どこまでも凪ぐ心
シャンデリアの眩い光が、クリスタルグラスの縁で細かく弾けていた。
オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べ、貴婦人たちの絹のドレスが擦れ合うかすかな音、そして立ち込めるメルカトルのラ・モー・デトネルの香水の甘い香り。
王城の大広間で開催されている今夜の建国記念夜会は、誰もが息をのむほどに豪華絢爛で、そしてどこまでも眩しかった。
「――アウレリア・ヴァレリウス! 貴様との婚約を、只今をもって破棄する!」
大広間の中心、一段高くなった階段の上から、朗々と響き渡る声が投げかけられた。
その声の主は、我がロムルス帝国の第一皇子であるルキウス殿下だ。金髪を華やかに切り揃え、刺繍が施された美しい礼服に身を包んだ彼は、正義感に満ち満ちた瞳で私を見下ろしている。
彼の傍らには、可憐な桃色のドレスを纏った小柄な少女――クラウディア男爵令嬢が寄り添っていた。彼女は怯えたようにルキウス殿下の腕にすがりつき、濡れた瞳で私を睨みつけている。
大広間が一瞬で静まり返った。
数百人の貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さる。驚愕、冷笑、同情、そして蔑み。さまざまな感情が混ざり合った視線の嵐の中、私はただ、静かに佇んでいた。
(まあ。今日もシャンデリアの光が、なんてきれいに輝いているのかしら)
私の心には、一切のさざ波が立っていなかった。
怒りも、悲しみも、恥ずかしさも、焦りすらも湧いてこない。
私の心の中は、まるで誰も足を踏み入れたことのない、鏡のように滑らかな青い湖のようだった。どこまでも静かで、温かく、そして深く凪いでいる。
自分の体と心が、どこかふわふわと浮き立っているような不思議な感覚。
視界に映るすべてのものが、あたたかな光の粒子を纏って輝いて見えた。ルキウス殿下の怒りに満ちたお顔も、クラウディア様の震えるお肩も、私を嘲笑う周囲の貴族たちの表情すらも、まるで春の陽光の下で揺れる花々のように愛おしく、ただただ美しかった。
「……アウレリア? 聞いているのか! 自分のしでかした罪の重さに、声も出ないというわけか!」
ルキウス殿下が再び声を張り上げる。そのお声も、なんだか遠くで鳴る心地よい小鳥のさえずりのようにしか聞こえない。
(どうしてこんなにも、心が穏やかで満たされているのかしら……)
私には、かすかな前世の記憶があった。
かつて私は、遥か遠い異国の地で、朝から晩までひたすら書類と画面に向き合い続ける生活を送っていた。休む間もなく叩きつけられる怒号、理不尽な要求、すり減っていく心と体。最後は確か、土砂降りの雨の夜、激しい胸の痛みに襲われて意識を失ったのだと思う。あの時の心は、いつだって冷たくて、重くて、荒れ狂う暴風雨の中にあった。
けれど、この異世界でヴァレリウス公爵家の娘として生まれ変わった瞬間から、私の世界は一変していた。
神様からの尊い贈り物なのだろうか。それとも、前世で限界まで傷ついた反動なのだろうか。
私の心からは「負の感情」を抱くための器官そのものが消え去ってしまったかのように、常に「凪」の状態が続いていた。何が起きても、誰に何を言われても、私の内側にはただ溢れんばかりの幸福感と、ふわふわとした温かな光だけが満ちているのだ。
「ルキウス殿下」
私はゆったりと礼をとった。背筋を伸ばし、ドレスの裾を優雅に持ち上げる。
その動作には微かな乱れもなく、自分でも驚くほど身体が軽やかだった。
「お声をかけていただき、光栄に存じます。今夜の夜会は本当に素晴らしいですね。このように美しい灯りのもとで殿下とお話しできますこと、とても嬉しく思いますわ」
私の言葉に、大広間がざわついた。
婚約破棄を突きつけられた令嬢の返答としては、あまりにも常軌を逸していたからだ。悲鳴を上げるわけでも、泣き崩れるわけでも、必死に弁明するわけでもない。ただ、春風のような笑みを浮かべて相手を称賛しているのだから。
ルキウス殿下は一瞬、言葉に詰まったように顔をしかめたが、すぐに胸を張り直してクラウディア様の肩を抱き寄せた。
「ふん、白々しい演技を! 己の悪行が白日の下に晒されたというのに、どこまで図々しい女なのだ! 皆のもの、聞くがいい! このアウレリア・ヴァレリウスは、純真なるクラウディアに対し、羨望と嫉妬から凄惨ないじめを行っていたのだ!」
