第十一話
「ライ。私に、稽古をつけてください」
朝の食堂に、フレンダの声が響いた。
スープをすくっていたレオンの手が止まり、ジークがパンをかじったまま固まる。セレナとアルマが顔を見合わせ、ノアが眼鏡の奥で目を瞬かせた。クライトは、スプーンを置いた。
名指しされた当の本人は、黒パンを片手に、のんびりと首を傾げた。
「えー、俺?」
「そう。ライに」
フレンダは、ライの前にまっすぐ立っていた。
昨夜、毛布の中でずっと考えていた。
倉庫街で、ナイフを向けられたとき。剣を抜くのが、間に合わなかった。ライがいなければ、刺されていた。
廃墟でアルマを守れたのは、みんながいたからだ。でも、もしまた、ゲームにない何かが起きたら。
(もっと、強くならなきゃ)
そして、この中で、まだ底が見えないのは、ライだけだった。
「あの蹴り、見たの。あんなの、ただの騎士の動きじゃない。……強いんでしょ?」
ライは、黒パンをもぐもぐと噛みながら、しばらくフレンダを見上げていた。
「面倒だなあ」
「お願いします」
「俺、教えるの下手だよ?」
「お願いします」
頭を下げる。ツインテールが、ぱさりと肩から落ちた。
ライは、小さく息を吐いた。それから、なぜか少しだけ目を細めて、笑った。
「……しょうがないなあ。いいよ」
「――俺も頼む!」
がたっ、とレオンが立ち上がった。
「あの蹴り、俺も見たかったんだよな! っていうか、現役の騎士に稽古つけてもらえる機会なんてそうないし!」
「……俺も、やる」
ジークが、そっぽを向きながら手を挙げた。
「別に、こいつが強いかどうか確かめたいだけだ。勘違いすんなよ」
「僕もお願いしたいです。ライさんの動きは、理屈で説明がつかない部分が多いので」
ノアが眼鏡を押し上げる。セレナが「私も!」と目を輝かせ、アルマが「じゃあ、僕も」と続いた。
ライは、ずらりと並んだ顔を見回して、天井を仰いだ。
「……ねえガルドさん、これって俺、今日一日ずっと働かされるやつ?」
御者と話していたガルドが、振り向いた。
「今日は風が強い。入港する船もほとんどない。検問は駐屯地の連中で回せる」
ガルドは、腕を組んでライを見た。
「……俺も、お前の剣は見ておきたい」
何かを測るような目だった。
ライは、肩をすくめた。
「はいはい。じゃあ、今日は一日、稽古の日ってことで」
その間、クライトは一言も発さなかった。ただ、ライを見ていた。
◇
駐屯地の訓練場は、海からの強い風が砂を巻き上げていた。
ライは、借り物の木剣を片手でくるくると回しながら、砂地の真ん中に立った。
騎士団の外套は脱いで、薄手のシャツ一枚。腕まくりした前腕は、思ったより細かった。
「じゃ、誰からでもどうぞ~」
「よっしゃ、俺から!」
レオンが、木製の大剣を担いで進み出た。
「手加減しないぞ、ライ!」
「うん、しなくていいよ」
レオンが踏み込む。大剣が、唸りを上げて横薙ぎに振るわれた。廃墟で二人の男をまとめて押し返した、あの一撃だ。
ライは、半歩、下がっただけだった。
大剣の切っ先が、ライの胸元すれすれを通り過ぎる。風圧で、白い髪がふわりと揺れた。レオンが返す刀で斬り上げる。ライは、今度は首を傾けただけだった。
「えっ」
「力はすごいね、レオンくん。でも、振る前に肩が下がるから、どっちに来るか全部わかっちゃう」
とん、と。
いつの間にかレオンの懐にいたライの木剣が、レオンの脇腹を軽く叩いた。
「はい、一本」
「……え、今、いつ入った?」
レオンが、ぽかんと口を開けた。
◇
次はジークだった。
「……行くぞ」
捜索隊の中で、ジークは誰よりも速い。廃墟でも、柱の陰の敵を一瞬で仕留めてみせた。
砂を蹴る。木剣が、ライの喉元へ一直線に伸びる。
ライの姿が、消えた。
――いや、消えたように見えた。
ジークの突きは空を切り、その背後に、白い髪の男が立っていた。木剣の先で、ジークの後頭部をこつんとつつく。
「速いね。でも、速いだけ」
「っ、くそっ……!」
ジークは振り向きざまに斬りつけた。三度、四度、五度。目にも留まらない連撃。
