第十二話
名簿の一件から、三日が経った。
ライは、何事もなかったかのように検問に立っていた。
商人に軽口を叩き、荷の底から甘い葉を見つけ出し、レオンと肩を組んで昼飯を食べる。
名前のない騎士だと全員に知られたことなど、まるで気にも留めていない様子だった。
それが、かえって不気味だった。
「……おい。あいつ、何考えてんだ」
ジークが、検問所の陰でぼそりと呟く。
「わかんない」
フレンダは、正直に答えた。
本当に、わからなかった。
稽古の日に見た、遠い目。革のように固い手のひら。名簿に名前がないと突きつけられても、「うん、ないだろうね」と笑った顔。
味方なら、なぜ何も話さないのか。
敵なら、なぜあんなに堂々としていられるのか。
「わかんないけど……ちゃんと見てる」
フレンダは、二つ隣の検問所で笑うライの横顔を見つめた。
「疑うのは、大事なことだって。……あの人自身が、そう言ってたから」
「……変な奴」
ジークは鼻を鳴らして、自分の持ち場に戻っていった。
クライトは、あの夜から口数がさらに減っていた。
騎士団長の印。ガルドがその言葉を口にしたとき、クライトの肩がわずかに動いたのを、フレンダは忘れていなかった。けれど、それを聞くことはできなかった。聞いてしまえば、自分がなぜそれを気にしているのか、説明しなければならなくなる。
ゲームで知っているから、なんて。言えるはずがなかった。
◇
その日の昼過ぎ、港の検問所で小さな騒ぎが起きた。
「放せ! 放せよ! 俺、何も知らねえって!」
甲高い声が、荷揚げ場に響いた。
駐屯地の騎士が、ひとりの少年の腕を掴んでいた。
十歳くらいだろうか。日に焼けた細い腕に、継ぎだらけの服。もう片方の手に、小さな布袋を握りしめている。
袋の口から、甘い香りが漂っていた。
「こいつ、この袋を倉庫街の裏口に届けようとしてたんだ」
騎士が、苦々しげに言った。
「中身は例の葉っぱだ。……ガキを使うなんて、汚え真似しやがる」
周りに、人だかりができ始めていた。商人たちが眉をひそめ、荷運びの男たちがひそひそと囁き合う。
「運び屋のガキか」
「親はどうしてるんだ」
「どうせ、金に目がくらんだんだろ」
少年は、唇を噛んで俯いていた。細い肩が、小刻みに震えている。
「……知らなかったんだ」
絞り出すような声だった。
「知らないおじさんが、銅貨三枚くれるって。これを届けたら、母ちゃんの薬代になるって。……中身なんて、知らなかったんだよ」
騎士が、困ったように頭を掻いた。
「知らなかったで済むか。とにかく、駐屯地まで来てもらう」
少年の顔が、くしゃりと歪んだ。
そのとき。
人だかりをかき分けて、小柄な影が飛び出してきた。
フレンダだった。
少年の前に、しゃがみこむ。目の高さを、少年と同じにする。
「ねえ。顔、上げて」
少年が、恐る恐る顔を上げた。
フレンダは、まっすぐにその目を見た。
「あなたは、悪くないよ」
周りのざわめきが、ぴたりと止んだ。
「お母さんのために、頑張ろうとしたんでしょ。それは、悪いことじゃない。悪いのは、あなたを騙して、こんなものを運ばせた大人のほう」
少年の目に、みるみる涙が溜まっていく。
「でもね」
フレンダは、少年の手から、布袋をそっと取り上げた。
「次からは、知らない人から渡されたものは、ちゃんと疑ってね」
「……疑う?」
「うん。これ、本当に大丈夫なのかなって。この人、本当に信じていいのかなって。疑うのは、悪いことじゃないよ。自分と、自分の大事な人を守るためなんだから」
フレンダは、少しだけ笑った。
「疑って、疑って、それでも信じたいって思える人だけ、信じればいいの」
少年は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、何度も頷いた。
フレンダは立ち上がり、騎士のほうを振り向いた。
「この子は、私が駐屯地まで連れて行きます。話を聞くだけですよね? 怖がらせないであげてください」
騎士は、しばらくフレンダを見下ろしていた。それから、毒気を抜かれたように苦笑した。
「……わかったよ、お嬢ちゃん」
フレンダは少年の手を取って、歩き出そうとした。
ふと、視線を感じた。
人だかりの端に、白い髪の男が立っていた。
ライだった。
