Ⅶ
かつて座天使スロニエルグラフィエルを称えていたとされる意匠、天使の四つの翼を模した彫刻は、徹底的に削り取られ、跡形もなく消し去られていた。
今、その大聖堂を埋め尽くしているのは、運命の女神『アスクロノリュフィア』を象徴する装飾だけだった。
無数の星々と、絡み合う運命の糸、そして精密な時計の歯車を思わせる幾何学的な銀の文様。それらが大聖堂の壁という壁、天井という天井を埋め尽くし、冷たいまでの神秘的な光を放っている。
「お待ちしておりました、アウレリア・ヴァレリウス様」
大聖堂の重厚な意匠が施された大門を潜ると、そこには白銀の甲冑を纏った聖騎士たちが、整然と列をなして並んでいた。
その先頭に立つ聖騎士長――アウグストゥスという記章を胸につけた男が、まるで私たちの到着を何日も前から知っていたかのように、恭しく腰を折った。
「聖騎士長アウグストゥス……。なぜ、アウレリア様の到着を知っている?」
カシウスが素早く前に出て、手を剣にかけた。
しかし、アウグストゥスは争う気配すら見せず、穏やかな笑みを浮かべた。
「運命の女神アスクロノリュフィア様のお導きにございます。この大聖堂は、貴女様のお越しをずっと待ち望んでおりました。どうぞ、中へ」
聖騎士たちは咎めるどころか、私をまるで降臨した聖女であるかのように恭しく迎え入れてくれた。
大聖堂の内部は、外観以上に広大で、息をのむほどに美しかった。
高い吹き抜けの天井からは、まるで星の破片のような光の胞子がゆったりと舞い降りている。
大広間では、純白の法衣を纏った数十人もの聖職者たちが、静かに、けれど整然と公務を行っていた。羊皮紙に羊毛のペンで記録をつけ、祈りを捧げ、聖水を清めている。
その整然とした光景は、どこか人間味を超越した、精密なからくり人形の舞台のようでもあった。
廊下の壁面には、この大聖堂の歴史を示す展示物が飾られていた。
それらはすべて、かつての座天使スロニエルグラフィエルの「反逆」と「堕天」を物語る、戒めの展示ばかりだった。
神に背き、翼をむしり取られて黒く染まった天使のレリーフ。
炎の中に引きずり降ろされる座天使を描いた、生々しい壁画。
「高慢なる天使スロニエル、神の運命に抗いし愚者」と刻まれた石碑。
(まあ……なんて悲しい絵画なのかしら)
私は展示物の前に立ち、静かに見上げた。
前世の私なら、恐ろしさや不気味さを感じただろう。
けれど、今の私の心には、一切の恐怖も嫌悪湧いてこない。
ただ、神に反逆し、全てを失って地に落ちたという古い天使の物語に、かすかな切なさと、あたたかな同情だけが湧き上がっていた。
「スロニエル様も……きっと、とても一生懸命だったのね。自分の中の正しさを信じて……」
私がポツリと呟いた、その時だった。
――スッ……。
唐突に、世界からすべての「音」が消え去った。
「……え?」
最初は、耳鳴りかと思った。
しかし、そうではない。
足音も、聖職者たちがページをめくる音も、遠くで聞こえていた風の音も、パイプオルガンの微かな残響すらも、完全に途絶えたのだ。
それだけではない。
「……カシウス?」
私が隣を振り返ると、カシウスが固まっていた。
私を守るように片手を剣にかけ、鋭い視線を周囲に向けた姿勢のまま、ピクリとも動かない。瞬きすらしていない。
周囲を見渡す。
聖職者たちが羊毛のペンを掲げたまま、空中を見つめて静止している。
壁のろうそくの炎が、ゆらゆらと揺れるのをやめ、オレンジ色の美しいカタチのまま固まっている。
天井から舞い降りていた光の胞子が、空気中でピタリと停止し、まるで空間に埋め込まれた宝石のように宙に浮かんでいる。
時間が、止まっていた。
空間そのものが、完璧に凍りついていた。
「カシウス! カシウス、どうしたの!?」
私は胸騒ぎを覚えて、カシウスの腕に手を伸ばした。
彼の銀色の甲冑に、私の手が触れる。
――すうっ。
「……ッ!?」
私の手は、まるで幻を撫でるように、カシウスの体をそのまま通り抜けた。
実体がない。
彼だけではない。固まっている聖職者たちも、大理石の柱すらも、まるで幻影のように私の手をすり抜けてしまう。
この止まった世界の中で、実体を持って動くことができるのは――私ただひとりだけだった。
(どうして……? みんな、どうして動かないの……?)
前世の記憶を含めても、体験したことのない異様な事態。
普通ならば、発狂するほどの恐怖と狂気に襲われる場面だろう。
けれど、私の内側にある「凪」は、この異常事態すらも優しく包み込んでしまった。
恐ろしいという感覚よりも前に、静寂に包まれた大聖堂の姿が、時間を止めた一枚の美しい絵画のように思えて、どこか愛おしく感じられてしまうのだ。
その時だった。
大聖堂の最奥――運命の女神アスクロノリュフィアの巨大な神像が鎮座する祭壇の前で、空間がぐにゃりと歪んだ。
――カァッ……!
尋常ではない、眩い「白い光」が溢れ出した。
それは太陽の光よりも強く、満月の光よりも清らかで、あらゆる色彩を塗り潰してしまうほどに圧倒的な光だった。
大理石の床も、静止した人々も、美しいステンドグラスも、すべてがその純白の光の中に溶けていく。
あまりの眩しさに、私は目を直視することができなかった。
手で顔を覆おうとしたが、その光は皮膚すらも透かして、私の意識の深郊へと直接届いてくる。
世界が、白に染まっていく。
音がなく、動きもなく、ただただ圧倒的な光の海が、私と、止まった世界を飲み込んでいく。
その光の渦の中心で、私は感じていた。
私をずっと包み込んでいた、あの「ふわふわとした幸福感」と「溢れるばかりの凪」の正体が、すぐ目と鼻の先まで迫ってきているのを。
白銀の光の海の中で、私はただ、静かにその訪れを待っていた。




