9 蛹石:<再>道徳に背きし羽化師①
蛹石が発する光が綾埜の視力を奪う。呆然とする暁潤の姿がかき消えた後、急速に景色が収斂して蘇る。
そこにあるのは梅の木に囲まれ夜に浮かぶ大きな寝殿ではなく、小柴垣の中に佇む薄暗い小邸宅である。柏正則が婿入りし、綾埜と早来埜が生まれ育った母屋の一室だ。
先日父の蝶夢に入った時は、景色は断片的で色褪せていて、まるで絵巻物を時系列に沿い追っているようにぎこちなかった。しかし今回は、前回とは比べものにならないほど鮮明だ。その理由は、響き渡る男の声で、判然とした。
「何をしている!」
綾埜は思わず、隣を舞う濃紺の蝶を見た。颯と似た色合いのそれは友潤の魂の姿だが、あの声はここから発せられたものではないらしい。
声を荒らげるのは、肩で息をしながら簀子に仁王立ちをする守影友潤だ。父の魂が記憶している、旧友の姿である。おそらく、正則と友潤の記憶が互いに補完し合うことで、世界が鮮明になったのだろう。
書斎にしている一室で、今にも消えそうな弱々しい光を放つ蛹石と見つめ合っていた正則は、突然飛び込んだ怒声に目を丸くして顔を上げた。
「友潤。どうして我が家に。……ああ、酒でも飲みにきたのかい? 参ったな。悪いけれど今夜は」
「呆けたことを抜かすな!」
友潤は、正則の横に片膝を突いて、狩衣の胸倉を掴み顔を寄せた。
「その蛹石はもうだめだ。いったい何度羽化を試みたと思っている」
「何回だったかな。もう五回くらいかな」
「何を呑気に」
夜間のため声量を抑えているのだろうが、押し殺し掠れかけた声がいっそう、そこに込められた激情を際立たせている。
「おまえがその蛹石に苦戦していても、毎日決まった量の蛹石が新たに割り当てられる。これ以上仕事を滞留させるな。見込みのない魂に固執しても、誰にとってもいい結果にはならない」
「でも彼は、まだ光りたがっているようなんだ」
友の剣幕に堪えた様子は欠片もなく、正則は愛おしげに目を細め、薄紫の光を纏う乳白色の塊を撫でた。
「友潤は僕よりも優秀な羽化師なのだから、わかるだろう。このくらい光れば、まだ希望はある。運び込まれた瞬間から、もっと光が弱い人もいるじゃないか」
「それとこれとは話が別だ。その蛹石は五回も羽化の機会を与えられたにもかかわらず、頑なに殻に閉じこもっている。閑散期ならともかくとして、今は咳逆のせいで羽化を待つ蛹石が膨大な数に膨れ上がっているのだぞ。双翅一組あたりの担当数も増やしたばかり。その上、羽化の可能性の低い蛹石に構う余裕はない」
「昔は一組でもっと多くの蛹石を担当していただろう」
「だがそれで、いったい何人の羽化師が死んだ? 持病もなかったのに突然の頭痛と嘔吐で悶え死んだ者、ただ立っていただけで意識を失い二度と目を覚まさなかった者、蝶夢に入っている間に心の臓が止まりそのまま帰れなかった者……全て過労が原因だ」
「うん。そんな劣悪な環境を改善した君は、間違いなく魂蝶頭の鏡だ」
正則は柔和に微笑み、友の腕を掴んでそっと引き剥がす。
「君は、組織の長として正しいことをしているよ。だけど僕は、羽化師としての正義を全うしたい。でもこれは、僕の独りよがりだ。だから双翅を巻き込まず、一人で何とかする。平気さ。僕は昔から、身体だけは丈夫だから」
二人は半ば睨み合うようにして向き合っている。険しい顔をした友潤に向けられるのは、正則の柔和ながらも意思の強い眼差しだ。しばらくして、苛立ちを隠そうともせずに、友潤は吐き捨てて踵を返した。
「勝手にしろ。私はもう、何も言わない」
「友潤」
呼びかけに足を止めて肩越しに振り返った友潤が見たのは、長年、友として同僚として切磋琢磨を繰り返してきた男の、最後の微笑みだった。
「心配をかけてすまない」
友潤は宣言通り、もう何を口にすることもしなかった。だがしかし。
「正則は、過労で死んだのだ」
書物の上に止まった濃紺の蝶が、友の背を見送り再び蛹石と対峙し始めた正則を見下ろしながら、低く言う。
「奴が担当していた蛹石は、あれ以降もなかなか羽化しなかった。殻を破る気がないのならば、光ることを止めてしまえばいいものを、未練がましく微かに瞬き続けていた。だから私は正則に、そんな迷惑なものは早々に放棄しろと言ったのだ。これ以上寝ずに魂蝶となり魂夢の中で飛べば、戻れなくなるだろうと諫めたが、聞く耳を持たなかった。愚かな奴だ」
「でもお父様は咳逆で亡くなりました。お辛そうだったのを見ていますから、間違いありません」
「結局正則は、魂夢から帰ってくることができた。しかし、あのような流行病は疲労が引き寄せるものでもある」
