第十三話
翌朝の食堂は、いつもより静かだった。
ジークの目の下には、くっきりと隈が浮いていた。黒パンにも手をつけず、ただ一点を睨んでいる。
その視線の先で、ライがのんびりとスープをすすっていた。
「ジーク、大丈夫? 昨日、眠れなかったの?」
セレナが心配そうに声をかける。ジークは答えなかった。
代わりに、がたん、と椅子を引いて立ち上がった。
「――おい」
低い声が、食堂に響いた。
全員の手が止まる。
ジークは、まっすぐにライを指さしていた。
「昨日の夜。倉庫街の路地で、誰と会ってた」
空気が、凍りついた。
ライは、スープをすくったスプーンを口元で止めたまま、ジークを見上げた。
「灰色の髪の男だ。フレンダが港で食ってかかった、あの商人。お前、あいつと二人きりで話してたよな。何か受け取ってたよな」
ジークの声が、震えていた。怒りなのか、恐れなのか、本人にもわからないような震え方だった。
「俺は、見たんだよ」
レオンが「ジーク……」と腰を浮かせかけ、ガルドが無言でそれを手で制した。ガルドの目は、ライに注がれていた。
フレンダは、膝の上で両手を握りしめていた。
(灰色の髪の男と……ライが?)
アルマを殺すはずだった男。港で、何もかもを知っているかのように微笑んだ男。
その男と、ライが。
ライは、スプーンをゆっくりと皿に戻した。
そして、あっさりと言った。
「うん。会ってたよ」
食堂の空気が、さらに冷えた。
「……認めるのか」
「隠すことでもないし。ジークくん、夜更かしはよくないよ?」
「ふざけんな!」
ジークが、卓を叩いた。皿が跳ねる。
「何を受け取った! 答えろ!」
ライは、小さく肩をすくめた。それから、外套の内ポケットに手を入れて、何かを取り出した。
小さな、布の包みだった。
ライはそれを卓の上に置き、指先で布の端をつまんで、ひらりと開いた。
中から現れたのは。
くすんだ緑色の、乾いた葉だった。
甘い香りが、ふわりと食堂に広がった。
誰かが、息を呑む音がした。
「お土産、もらっちゃった」
ライは、にこにこと笑っていた。
「見本なんだって。品質を確かめてくれって」
「品質……?」
ノアが、眉を寄せる。
「あの人ね、俺を仲間に引き込みたいみたい。騎士がひとり向こうについたら、検問なんてどうとでもなるでしょ。だから、いい暮らしをさせてやるから手を貸せって」
ライは、まるで天気の話でもするような口調で続けた。
「面白いよね。俺みたいなのに声かけるなんて、よっぽど人手に困ってるのかな」
「……それで」
ガルドが、低く問うた。
「お前は、何と答えた」
ライは、ガルドを見た。
「どうだと思う?」
ライは首を傾げて、笑った。反応を面白がるように。
食堂が、しんと静まり返る。
「てめえ……っ!」
ジークが卓を回り込もうとして、レオンに後ろから羽交い締めにされた。
「離せレオン先輩! こいつ、今、乗ったかもしれないって顔したぞ! 兄貴をあんなふうにした葉っぱを売ってる連中と、こいつは――!」
「落ち着けジーク! 今ここで殴りかかっても、何にもならねえだろ!」
「でも……っ!」
ジークの声が、裏返った。
ライは、その様子を静かに見ていた。
笑みは、消えていなかった。けれど、ジークが「兄貴」と叫んだとき、その目がほんの一瞬だけ、伏せられたのを、フレンダは見た。
ライは、卓の上の包みを、布でくるみ直した。そしてそれを、ガルドの前にすっと押しやった。
「はい。証拠品ってことで、ガルドさんに預けとくね」
「……」
「疑うなら、それでいいよ。俺の部屋も荷物も、好きに調べてくれていい」
ライは立ち上がり、ひらりと手を振った。
「先に港に行ってるね」
軽い足音が、食堂を出ていく。
扉が閉まるまで、誰も、何も言えなかった。
◇
「……どう思う」
