Ⅱ
「……殿下。これは一体何ですかな?」
「何だと? 見れば分かろう! アウレリアが毒薬を手配した証拠の書簡だ!」
「……いえ、殿下」
マルクス公爵は、低く、押し殺した声で言った。その声には、隠しきれない頭痛と呆れが混ざっていた。
「ここに書かれているのは……殿下、あなたが我がヴァレリウス家の領地から不法に徴税した裏金を、クラウディア男爵令嬢の父親であるクラウディア男爵に横流ししていた帳簿の控えですが?」
「――――は?」
ルキウス殿下の動きがピタリと止まった。
大広間が、先ほど以上の静寂に包まれる。
「な、何を言っているのだマルクス公爵! 狂ったか!? それはアウレリアの罪の証拠で――」
「殿下、よくお確かめください」
マルクス公爵が冷ややかに書類をルキウス殿下の目の前に突きつけた。
ルキウス殿下は引きつった笑みを浮かべながら紙面に目を落とし――次の瞬間、顔面を蒼白に変えた。
「な……ッ!? な、なぜこれが……!? バ、バカな、私は確かに机の引き出しから、アウレリアの偽筆の書簡を取り出したはず……っ!? く、口が勝手にベラベラと……。こ、これは呪術だ!」
「『偽筆の書簡』、ですか」
マルクス公爵の瞳が、刃物のように鋭く光った。
「つまり殿下は、我が娘を陥れるために偽の証拠を捏造しようとしておられた。しかし焦るあまり、ご自身が絶対に人目につけてはならない秘匿文書を間違えて持ち出し、大勢の貴族の前で自ら掲げて見せた……そういうことですかな?」
「ひっ……! ち、違う! これは罠だ! アウレリア! お前が何か仕組んだのだろう!!」
ルキウス殿下が狂乱したように私を指さした。
(まあ……殿下の顔色が、まるで熟しすぎたブルーベリーのように紫色になってしまわれて。お体に悪いのでは)
私は心配になって、そっと胸の前で手を組んだ。
「ルキウス殿下、お顔色が優れませんわ。あまり興奮なさると、血圧が上がってしまいます。温かいハーブティーでも召し上がって、少しお休みになられた方がよろしいのではないでしょうか?」
私は心からの慈愛を込めてそう提案した。
だが、その言葉は、錯乱するルキウス殿下にとって決定的な一撃となったようだった。
「ふざけるなあああ! お前のような女に哀れまれる筋合いはない! 私を愚弄するなあああ!」
ルキウス殿下は怒りのあまり正気を失い、私に向かって猛然と階段を駆け下りてこようとした。
しかし、激しい怒りと動揺で足元がおろそかになっていたのだろう。豪華な礼服の長すぎる裾を踏みつけ――
「ぐはっ!?」
派手な音を立てて階段から転げ落ちた。
「きゃああああっ!? ルキウス様!!」
クラウディア様が悲鳴を上げ、慌てて殿下を助けようと階段を駆け下りようとした。だが、彼女が履いていたハイヒールが、先ほど殿下がぶちまけた書類の紙束に乗り上げ、滑った。
「いやああああっ!?」
ドシン! ガラガラガラ!
クラウディア様もまた、ルキウス殿下の上に重なるようにして転がり落ちていった。
大広間の中心で、折り重なって倒れる皇子と男爵令嬢。
ルキウス殿下の鼻からは血がつきだし、クラウディア様の美しい桃色のドレスは破れ、髪はくしゃくしゃに乱れ、二人とも惨め極まりない姿でうめき声を上げている。
「ぐぅ……、こ、腰がぬけた……!?」
ルキウス殿下が腰を押さえて悲鳴を上げる。どうやら重度の腰痛を起こしたらしい。
クラウディア様もまた、足首をひねったのか「痛い、痛いですわ!」と声を上げて泣き叫んでいる。
その拍子に、ルキウス殿下の懐から、さらにぽろぽろと何かがこぼれ落ちた。
それは、他国の間諜と密約を交わしたことを示す印章や、他の貴族たちを失脚させるために準備していた不正な告発状の数々だった。
「これは……! 第一皇子殿下が他国と内通していた証拠ではないか!?」
「なんと……近衛兵を呼べ! いや、皇帝陛下にすぐにお報告を!」
「なんという醜聞だ……! 自ら不正を暴露しに夜会に来たというのか!?」
会場は一瞬にして怒号と混乱の渦に包まれた。
近衛兵たちが雪崩込んでいき、動けないルキウス殿下とクラウディア様を取り囲む。
あまりにも呆気なく、救いようのない結末だった。
私を陥れようと画策し、大勢の前で蔑み、絶望へ突き落とそうとしたはずの二人が、自分たちの愚行によって、自ら墓穴を掘り、転がり落ちていったのだ。
けれど、私にはその光景すらも、まるで劇団が演じるコミカルな喜劇のようにしか思えなかった。
(まあ、なんて賑やかな夜会なのかしら)
私の心には、目の前のドタバタ劇があたたかく、どこか微笑ましく思えた。誰もが一生懸命で、誰もが生きている。世界はなんて愛おしく、そして賑やかなのだろう。
「……アウレリア」
混乱の中、重々しい足取りでマルクス公爵が私に近づいてきた。
冷徹で、一度も私に温かい言葉をかけたことのない実の父親。彼は地面に散らばった不正の証拠と、拘束されて連れていかれるルキウス殿下を交互に見つめた後、複雑極まりない表情で私を見下ろした。
