第十四話
その夜の夕食は、ほとんど味がしなかった。
クライトは、フレンダから一番遠い席に座っていた。目が合うことは、一度もなかった。食べ終えると誰よりも早く席を立ち、黙って食堂を出ていった。
フレンダは、冷めていくスープを見つめていた。
(……私が、悪い)
わかっていた。嘘をついたのは自分だ。探してくれていたのに、何も知らずに、嘘をついた。
謝った。でも、謝っただけだった。
『……俺には、言えないことか』
あの問いに、答えられなかった。
部屋に戻っても、ベッドに座ったまま、動けなかった。枕元の小さな布袋に、手を伸ばしかけて、やめる。今は、藍色の硝子玉を見る資格がない気がした。
「……フレンダ」
隣のベッドから、セレナの声がした。
顔を上げると、セレナが膝を抱えて、こちらを見ていた。月明かりに照らされた空色の瞳が、心配そうに揺れている。
「クライト先輩と、何かあった?」
「……え」
「今日、一日中、二人とも変だったよ。クライト先輩、フレンダのほう、一回も見なかった」
フレンダは、何も言えなかった。
セレナはベッドから降りて、フレンダの隣に腰を下ろした。肩と肩が、そっと触れる。
「話したくなかったら、話さなくていいよ。でもね」
セレナは、フレンダの手を取った。
「フレンダは、いつも私のこと見ててくれるでしょ。入学したばかりで心細かったときも、捜索隊に志願したときも。私が落ち込んでると、いつも一番に気づいて、隣に来てくれる」
セレナは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「だから、私もフレンダのこと、見てたんだよ。今日のフレンダ、ずっと泣きそうな顔してた。……大事な人とぎくしゃくしたままなのは、きっと、すごく苦しいよ」
「セレナ……」
「だから、今度は私の番」
セレナは、フレンダの手をぎゅっと握った。
「行っておいで。クライト先輩、きっとまだ起きてるよ」
「……でも、どこにいるか」
「わかるでしょ?」
セレナは、くすりと笑った。
「フレンダが一番、知ってるはずだよ」
フレンダは、目を見開いた。
夜。眠れないとき。ひとりで考えごとをしたいとき。
あの人が、いつもいる場所。
「……ありがとう、セレナ」
フレンダは、立ち上がった。
◇
駐屯地の訓練場は、月明かりに白く浮かび上がっていた。
ひゅっ、と空気を裂く音が聞こえた。
砂地の真ん中で、藍色の髪が揺れていた。長身の青年が、ただひとり、黙々と剣を振っている。一振りごとに、砂がわずかに舞う。
学園の訓練場で、初めて彼を見つけた夜と、同じだった。
けれど、あの夜とは、何かが違った。
剣筋が、荒い。
一振りごとに、力が入りすぎている。いつもの無駄のない動きではなかった。
何かを振り払おうとするように、何かに抗うように、ただがむしゃらに剣を振っている。
「……クライト先輩」
剣が、止まった。
藍色の瞳が、こちらを向いた。
驚いた様子はなかった。来ることがわかっていたかのように。それとも、来ないと思っていたのか。その表情からは、読み取れなかった。
フレンダは、砂地に足を踏み入れた。
クライトの前まで歩いて、立ち止まる。見上げると、彼の額には汗が滲んでいた。どれだけの間、ここで剣を振っていたのだろう。
「お話、させてください」
クライトは、何も言わなかった。
けれど、剣を鞘に収めた。
それが、答えだった。
◇
二人は、訓練場の端の、低い石垣に並んで腰を下ろした。
フレンダは、膝の上で両手を握りしめていた。
「全部、話します」
深呼吸をひとつ。
「ライに初めて会ったのは、浜辺の日よりもっと前です。運び屋がたくさん捕まり始めた頃の、ある夜。眠れなくて、宿の前の広場で月を見てたら、いつの間にか、すぐ後ろにいました」
クライトの肩が、わずかに動いた。
「遊ばないかって言われて、断って、宿に戻ろうとしたら……名前を、呼ばれたんです。『またね、フレンダ』って。私、名乗ってなかったのに」
「……なぜ、報告しなかった」
「怖かったのと……わからなかったからです。あの人が誰なのか、何のために私の前に現れたのか。わからないことを報告して、みんなを混乱させたくなかった」
それは、半分だけ本当だった。
もう半分は、ゲームにいない人物だったから。説明のつかない理由だから、言えない。
「浜辺の日は、路地で酔っ払いに絡まれて、ライに助けられて。あの人が何者なのか探ろうと思って、一緒に過ごしました。曲芸団を見て、お昼を食べて、浜辺に行って」
フレンダは、外套のポケットに手を入れた。
赤いシーグラスを取り出して、手のひらに乗せる。月明かりの下で、それはくすんだ赤色をしていた。
「これを、もらいました。それで、どうして私の名前を知っていたのかって聞いたら……逆に、聞かれたんです。港で、灰色の髪の男に食ってかかったのは、どうしてかって」