ライが去ったあと、ガルドが布の包みを見下ろしたまま、低く呟いた。
「どうって、決まってるだろ! あいつは敵だ!」
ジークが、レオンの腕を振りほどいて叫ぶ。
「でも、自分から証拠を出したよ」
セレナが、困ったように言った。
「本当に敵なら、隠すんじゃないかな。部屋を調べてもいいなんて、言わないと思う」
「疑われないための芝居かもしれないだろ!」
「……どちらとも取れますね」
ノアが、眼鏡を押し上げた。
「本当に買収を持ちかけられて、それを僕たちに報告しただけなのか。それとも、すでに向こうについていて、疑いの目を逸らすためにわざと見せたのか。今ある情報だけでは、判断できません」
ノアは、そこで一度言葉を切り、卓の上に一通の手紙を置いた。
「それと、もうひとつ。……今朝、これが届きました」
「なんだ、それ」
レオンが覗き込む。
「王都の学園の図書館で司書をしている、先輩からの返事です。以前、港で調べた灰色の髪の男の許可証。あれを発行した商会について、調べてもらっていました」
ノアは、便箋を広げた。
「白鷺商会。王都でも指折りの、古い交易商会です。表向きは、絹や香辛料を扱う真っ当な商会で、怪しい点は何もありません」
「なら、何が問題なんだ」
ガルドが問う。
「出資者の名簿です」
ノアの指が、便箋の一行をなぞった。
「貴族や大商人の名前が、何十人と並んでいます。その中に、一度だけ」
眼鏡の奥の目が、ジークを見た。
「ヴェルナー、という名前がありました」
ジークの顔から、血の気が引いた。
「……は?」
「同じ人物かどうかは、わかりません。ヴェルナーという姓は、王都では珍しくない。出資額も、ごく小さなものです」
ノアは、慎重に言葉を選んでいた。
「ただ……偶然にしては、気になります」
ジークは、何も言わなかった。
言えなかったのだろう。
兄の手を握って、「必ず良くなります」と言ったという、優しい宮廷医。母が泣きながら感謝を綴った、その人の名前。
フレンダの背筋を、昨日と同じ冷たいものが這い上がった。
(ヴェルナー……)
やはり、ゲームの中にその名前は思い出せなかった。
けれど、何かが、ゆっくりと形を結ぼうとしている。王子の誘拐。港の密輸。貴族に広がるハーブ。その真ん中に、まだ見えない誰かがいる。
そして、その輪郭のすぐそばに、白い髪の男が立っている。
フレンダは、ちらりとクライトを見た。
クライトは、朝から一言も発していなかった。腕を組み、卓の上の包みを、じっと見つめていた。
◇
その日の検問は、ひどく重苦しかった。
ジークは一度もライに近づかず、レオンは何度もジークとライの間に立つ位置を取った。
セレナとアルマは、いつもより口数が少なかった。ノアは手帳に何かを書きつけ続けていた。
ライだけが、いつも通りだった。
商人と軽口を叩き、荷を改め、ときどき楽しそうに笑う。食堂でのことなど、何もなかったかのように。
昼過ぎ。
フレンダはクライトと並んで、香辛料商の木箱を改めていた。
二人とも、ほとんど口をきいていなかった。
けれど、それは原っぱで並んで寝転がったときのような、心地よい沈黙ではなかった。
クライトの横顔は、どこか遠くを見ていた。
(騎士団長の印。……先輩、ずっとそのこと考えてるのかな)
聞きたかった。けれど、聞けなかった。
「やっほー。二人とも、真面目だね~」
背後から、軽い声がした。
振り向くと、ライが木箱の縁に腰掛けて、こちらを見下ろしていた。
フレンダは、とっさに身構えた。クライトの手が、さりげなく剣の柄に近づく。
「そんな顔しないでよ。休憩しに来ただけだって」
ライは、ひらひらと手を振った。それから、ふと思い出したように、フレンダを見た。
「そういえばさ」
「……なに」
「この前の浜辺、楽しかったね」
