第十五話
翌朝、フレンダは鏡の前で、ツインテールを三回結び直した。
「フレンダ、まだ?」
「も、もうちょっと! 左右の高さが揃わなくて!」
「いつもと同じに見えるけど……」
セレナが首を傾げる。フレンダは鏡の中の自分を睨みつけた。
(いつもと同じじゃだめなの!)
昨夜、気づいてしまった。自分が、クライトのことを好きだということに。
そうしたら、もう、何もかもが気になって仕方がなかった。
髪は乱れていないか。顔はむくんでいないか。昨夜ほとんど眠れなかったせいで、目の下に隈ができていないか。
食堂に下りると、クライトはもう席に着いていた。
目が合う。
「……おはよう」
「お、おはようございますっ!」
声が裏返った。
クライトがわずかに眉を上げる。フレンダは顔から火が出そうになりながら、一番遠い席に座ろうとして、セレナに腕を引かれてクライトの隣に座らされた。
「……顔が赤い。やはり熱が」
「ないです!!」
向かいの席で、レオンが「お?」と身を乗り出した。ガルドが無言で茶をすすった。ライは、窓際の席で、楽しそうに頬杖をついてこちらを眺めていた。
◇
一方で、セレナもどこかぎこちなかった。
「セレナ、パン取ろうか?」
「えっ!? あ、う、うん。ありがと、アルマ」
アルマが差し出したパンを受け取ろうとして、指先が触れた瞬間、セレナはぴくりと手を引っ込めた。パンが卓の上に転がる。
「……セレナ?」
「ご、ごめん! 手が滑っちゃって!」
セレナは真っ赤になってパンを拾い上げ、慌てて口に押し込んだ。アルマは、きょとんとした顔でそれを見ていた。
(あっ……)
フレンダは、クライトの隣で、そっと目を伏せた。
恋バナの夜からだ。アルマに彼女ができたら、と想像して、セレナは何かに気づきかけている。
推しカプ過激派としては、本来なら床を転げ回るほど嬉しい展開のはずだった。
なのに、今のフレンダには、セレナの気持ちが痛いほどわかってしまった。
意識してしまったら、もう、前と同じようには隣にいられない。
(……セレナも、こんな気持ちなんだ)
◇
その日、フレンダはレオンと組んで、港の市場の見回りに出た。
検問とは別に、市場で例の葉が出回っていないかを確かめる仕事だった。朝市の喧騒の中、魚や野菜や香辛料の並ぶ露店を、一軒ずつ見て回る。
「フレンダ、あそこの干し果物、うまそうじゃないか? あとで一緒に買おうぜ」
「レオン先輩、仕事中です」
「わかってるって。仕事が終わったら、の話だよ」
レオンは、いつも通り明るかった。人混みの中で、フレンダがはぐれそうになるたびに、さりげなく腕を伸ばして道を作ってくれる。
(ほんとに、お兄ちゃんって感じ……)
そのとき、レオンの足が、ぴたりと止まった。
「レオン先輩?」
レオンは、市場の雑踏の一点を見つめていた。
魚屋の店先の、積み上げられた木箱の陰。
そこに、小さな女の子がうずくまっていた。
五つか六つくらいだろうか。日に焼けた頬に、涙の跡が筋になっている。膝を抱えて、声も出さずに、ただ肩を震わせていた。
大人たちは、誰も気づかずに通り過ぎていく。
レオンが、走った。
「おい、どうした!」
人混みをかき分け、女の子の前にしゃがみこむ。その勢いに、女の子がびくりと体を縮めた。
「あっ、ご、ごめんな! 怖くないぞ、怖くない。俺は騎士……の、見習いだ。ほら、この紋章」
レオンは、慌てて胸の校章を指さした。女の子は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、レオンを見上げた。
「……おかあさん、いなくなっちゃった」
「お母さんと、はぐれたのか」
こくり、と頷く。
レオンの顔から、すっと血の気が引いた。
フレンダは、それを見逃さなかった。
いつも笑っているレオンの顔が、一瞬だけ、ひどく強張った。まるで、目の前の女の子ではなく、もっと別の何かを見ているように。
「――よし。お兄ちゃんが、絶対見つけてやるからな」
