Ⅹ
「私は自由のために平和を捨てた。だがお前は……真実の愛を確かめるために、神の庇護を捨てるという。実に面白い」
スロニエル様は、その巨大な手輪を私の頭上にかざした。
「アウレリア。ミュゼリアーナの祝福は、その意思と共に解かれるだろう。行くといい。お前が選んだ、痛みに満ちた真実の世界へ」
――直後。
胸の深核で、何かがパチンと弾ける音がした。
温かく、私を包み込んでいた透明な膜が、潮が引くように剥がれ落ちていく。
全身を襲うのは、圧倒的な「重力」だった。
空気に冷気を感じる。肌を刺す風の冷たさ、服の摩擦、そして胸の奥で打つ、早鐘のような生々しい心臓の鼓動。
恐れ、不安、焦燥、そして愛おしさ――何十もの複雑な感情が、かつて途絶えていた堤防を倒壊させて、私の内側へと怒濤のように雪崩れ込んできた。
視界を覆っていた無窮の光の海が霧散し、大聖堂の本来の色彩が戻ってくる。
そして――。
世界が、激しい「音」とともに動き出した。
「な、なんだこの光はっ!?」
「ひぃいっ!? 目が!!」
「ああ神よ! はっ!? あそこに何かいる……! 天使だ、いや、まさかっ!?」
止まっていた刻が動き出した瞬間、大聖堂内は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。
圧倒的なスロニエルの巨影を目撃した聖職者や聖騎士たちが、半狂乱となって悲鳴を上げ、転倒し、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
ろうそくの炎が激しく揺れ、聖堂内は激しい光の海で覆われている。舞い散る光の胞子は美しい音を立てて鳴り響いていた。
「――っ!? アウレリア様!!」
隣で固まっていたカシウスが、弾かれたように動き出した。
彼は眼前で起きている異常事態と、光の残り香に目を剥き、激しくたじろいだ。その表情には、見たこともないほどの動揺と困惑が走っている。
加護は、もうない。
今の私は、世界から守られた無敵の令嬢ではない。ただの、儚く、傷つきやすい一人の人間に過ぎない。
私は震える脚を踏みしめ、カシウスの前に立った。
心臓が激しく脈打ち、喉が干からびるほどに渇いていた。これが「恐怖」という感情なのだと、私は生身の身体で理解していた。
「カシウス様」
私は、彼の名を呼んだ。
その声は、かつてのような浮世離れした「凪」を失い、かすかに途切れ、震えていた。
カシウスがハッと息をのみ、私を見つめ返してきた。
彼の青い瞳の奥で、混乱と、何かが削ぎ落とされたような生々しい戸惑いが渦巻いている。
「アウレリア様……? あなた、は……」
彼は自分の手を見つめ、それから私を見た。
彼の中にあった、神の加護による「強制された魅了」が完全に消え去ったのだ。
今の彼は、ヴァレリウス公爵家の専属護衛騎士でも、神の威光に眩む信徒でもない。ただの、一人の男として、私の前に立っている。
私は、息を整え、逃げ出したいほどの恐怖を抑え込んで、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「カシウス様。私を包んでいた神の祝福は、今、消えました。私はもう、皆様から愛される者ではありません。……私のお父様は大罪人であり、私はその娘として、これから帝国中から追われる身となります。私と一緒にいても、あなたには苦しみと死しか訪れません」
私は、自分の手をそっと彼へと伸ばした。
その手は、冷たく、情けなく震えていた。
「私を捨てて、お逃げになっても構いません。それが……あなたの本当の意思であるならば。私には、あなたを縛る力は何もありません」
告白を終えた瞬間、大聖堂の喧騒が遠のいたかのように感じられた。
私の全存在が、彼の次の言葉、次の動きだけに集中していた。もし彼がこの手を振り払い、背を向けて去っていくのなら――私はその絶望を受け入れ、一人で泥道を歩むつもりだった。
カシウスは、私の震える手をじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし――。
痛いほどの力で、私の手を握り締めた。
「……何をおっしゃっているのですか、アウレリア様」
カシウスの声は、低く、かすれていた。けれど、そこには神の加護など比較にならないほど、重厚で、熱い血の通った「意志」が宿っていた。
「祝福が消えた? 追われる身になる?……そんなことが、私があなたから離れる理由と、何の関係があるというのですか」
