Ⅲ
馬車の中は、驚くほど静かだった。
車輪が拾う路面の振動が、心地よいゆりかごのように私の体をかすかに揺らしている。車窓の外を流れていく帝都の街並みは、月光に照らされて銀色に濡れ、まるで透明な水底に沈んだ幻想的な都市のようだった。
「アウレリア様。寒くはございませんか?」
向かいに座るカシウスが、低い声で問いかけてきた。
彼は自分の上着を脱ぐと、そっと私の膝の上に掛けてくれる。上質なウールと、彼固有の爽やかな柑橘系の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「ありがとう、カシウス。でも大丈夫よ。とっても暖かいもの」
私は膝の上の上着を優しくなでた。
カシウスの青い瞳は、暗がりの中でもルビーのように揺れる私の髪と顔を、どこか切なげに見つめている。
「……夜会でのルキウス殿下のお振舞い、思い出すだけでも腹立ちが収まりません。もしマルクス閣下の制止がなければ、私はあの場で殿下を打ち据えていたかもしれません」
カシウスの拳が、ぎちぎちと音を立てて握り締められていた。彼の内側で燃え盛る怒りと忠義の炎が、伝わってくるようだ。
私はそっと手を伸ばし、彼の固く握られた拳の上に自分の手を重ねた。
「だめよ、カシウス。そんなことをしたら、あなたのきれいな手が汚れてしまうわ。それに……見ていてくださったでしょう? ルキウス殿下もクラウディア様も、最後はとても楽しそうに転がり落ちていかれましたもの。誰も傷つけることなく、すべてが丸く収まりましたわ」
「楽しそうに……ですか?」
カシウスが脱力したように苦笑を漏らした。
「あのような醜態を『楽しそう』と表現されるのは、世界中でアウレリア様だけでございましょう。殿下は腰を強打して重傷を負い、さらに他国との内通という大罪が白日の下に晒されました。明日の朝には、皇室史上に残る大醜聞として帝都中に知れ渡るはずです」
「ルキウス殿下の腰が早く良くなるとよろしいのだけど」
私が微笑むと、カシウスは深いため息をついた。けれど、その瞳にはどこまでも深い愛おしさが満ちていた。
「本当に……貴女というお方は。どうしてそれほどまでに傷つかないのですか? ヴァレリウス公爵家に生まれ、実の父親からも冷遇され、婚約者からは虐げられ……普通ならば、心が壊れてしまってもおかしくない環境だというのに」
(心が壊れる……)
私は自分の胸に手を当てた。
前世の記憶が、かすかに脳裏をよぎる。
前世の私は、まさに「心が壊れた」人間だった。深夜のオフィス、鳴り響く電話、上司の罵声、終わらない残業。いつしか喜怒哀楽を失い、心はボロボロに引き裂かれ、最後は冷たい床の上で息絶えた。あの時の苦しみと絶望に比べれば、この世界で投げかけられる悪意など、春風に舞う埃のようなものだ。
それに、私の内側にはいま、溢れんばかりの「凪」がある。
どんな泥を投げつけられても、私の心という清らかな湖に落ちた瞬間、すべては綺麗に浄化され、あたたかな光へと変わってしまう。自分の体と心が、いつだって幸せな雲の上に浮かんでいるかのように軽いのだ。
「私にはね、カシウス。世界がとっても美しい場所に見えるの。あなたがこうして隣にいてくださることも、夜風が気持ちいいことも、全部、奇跡みたいに幸せなことなのよ」
私がそう言うと、カシウスは言葉を失ったように目を見開いた。
やがて、彼はゆっくりと膝をつき、馬車の床に跪いて私の手を両手で包み込んだ。
「……アウレリア様。あなたのその美しく清らかな心を、私は生涯をかけて守り抜きます。たとえ世界中のすべてがあなたを敵に回そうとも、このカシウス・ファビウスの剣は、永遠にあなただけのものです」
「ふふ、頼りにしているわ、私の素敵な騎士様」
私はカシウスの銀髪にそっと触れた。彼の髪は絹のように柔らかく、私の指先を優しくくすぐった。