レオンは、すぐにいつもの笑顔に戻った。そして女の子をひょいと抱き上げ、そのまま自分の肩に乗せた。
「わっ」
「ほら、高いだろ? ここからなら、お母さんも見つけやすいぞ。お母さん、どんな服着てた?」
「……あおいの。あおいスカーフ」
「青いスカーフな。よし、フレンダ、そっちの通りを頼む! 俺はこっちを回る!」
「は、はい!」
それから半刻、二人は市場中を走り回った。
レオンは、ほとんど休まなかった。女の子を肩に乗せたまま、通りという通りを駆け抜け、露店の店主ひとりひとりに声をかけ、青いスカーフの女性を見かけなかったかと尋ね続けた。
その横顔には、汗が滲んでいた。笑顔だった。けれど、その笑顔の奥に、何か張り詰めたものがあった。
◇
母親が見つかったのは、市場の東の端だった。
青いスカーフを振り乱して、泣きながら娘の名前を呼んでいた。レオンの肩から降ろされた女の子が、一直線に駆け寄っていく。母親は娘を抱きしめて、何度も何度もレオンとフレンダに頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……! ちょっと目を離した隙に、いなくなってしまって……!」
「いえいえ! 見つかってよかったです!」
レオンは、からりと笑った。
母親に手を引かれて歩き出した女の子が、ふと振り返った。
「おにいちゃん」
「ん?」
「わたしね、こわくなかったよ」
女の子は、小さな胸を張った。
「だって、あのこのほうが、もっとかわいそうだったもん」
「あの子?」
レオンが首を傾げる。フレンダも、思わず足を止めた。
「あのね、まえに、おまつりのテントがあったでしょ。あかとキンのしましまの、おっきいの」
赤と金の縞模様。
フレンダの心臓が、どくんと鳴った。
(曲芸団の、天幕)
「よる、のどかわいておきたの。そしたら、まどから、テントがみえて。おとなのひとが、ちいさいおとこのこを、だっこして、テントにはいっていったの」
「……小さい、男の子?」
レオンの声が、低くなった。
「うん。わたしより、もっとちいさいの。ないてたよ。おかあさん、おかあさんって。でも、おとなのひと、くちをふさいでた」
女の子は、少しだけ顔を曇らせた。
「きらきらのかみだった。おひさまみたいな。それでね、くびに、とりさんのついた、きんいろのペンダントしてた」
フレンダは、息を止めた。
金色の髪。小さな男の子。鳥の紋章のついた、金色のペンダント。
この国の王家の紋章は、翼を広げた鷲だ。
「もういくよ」
母親に手を引かれて、女の子は手を振りながら人混みの中へ消えていった。
フレンダとレオンは、その場に立ち尽くしていた。
◇
市場の外れの、海の見える石段に、二人は並んで腰を下ろした。
すぐに報告に戻らなければいけないことは、わかっていた。けれど、レオンが石段に座りこんだまま、しばらく動かなかったのだ。
レオンは、両手を膝の上で組んで、じっと海を見ていた。
いつもの笑顔は、どこにもなかった。
「……レオン先輩」
「悪い。ちょっとだけ、待ってくれるか」
レオンは、苦笑した。
「すぐ戻るから。ちょっとだけ、落ち着かせてくれ」
フレンダは、黙ってレオンの隣に座っていた。
波の音が、寄せては返す。
やがて、レオンがぽつりと口を開いた。
「俺さ、八人兄弟の長男なんだ」
「……はい」
「弟が四人、妹が三人。うちは小さい商家で、親父もお袋も朝から晩まで働きづめだったから、下の連中の面倒は、ほとんど俺が見てた」
レオンは、組んだ指をぎゅっと握った。
「俺が十歳のとき、町の祭りに、下の弟たちを連れて行ったんだ。一番下の弟は、まだ三つだった」
三つ。
さらわれた王子と、同じ年だ。
「人混みがすごくてさ。俺は弟たちの手を引いて、はぐれないように必死だった。でも、ほんの一瞬、屋台の焼き菓子に気を取られた。本当に、ほんの一瞬だったんだ」
レオンの声が、かすかに震えた。