フレンダの心臓が、止まった。
「曲芸団も、お昼も。あ、シーグラス、まだ持ってる?」
にこにこと。何でもないことのように。
フレンダは、動けなかった。
隣で、クライトの気配が、すっと変わったのがわかった。
(……あ)
夕暮れの浜辺。石段を下りてきたクライト。肩が、わずかに上下していた。ライが消えた岩場のほうを見ていた、藍色の瞳。
『誰かと、一緒にいたか』
『……いいえ。ひとりで、散歩してただけです』
「じゃ、俺、持ち場戻るね~」
ライは木箱からひょいと飛び降りて、ひらりと手を振って去っていった。
まるで、何かを置き土産にするように。
フレンダは、ゆっくりと隣を見た。
クライトは、ライの去っていった方向を見ていた。
いつもの無表情だった。けれど、その顔からは、表情というものがすべて抜け落ちているように見えた。
「……先輩」
「仕事に戻る」
短く言って、クライトは木箱に向き直った。
それから日が暮れるまで、クライトは一度も、フレンダのほうを見なかった。
◇
夕暮れ。宿へ戻る坂道で、フレンダはクライトの背中を追いかけた。
「クライト先輩!」
クライトの足が、止まる。
けれど、振り向かなかった。
「あの、浜辺のこと……あの日、私、嘘をつきました。ライと、一緒にいました」
息が、上がっていた。坂を駆け上がってきたせいだけではなかった。
「路地で酔っ払いに絡まれて、ライが助けてくれて。それで、あの人が何者か探ろうと思って、一緒に……」
言いながら、自分でもわかっていた。
それだけなら、あの日、正直に言えたはずだ。
なのに、言わなかった。
なぜ言わなかったのか。月夜の広場で名前を呼ばれたことを、報告していなかったから。
ゲームの知識がなければ説明できないことが、あまりにも多すぎたから。
そして、たぶん、それだけじゃない。
楽しかった一日のことを、この人にだけは、知られたくないと思ってしまったから。
「……ごめんなさい」
フレンダは、頭を下げた。
長い、沈黙があった。
坂の下から、波の音が聞こえる。かもめが一羽、茜色の空を横切っていく。
「……あの日」
クライトの声は、静かだった。
「朝から、お前の姿が見えなかった」
「……はい」
「宿にも、港にも、いなかった。……町中、探した」
フレンダは、顔を上げた。
あの日。石段を下りてきたクライトの、上下していた肩。
探して、くれていたのだ。
朝から、ずっと。
「怒っては、いない」
クライトは、背を向けたまま言った。
「お前が、誰といようと、お前の自由だ」
その声は、平坦だった。いつもと同じ、抑揚のない声。
なのに、どうしてこんなに、遠く聞こえるのだろう。
「ただ……」
クライトの拳が、外套の陰で、ゆっくりと握られた。
「……俺には、言えないことか」
フレンダは、息を呑んだ。
答えようとした。違う、と言おうとした。
でも、言えなかった。
だって、言えないことは、本当にあるのだ。前世のこと。ゲームのこと。この世界の行く末を知っていること。
この人の父のことも、母のことも、本人から聞く前から知っていること。
全部、言えない。
フレンダの沈黙を、クライトはどう受け取ったのだろう。
クライトは、何も言わずに、再び歩き出した。
藍色の背中が、夕陽の中を、少しずつ遠ざかっていく。
追いかけられなかった。
足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。
フレンダは、坂の途中で、ひとり立ち尽くしていた。
外套のポケットの中で、赤いシーグラスが、ひやりと指先に触れた。
宿の部屋の枕元では、藍色の硝子玉が二つ、寄り添うように眠っているはずだ。
胸の奥の、ちくりとした痛みが。
今は、息ができないほど、大きくなっていた。