いつものように、柔らかく笑っていた。人だかりの向こうから、ずっと、こちらを見ていたらしかった。
けれど。
フレンダと目が合った、その瞬間。
ライの笑顔が、固まった。
ほんの、一瞬だった。口元の笑みは形を保ったまま、目だけが、凍りついたように動かなくなった。灰とも紫ともつかない瞳の奥で、何かが、音もなく崩れ落ちたように見えた。
まるで、ずっと昔に置き去りにした何かを、不意に目の前に突きつけられたような顔。
「……ライ?」
フレンダが首を傾げる。
ライは、ひとつ、瞬きをした。
それから、ゆっくりと、笑顔を戻した。いつもより、ほんの少しだけ遅れて。
「――いいこと言うなあって、思っただけ」
いつもの、軽い声だった。
「お兄さん、感動しちゃった」
「……からかってるでしょ」
「ひどいなあ。本心なのに」
ライはひらりと手を振って、自分の持ち場へ戻っていった。
その背中を、フレンダは不思議そうに見送った。
ライは、一度も振り返らなかった。
検問所の陰に入ったところで、ライは足を止めた。積み上げられた木箱に背中を預けて、空を見上げる。
外套の内ポケットに、手を入れた。
指先が、色褪せたリボンに触れる。
しばらくの間、ライはそうして、動かなかった。
◇
その日の夕方、宿に一通の手紙が届いた。
ジーク宛てだった。
上質な紙に、見慣れない紋章の封蝋。食堂で受け取ったジークは、封蝋を見た瞬間、わずかに眉を寄せた。
「……実家からだ」
「ジークの家って、貴族なんだっけ?」
レオンが、身を乗り出す。
「別に。名ばかりの男爵家だよ。田舎の」
ぶっきらぼうに言いながら、ジークは封を切った。
便箋を広げる。目が、文字を追っていく。
その手が、止まった。
「……ジーク?」
セレナが、そっと声をかける。
ジークは答えなかった。便箋を持つ指先が、かすかに震えている。目が、何度も同じ行を往復している。
やがて、ジークは便箋を握りつぶした。
ぐしゃ、と紙が鳴る音が、食堂に響いた。
「……ふざけんな」
低い、押し殺した声だった。
「ジーク、どうした」
ガルドが、静かに問う。
ジークは、握りつぶした便箋を卓の上に叩きつけた。
「兄貴が……兄貴が、例の葉っぱに手ぇ出してた」
食堂が、凍りついた。
「王都の夜会で、勧められたんだと。眠れない夜に効く香だって。最初は香として焚いてただけだったのが、いつの間にか、それがないと眠れなくなって。ないと手が震えて、怒鳴って、物を壊して」
ジークの声が、途中で掠れた。
「親父とお袋が気づいたときには、もう、自分の部屋から出てこなくなってたって……」
誰も、何も言えなかった。
レオンが、ゆっくりと立ち上がり、ジークの肩に手を置いた。ジークはそれを振り払おうとして、払えずに、肩を震わせた。
「……兄貴は、昔から真面目な奴だったんだ」
ジークは、卓の上の便箋を睨みつけていた。
「跡取りだからって、毎晩遅くまで帳簿つけて、領地のこと考えて。俺みたいに剣ばっか振ってる弟のことも、ずっと、黙って庇ってくれてて」
奥歯を噛みしめる音が、聞こえた気がした。
「そういう奴だから、眠れなかったんだよ。そういう奴だから、狙われたんだよ」
「ジーク……」
「同情すんな」
ジークは、顔を伏せたまま言った。
「同情なんかされたら、俺は、ここで泣く。……それだけは、絶対に嫌だ」
いつもの棘のある口調だった。けれど、そこにはもう、誰かを遠ざけるための棘はなかった。
フレンダは、喉の奥が熱くなった。
(ゲームの設定だ)
密輸の目的は、違法ハーブの普及。王国の目が王子の捜索に向いている間に、貴族を中心に中毒者が続出する。
ゲームの中では、それはただの「設定」だった。物語の背景に書かれた、一行の説明文。
でも、ここでは違う。
その一行の向こうに、ジークの兄がいる。眠れない夜を過ごしていた、真面目な誰かがいる。
「……お兄さん、今は?」
セレナが、静かに尋ねた。
ジークは、少しだけ顔を上げた。
「家で、療養してる。王都から、腕のいい医者が来てくれてるらしい」
「お医者様が?」
「ああ。宮廷医の、ヴェルナー先生。親父の昔の伝手で、わざわざ田舎まで来てくださってるって」
ジークは、握りつぶした便箋を、そっと広げ直した。
