Ⅳ
(お父様は、私のことをそんなに一生懸命考えてくださっているのね……。我が家を守るために、こんなにも必死になっていらっしゃるなんて)
前世の私なら、自分を道具扱いする親に対して激しい絶望と怒りを抱いただろう。
だが、今の私には「怒り」という感情が存在しない。
ただただ、焦りと恐怖に苛まれ、顔を歪めている父親の姿が哀れで、そして愛おしかった。
「お父様」
私は静かに答えた。
「お父様が我が家を大切に思っていらっしゃる気持ち、よく分かりますわ。私でお役に立てることがあるのなら、どのようなことでもおっしゃってくださいね」
「……なっ」
公爵は眉をひそめた。
脅し、威圧し、人生を強奪しようとしている自分に対し、娘が微塵の恐怖も嫌悪も見せず、ただ純粋な慈愛の瞳で見つめ返してくる。
その不気味なほどの「無垢さ」に、公爵は思わず手を離し、一歩後退りした。
「……気味の悪い娘になったもんだ。まあ、幼い頃からそうだったが。何をされても泣きもせず、怒りもせず、ただヘラヘラと笑いおって……。もういい加減立場を自覚しろ。いいか、今夜、監察官として我が家にオクタヴィウス公爵の使者がやってくる。それまでに、お前には『大人しく指示に従う』という誓約書を書かせる。部屋でおとなしく待っていろ!」
公爵は捨て台詞を残すと、大股でダイニングルームを去っていった。
継母のテルトゥリア様も、私を忌々しそうに見つめた後、急ぎ足で夫の後を追っていった。
二人を見送りながら、私は残ったハーブティーを一口含んだ。
カモミールの甘い香りが口いっぱいに広がり、私の心はさらに温かく満たされていく。
「アウレリア様」
影から現れたカシウスが、殺気立った表情で私の横に立った。
「マルクス閣下のやり方、断じて容認できません。あなたをオクタヴィウス公爵のような残虐な男に売り渡すなど……! 今すぐ私と一緒に、この屋敷を出ましょう。帝国の外へ逃げ延びる準備なら、私にできます!」
カシウスの提案は真剣そのものだった。
私を救うためなら、自らの騎士の誇りも、地位も捨てて駆け落ちする覚悟を固めている。
私はふふっと微笑み、カシウスの手を包み込んだ。
「大丈夫よ、カシウス。逃げなくても、きっとすべては一番良い形に収まりますわ。お父様も、本当はとってもお疲れなのよ。世界はいつだって、私たちを優しい方向へ導いてくださるもの」
「アウレリア様……」
カシウスは困惑と心酔が混ざり合ったような表情で私を見つめた。
私の放つ絶対的な「凪」の空気は、周囲の人間を巻き込み、狂わせ、けれど確実にあたたかな安心感へと引きずり込んでいくのだった。
─
その日の午後。
私は自室で、窓辺の陽だまりに当たりながら刺繍をしていた。
小鳥のさえずりが心地よく響き、風がシフォンのカーテンを優しく揺らしている。
そこへ、ドカドカと激しい足音が近づいてきた。
部屋の扉が乱暴に開け放たれ、顔を真っ赤にしたマルクス公爵が飛び込んできた。その後ろには、手に重厚な革袋を持った執事のルキウス(偶然にも第一皇子と同じ名前の初老の執事だ)が恐縮した様子で控えている。
「アウレリア! これにお前のサインと血判を突け!」
公爵が机の上に叩きつけたのは、羊皮紙で作られた誓約書だった。
そこには、私がヴァレリウス公爵家の所有物であり、公爵の命じるいかなる婚姻・売買にも無条件で従う旨が、恐ろしいほど過酷な文面で記されていた。
「これに署名すれば、お前には一切の反論権がなくなる。お前の人生は完全に私の管理下に置かれるのだ。さあ、書け!」
