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魂の羽化師は夢を斬る 平安鎮蝶譚  作者: 平本りこ
二章

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10 蛹石:<再>道徳に背きし羽化師②

「おい、綾埜(あやの)?」


 風に逆らい泳ぐようにして、濃紺の蝶が深紅の蝶に寄り添った。深紅の蝶の輪郭が淡くぼやけ、やがて人の姿へと転じていく。以前、藤原篤子の蝶夢(ちょうむ)(はやて)に教わったことを思い出し、背骨の一つ一つを積み上げる。


「綾埜、止めなさい!」


 友潤(ともみつ)の制止には耳を傾けず、綾埜は竜胆色(りんどういろ)の狩衣を纏った人間姿で、父の正面に立ちはだかった。


 正則(まさのり)が瞠目する。蝶夢の主の動揺を受けて、吹き荒れていた風がぴたりと収まった。


「綾埜?」

「お父様!」


 綾埜は父の手を取った。ひんやりとした、死者の肌の感触である。言い知れぬ寂寞が湧き上がったが、綾埜は堪えて父を見上げた。


「お父様、私はあなたを恨んでなんかいません。だから、悲しまないで。魂鬼(こんき)……心の闇に呑み込まれないで」

「今でも僕を慕ってくれるのかい」

「もちろんです。だって、ただ一人のお父様であって憧れの羽化師なのだから」

「綾埜……それなら」


 父の瞳がきらりと光る。感涙か。いいや違う。それは獲物を捕捉した物の怪の昂揚だった。


「一緒に行こう」

「え?」


 呆けた声が出たと同時、少し離れたところで様子を窺っていた三体の魂鬼がこちらを向く。にんまりと弓なりに裂けた口が醜怪だ。


 何が起こったのかわからない。正則は綾埜の腕を引き、己の影の中に引き込んだ。冷たい父の胸に倒れ込む格好になる。父が好んでいた香の陰から、微かな腐臭が鼻を突き、全身の肌が粟立った。


「綾埜……愚か者め」


 濃紺の蝶が舞い、舌打ち混じりの悪態を吐く。綾埜を救おうとして正則の頬を叩くように羽ばたくのだが、可憐な魂蝶は非力だ。


「綾埜、おいで」


 もみくちゃになりながら拒絶する。だが、押さえ込んでくる腕の強さは、病で痩せ細った人間とは思えないほどだ。


「お父様! 止めてください。私を取り込んでも、羽化はできない」

「羽化? する必要なんてないだろう。だってここには、早来埜(さきの)と友潤がいるし、何よりも綾埜が……父を恨まぬと言ってくれた娘がいるのだから」


 父の顔が、魂鬼のそれに塗り変わっている。牙の並んだ口が、綾埜を頭部から丸呑みにしようとして近づいてくる。糸引く唾液の奥には、何もない。ただ真っ暗な虚無。まるで魂の消滅を暗示するかのような……。


 その時だ。


 ぐちょり、ぐちょり、ぐちょり、と重たく粘質な音が三度鳴る。


 口を開いたままの正則が、何かに打たれたかのように硬直する。何が起こったのか。綾埜が首を巡らせるよりも前に、聞き慣れた声と鈍い銀の閃きが、父娘の間に割り込んだ。


「伏せろ」


 庶民着である筒袖の背中が、綾埜を庇うように立ち塞がる。振り上げられた太刀が正則の頸部を一薙ぎして弾き飛ばした。人間ならば鮮血が噴き出すところだが相手は魂。肉体はない。


 思わず上がった綾埜の悲鳴をよそに、首を失った正則は腕を緩めてゆらりと後ずさり、その場に頽れた。


 板床の上で呻く正則は瞬きの間に首を取り戻している。しかし、そこにあるのはもう、生前と同じ、少し気弱そうな顔だった。


 ひとまず差し迫った危機は去ったらしい。


 鼻先が触れるほど近くにある背中から、少し力が抜ける。彼は肩越しに振り返った。


「大丈夫か」

(はやて)。どうしてここに」

暁潤(あきみつ)が連れてきてくれた」


 颯が顎で示した先に、若葉のような希望に満ちた色をした蝶が浮遊している。


暁兄(あきにい)様。いったいこれは」

「話は後だ」


 颯が低く言う。太刀を握り直し、蹲る男に対峙する。


 刃の向かう先では、正則が頭を抱え己の闇と必死に戦っている。


「僕は……いったい……何が正しくて……みんな、すまない。すまない、すまない、中途半端な僕を、許して……。いいや、どうして許されるだろうか。無様で愚かな僕など、消えてしまった方が」