ルキウス殿下の朗々とした声が広間に響き渡る。
「あるときはクラウディアのドレスに泥をかけ、またあるときは彼女の学園のロッカーに不吉な毒虫を投げ入れ、果ては階段から突き落とそうとまでした! このような冷酷非道な女が、我がロムルス帝国の未来の皇妃にふさわしいはずがない!」
「まあ……」
私は小さく息を漏らした。
クラウディア様が着ていらっしゃる桃色のドレスは、確かに胸元に可愛らしい刺繍が施されていてとてもお似合いだ。毒虫……そういえば先日、庭園で見かけた小さな黄金色のコガネムシは、お日様の光を浴びてとてもきらきらと美しかった。階段……王城の階段はどれも歴史ある大理石でできていて、磨き抜かれた表面が鏡のように美しい。
私の頭の中には、殿下の言葉から連想される「美しいもの」や「幸福なイメージ」しか浮かんでこなかった。罪悪感も冤罪に対する怒りも、私の心に届く前に、温かな光の中に溶けて消えてしまう。
「クラウディア様」
私は、ルキウス殿下の隣で哀れっぽく涙を拭っている少女に視線を向けた。
「その桃色のドレス、とてもよくお似合いですわ。まるでお庭に咲く小さな薔薇のよう。殿下がお優しく肩を抱いてくださって、本当によかったですね。お二人のお姿は、まるで絵画のように素敵です」
心からの言葉だった。本当に、お二人が並んでいる姿は色鮮やかで、見ているだけで心が和む。
「な、なにを……っ!」
クラウディア様が目を見開いた。彼女の顔から一瞬で被害者の笑みが消え、引きつったような驚愕が走る。
彼女はもっと、私が取り乱し、叫び、惨めに這い回る姿を期待していたのだろう。だが、目の前にいる私は、まるで親しい友人の幸福を心から祝うかのように、柔らかく微笑んでいるのだから。
「ふざけるな、アウレリア!」
ルキウス殿下が激昂し、顔を真っ赤にして階段を二段ほど駆け下りてきた。
「反省の色すら見せないとは、どこまで腐りきった性根なのだ! お前のような悪徳の塊のような女、今すぐこの場でひれ伏させてやる! 証拠ならここにあるのだ!」
そう言って、ルキウス殿下は懐から一束の書簡を取り出し、高く掲げた。
「これは、お前が密業者とやり取りをし、クラウディアを亡き者にするための毒薬を購入しようとした証拠の書簡だ! 筆跡もお前のものと完全に一致している! さあ、これを見てもなお、しらばっ気られると思うか!」
ルキウス殿下は勝ち誇った笑みを浮かべ、その書類を大広間の人々に誇示するように振りかざした。
周囲の貴族たちから「まあ」「なんて恐ろしい」「ヴァレリウス公爵家の娘がそこまで……」という囁き声が漏れ聞こえる。
けれど、私には分かっていた。
私はそんな書簡など書いた覚えはなく、毒薬など買ったこともない。
それでも、私の心は少しも揺れなかった。「あら、誰かが私の代わりに一生懸命字を書いてくださったのね」とすら思ってしまうほどに、どこまでも凪いでいた。
しかし――世界は、私が何もしなくても、恐ろしいほどの正確さで「歪み」を正そうとするらしい。
「――見せてみろ、その書類を」
重厚で、氷のように冷たい声が大広間の入り口から響いた。
人波が割れ、一人の男性がゆっくりと歩み出てくる。
漆黒の髪に、鋭いルビー色の瞳。帝国騎士団の総総長であり、皇帝陛下の弟君でもあるマルクス公爵――そして、私を幼い頃から疎み、冷遇し続けてきた実の父親であった。
マルクス公爵は冷徹な眼光でルキウス殿下を見据えると、大股で階段へと近づいていった。
「マルクス公爵……! 娘の悪行を知って、言い訳もできない顔だな! 実の親として、この女の罪を認め、しかるべき処罰を受けさせるがいい!」
ルキウス殿下は鼻を鳴らし、掲げていた書簡をマルクス公爵に向かって叩きつけるように投げ渡した。
紙束が空中を舞い、マルクス公爵の手元に落ちる。
大広間の誰もが、公爵が娘である私を切り捨て、糾弾する瞬間を固唾をのんで見守っていた。私の実家であるヴァレリウス公爵家は代々冷酷で知られ、役に立たない者は身内であろうと容赦なく切り捨てる家風だったからだ。
しかし。
書簡を目にした瞬間、マルクス公爵の眉間が深く寄せられた。
その瞳に宿ったのは、私への怒りではなく――明白な困惑と、そして凄まじい軽蔑だった。




