、のんびりと茶をすすっていた。
フレンダが席に着くと、ライはこちらを見て、にこりと笑った。
「おはよう、フレンダ」
「……おはよう」
「昨日は、よく眠れた?」
椀に伸ばしかけたフレンダの手が止まった。
ライは、相変わらずにこにこと笑っていた。灰とも紫ともつかない瞳が、まっすぐにフレンダを見ている。
知っているんだ。
この人は、昨夜、廊下にいたのが誰だったか、知っている。
「……うん。すごく」
フレンダは、精一杯の笑顔で答えた。
「そっか。よかった」
ライは、それ以上何も言わずに、また窓の外へ目を向けた。
◇
朝食のあと、フレンダはクライトを宿の裏手に呼び出した。
今度は、ひとりで抱えない。そう、約束したから。
昨夜聞いたことを、フレンダはすべて話した。
あの男を殺すつもりか、という騎士団長の言葉。そうだよって言ったらどうする、というライの答え。十年前。殿下を助ける約束。それだけで終わらせるつもりはない、という言葉。
そして、「あの娘」と「似てない」の部分は、少しだけ迷ってから、それも話した。
クライトは、黙って聞いていた。
話し終えると、クライトはしばらく、宿の壁を見つめていた。
「……十年前」
やがて、低く呟いた。
「父が、一度だけ、仕事の話をしたことがある」
「仕事の話?」
「父が任務から帰ってきた夜、珍しく酒を飲んでいた。そのとき、ぽつりと言った」
クライトの声が、少しだけ遠くなった。
「南の港で、守れなかった、と」
フレンダは、息を呑んだ。
「それ以上は、何も言わなかった。翌朝には、いつもの父に戻っていた。……俺も、それきり忘れていた」
クライトは、自分の手のひらを見下ろした。
「この港だ。十年前、父はここで、何かを守れなかった」
「……ライも、それに関わってる?」
「わからない」
クライトは、首を振った。
「だが、父はあいつを知っている。十年前から。そして、あいつが誰かを殺そうとしていることも、知っている。知っていて、ここに寄越した」
風が、二人の間を吹き抜けた。
「……クライト先輩」
「なんだ」
「ライは、敵だと思いますか」
クライトは、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、静かに言った。
「わからない。……だが、あいつの剣は、父の剣だった」
クライトは、フレンダを見下ろした。
「父が、自分の剣を、敵に教えるとは思えない」
それは、父を信じたいという言葉なのか。それとも、ライを信じたいという言葉なのか。
たぶん、クライト自身にも、わからないのだろう。
フレンダは、クライトの袖を、そっと握った。
新月まで、あと四日。
港の地下へ続くかもしれない枯れ井戸。十年前の、守れなかった何か。そして、誰かを殺そうとしている、白い髪の騎士。
すべてが、ひとつの夜に向かって、静かに転がり始めていた。