「おいおい、心が弱ってんのか? それとも元々自己肯定感が低いのか?」

「黙れ!」


 颯が眉根を寄せると、正則の影から黒い弾丸が飛び出した。颯の頭部を狙ったそれは太刀で一刀両断にされるが、すぐ側に寄り添っていた綾埜は、颯の額に浮かぶ玉のような汗に気づいて全身がぞっと冷えた。


「颯、もしかして体調が悪いのね? 無理しないで。獄所で体力を消耗しているはずだから」

「ああ、わかっている。この前みたいな無様をさらして、倒れでもしたら大変だ。綾埜がまた衣を脱ぎ始めたら困るからな」


 若葉色の蝶が一瞬羽ばたきを止めて落下しかけ、慌てて再び翅を動かした。


「は、ぬ、脱ぐって、綾埜がまさか」

「暁兄様、誤解です。颯もこんな時に茶化さないで」

「はいはい」


 やや青白い顔で口の端を持ち上げる颯。その虚勢に、綾埜は胸の奥を握りつぶされたような心地がして、太刀を握る颯の腕にそっと手を添えた。


「私も手伝う。あれはもう一回魂鬼になりそうだもの。何度でも斬るわ」

「だが、あいつはおまえの父親だろ」


 実の親を斬れるのか、と颯は危惧している。綾埜は迷わず手に力を込めた。


「いいえ。あれは、お父様の優しさと謙虚さにつけ込む闇よ。お父様の姿をしていたって、関係ない。それに、あなたとなら何でもできる気がするの。だって、颯は私の双翅(そうし)。あの池のほとりであなたが約束してくれた時から、そう決まっていたのだから」


 颯が息を呑み、目を見開く。半分口を開き、何か躊躇うような間を空けてから、声を絞り出した。


「……思い出したのか?」

「暁兄様に聞いたのよ」


 束の間、二人は見つめ合う。艶めいた眼差しではない。志を共にして、互いの背中を預け合う者同士の、信頼に満ちた瞳の交わりだった。


 しかし暁潤には、それ以上の何かが見えたらしい。綾埜と颯の視線が重なる辺りに、若葉色が強引に割り入った。


「おい、いいから早く斬ってくれ! この蛹石は元々崩れかけなのだから、羽化師四人もの魂の干渉を受け続ければ長くは保たない」

「ああ」


 颯は表情を引き締め、首を前方へと戻す。


「綾埜、いけるか」

「もちろん」


 柄を通して、颯の手が震えているのが伝わってくる。心理的な要因ではない。単に肉体の疲弊が魂を蝕んでいるのだろう。綾埜は颯の手のひらを上から包み込むように支えて太刀を握った。


 二人は肩を並べて足を進める。蠢く影の中で頭を抱える正則に向けて、刃を振り上げた。


「お父様、しっかりして……」

「待て」


 突然、制止の声に阻まれる。太刀が一閃を放つことはなかった。


 声の主である紺色の蝶がひらりと舞い降りて、板床に止まる。正則の顔を下から覗き込むようにして魂蝶姿の友潤は言った。


「正則、おまえ、他に言いたいことはないのか?」


 ぴくり、と正則の肩が揺れる。友潤は淡々と続ける。


「ここまで羽化を拒んできたのだ。ただ斬られて強引に殻を破り捨て、それで満足できるのか。何がおまえをこうさせたのか、言ってみろ。本当の遺言を聞いてやる」


 正則の獣のような低い唸り声が床を這う。綾埜は固唾を呑んで、己の闇と戦う父を見守った。


 やがて正則が顔を上げた時。その瞳は、魂鬼の名残などない澄んだ色を宿していた。


「……友潤はさすがだな。冷淡に見えて、実はそうではない。かといって情に溺れることはなく、自分の心に均衡を保つ術を心得ている。君は魂蝶寮の秩序を守ることができる人間。君のような男が魂蝶頭で本当によかった。蛹石の選別と放棄は、長としての判断ならば正しいことだと思う。だけど私には、自分を納得させることができなかった。綾埜や、そこの行颯と同じように」

