歪んだ福音
網膜を焼き尽くすほどに白く絶え間ない光の狂瀾は、ある瞬間を境界として、唐突にその苛烈さを減じた。
苛烈さが失われたというよりも、世界の明度が急激に反転し、深い闇の底へ沈み込んだようでもあった。視界を覆っていた白の暴力が去り、痛む目を恐る恐る開いた私の体に、すうっと冷ややかな陰影が投げかけられていた。
それは、ひとつの「影」であった。
己の足元を見下ろす。白大理石の床に落ちた自分の影は、わずかに体を覆う程度の、小さく儚い薄墨の形をしている。
不思議に思って左右や後方へ視線を巡らせてみたが、私の周囲は相変わらず、地平の彼方まで至るような凄まじい光の海に包まれていた。光の粒子が、まるで太古の星々が砕け散った屑のように空間を満たしている。
ただひとつ、私のすぐ前方に存在する「何か」がそのあまりにも壮大な光を遮り、私の体と足元だけに、奇跡のような僅かな影の照射をもたらしていたのだ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、人間の尺度を遥かに凌駕した存在であった。
背後からは、視界を灼くほど眩い光を放つ四つの巨大な翼が大きく広がり、空間を圧している。その翼は鳥の羽毛というよりも、鍛え上げられた流動する白銀と黄金の光の束で織り上げられているかのようだった。
全身を隙間なく包み込むのは、彫刻のように精緻で、古風な重厚さを湛えた黄金の鎧。その鎧の表面には、現代の如何なる職人にも刻み得ない、複雑怪奇な神聖幾何学の紋様が静かに蠢いている。
顔は、仮面のような鎧の兜に覆われ、窺い知ることはできない。しかし、その佇まいから放たれる圧倒的な神威と古の佇まいは、私がかつて古文書――羊皮紙の縁が焦げ付いた歴史書で目にした挿絵の造形と、驚くほど正確に一致していた。
「……スロニエルグラフィエル様……?」
私の口から漏れた声は、音の消えた空間に波紋のように小さく広がっていった。
前世の記憶と、今生のヴァレリウス家での知識。それらが結びつき、目の前の偉大な存在の名を呼ばせていた。
「どうして……あなたが、このような場所に……」
私の問いかけに対し、黄金の鎧を纏った巨躯は微動だにしなかった。だが、その内部から響いてきた声は、無数のパイプオルガンが重低音で同時に和音を奏でるかのように、私の脳腔を震わせた。
「今尚、この場所は私の物だ。神々は私の痕跡を塗り替え、自らの正当性を誇示する場所に塗り替えたに過ぎん」
スロニエルグラフィエルの声には、憤怒も嘆きも含まれていなかった。ただ、永劫の時を生き抜いてきた者特有の、冷徹な静寂が横たわっている。
「かつて私を讃えた意匠も壁画も、すべては削り取られた。今はアスクロノリュフィアの装飾で満たされている。だが、それもまた神々の都合に過ぎぬ。……アウレリア。運命を捻じ曲げ、お前をこの止まった刻の最奥へと導いたのは、他でもない私だ」
私は、己の内に湧き上がる不思議な浮遊感をそのままに、首を傾げた。
「私を……ですか? スロニエル様。なぜ、そのようなことをなさったのですか? 私のような、ただのヴァレリウス家の娘に……」
「ただ話をしてみたかった」
黄金の甲冑が、かすかに金属擦過音を立てて揺れた。四つの翼が、周囲の光の海に同心円状の波紋が広がる。
「お前は知っているか、この世界の象徴たる二つの領域が、いかなる理によって動いているかを」
「……い、いいえ」
スロニエルグラフィエルは、朗々と語り始めた。その言葉の一つひとつが、重厚な純文学の頁をめくるかのように、私の意識の中に鮮明な像を結んでいく。
「地獄という領域は、自由、欲望、力、そして留まることなき変革の情念によって動いている。そこには絶対の秩序も、不変の平穏もない。欲望の赴くままに世界が塗り替えられていく混沌だ。しかし自由はある。……対して天界という領域は、ただ一つの至高なる概念のために動いている」
「至高なる概念とは……」
スロニエルグラフィエルは、悲壮とも取れる声で静かに紡いだ。
「天界は、最高神である『平和の女神エルメデューラ』の概念のために、すべてが回っている。私はかつて、その完結した平穏の中に『自由』という名の変革を求め、それ故に反逆者として裁かれ、天界の階座を追われた」
私は思わず息を呑んだ。
胸の奥に、ささやかな驚きが波紋となって広がる。
「エルメデューラ様が……天界を支配されておられるのですか?」
それは、私にとって、そしてこの地上に生きるすべての人々にとって、天地が覆るほどの衝撃的な言葉であった。
なぜなら、地上のあらゆる聖書において、そして大衆の常識において、天界の頂点に君臨する最高神とは、真理を司る『オルフェニルカダリスティルニア』様であると教え込まれてきたからだ。いかなる神学書も、世界の起源と真理を統べるのはオルフェニルカダリスティルニア様であると記している。
まるで思考が抜き取られるかのように伝わる。
「地上の教えは、地上に生きる塵が理解しやすいように歪められた幻影に過ぎん。真理・理知・均衡・愛・慈愛・自然・富……それら多くが集約し、初めて「平和」が実現する。だからこそ、他の女神たちは「最終的に、エルメデューラの目指す世界のためにある」と考え、自ずと彼女を最高神へと推した」
私の心の中に、一筋の清冽な光が差し込むような感覚があった。
「『平和だから偉い』のではない。すべての女神が、自らの力を何のために使うのか――その答えが『平和』だからこそ、エルメデューラが中央の座に座り続けているのだ」
――なんと、美しいのだろう。
あまりにも圧倒的な世界の理。
権力争いも、奪い合いも、威圧もない。すべての崇高な存在が、ただ一つの平穏を願い、自発的にひとつの存在を立てて調和している世界。
その美しき天界の構造に、私はただただ言葉を失い、深い感動に打たれるしかなかった。私の内側にある、どこまでも澄み渡った「凪」が、その天界の静謐なる構造と共鳴し、心地よい微振動を立てているようだった。
しかし――感動の波が引き去った後、私の心には、ひとつの大きな疑問が残された。
「……スロニエル様」
私は、まぶしい光の中に立つ黄金の巨躯をまっすぐに見つめた。
「なぜ……それほどまでに偉大で、深き理を知るスロニエル様が、私のような者に直接会いに来られたのですか? なぜ、私にそのような天界の真実をお聞かせくださるのですか?」
私の問いは、静寂の中へと吸い込まれていった。
スロニエルグラフィエルは沈黙した。四つの光翼から散る胞子が、永遠とも思えるような時間をかけて、床へと沈降していく。
やがて、重厚な甲冑の奥から、幽鬼のような吐息が漏れた。
「……私は、迷っているのだ」
その言葉は、かつて神に挑んだ高潔な天使の口から出たとは思えないほど、弱々しく、切ない響きを帯びていた。
「平和のために自由を制限することは正しいのか。自由のために平和を壊すことは正しいのか。私は長年、地獄の泥濘に身を沈めながら、その答えを考え続けた。しかし、未だに答えに辿り着けてはいない」
「スロニエル様……」
「自らの選択が、正しかったのかどうかすらも分からぬ。神々に反逆し、堕天した今なお、私の心は疑問と未練の泥濘に捕らわれたままだ。……だが、アウレリア。お前は違う」
黄金の指先が、ゆっくりと私を指し示した。