「振り返ったら、一番下の弟がいなかった」
フレンダは、息を呑んだ。
「探したよ。町中を、一晩中。親父もお袋も、近所の人たちも、みんなで。俺は泣きながら弟の名前を呼んで、喉が潰れるまで呼び続けた。でも、見つからなかった」
レオンは、海を見つめたまま続けた。
「見つかったのは、次の日の朝だ。町外れの、知らない家の納屋で、藁にくるまって眠ってた。祭りの帰りに迷い込んで、そこの爺さんが保護してくれてたんだ。……怪我ひとつなかった」
「……よかった」
「ああ。よかった。本当に、よかった」
レオンは、ようやく少しだけ笑った。
「でも、それからだ。目を離したら、誰かがいなくなる気がして、怖くなったのは」
レオンは、自分の手のひらを見下ろした。
「弟がいなかった一晩のこと、今でも夢に見るんだ。暗い町の中で、ずっと名前を呼んでる夢。……だから俺、誰かが怪我してないか、ちゃんとそこにいるか、いつも確かめずにいられないんだよな。うるさいだろ?」
「……全然、うるさくないです」
フレンダは、首を振った。
「レオン先輩がいつも『怪我したらすぐ言え』って言ってくれるの、私、嬉しかったです。みんなも、きっとそうです」
レオンは、少し驚いたようにフレンダを見た。
それから、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「……ありがとな」
レオンは、ぐっと拳を握った。
「王子殿下がさらわれたって聞いたとき、真っ先に弟のことを思い出した。三つの子が、ひと月以上も家族から引き離されて、どこかで泣いてる。……考えただけで、頭がおかしくなりそうだった。だから、志願したんだ」
「レオン先輩……」
「さっきの子の話。泣いてたって。お母さんって呼んでたって」
レオンは、立ち上がった。
海を背にして振り向いたその顔は、いつもの明るい笑顔だった。けれど、その目には、今まで見たことのない強い光が宿っていた。
「絶対に、見つけてやる。殿下は、一晩じゃなくて、もうひと月以上も帰れていないんだ。……絶対に、助け出す」
◇
宿に戻ったフレンダとレオンの報告に、食堂は騒然となった。
「金色の髪に、鷲の紋章のペンダント……」
ガルドが、卓の上で拳を握りしめた。
「殿下だ。間違いない。殿下は、お生まれになったときに陛下から鷲の紋章のペンダントを賜っている。誘拐されたときも、身につけておられた」
「曲芸団の天幕に……!」
セレナが、立ち上がった。
「じゃあ、殿下はまだ、この港町に!」
「いや」
ノアが、手帳を素早くめくった。
「曲芸団は、数週間前に最終公演を終えています。今は、もう天幕もありません。広場は空き地に戻っています」
「どこに行ったんだ。次の町か?」
レオンが身を乗り出す。ノアは、眉間にしわを寄せた。
「それが……おかしいんです」
ノアは、手帳の頁を指でなぞった。
「駐屯地の門番の記録を確認しました。曲芸団ほどの大所帯が町を出れば、荷車も馬も相当な数になるはずです。でも、最終公演のあと、街道の門を曲芸団が通った記録はありません」
「なら、船で出たのか」
「港の出港記録にも、ありません。僕たちが検問を始めてから、出ていった船はすべて調べています」
食堂が、静まり返った。
「……つまり」
ガルドが、低く呟いた。
「曲芸団は、陸からも海からも出ていない。なのに、この町のどこにもいない」
「消えた、ってことかよ」
ジークが、唸るように言った。
「何十人もの人間と、荷と、獣が。まるごと」
フレンダの背筋に、冷たいものが走った。
(消えた……いや、違う。どこかに、隠れてる)
ゲームのクライトルートの、記憶が頭をよぎる。港の地下に広がる、密輸の拠点。
まさか。
そのとき、フレンダの頭に、別の記憶がよみがえった。
曲芸団の、最終公演。
『旅の曲芸団だよ。今日が最終公演なんだって』
あの日、フレンダをあの天幕に連れて行ったのは。
フレンダは、ゆっくりと、食堂の隅を見た。