「何を今さら」


 濃紺の蝶が鼻を鳴らすように言った。


「人は適材適所。自明なことだろう。おまえに言われずとも、元より理解している。私もおまえも、間違ってなどいない。だからこそ私は、行颯のような無許可の羽化師を泳がせていたのだ」


 颯がぴくりと身じろぎする。綾埜は重ねた手に少し力を込めた。


「それで」


 友潤は息子たちの方を一瞥すらせず、正則をじっと見下ろしている。


「他に何か言うことは?」


 友に促された正則は束の間躊躇うような間を空けた後、顎を持ち上げて綾埜を見た。竜胆色の狩衣を映し、潤んだ目が柔和に細められる。綾埜が大好きだった父の笑顔であった。


「綾埜、羽化師になったのだね」


 涙混じりの声だった。その一言に、父の思いの全てが詰まっている。


(ああ、お父様が帰ってきた)


 綾埜は胸の奥から湧き上がり喉元を遡上する強烈な感情の塊を辛うじて嚥下して、小さく唇を開いた。


「ええ。お父様のおかげで」

「父の所業を知り、失望しただろう」


 脳裏に、まだ光る蛹石を無光堂(むこうどう)行きの葛籠の中に埋めた正則の姿が、ぱっと蘇る。


 父の言葉を、胸を張って否定することはできない。しかし少し大人になった綾埜は、嘘など吐かなくとも、清濁併せ持つ父の全てを理解し歩み寄ろうとすることができるようになっていた。


「蛹石を放棄するお父様を見て、最初は信じたくないと思いました。でも今は違う。結局お父様は、お父様自身が信じる道を突き進んだのだもの」

「とはいえ、その無謀が原因で、私はおまえたちを残して死んだのだ。父も兄もないおまえの苦労はいかほどのことか」

「私は羽化師よ。生きる場所は自分の力で切り開きます。それよりも心配なのは、お父様が羽化できないことだわ」


 凜と響く娘の言葉を耳にして、正則は瞑目して「ああ」と息を吐く。


「綾埜は強いね。でも、誰にでも心折れそうな時はある」

「ええ」

「そんな時、人を頼ることを忘れてはいけないよ」

「大丈夫。私にはお姉様やお義兄様がいらっしゃるから。それに、暁兄様や颯も」


 正則が瞼を上げて、若草色の蝶と颯に軽く目を向ける。その動きに合わせて、頬に光の雫が伝う。


「そうか。早来埜も幸せに暮らしているかい?」


 綾埜は力強く頷いた。


「お義兄様を尻に敷いて」

「そうか、相変わらずだね」


 正則は幸福そうに笑い声を立てた。


 状況を忘れかけるほど、温かな空気が辺りを満たす。一方、世界は確実に崩壊へと向かっていた。


 まるで絵巻物に皺が寄るように、景色がくしゃりと乱れて何とか修復される。歪んだ壁代(かべしろ)を一瞥した颯が一歩足を踏み出した。


 その意図を察し、綾埜は肩を並べて前に出る。蠢く影の中で蹲る正則の頸部に(きっさき)を向ける。そして。


「お父様、最期にお話ができて、綾埜はとても嬉しかったです」


 正則が目尻に深い笑みを刻んだまま、小さく頷いた。


 颯が腕を上げるのに導かれ、太刀を振りかぶる。


「来世でまたお会いしましょう」


 魂の羽化師が振り下ろした銀の一閃が、闇を斬る。


 未練を断った魂は身軽になり、殻を破る。そして蝶になって飛び立った。その翅は綾埜と同じ、情熱を秘めた深紅であった。



三章 終

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