Ⅸ
「お前は……かつて天界文明の母であり、『神性』の発見者。あらゆる万物から愛され、誰もがその存在に恩を抱く『慈愛の女神、ミュゼリアーナ』の、多大なる祝福を受けている」
(慈愛の女神……ミュゼリアーナ様……?)
私の胸の奥が、カサリと音を立てた。
「お前のその、何事にも揺らぐことのない『凪いだ心』。如何なる悪意を向けられても尚、傷つかず、すべての理をあたたかく受け入れる幸福心。……運命も味方している。本来は互いに出会うことは叶わなかっただろう。……それらはすべて、お前自身の資質ではない。ミュゼリアーナが、お前の魂に施した神の加護であり、祝福そのものなのだ」
(――ああ……)
私は、妙に納得していた。
なぜ自分が、前世でどれほど傷つき、この世界でどれほど虐げられても、怒りや悲しみを抱くことができなかったのか。
私の心と体が、常に雲の上にあるようにふわふわと軽く、世界全体が光に包まれているように思えた理由。
私を害しようとする人々が、私が何もしなくても勝手に破滅し、自滅していった不可解な事象。
それはすべて、神の圧倒的な愛と加護が、私の周囲の「世界そのもの」を歪め、保護していたからなのだ。
「私は堕天使となり、天界へ足を踏み入れることは二度と叶わぬ」
スロニエルグラフィエルの声が、低く、重く響く。
「故に……かの女神の寵愛を受け、世界の縮図のような慈愛を体現しているお前に、問いたいのだ」
止まった刻の中、白銀と黄金の光が渦を巻き、私を取り囲んだ。
スロニエルグラフィエルの存在感が増し、私の意識を押し潰さんばかりの圧力がかかる。
「仮に……その神の加護を奪われ、怒りや悲しみ、激痛や絶望といった生々しい感情を取り戻すことになったとしても……。お前は再び、あの美しい天界の神々が作り上げた、平和という名の『檻』の中で生きたいと思うか?」
スロニエルグラフィエルの黄金の甲冑の奥で、仄暗い光が宿った。
「それとも――神々の平和を拒み、自由と混沌が渦巻く、この泥に塗れた地上で、己の足で歩みたいと思うか?」
問いかけが、空間に静かに滞留した。
神の加護によって護られた、どこまでも穏やかで、争いのない「絶対の平和」。
それはまさに、私がいま享受している、一切のさざ波がない「凪」の世界そのものであった。
だが、それは見方を変えれば、スロニエル様の言う通り、神の手によってあらかじめ決められた、絶対的な「檻」に過ぎない。
私は止まった時の中で、固まっているカシウスの姿に視線をやった。
私を守ろうと、命を懸けて剣を抜こうとしていた騎士。
彼は、神の加護による都合の良い幸運などではなく、自らの意思で、苦しみながらも私を選び、歩んでくれようとしていた。
私の心の中に、これまでになかった、小さな小さな波紋が生まれた。
それは、神が与えてくれた「凪」ではなく、私自身の魂が紡ぎ出そうとする、最初の静かな問いかけであった。
「……スロニエル様」
私は、ゆっくりと口を開いた。
止まった刻の最奥、凄まじい光の海の中で、私は自身の内側と向き合い始めていた。
光の海のなかで、私の思考は冷ややかな刃のように研ぎ澄まされていった。
スロニエル様が明かした真実――私を包んでいたあの「凪」の正体。それは私の性格でも、前世の傷が生んだ防衛本能でもなく、慈愛の女神ミュゼリアーナ様が私の魂に施した『永遠の安寧』という絶対の加護であったという事実。
その理を理解した瞬間、胸の奥底で小さな、けれど鋭い亀裂が走る音が聞こえた。
(ならば……カシウス様の、あの狂おしいほどの情愛は……?)