ことり、と蛹石が卓を叩く音がした。正則の魂が蝶夢に入ったことで肉体が眠りに落ち、蛹石を握っていた手が緩んだようだ。
「全ての蛹石を救うなど、綺麗ごとだ。羽化師が命を投げ出すのは本人や家族だけではなく、帝の御世全体にとって望ましくない。ただでさえ数少ない羽化師をこれ以上減らしてなるものか」
「……あの蛹石のようになかなか羽化できない魂を放棄するのは、致し方ないことかもしれません。でも、供養料の多寡で羽化の順番がひっくり返されているのは仕方ないことなのでしょうか?」
「結局は同じことだ。生前、貧困にあった魂の多くは憎悪と苦痛に塗れている傾向にある。そういった蛹石は羽化師を拒み殻を破らず、光を失う率が高いのだ。おまえも魂蝶寮の記録を見てみるといい。私の言葉には偽りも脚色もない」
「それでも、魂に優劣をつけるなんて……」
言いつつも、魂蝶頭として全羽化師と国中の蛹石に対する責任を持つ友潤の言葉には、反論の余地は見つからない。目の前の蛹石をただ救いたいと願う父や颯、綾埜の行いは、大局的に見れば間違った判断なのかもしれない。だが、それならば。
「正しいこととは、何なのでしょう」
「全ての人にとって正しいという意味合いならば、そのようなもの、人の世には存在しない」
濃紺の蝶が、まるで深呼吸をするように軽く翅を広げてから閉じた。その動きに合わせて、景色が一変する。
蒼白な顔をした父が、横たわっている。厳かに響いていた病平癒の祈祷がぷつりと途切れ、離れた場所ですすり泣く声が病間に小さく届く。
香の匂いが変わった。病人に取り憑こうとする物の怪を退ける強い香りから、平穏な羽化を願う優しげなものに差し替えたらしい。
「正則……」
御簾が上がり、記憶の中の守影友潤が部屋に足を踏み入れる。来客の気配を感じた正則は薄く目を開き、弱々しく咳き込んだ。友潤は枕元に膝を突く。
「水を飲むか?」
「いいや……もう、何も」
「そうか」
それきり沈黙が場を支配する。重苦しい空気を破ったのは、絞り出すような友潤の呟きだった。
「私が、もっと強く止めていれば」
ぞわり、と友潤の影が蠢いた。
呼吸苦のため浮かんだ涙の膜を通し、正則の目ははっきりと、その禍々しい黒を捉えた。
――ああ、僕は友潤の心に闇を。
蝶夢特有の、世界全体に響くような独白が、綾埜の中にも届く。
――友潤には何の責任もない。ただ僕が愚かだっただけなのだ。過去に何度も、まだ光る蛹石を無光堂送りにしてきた。羽化師に憧れて目を輝かせる娘に……綾埜に胸を張って仕事を誇ることなどできなかった。そのことを悔いた今では、身を削ってでも蛹石を救おうとしてきたが、己の力量を見誤り、その結果。
「お父様、綾埜を置いていくの?」
深紅の蝶姿の綾埜は、突然飛び込んできた己の声に、束の間痺れたように思考停止する。衵姿の幼い綾埜が、脈動する影の中で蹲る正則の背後に佇んでいる。ちょうど、父が羽化させた蝶を初めて目にした年頃の、何も知らない無邪気な姿。その隣に、成人の証である裳着を終えたばかりの年齢の早来埜が並んだ。
「お父様は娘たちのことよりも、見ず知らずの蛹石のことが大切だったのね」
「違……」
「言い訳をするの?」
「謝ってすらくれないの?」
「ひどい」
「ひどいわ」
「正則」
俯いていた友潤が顔を上げた。その口元が大きく裂けて、物の怪のような牙が並ぶのが覗いた。底なしの穴のようにぽっかりと開いた口内から、怨嗟の声が発せられる。
「おまえの身勝手さが、皆の心に恨みの闇を植え付けた。旧友にも、娘たちにも」
気づけば、二人の娘も同じように、魂鬼に成り果てていた。
最も恐れた言葉を耳にして、正則が目を剥き起き上がる。その変化に、世界は過激に反応した。ぶわり、と突風が吹き上げる。室内の調度品が軽々と巻き上げられて、蝶姿の綾埜と友潤は部屋の外に吹き飛ばされた。
綾埜は風の合間を縫って必死に羽ばたき、父へ近づこうとしながら叫ぶ。
「違う、お父様。私はお父様を恨んでなんかいない。あの綾埜は、ただの妄想の産物よ!」
暴風に混ざる娘の声に、正則は耳を澄ませるような仕草をしたが、それも一瞬のこと。すぐに目の前の娘と友に向き直る。どうやら都合のいい幻聴だと結論づけたらしい。
「早来埜、綾埜、すまない。すまない……」
「それならもう二度と離れないで」
早来埜が言って、大きく口を開く。顎が、まるで糸が切れたかのように垂直に落ち、漆黒の穴の縁に並ぶ鋭利な牙が際立った。隣に立っていた正則と幼い綾埜も同様に、捕食に向けた準備を始めている。
父の蛹石が羽化できなかった理由はこれだろう。それならば。
(私がお父様に言ってあげなくちゃ)