「すげえ優しい人なんだと。兄貴の手を握って、『必ず良くなります、私に任せてください』って。……お袋が、泣きながら書いてる」
その瞬間。
フレンダは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
なぜかは、わからなかった。
ジークの言葉に、おかしなところは何もない。腕のいい医者。優しい人。必ず良くなる。それは、きっといい知らせのはずだ。
(宮廷医……ヴェルナー)
ゲームの中に、その名前はあっただろうか。
思い出せない。思い出せないのに、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
食堂の隅、窓際の席。いつの間にかそこに座っていたライが、ジークのほうを見ていた。
いつもの余裕たっぷりの笑みはなかった。
灰とも紫ともつかない瞳が、まっすぐに、卓の上の便箋を見つめていた。その目の奥で、何かが、静かに燃えているように見えた。
フレンダと目が合う。
ライは、ふっといつもの笑みを浮かべて、窓の外へ視線を逸らした。
◇
その夜、ジークは眠れなかった。
相部屋のノアの寝息が規則正しく聞こえる。レオンのいびきが、壁越しに響いてくる。
ジークは、そっとベッドを抜け出した。
剣を腰に差し、外套を引っかけて、宿の裏口から外へ出る。
夜風が、火照った頬に冷たかった。
(……くそ)
何をしたいわけでもなかった。ただ、じっとしていると、兄の顔ばかりが浮かんできた。夜遅くまで帳簿をつけていた背中。剣ばかり振っている弟に、何も言わずに差し入れを置いていった手。
その手が、今、震えている。
ジークは、拳を握りしめて歩いた。宿の前の広場を抜け、港へ続く坂を下る。月は細く、街灯もまばらで、路地の奥は墨を流したように暗い。
坂の途中で、ジークは足を止めた。
声が、聞こえた。
倉庫街へ続く細い路地の奥から。低く、くぐもった、男の声。
ジークは、反射的に壁に身を寄せた。気配を殺す。剣の柄に手をかける。
そっと、路地の奥を覗き込んだ。
月明かりが、細く差し込んでいた。
その光の中に、二つの人影が立っていた。
ひとりは、背の高い男。仕立ての良い外套。後ろに撫でつけた、灰色の髪。
ジークは、息を呑んだ。
(あいつ……港で、フレンダが食ってかかった……!)
何も出てこなかった、あの商人だ。
そして、もうひとり。
灰色の髪の男と向かい合って、壁にもたれるように立っている人影。
月光を浴びて、淡く光る髪。
白い髪だった。
(……ライ)
ジークの心臓が、どくんと跳ねた。
二人は、何かを話していた。声は低く、ジークのいる場所までは、言葉までは届かない。ただ、灰色の髪の男の口元が、薄く笑っているのが見えた。
ライの顔は、こちらからは影になって見えなかった。
灰色の男が、何かを差し出した。小さな、布の包みのようなもの。
ライが、それを受け取った。
ジークの手が、剣の柄を握りしめた。
(受け取った……今、受け取ったよな)
飛び出すべきか。今なら、二人まとめて――。
いや、無理だ。あの稽古の日を思い出す。六度目で弾き飛ばされた自分の剣。汗ひとつかかずに七人を相手にした男。
ひとりでは、勝てない。
灰色の髪の男が、軽く会釈をした。それから外套の裾を翻し、路地のさらに奥、闇の中へと消えていった。
ライは、ひとり残された。
手の中の包みを見下ろしている。
そして。
ゆっくりと、こちらを振り向いた。
ジークは、とっさに壁の陰に身を引いた。
息を止める。心臓の音が、耳の奥でうるさいほど鳴っている。
足音は、しなかった。
一秒。二秒。三秒。
恐る恐る、もう一度覗き込む。
路地には、もう誰もいなかった。
月明かりだけが、湿った石畳を白く照らしていた。
ジークは、壁に背中を預けたまま、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。
額に、冷たい汗が滲んでいた。
(……あいつ)
灰色の髪の男と、会っていた。何かを受け取っていた。
そして、振り向いた。
気づかれていたのか。いなかったのか。
確かめる術は、なかった。
ジークは、震える手で、外套の胸元を握りしめた。
ポケットの中で、握りつぶした兄の手紙が、かさりと音を立てた。