ライは、そのすべてを木剣で受けていた。受け流すでもなく、弾くでもなく。ただ、置いておくように。ジークの剣が、まるで吸い込まれるように、ライの剣の上に落ちていく。
「ほら、最初の一撃が外れると、焦って全部同じ高さになる」
六度目。ジークの木剣が、宙を舞った。
「……っ」
ジークは、砂の上に転がった自分の剣を、呆然と見下ろしていた。
◇
ノアは、ライの動きを観察しながら慎重に間合いを測り、三度ほど打ち合ったところで、自分から剣を下ろした。
「……わかりません。ライさんの次の動きが、まったく読めない」
「お、正直」
「癖がないんです。いえ、正確には、癖を毎回変えている。わざと、ですよね?」
ライは、にこりと笑った。
「さあ?」
ノアは、眼鏡の奥で、じっとライを見つめていた。
セレナとアルマは、二人がかりで挑んだ。息の合った連携。セレナが正面から打ち込み、アルマが側面に回り込む。廃墟で見せた、互いの背中を知り尽くした動き。
ライは、それを五合ほど楽しそうに受けたあと、ふいに二人の間へ滑り込んだ。
「二人とも、相手のほうばっかり見てる」
セレナの剣を払い、アルマの剣を払い。二人の木剣が、からん、と同時に砂に落ちた。
「お互いを守ろうとしすぎて、自分の前が空いてるよ。大事な人を守りたいなら、まず自分が倒れないこと。」
セレナとアルマは、顔を見合わせた。それから、少し照れくさそうに、互いから目を逸らした。
◇
「次、私!」
フレンダは、木剣を構えて進み出た。
ライは、くるくると回していた木剣を止めて、フレンダを見た。
「どうぞ」
低く構える。クライトに教わった、懐へ潜り込むための構え。
(下から入る)
フレンダは砂を蹴った。ライの剣の下へ、滑り込むように。
入れた、と思った。
ライの胴が、すぐ目の前にあった。柄頭を突き上げる。
と。その手首を、ぱし、と掴まれた。
「――っ」
「懐に入るのは、上手」
頭の上から、ライの声が降ってきた。
「でも、入ったあと、どうやって逃げるか考えてた?」
掴まれた手首が、動かない。引こうとしても、押そうとしても。力を込めているようには見えないのに、指の一本も動かせない。
「小さい子が懐に入るのは、相手が反応できないうちに勝負を決めるため。でも、決めきれなかったら? 相手の腕の中にいるってことは、捕まったら終わりってことだよ」
フレンダは、ライの顔を見上げた。
ライは、笑っていなかった。
灰とも紫ともつかない瞳が、じっとフレンダを見下ろしている。
けれど、その目は、どこか遠くを見ているようだった。フレンダを通り越して、もっと遠くの、ここにはいない誰かを。
「……ライ?」
呼ぶと、ライの目が、ふっと焦点を結んだ。
そして、すぐにいつもの笑みが戻った。
「はい、一本。もう一回やる?」
ぱっと手首を離される。フレンダはよろめいて、砂の上に尻もちをついた。
「……やる!」
「いいね、その意気」
フレンダは、それから何度もライに挑んだ。そのたびに転がされ、砂まみれになり、それでも立ち上がった。
休憩のとき、ライが水筒を差し出してくれた。受け取ろうとして、指先が彼の手のひらに触れる。
硬かった。
剣だこ、なんて生易しいものではなかった。手のひら全体が、まるで革のように固く、分厚くなっている。
皮が剥けては固まり、また剥けては固まり、何年も、何年も、それを繰り返してきた手。
クライトの手も、硬い。けれど、これは。
(……どれだけ、剣を振ったら、こんな手になるの)
顔を上げると、ライはもう背を向けて、レオンに「次やる?」と声をかけていた。
◇
日が傾く頃には、捜索隊の面々は全員、砂の上にへたりこんでいた。
レオンは大の字になって「腕がもう上がらねえ……」と呻き、ジークは膝を抱えて無言で砂を睨んでいる。
ノアは手帳に何かを猛烈な勢いで書き込み、セレナとアルマは背中合わせに座って息を整えていた。
フレンダも、全身砂まみれだった。
そして、ライは。
訓練場の真ん中に、朝と同じ姿勢で立っていた。
汗ひとつ、かいていなかった。
額も、首筋も、さらりと乾いている。薄手のシャツには、皺ひとつ寄っていない。朝から日暮れまで、七人を相手にし続けたというのに。