「お前は……最初からこうなることが分かっていたのか?」
「いいえ、お父様」
私は首を横に振った。
「私はただ、今夜の夜会がとても素敵だと思っておりましたの。殿下もクラウディア様も、とてもエネルギーに満ちあふれていらっしゃいましたわ。お怪我が大したことでなければ良いのですが」
「……」
マルクス公爵は、絶句した。
実の娘である私が、かつて見たこともないほど清らかで、慈悲に満ちた、そしてどこかこの世の者ではないような「凪いだ」瞳で自分を見つめているからだ。
怒りも、恨みも、思惑すら感じられない。ただ純粋に、世界を愛でるような瞳。
その異様なまでの「平穏」に、冷酷で知られるマルクス公爵すらも、かすかに背筋を凍らせたようだった。
「公爵閣下」
そこへ、一人の若い男性が歩み寄ってきた。
銀色の髪に、深海のような静かな青い瞳を持った青年――カシウス。
ヴァレリウス家に仕える私の専属護衛騎士であり、幼い頃から唯一、私を遠くから見守り続けてくれていた人だ。
カシウスは私の前に進み出ると、優雅に膝をつき、私の手にそっと自分の手を添えた。
「アウレリア様。騒がしくなってまいりました。このような不仕付けな場所に、これ以上お留まりになる必要はございません。お部屋へお戻りになりましょう」
「ええ、ありがとう、カシウス」
カシウスの手はとても温かかった。
彼の手の温もりが伝わってくると、私の心と体はさらにふわふわと浮き立つような心地よさに包まれた。
「お前……アウレリア、待ちなさい」
マルクス公爵が引き止めようと手を伸ばしたが、カシウスは振り返り、その青い瞳で公爵を静かに牽制した。
「閣下。アウレリア様は、今夜の不敬な扱いによって大変なお疲れでございます。ヴァレリウス家が第一皇子殿下の謀反に関与していないと証明するためにも、アウレリア様には静かな場所でご休息いただくのが最善かと」
「……」
公爵は言い返す言葉を持たなかった。
今や第一皇子との婚約は破談どころか、皇室最大の醜聞へと跳ね上がり、ヴァレリウス家も無関係ではいられない。その中で、唯一完全に無傷であり、むしろ「被害者」として聖女のような気品を保ち続けた私だけが、圧倒的な優位に立っていた。
「では、失礼いたします、お父様。皆様も」
私は最後にもう一度、大広間の人々に向かって深々と、そして可憐におじぎをした。
騒然とする大広間を背に、私はカシウスに手を引かれて歩き出す。
重厚な扉が閉じられ、喧騒が遠ざかっていく。
廊下にでると、夜風が吹き抜けて、私の髪を優しく揺らした。
月明かりが廊下の絨毯を銀色に染めている。
「アウレリア様」
カシウスが立ち止まり、私の顔を覗き込んできた。その瞳には、深い懸念と、そして隠しきれない愛おしさが宿っていた。
「……本当にお怪我はございませんか? ルキウス殿下の身勝手な不敬、恐ろしい思いをされたでしょう。もしお心が傷ついているのなら、どうか私にお話しください。私はあなたの騎士です。あなたの痛みを、半分背負うためにここにいます」
カシウスの声はとても低く、優しく、私の鼓膜を心地よく揺らした。
私は、くすりと微笑んだ。
「ありがとう、カシウス。でも、本当に何も傷ついてなんていませんわ。私の心はね、とっても温かくて、穏やかなの」
胸に手を当てる。
そこには、前世の激しい動悸も、悲鳴を上げる胃の痛みも、何ひとつ存在しない。
ただ、どこまでもどこまでも広がる青空のように、一切の雲もない「凪」が広がっている。
「私の前にはね、いつだって綺麗なお花が咲いていて、優しい光で満ちているの。ルキウス殿下たちも、きっと今夜のことで何か大切なことをお学びになられるわ。世界は、なんて優しいのでしょうね」
「アウレリア様……」
カシウスは息をのんだ。
彼には、私が何を言っているのか、完全には理解できないのかもしれない。
普通ならば、婚約を破棄され、冤罪を着せられ、罵倒されたのだ。激怒するか、泣き叫ぶか、復讐を誓うのが人間の自然な反応だろう。
だが、私はただ、ふわふわとした幸福感の中で微笑んでいる。
私の内側にある「凪」は、どんな悪意も、どんな攻撃も、すべて受け流し、相手の放った毒をそのまま相手自身へと跳ね返してしまう無敵の境界線だった。
カシウスは暫く私を見つめていたが、やがて諦めたように、けれど愛おしそうに目元を緩めた。
「……ええ。あなた様が穏やかでいらっしゃるなら、それが私のすべてです。どうかそのままでおいでください。あなたを脅かす全ての悪意から、私がこの身を挺してお守りいたします」
カシウスは私の手にそっと唇を寄せた。
その誓いはとても重く、けれど私にとっては羽毛のように軽やかで心地よかった。
(ああ、なんて素敵な夜なのかしら)
夜空を見上げると、満月が青白い光を撒き散らしていた。
私を貶めようとした人々は、破滅の道を転がり落ちていった。
これから先、私にどんな困難が待ち受けていようとも、きっと何ひとつ変わらないのだろう。
私の心は、今日も、明日も、どこまでも澄み渡り、静かに凪いでいるのだから。