クライトが、フレンダの手のひらのシーグラスを見た。
「あの人は、あの場にいなかったはずなのに。私が、あの男を疑った理由を知りたがってました。答えられずにいたら、急にいなくなって……すぐあとに、先輩が来たんです」
言葉を、切る。
「先輩に、誰かといたかって聞かれて、嘘をつきました。……全部話したら、名前のことも、報告しなかったことも、話さなきゃいけなくなる。それが、怖かった」
フレンダは、シーグラスを握りしめた。
「それと……楽しかったんです。あの日。ライといて、普通に。それを、先輩に知られたくないって、思っちゃったんです。なんでかは、わからないけど」
夜風が、砂を撫でていく。
クライトは、黙って聞いていた。
「……あの男を、なぜ疑った」
やがて、低い声で聞かれた。
来る、と思っていた問いだった。
フレンダは、ゆっくりと首を振った。
「それだけは……言えないんです」
「……」
「ごめんなさい。理由は、言えない。言っても、きっと信じてもらえない。でも」
フレンダは、顔を上げた。
まっすぐに、クライトの目を見た。
「嘘じゃないです。あの男は、危ない。私たちの誰かを、傷つけるかもしれない人です。それだけは、本当なんです」
赤い瞳と、藍色の瞳が、月明かりの中で向かい合った。
長い、長い沈黙だった。
フレンダは、目を逸らさなかった。逸らしたら、全部が嘘になってしまう気がした。
やがて、クライトが、小さく息を吐いた。
「――信じる」
フレンダは、息を止めた。
「お前が言えないと言うなら、言えない理由があるんだろう。それでいい」
クライトの声は、静かだった。いつもの、抑揚の少ない声。けれど、昼間の坂道で聞いた、あの遠い声ではなかった。
「だから、お前も」
クライトの手が、フレンダの握りしめた拳の上に、そっと重なった。
医務室で重ねられたのと、同じ手だった。大きくて、温かくて、少しだけ硬い手。
「俺を、頼れ」
フレンダの視界が、にじんだ。
「ひとりで抱えるな。言えないことがあってもいい。でも、ひとりで夜中に出歩いたり、ひとりで何かを探ったりするな。……俺がいる」
「……はい」
声が、震えた。
「……はい。頼ります。ちゃんと」
クライトの手のひらの下で、握りしめていた拳が、ゆっくりとほどけた。
赤いシーグラスが、二人の手の間で、小さく光っていた。
◇
しばらく、二人は黙って並んで座っていた。
沈黙は、もう苦しくなかった。
「……怖かった」
ふいに、クライトが呟いた。
「え?」
「医務室で、俺は怖くないと言った」
クライトは、月を見上げていた。
「だが、あの日。朝からお前の姿が見えなくて、宿にも港にもいなくて。町中を探して、どこにもいなかったとき」
藍色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……怖かった」
フレンダは、言葉を失った。
刃を向けられても眉ひとつ動かさなかった人が。ナイフで手を切られても平然としていた人が。
自分がいなくなったことが、怖かったと言っている。
「……ごめんなさい」
「もういい」
クライトは、ふっと息を吐いた。
それから、外套の内側に手を入れた。
取り出したのは、小さな丸い缶だった。蓋には、ピンク色のうさぎの絵が描かれている。学園の訓練場で、まめだらけのフレンダに差し出してくれた、あの軟膏の缶。
「これは、母が送ってくれたものだ」
クライトは、缶を手のひらの上で転がした。
「母は、雑貨職人の娘だった。小さい頃、俺によく、うさぎの小物を作ってくれた。木彫りのや、布のや、貝殻のや」
フレンダは、息を呑んだ。
(知ってる)
知っていた。
ゲームのクライトルート。中盤の、夜の駐屯地。クライトがセレナに、ぽつりぽつりと語る過去。
可愛いものが好きな母と、それを嫌った父。顔に出すなと教えられて育った少年。
前世で、画面越しに読んだ。何度も、何度も。
「父は、そういうものを嫌った。騎士に情は要らない。顔に出すな。それが、父の口癖だった」
クライトの声は、淡々としていた。
「母と父は、うまくいかなかった。今、母は実家に戻っている。……俺が学園に入った年からだ」
知っている。全部、知っている。
なのに。
(……全然、違う)
フレンダは、クライトの横顔を見つめていた。
ゲームで読んだ文章と、同じ内容のはずだった。
けれど、今、目の前でそれを語っている人の声は、文字ではなかった。
缶を転がす指先の、ほんのわずかなためらい。「母」と口にするとき、少しだけ柔らかくなる声。
画面の中の「クライト」ではない。
この人が、自分の言葉で、自分の過去を、自分に話してくれている。
(私、知ってると思ってた)
ゲームで、全部知っていると思っていた。この人の好きなものも、過去も、抱えているものも。