窓際の席。白い髪の男が、頬杖をついて、こちらを見ていた。
目が合う。
ライは、頬杖をついたまま、ふっと目を細めた。
「へえ。そんなこと、知らなかったな」
軽い声が、静まり返った食堂に響いた。
「最終公演、あんなに良かったのにね? ね、フレンダ」
全員の視線が、一斉にフレンダへ向いた。
「……え?」
セレナが、目を丸くする。
「フレンダ、ライさんと曲芸団に行ってたの?」
「……は?」
ジークが、椅子を鳴らして振り向いた。
「お前ら、一緒にいたのかよ。最終公演の日に」
レオンが口を開けたまま固まり、ノアが手帳をめくる手を止める。ガルドの眉間のしわが、さらに深くなった。
クライトだけが、表情を変えなかった。昨夜、すべてを聞いていたから。
フレンダは、ライを見た。
ライは、にこにこと笑っていた。自分から言い出したのだ。
曲芸団が消えたと聞いた、まさにこのときに。最終公演の日、自分がその天幕の中にいたことを。
隠そうと思えば、隠せたはずなのに。
「……どうして、あの日、私をあそこに連れて行ったの」
フレンダの声は、自分でも驚くほど静かだった。
思い出していた。
空中ブランコに目を輝かせていたライ。大車輪に息を呑み、猛獣の芸に手を叩いていたライ。
でも。
火の輪の芸のとき。客席が獣に釘付けになっていた、あの数瞬。
ライの視線は、舞台ではなく、その奥の、出演者たちが出入りする厚い幕のほうを、じっと見ていなかっただろうか。
楽しんでいるふりをしながら。
何かを、探すように。
ライは、フレンダの問いに、すぐには答えなかった。
灰とも紫ともつかない瞳が、フレンダを見つめる。その奥で、何かが揺れたような気がした。
けれど、すぐに、いつもの笑みがそれを覆い隠した。
「デートだって言ったでしょ?」
ライは、ひょいと肩をすくめた。
「女の子を誘うなら、楽しいところがいいかなって。それだけだよ」
「てめえ、まだそんなこと――」
「ジーク」
立ち上がりかけたジークを、静かな声が止めた。
クライトだった。
クライトは、ライから目を離さないまま、ゆっくりと言った。
「今は、殿下の行方が先だ」
ジークが、歯噛みしながら腰を下ろす。
クライトとライの視線が、卓を挟んで交わった。
藍色の瞳と、灰とも紫ともつかない瞳。
ライは、相変わらずにこにこと笑っていた。クライトは、相変わらず無表情だった。
けれど、その間に流れる空気は、冬の海のように冷たかった。
「曲芸団の天幕があった広場を、明日、徹底的に調べる」
ガルドが、重い声で告げた。
「何十人もの人間が、煙のように消えるはずがない。必ず、どこかに抜け道がある」
一同が、頷いた。
フレンダは、膝の上で拳を握りしめていた。
王子の手がかり。消えた曲芸団。港の地下。
そして、それらすべてのそばに、いつも、白い髪の男がいる。
ちらりと隣を見ると、クライトがこちらを見ていた。
目が合う。
クライトは、ほんのわずかに頷いた。
大丈夫だ、と。俺がいる、と。
フレンダの胸の奥で、何かが、温かく灯った。
窓の外で、日が沈んでいく。
ライは、その夕陽を眺めながら、誰にも聞こえない声で、何かを呟いたようだった。
その唇が、何という言葉を形作ったのか。
フレンダには、読み取れなかった。
◇
その夜更け。
フレンダは、窓辺で膝を抱えていた。
眠れなかった。連れ去られた王子殿下。消えた曲芸団。夕陽を眺めながら、何かを呟いたライの唇。
ふと、窓の下で、何かが動いた。
宿の裏口から、白い影がひとつ、音もなく滑り出ていくところだった。
外套のフードを目深にかぶっている。けれど、街灯の灯りがかすめた瞬間、フードの縁から、白い髪がこぼれて見えた。
ライだった。
フレンダは、反射的に立ち上がった。
――追いかけなきゃ。
扉に手をかけて、そこで、止まった。
『ひとりで夜中に出歩いたり、ひとりで何かを探ったりするな。……俺がいる』