カシウスは膝をつき、私の握りしめた手を自らの額に押し当てた。
彼の手の平から伝わってくるのは、荒々しいほどの熱と、確かな脈動だった。
「私は……あのような不気味なほどの平穏に包まれたあなたではなく、いま、こうして震えながら私を見つめてくださる『あなた』を……アウレリア様という一人の女性を、心から愛しています。神の加護など、最初からどうでもよかったのです……! 寧ろ、不要でした」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、温かな感情が爆発した。
目頭が熱くなり、頬を伝ってポロポロと透明な粒がこぼれ落ちていく。前世でも、今生でも一度も流したことのなかった――「嬉し涙」だった。
神の作った偽りの天国ではない。
自分の足で立ち、自分の意志で手を伸ばした先にあった、たったひとつの、紛れもない真実の愛。
「……カシウス様……っ!」
「参りましょう、アウレリア様! ここも、もう危険です!」
カシウスは私を立ち上がらせると、その手を力強く引き寄せた。
「はいっ!」
私たちは手を取り合い、阿鼻叫喚と化した大聖堂の廊下を激しく駆け出した。
混乱した聖職者たちが悲鳴を上げて走り惑っている。スロニエルグラフィエルの顕現という未曾有の事態に、聖地は完全に機能を失っていた。
私たちは人波をかき分け、重厚な大門を破るようにして外へと飛び出した。
夕闇が迫る大聖堂の前庭。
そこには、騒ぎを聞きつけた帝国の衛兵たちが集まり始めていた。
その中の一人――手に羊皮紙で刷られた追討の布告書を持っていた兵士が、聖堂から飛び出してきた私たちを目留め、目を見開いた。
「な……なんだあの騒ぎは!? ……待て! あそこにいる女は……!」
兵士は手元の手配書と私の顔を何度も見比べ、顔色を変えて叫んだ。
「間違いない! 第二皇子殿下暗殺未遂および謀反の疑いがかかっている、ヴァレリウス公爵家の娘――アウレリア・ヴァレリウスだ! あいつだ! あいつを捕らえろ! 止まれぇっ!」
「物分りの良さ」は微塵もなかった。
兵士たちは槍を構え、凶暴な怒号を上げながら、私たちに向かってきていた。
加護は、本当に消えたのだ。
もう、世界は私に優しくなどない。私を容赦なく踏みにじり、拘束しようとする酷薄な現実が、すぐそこまで迫っていた。
私たちは停めてあった馬車へと疾走した。
恐怖が、感情が、私の全身を駆け巡る。
カシウス様が素早く御者台に飛び乗り、私を力強く引き引っ張り上げた。
「ハッ!!」
カシウスが鞭を振るうと、二頭の馬が嘶き、馬車は急発進した。
ドガガガガッ! と車輪が石畳を激しく削り、追撃してくる兵士たちの群れを間一髪で振り切っていく。
「追え! 馬を出せ! 逃がすなあああっ!」
「ぬあ!!」
突如、圧倒的な光が街を支配し、馬たちの嘶きが聞こえてくる。
背後で響く怒号と悲鳴、そして大聖堂の混乱の音覚は、馬車が街道へ飛び出すとともに、急速に遠ざかっていった。
─
夜の帳が降りる街道を、馬車は猛スピードで駆け抜けていく。
冷たい夜風が髪を激しく乱し、肌を刺すように冷たかった。
馬車の揺れは激しく、全身の関節が悲鳴を上げる。どこへ向かっているのか、明日どこで寝床を得られるのかすら分からない、過酷な逃避行。
だが、私は御者台でカシウスの隣に座り、彼の腕にしっかりと抱きつきながら、夜空を見上げていた。
(「保証された幸福」と、「自で掴む幸福」……)
私は、後者を選んだ。
神の手によってお膳立てされた、波ひとつない綺麗な「凪」の世界を捨て、泥と、痛みと、恐怖に満ちた、けれどかけがえのない真実の世界へと飛び込んだのだ。
この選択が、正しかったのかどうか。
スロニエル様が今なお答えを持っていなかったように、私にもそんな難しいことは分からない。これから先、絶望に打ちひしがれ、涙を流す夜が何度も訪れるのかもしれない。
けれど――。
私の胸の奥で打つ心臓の音は、かつてないほどにはっきりと、力強く、そして確かに刻まれていた。
「寒くはありませんか、アウレリア様?」
手綱を握るカシウスが、心配そうにこちらを振り返った。その顔には、泥と汗がついていたけれど、私を見る瞳には、世界で一番深い愛が溢れていた。
「いいえ、カシウス様」
私は、彼の肩にそっと頭を寄せた。
涙の跡がまだ残る頬に、夜風が優しく吹き抜けていく。
「とっても……あたたかいですわ」
私は、自分の足で歩み始めたこの険しい世界のなかで、彼の手を強く、どこまでも強く握りしめたのだった