─
翌朝。
ヴァレリウス公爵邸の朝食会は、重苦しい沈黙に包まれていた。
窓から差し込む朝の光はどこまでも透き通っていて、庭園の薔薇が美しく咲き誇っているというのに、ダイニングルームの空気だけが氷点下に凍りついているようだった。
長テーブルのついたちに座るのは、私の実の父親であるマルクス・ヴァレリウス公爵。
その隣には、私の継母であるテルトゥリア様が、青ざめた顔で紅茶のカトラリーをカチャカチャと鳴らしていた。
昨夜の夜会での出来事は、一夜にして帝都を駆け巡っていた。
第一皇子ルキウス殿下は、国家叛逆および不正蓄財の容疑で直ちに捕らえられ、皇位継承権を剥奪された上で幽閉。
ルキウス殿下に寄り添っていたクラウディア男爵令嬢の実家も、不法な裏金の受け取りと密謀への関与が発覚し、爵位剥奪および領地没収、一族追放の処分が下されたという。
「……アウレリア」
マルクス公爵が、低く絞り出すような声で私を呼んだ。
その顔には深い隈が刻まれ、鋭いルビー色の瞳には隠しきれない焦燥と苛立ちが浮かんでいた。
「はい、お父様。今朝のスープはとてもカボチャの甘みが効いていて美味しいですわ。お父様もお召し上がりになってはいかがですか?」
私がニコリと微笑むと、公爵の額に青筋が浮かんだ。
「戯れ言を言うな! 今、我がヴァレリウス家がどれほどの危機に瀕しているか分かっているのか!?」
バンッ! と公爵がテーブルを叩いた。スープ皿が跳ね、カトラリーが甲高い音を立てる。
テルトゥリア様がビクッと肩を震わせたが、私の心はどこまでも静かだった。テーブルクロスに落ちたスープの小さな滴が、まるで黄色い小さな宝石のように見えて綺麗だな、などと考えていた。
「ルキウス殿下の廃嫡により、奴と婚約していたお前の立場も危うくなった。いや、それどころか、我が家が殿下の不正に関与していたのではないかと、皇帝陛下からの疑いの目が向けられているのだ!」
公爵は吐き捨てるように言った。
彼は代々「冷酷無比の氷の公爵」と恐れられ、利益にならないものは実の娘であっても平然と切り捨ててきた男だ。私が幼い頃から、彼は私を一度も抱きしめたことなどなく、ただ「皇室へ嫁ぐための道具」としてしか扱ってこなかった。なぜ、昨夜あのような行動をしたのか、私には分からない。
「だが……怪我の功名というべきか」
公爵は冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「昨夜のお前の『聖女のような振る舞い』と、殿下の愚行を誘導したかのような立ち回りにより、世間はお前を『悲劇の令嬢』であり『真実を暴いた賢婦』として称賛し始めている。おかげで我が家への直接的な処罰は免れそうだ」
「まあ、皆様が私を温かく見てくださっているのなら、とても光栄ですわ」
「黙って聞け!」
公爵は冷酷な瞳で私を睨みつけた。
「世間の評判などどうでもいい。重要なのは、お前という道具の新たな使い道だ。……幸いにも、ルキウス殿下が失脚したことで、第二皇子であるフェリクス殿下が繰り上がりで皇太子となられる。さらに、帝国軍の全権を握る『冷血の元帥』オクタヴィウス公爵も、昨夜の件でお前に興味を示している」
公爵は立ち上がり、私に近づいてくると、私の顎を強引に持ち上げた。
「アウレリア。お前にはすぐに、オクタヴィウス公爵への後妻としての輿入れを決めてもらう。あるいは、フェリクス殿下の側室でもいい。我がヴァレリウス家が生き残るため、お前には徹底的に利用価値を発揮してもらうぞ。拒否権はない。お前が生まれながらにして負っている我が家への義務だ。分かったか」
その手は冷たく、力任せで痛みが走りそうなほどだった。
けれど、私にはその痛みが、まるで温かい撫で擦りのように柔らかく感じられた。