公爵は羽根ペンを私に突きつけた。
(まあ、なんて細かい文字でたくさん書かれているのかしら。お父様、これを作成するのに随分と時間をかけられたのね。本当に勉強家でいらっしゃるわ)
私は感心しながら羊皮紙を眺めた。
しかし、他者を支配しようとする。それは、とても悲しい。不当な誓約書に署名するつもりはなかった。拒絶して怒鳴りつける必要も感じなかった。ただ、ペンを受け取って「あら、インクがとても綺麗な黒ですのね」と微笑んでいた。
その時だった。
「――閣下! 大変です! 皇帝陛下からの緊急の特別監察官が、今、屋敷の門に到着されました!」
若い召使いが息を切らせて部屋に飛び込んできた。
「何だと!? もう来たのか!?」
公爵が目を見開いた。
「予定より早すぎる! オクタヴィウス公爵の使者か!?」
「いいえ! 第二皇子フェリクス殿下ご自身と、帝国監察院の調査団でございます! 昨夜のルキウス殿下の事件に伴い、ヴァレリウス家の台帳および書類の即時押収と査察を行うとのこと!」
「な……なに!? 第二皇子自らが!?」
公爵の顔から一瞬で血の気が引いた。
公爵の懐には、実は皇帝に知られてはならない脱税の裏台帳や、他家を失脚させるために捏造した偽造文書の数々が眠っていたのだ。
「まずいぞ……。これはまずい、まずい。今、屋敷を捜索されたら、私の、いや我が公爵家が……!」
狼狽した父は、狂乱した瞳で部屋を見回した。
そして、目の前にいる私と、私が座っている豪華な鍵付きのチェスト(衣装タンス)に目を留めた。
「そうだ……! アウレリアの部屋なら、監察団もすぐには改めるまい」
父は執事の手から革袋を奪い取ると、中から大量の機密書類を取り出した。それは、父が数十年かけて積み上げてきた不正と暗殺の記録、そして皇帝への謀反を裏付ける決定的な証拠書類の束だった。
「アウレリア! この書類を今すぐお前のチェストの奥に隠せ! 誰が来ても『私の私物です』と言い張るのだ! 分かったな!?」
公爵は書類の束を私の胸元に押し付けようとした。
しかし、世界がまた揺れ動いのだろうか。
慌てふためいた父の足が絨毯の端に引っかかった。
「ぬわっ!?」
派手な悲鳴とともに、公爵は前方に豪快に倒れ込んだ。
バサササササッ!!!
公爵の手から離れた大量の書類が空中を舞い上がり、まるで白い吹雪のように部屋中に散らばった。
そして、そのタイミングがあまりにも悪すぎた。
「――ヴァレリウス公爵。挨拶もなしに上がり込んで申し訳ないが……」
開いたままになっていた部屋の扉から、数人の近衛兵を従えた青年が足を踏み入れてきた。
金髪をオールバックにし、知的で冷徹な眼鏡をかけた青年――第二皇子、フェリクス殿下その人だった。
フェリクス殿下は、倒れ込んでいる公爵と、空中に舞い、床一面に散らばった書類の数々を見下ろした。
そして、たまたま殿下の靴の下に滑り込んできた一枚の紙を拾い上げた。
そこには、公爵の直筆と印章付きでこう書かれていた。
『第二皇子フェリクス殿下暗殺計画および、帝都穀物市場の価格吊り上げに関する密約書』
「……」
部屋の中が、静まり返った。
鳥のさえずりすら途絶えたかのような、完全な沈黙。
フェリクス殿下の片眼鏡の奥の瞳が、急速に絶対零度の冷たさへと変わっていく。
「……ほう。ヴァレリウス公爵。これは一体、何の説明をしてくれるのかな?」
「あ……あ……あ……」
床に這いつくばったままの父は、声にならない悲鳴を上げた。
顔は灰色を通り越して真っ白になり、全身がガタガタと激しく震えている。




