光の道
ヴァレリウス公爵家が崩壊し、帝都が揺れ動く中、私とカシウスは小さな馬車に乗って帝都を後にした。
追手や追及から逃れるための脱出――普通ならば、それは息を殺し、夜陰に紛れて影のように怯えながら進む緊迫した道中になるはずだった。
しかし、私たちの旅路は拍子抜けするほど穏やかで、まるで春のうららかな日にピクニックへ出かけるかのように平和そのものだった。
帝都を抜けるための関門には、武装した幾十人もの帝国兵たちが目を光らせていた。
ルキウス殿下の廃嫡とマルクスお父様の拘束に伴い、ヴァレリウス家に連なる者や関係者の逃亡を防ぐため、検問は厳重を極めていたのだ。厳めしい鎧を着た兵士たちが、通過する馬車を一台ずつ止め、乗員の顔を改めている。
「アウレリア様、お下がりください。私が対応いたします」
カシウスが緊張した面持ちで腰の剣の柄に手をかけ、身構えた。
彼の背中からは、いつでも私のために命を捨てる覚悟の重みが伝わってくる。
だが、馬車の扉が開かれ、兵士の隊長らしき男――マクシムスという胸章をつけた壮年の騎士が私たちの顔を覗き込んだ瞬間、奇妙なことが起きた。
「む……? そちらにおわすのは……」
マクシムス隊長は、私と目が合った瞬間、威圧的な態度を瞬時に消し去り、目を見開いた。
そして、恐縮したように深く頭を下げたのだ。
「これは大変失礼いたしました! 悲劇の被害者であられるヴァレリウス公爵令嬢、アウレリア様ではございませんか! このような騒々しい場所でお引き止めしてしまい、誠に申し訳ございません!」
「まあ、マクシムス様とおっしゃるのですね」
私は窓から身を乗り出し、ふんわりと微笑んだ。
「お仕事、ご苦労様ですわ。皆様がこうしてお立ちになられているおかげで、帝都の平和が保たれているのですね。毎日お寒くはありませんか?」
私がそう声をかけると、マクシムス隊長だけでなく、周囲で剣を構えていた若い兵士たちの顔が一斉に綻んだ。まるで、こわばっていた氷が春の陽光に溶かされたかのように、彼らの表情から毒気が抜けていく。
「お、お優しいお言葉……! 勿体なき幸せにございます! アウレリア様、どちらへお出かけで? いや、お尋ねするのも野暮でございますな! 悪徳の限りを尽くした公爵家から離れ、お心を休められる旅に出られるのでしょう! どうぞ、どうぞお通りください! おい、者共! アウレリア様の馬車を通せ! 道中の安全を祈って礼を捧げよ!」
「「「アウレリア様に神のご加護があらんことを!」」」
兵士たちが一斉に回れ右をし、恭しく最敬礼で見送ってくれた。
捜索網も、指名手配も、何もかもが意味をなさなかった。立ちはだかるはずの障害が、まるで最初から存在しなかったかのように、物分りよく自ら道を開けていく。
「……」
馬車が関門を通り抜けた後、カシウスは言葉を失ったように兵士たちの後ろ姿を見つめていた。
その銀色の眉が、不審と困惑で硬く寄せられている。
「……おかしいです」
カシウスが低い声で呟いた。
「マルクス閣下の失脚により、ヴァレリウス家の人間は全員が厳しい取り調べの対象となっているはずです。本来ならば、アウレリア様であっても一度は拘留され、身元を確認されるのが帝国の法……。それなのに、あの兵士たちはあまりにも物分りが良すぎます。咎めることも、止めることすらしないなど……まるで、アウレリア様を通すために便宜を図っているかのようだ。罠の可能性が」
「ふふ、みなさん、とてもあたたかい心を持っていらっしゃるのね」
私は膝の上のハンカチを折りたたみながら、幸せな心地で答えた。
「カシウス。私たちが思っているよりもずっと、優しさと好意に満ちているのよ。誰も私を傷つけようとしないし、困らせようともしない。なんて素敵なことなのかしら」
「……アウレリア様?」
カシウスは、私を見つめる青い瞳に、言いようのない『不気味さ』と恐怖を滲ませていた。
彼には分かっているのだ。これが単なる「運が良い」という域を超えていることに。
私に向けられる悪意が勝手に崩壊していくのと同様に、私を塞ごうとする障害すらも、私の存在そのものによって自然と無害化され、無力化されていく。
私にも分からない。
まるで、この世界の理そのものが、私の「凪いだ心」を乱さないように、必死で気を回しているかのように。
けれど、当事者である私の心は、ただただ温かく、ふわふわとした幸福感で満たされていだけだった。
雲ひとつない青空を流れていく白い綿雲のように、私はただ、優しい世界をそのまま心地よく受け入れているだけだった。
─
帝都を遠く離れ、馬車はついに帝国の南西辺境へと進んだ。
そこはかつて、独立したひとつの王国だった場所だ。幾十年前、帝国によって平和的に併合され、独自の王家は潰えたものの、歴史や文化を尊重された結果、今なお、活気と情緒に満ちあふれている。
古い石造りの街並み、豊かなブドウ畑、どこか懐かしい街角の喧騒。
帝国中央の殺伐とした空気とは異なり、ここにはゆったりとした時間が流れていた。
帝国を完全に離れて異国へ渡る前に、私にはどうしても寄りたくなる場所がひとつだけあった。
「大聖堂……でございますか?」
馬車を走らせながら、カシウスが尋ねてきた。
「ええ。この地域にある、オルフェ教会(オルフェニルカダリスティルニア大聖教会)の支部……その中心にある大聖堂に、一度行ってみたいの」
そこは、かつて神話の時代に『座天使スロニエルグラフィエル』を奉っていたとされる歴史ある聖地だった。
座天使スロニエルグラフィエル――神の意思を体現したとされた高潔なる天使。しかし伝承によれば、スロニエルはある時、あまりの高潔さゆえに神の定めた不完全な地上への慈悲を巡って神に反逆し、地上へと撃ち落とされて堕天したという。
スロニエルが墜ちて以降、その大聖堂は長い衰退の時期を迎えたが、現在は運命の女神である『アスクロノリュフィア』を奉る聖域として、かつてないほどの輝きを取り戻していた。
「あそこなら……アウレリア様のお心も、より一層安らぐかもしれませんね」
カシウスは少し安心したように微笑み、馬車の舵を切った。
─
夕暮れ時、私たちはその大聖堂へと到着した。
「……これは……」
カシウスが思わず息をのんだ。
私もまた、馬車の窓からその建造物を見上げて、言葉を失った。
それは、帝国の王宮すら霞んでしまうほどの、圧倒的な荘厳さとスケールを誇る巨大な白亜の建築物だった。
天を突く無数の尖塔、夕日を受けて黄金に輝くステンドグラス、細密な彫刻が施された巨大な大理石の柱。
何よりも驚くべきは、歴史書で読んだかつての大聖堂の姿と、まったく異なっていることだった。




