6 梅殿へ①
柏の邸宅よりもずっと立派な築地塀。その上から時折覗く梅のつぼみは、まだ膨れ始めたばかり。父の蛹石を抱えた綾埜は、物の怪が跋扈する時刻に単身、守影友潤の邸宅である梅殿に向かっていた。
颯から託された蛹石が、燐光を放っている。蛹石の光は、その魂が抱く希望の印。父は、綾埜の心に呼応するように輝いてくれている。
(お姉様、ありがとう。おかげで見つかったわ。打開策が)
綾埜は心の中で呟いて、数刻前に姉と交わした会話を反芻した。
「いつまでそうしているつもりなの?」
姉婿の牢に閉じ込められて丸一日、綾埜は食事どころか水も口にしなかった。
年が明けていくらも経たない凍える季節。喉の渇きは綾埜に苦痛をもたらすものの、死を与えるものではない。しかしそれが数日も続けば、当然衰弱し、いつ蛹石になっても不思議ではない。
早来埜は妹の死を望みはしないだろう。そう確信していたからこそ、綾埜は無謀な絶食を試みたのだ。早来埜に対する罪悪感で胸が押しつぶされそうであったが、ここで颯を見捨てれば、生涯後悔が消えないだろう。
「まるで恐喝ね」
貴人用の牢内は、局の一角とそう変わらない。火鉢にはたっぷりの炭が入り、畳までもが用意されて居心地は悪くない。しかし、邸宅ならば開け放ち御簾を垂らすであろう外部との境界は、堅牢な蔀戸でぴたりと閉ざされている。
手ずから半蔀を開いた早来埜は従者をつけていなかった。どうやら、牢の敷地外で待たせているようだ。彼女は一切手をつけられた形跡のない夕餉の膳を見て、軽く顔をしかめている。
「あなたは本当に……言っても聞かない子ね」
「お姉様、お願い。彼を助けて」
「私には何もできないわ」
「義兄様になら、何かできるのではないかしら」
早来埜の夫は、獄所を管理する囚獄司の長官である。縋るような思いで訊ねるが、早来埜はただ首を振るだけだ。
「あの人はたしかに囚獄正だけれど、罪人を裁くのは彼ではないから」
「でも」
「綾埜」
早来埜はため息交じりに言った。
「水を飲みなさい」
「嫌です」
「飲みなさい。……向かう途中で倒れたいの?」
頭ごなしに反発しようとして、ふと口を閉じる。姉の言葉の意図が掴めず、綾埜は首を傾けた。
「向かう?」
「行くのでしょう? 獄所に」
綾埜は目を瞬かせる。
妹の強情を嘆く言葉をぶつぶつと呟きながら、早来埜は妻戸の鍵を外す。突然のことにただ目を丸くする綾埜を、早来埜は促した。
「行きなさい。この時間、左京の獄所では獄守の交代があるようなの。宵闇に紛れて忍び込めば、少しだけ言葉を交わすこともできるでしょう」
「お姉様、それってつまり……」
「特別よ。夫に泣きついたの。このままだと綾埜が飲まず食わずで衰弱死してしまうって。でも、彼を逃がすのはいけないわ。話すだけ。それで、納得して頂戴」
「そんな」
「それで、行くの? 行かないの?」
早来埜が簀子に凜と佇んでいる。冬の色を重ねた衣が月明かりを受けて淡く光っている。意思の強い顔立ちをした綾埜とは対照的に、早来埜は愛らしい目鼻立ちをしていて、所作もたおやかだ。
しかしこの日、月光を背に妹の覚悟を後押しする早来埜の眼差しは、綾埜のそれと同じ色を宿している。さすがは姉妹というべきか。
「お姉様、ありがとう」
綾埜は深く頭を下げて、傍らに置かれていた水を飲み干した。何の躊躇いもなく地面に飛び降りて駆け出す綾埜の背中に、「そうそう」と取ってつけたかのような声がかかる。
足を止めて振り返れば、早来埜は楚々とした立ち姿で、世間話でもするような口調で言った。
「彼を訴えたのは魂蝶寮なのですって。浄蝶祭での蛹石盗難の罪でね。蛹石の持ち主は、本来は遺族のはずだけれど、誰の蛹石が盗まれたのかわからないから、代理なのですって」
「……!」
「何か、打開策が見つかるといいわね」
姉の言葉が、絶望の夜に染まっていた綾埜の胸を、まるで鮮烈な曙光のように貫いた。
「ありがとう……!」
綾埜は深く頭を下げて、今度こそ振り返らずに走った。
早来埜の言葉に導かれ、獄所へ向かう。距離はさほどないはずだが、急いた気持ちのせいか、たいそう遠く感じられた。
誰に見とがめられることなく獄所に忍び込めたのは、姉婿の根回しもあったのかもしれない。どんな時も綾埜の心に寄り添ってくれる姉夫妻に、感謝の念が止まらない。
……そうして颯の無事を確認し、少しは気持ちを落ち着けた綾埜は今、父の蛹石を抱いて、再び小路を走っている。まさか颯が回収してくれていたとは思いもよらなかったが、とにかくこれで、希望はつながった。
(今のところ、計画通りよ)
冬の静謐な空気を裂いて、供もつけずに小路を駆ける。やがて見えた檜皮葺の門を拳でどんどんと叩いた。
「魂蝶頭、暁兄様。どうかお助けください。私です、柏綾埜です」