「……あいつ、化け物か」
ジークが、ぼそりと呟いた。
「――最後に、俺とやってくれ」
静かな声がした。
クライトだった。
一日中、壁際で黙って見ていたクライトが、木剣を手に、砂地へ進み出ていた。
ライは、くるりと振り向いた。
「お、真打ち登場?」
「……」
クライトは答えず、構えた。
訓練場の空気が、変わった。へたりこんでいた面々が、思わず身を起こす。
クライトが、踏み込んだ。
速い。重い。無駄がない。捜索隊で一番の剣。夜の訓練場で、フレンダが一度もまともに打ち合えたことのない、あの剣。
ライが、受けた。
かん、と乾いた音。そこから、打ち合いが始まった。
かん。かきん。がっ。かん、かん、かん。
今日初めて、ライが「受けて」いた。かわすのでも、流すのでもなく。正面から、剣と剣をぶつけ合っていた。
クライトの剣が、上から、横から、下から、間断なく襲いかかる。ライはそれを、一歩も引かずに受け続ける。砂が舞い、二人の影が夕陽の中で目まぐるしく交差する。
「すげえ……」
レオンが、息を呑んだ。
フレンダは、瞬きも忘れて見つめていた。
(クライト先輩が……押してる?)
いや、違う。
クライトの額に、汗が滲んでいた。息が、わずかに上がり始めている。一撃ごとに、その剣が重く、鋭くなっていく。全力だった。
ライの顔は、変わらなかった。
穏やかに、にこにこと。まるで、散歩でもしているような顔で。
二十合を超えた頃。
クライトの渾身の一撃を、ライが受けた。そのまま、ライの剣がするりとクライトの剣に沿って滑り、その鍔元で止まった。
二人の動きが、止まる。
「――はい。今日は、ここまで」
ライが、ぱっと剣を引いた。
「さすがに疲れちゃった。もうお腹ぺこぺこ」
そう言いながら、ライは木剣を肩に担いで、ふらりと訓練場の出口へ歩き出した。
疲れた、と言ったその顔にも、首筋にも。やはり、汗ひとつ浮かんでいなかった。
クライトは、その場に立ち尽くしていた。
肩が、大きく上下している。こめかみから、汗が一筋、顎へと伝い落ちた。
そして、木剣を握る手が。
白くなるほど、強く、握りしめられていた。
(……クライト先輩)
フレンダは、息を呑んだ。
いつもの無表情だった。けれど、その奥歯を噛みしめた顎の線も、わずかに寄った眉間も、乱れた呼吸を必死に整えようとする肩も。
悔しい、と、全身が言っていた。
フレンダは、初めて見た。クライトが、誰かに対して、こんなふうに悔しさを滲ませるところを。
◇
その夜、ライは夕食の席に姿を見せなかった。
「疲れたから先に寝る、だってさ」
レオンが、肩をすくめた。
「汗ひとつかいてなかったくせに」
ジークが、不機嫌そうにスープをかき混ぜる。
食卓に、奇妙な沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、ノアだった。
「……少し、いいですか」
ノアは、卓の上に一冊の帳面を置いた。分厚い、革張りの帳面。
「駐屯地の書庫にあった、王国騎士団の在籍名簿の写しです。毎年、本部から各駐屯地に配られているもので。今日、稽古の合間に、隊長の許可をもらって借りてきました」
ノアの指が、帳面の頁をめくる。
「現役の騎士、見習い、退役者、殉職者。ここ二十年分の名前が、すべて載っています」
「……それで?」
ガルドの声が、低くなった。
ノアは、眼鏡を押し上げた。
「ライ、という名の騎士は、この名簿のどこにもいません」
食堂の空気が、凍りついた。
「あそこまで強いなら一体何年騎士をやっているのだろうと気になったんです。ライは僕たちの少し上のように見えるので。偽名の可能性も考えて、白い髪、年齢などから推測できる範囲で、特徴の合う人物も探しました。……該当する人物は、一人もいません」
「名簿が古いだけ、ってことは」
レオンが、恐る恐る口を開いた。
「今年の春に配られた最新版です」
ノアが静かに首を振ると、全員の視線がガルドに集まった。
ガルドは、腕を組んだまま、長いこと黙っていた。
「……本部の命令書は、本物だった」