でも、違った。
知識として知っていることと、この人自身から聞くことは、まるで違う。
(知りたい)
胸の奥から、何かが溢れ出してくるようだった。
ゲームの知識じゃない。誰かが書いた設定でもない。
この人のことを、この人の口から、もっと知りたい。
「可愛いものが好きなのは、お母さんとの思い出だからなんですね」
「……ああ」
クライトは、うさぎの缶を見下ろした。
「父には、言うな」
「言いません。……絶対」
クライトの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
◇
「ライのことだが」
しばらくして、クライトが口を開いた。
「騎士団長の印は、父にしか押せない」
フレンダは、はっと顔を上げた。
「団長の印章は、父が肌身離さず持っている。誰かに預けることもない。……だから、あの命令書が本物なら、父があいつをここに寄越したということだ」
「お父さんが……ライを?」
「理由は、わからない」
クライトの拳が、膝の上で握られた。
「父は、何も言わない。昔から、何ひとつ。……俺には」
最後の言葉は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
フレンダは、稽古の日を思い出していた。
汗ひとつかかないライ。肩で息をするクライト。白くなるほど握りしめられた、木剣を握る手。
「……あいつの剣は」
クライトが、低く呟いた。
「父の剣に、似ていた」
フレンダの背筋に、冷たいものが走った。
「打ち合ってすぐに、わかった。重心の置き方。受けの角度。相手の剣を殺す、あの捌き方。……幼い頃、一度だけ父と打ち合ったことがある。そのときと、同じだった」
クライトは、自分の手のひらを見下ろした。
「俺が、何年かけても届かなかった剣だ」
その声に、怒りはなかった。
ただ、ひどく、静かな悔しさだけがあった。
フレンダは、何も言えなかった。
(ライと、騎士団長が……?)
ゲームには、そんな繋がりはなかった。そもそも、ライはゲームに出てこない。
名簿にない騎士。騎士団長の印。父と同じ剣。灰色の髪の男との密会。
何ひとつ、繋がらない。繋がらないのに、全部が、どこかで一本の線になろうとしている気がした。
「あいつのことは、俺も見ておく」
クライトが、立ち上がった。
「だから、お前はひとりで近づくな」
「……はい」
クライトは、フレンダを見下ろした。
それから、手を伸ばして。
ツインテールの分け目を崩さないように、そっと、やさしく、頭を撫でた。
「戻るぞ。冷える」
◇
宿へと続く夜道を、二人は並んで歩いた。
月が、石畳を白く照らしている。二つの影が、寄り添うように伸びていた。
フレンダは、隣を歩くクライトの横顔を、そっと見上げた。
藍色の髪が、夜風に揺れている。相変わらずの無表情。でも、その顔が、少しだけ和らいで見えるのは、気のせいだろうか。
(この人のことが、知りたい)
もっと。ゲームに書かれていなかったことを。この人が、自分にだけ見せてくれる顔を。
うさぎを見つめるときの、綻んだ口元。夕焼けの防波堤で見せた、初めての笑顔。原っぱで、目が覚めるまで隣にいてくれた横顔。怖かった、と言った、かすかに揺れた瞳。
全部、ゲームにはなかった。
全部、この人が、自分にくれたものだった。
(……ああ、そっか)
フレンダは、立ち止まりそうになった。
クライトに彼女ができたら、と想像したときの、胸のちくり。
ライとの一日を、この人にだけは知られたくなかった理由。
坂道で背中を向けられたとき、息ができなくなるほど痛かった理由。
全部、同じところから来ていた。
(私、クライト先輩のことが、好きなんだ)
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが、ぱちんと弾けた。
頬が、一気に熱くなる。心臓が、うるさいほど鳴り始める。
(え、待って。待って待って待って)
私は、友人枠だ。推しカプを見守るために、この世界に来た。攻略対象と恋をするのは、ヒロインの役目のはずで。
でも、もう、どうしようもなかった。
「どうした」
クライトが、足を止めてこちらを見下ろした。
「顔が赤い。熱でもあるのか」
「な、ないです!全然ないです!いやーなんか暑いですよね!」
「……今夜は冷えると思うが」
「そ、そうですね! 冷えますね! 早く帰りましょう!」
フレンダは、ツインテールを揺らして早足で歩き出した。
背後で、クライトが首を傾げる気配がした。それから、すぐに長い足で追いついてくる。
隣に並ぶ、大きな影。
フレンダは、両手で熱い頬を押さえながら、宿の灯りを目指して歩いた。
今夜はきっと、眠れない。
でも、それは、これまでの眠れない夜とは、まるで違う理由だった。