思い返せば、彼は私を聖女のように崇め、自らの命すら軽々と投げ出す覚悟で側にいてくれた。けれど、それは本当に「私」に向けられた想いだったのだろうか。
神の加護が私の周りに漂わせる、抗いがたい幸福の残り香。あらゆる悪意を跳ね返し、周囲の人間を自発的に屈服させる神聖な磁場。カシウス様は、その圧倒的な絶対性に魅了され、酔いしれていただけではないのか。
神の祝福という外衣を剥ぎ取られたとき、私の手元には何が残るのだろう。
もし、この加護を捨て去ったなら――。
私は一転して、第二皇子暗殺計画を企てた悪徳のヴァレリウス公爵家の娘となり、国家を揺るがした逆賊の一味として指名手配され続けるかもしれない。
あのように物分りよく道を開けてくれた検問の兵士たちは、二度と私に笑顔を向けることはないだろう。無慈悲な刃を突きつけ、私を捕縛し、冷たい牢獄へと引きずり込むに違いない。
神の助けは失われ、私を庇護する理も消え失せる。天国という名の約束された平穏の地へ赴くことも叶わず、ただ泥に塗れた地上で追われる身となるのだ。
そして――何より恐ろしいのは。
祝福を失った私を見たカシウスが、急冷された鉄のように冷淡な瞳になり、私を見捨てるかもしれないという恐怖だった。
しかし、私の心の中に渦巻いていたのは、冷たい絶望ではなかった。
むしろ、生まれて初めて「自分の足で大地を踏みしめている」という、生々しく血の通った熱量だった。
「……スロニエル様」
私は、凝固した時の中で、ゆっくりと口を開いた。言葉の一つひとつが、光の海を小さく揺らしていく。
「私は……真実を選びます」
黄金の甲冑を纏った天使が、かすかに翼の光を明滅した。四つの光翼から散る白銀の粒子が、私と彼の間の空間でほんの僅かに不規則に乱れる。
「真実?」
「はい。もしその真実が、息もできないほどの苦しみであっても。もしその真実が、誰からも振り返られない孤独であっても。……そして、もし、カシウス様に拒絶されるという最悪の結果であったとしても」
私は、一歩、歩みを進めた。実体のない大理石の床を踏みしめる感覚は覚束なかったが、私の声には一度も抱いたことのない強固な意志が宿っていた。
「神が保証してくださった、歪みのない偽りの幸福などではなく……私は、私自身の人生を知りたいのです。痛みを痛みとして感じ、悲しみに涙し、それでも誰かの手を握りしめるという、本当の『生』を」
スロニエル様の兜の奥から、低く、押し殺したような声が漏れた。
「アウレリア。その祝福を捨てれば、お前を守る世界は霧散する。お前がこれまで感じていた世界は一変し、牙を剥いてお前に襲いかかるだろう。カシウスという愛すら、加護の副産物に過ぎなかったと知れば、お前の心は絶望の泥濘に沈み、二度と這い上がれなくなる」
「ええ……分かっております」
私は静かに首を頷かせた。胸の奥で、前世で感じたような、痛切で、けれどどこか愛おしい揺らぎが芽生え始めていた。
「もし……祝福を失った途端に、カシウス様が私を見捨てるのだとすれば、それこそが真実なのでしょう。寂しくはありますが、私はそれでも構いません」
私は、固まったままのカシウスの横顔を見つめた。
動かない彼の瞳に映る、自分の不完全な影を。
「神に愛されているから愛される私、などではなく……。祝福を失い、ただの一人の人間となった私自身を、もし……彼がなお選んでくださるのだとしたら。私は、そのたった一度の真実だけで、この生涯のすべてを報われたと思えるでしょう」
言葉が途切れると、大聖堂の止まった空間に、深淵のような静寂が落ちた。
スロニエル様は、しばらくの間、微動だにしなかった。
神に反逆し、幾千年の時を地獄の泥中で過ごしてきた堕天使は、私の言葉を、己の魂の傷口に触れられたかのように吟味していた。
やがて、彼は重々しい息を吐き出した。その響きには、どこか切なく、そして哀憐に満ちた色が混ざり込んでいた。
「……奇妙なものだな。かつて神に背いた私と、お前。手放すものは同じでありながら……その目的は、似ても似つかぬ」
堕天使の翼が、静かに光を減じていく。