ようやく、絞り出すように言った。
「紙も、文面も、封蝋も。俺は十年以上騎士団にいる。偽物なら、見ればわかる」
ガルドは、そこで一度、言葉を切った。
「騎士団長の印も、押されていた」
クライトの肩が、ほんのわずかに動いた。
フレンダは、それを見逃さなかった。
(騎士団長……クライト先輩の、お父さん)
ガルドの顔は、晴れなかった。眉間に深いしわを刻み、目の下の隈がいつもより濃く見える。
「命令書は本物。だが、名簿に名前はない。……どういうことなのか、俺にもわからん」
「じゃあ、あいつは何者なんだよ」
ジークが、低く唸った。
「名前もない騎士が、なんでこの捜索隊に送り込まれてくるんだ。あんな化け物みたいな腕で」
「でも、ライさんはフレンダを助けてくれたよ」
セレナが、困ったように言った。
「今日だって、私たちにちゃんと教えてくれた。悪い人には、見えなかった」
「見えないから、怖いんだろ」
ジークの言葉に、誰も反論できなかった。
フレンダは、膝の上で、ぎゅっと拳を握っていた。
砂の上で手首を掴まれたときの、あの遠い目。革のように固い手のひら。「大事な人を守りたいなら、まず自分が倒れないこと」という、低い声。
悪い人には、見えなかった。
でも、何も、わからなかった。
「――あれ、みんなで俺の噂?」
全員が、弾かれたように振り向いた。
食堂の入り口に、ライが立っていた。
寝間着の上に外套を羽織って、髪には寝癖がついている。ふわあ、と大きなあくびをしながら、扉の枠にもたれかかっていた。
いつから、そこにいたのか。
誰も、気づかなかった。
「喉渇いちゃってさ。水もらいに来たんだけど」
ライの目が、卓の上の帳面に留まった。
ノアの手が、無意識に帳面の上に置かれる。
「……ライさん」
ノアが、まっすぐにライを見た。
「騎士団の名簿に、あなたの名前がありません」
食堂が、しんと静まり返る。
ライは、きょとんと目を瞬かせた。
それから。
「うん。ないだろうね」
あっさりと、言った。
「……え」
「だって俺、載ってないもん」
にこにこと。何でもないことのように。
ノアが、言葉を失う。ジークが、椅子を蹴るようにして立ち上がりかけ、レオンに肩を押さえられた。
ライは、そんな面々を見回して、楽しそうに目を細めた。
「いいね、ノアくん。優秀だ」
「……は?」
「ちゃんと疑って、ちゃんと調べた」
ライは、ひらひらと手を振りながら、厨房のほうへ歩いていく。水差しから杯に水を注ぎ、一息に飲み干した。
「あ、ガルドさん。命令書が本物なのは、保証するよ。疑うなら、本部に問い合わせてくれてもいいし」
「……問い合わせたら、何がわかる」
ガルドの低い問いに、ライは振り向いた。
「どうだろうね?」
杯を置く。
「たぶん、返事はこないんじゃないかな?」
にこりと笑って、ライは食堂を出ていった。
「おやすみ~。明日も早いからみんなも寝たほうがいいよ」
軽い足音が、階段を上っていく。
残された一同は、誰も、しばらく口を開けなかった。
フレンダは、ライが出ていった扉を見つめていた。
名簿に名前がないと突きつけられても。全員に疑いの目を向けられても。あの人は、ほんの少しも揺らがなかった。
味方なのか。敵なのか。
その問いに、ライはいつもはぐらかして笑う。
(……わからない。本当に、わからない)
隣で、クライトが、静かに席を立った。何も言わずに、食堂を出ていく。
「騎士団長の印」という言葉を聞いたときの、彼の肩の動きを、フレンダは思い出していた。
◇
宿の屋根の上に、白い影がひとつあった。
寝間着の上に外套を羽織ったまま、ライは膝を抱えて、黒い海を見下ろしていた。
風が強い。白い髪が、千切れそうなほどなびいている。
ライは、外套の内ポケットから、何かを取り出した。
細い、色褪せたリボンだった。もとは、鮮やかな赤だったのだろう。今はくすんで、端がほつれている。
ライは、それを指先に巻きつけて、しばらく眺めていた。
月が、雲に隠れる。屋根の上は、闇に沈んだ。
再び月が顔を出したとき、そこにはもう、誰の姿もなかった。