フレンダは、廊下を忍び足で進み、突き当たりの扉を、小さく三回叩いた。
扉は、すぐに開いた。
クライトは、まだ起きていた。外套も脱いでいなかった。
「……ライが、出ていきました」
クライトは、それだけで頷いた。剣を手に取り、フレンダの前に立つ。
「俺の後ろにいろ」
◇
夜の港町は、静まり返っていた。
ライの足取りは、迷いがなかった。坂を下り、市場の通りを抜け、角を三つ曲がる。一度も振り返らない。足音も、ほとんどしない。
クライトとフレンダは、建物の影から影へ、距離を取って後を追った。
やがて、ライが足を止めた。
曲芸団の天幕が張られていた、あの広場だった。
今はもう何もない、ただの空き地。月明かりが、杭の跡の残る地面を白く照らしている。
ライは、広場の北の端へ歩いていった。
そこに、石造りの古い井戸があった。とうに枯れたのだろう、口は分厚い木の蓋で塞がれ、その上に、大人の胴ほどもある重そうな石が載せられている。
ライは、その石に、片手をかけた。
そして、持ち上げた。
片手で。軽々と。まるで、籠でもどけるように。
フレンダは、息を呑んだ。隣で、クライトの肩がわずかに強張るのがわかった。
ライは石を地面に下ろし、木の蓋をずらした。井戸の口が、黒くぽっかりと開く。
ライは、その縁に膝をついて、中を覗き込んだ。
長い間、そうしていた。
それから、唇に指を当てて、ひゅう、と低く口笛を吹いた。
短く、二度。
夜の静けさの中に、その音が、井戸の底へ吸い込まれていく。
――少しの間を置いて。
井戸の底から、何かが、返ってきた。
ひゅう。ひゅう。
口笛だった。
かすかに、遠く、くぐもって。けれど、確かに、二度。
フレンダの全身の血が、冷たくなった。
(今の……返事?)
枯れ井戸の、底から。誰かが。
ライは、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと蓋を元に戻し、重い石を、また片手で、元の場所に載せた。手のひらについた土を、ぱんぱんと払う。
その背中が、言った。
「――夜更かしは、よくないよ。二人とも」
フレンダの心臓が、跳ね上がった。
ライは、振り向かなかった。
けれど、その声は、まっすぐこちらに向けられていた。最初から、ずっと気づいていたかのように。
クライトが、物陰から一歩、踏み出した。剣の柄に、手をかけたまま。
「……今のは、何だ」
低い声だった。
ライは、ようやく振り向いた。月明かりの下で、いつものように、にこにこと笑っていた。
「何って?」
「井戸の底から、返ってきた」
「ああ、あれ?」
ライは、首を傾げた。
「こだまじゃないかな。古い井戸って、よく響くんだよ」
「二度目は、一度目と調子が違った」
クライトは、一歩も引かなかった。
ライの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「耳がいいね、クライトくん。さすが」
それ以上は、何も言わなかった。
ライは、二人の脇を、ゆっくりと通り過ぎていった。すれ違いざま、フレンダにだけ聞こえるような声で、囁いた。
「この井戸のこと、明日になったら、きっとみんな知ることになるよ」
「……どういう意味」
「そのまんまの意味」
ライは、ひらりと手を振った。
「おやすみ、フレンダ。いい夢を」
白い背中が、月明かりの中を遠ざかっていく。
フレンダとクライトは、しばらく、その場から動けなかった。
月の下で、古い井戸が、何事もなかったかのように、重い石を載せて黙りこんでいた。
◇
翌朝、クライトは、昨夜のことをすべてガルドに伝えた。
ガルドは、長い間黙りこんでいた。目の下の隈が、一段と濃く見えた。
「……あいつは、この井戸に、俺たちを行かせたいのか。それとも、行かせたくないのか」
誰も、答えられなかった。
ガルドは、重い溜め息をついて、立ち上がった。
「どっちにしろ、調べないわけにはいかん。……今日は、全員で広場に行くぞ」




